90.夜明けと共に、聖地は沈む ◆
78話「あなたの名前は」~86話「俺と、お前(前編)」あたりの外の様子
夜明け前の空は、まだ黒かった。
だが聖地の外縁には、夜の闇とは別の落ち着かなさが満ちていた。
篝火がいくつも焚かれ、その明かりのあいだを武装した兵たちの影が慌ただしく行き交う。
神域で起きた異変を正確に知らぬまま、各都市の兵はなお牽制し合い、聖地防衛の名目と利権の算段とを捨て切れずにいた。
そんな中、聖地の森から、ペリエレスの陣地へ向かってくる者たちがいた。
鎧は泥に塗れ、武器も取り落とし、隊伍を乱した兵士たちだ。
彼らは篝火の灯りへ向かって、転げるように駆け込んできた。
黄金で塞がれていた外縁の水場に異常が出た。
その確認と対処に向かわせた部隊が戻ってきた結果が、これだった。
どう見ても、統制を保って引き返した兵の姿ではない。
「何があった! 報告しろ!」
怒鳴った声に、誰もすぐには答えられない。
ペリエレス副部隊長カストールは、疲弊しきった兵たちを前に、顔をしかめた。
神域で何かが起きたのは分かっていた。
遠くからでも、水の鳴る音がずっと届いていたからだ。
夜の間じゅう、地の底で何か巨大なものが寝返りを打っているような、低く重い響きが絶えなかった。
だが、この兵たちの様子はどうしたことだ。
黒禍に蹂躙されたにしては、浸蝕された様子の者が一人もいない。
「黒禍はどうした、水場はどうなった!」
「あぁ、女神様……どうかお赦しを……あれはマグヌスの奴らが……っ」
「御子様が、溶けて、地面に……違う、俺が撃った矢じゃない……っ」
「何を言っている。マグヌスの部隊と交戦したのか?!」
「先に撃ってきたのは奴らの方です! それで、聖者と御子様が――」
「違う、違う! 水が……地面から、水が湧いて、浮いて……っ!」
各々が混乱しきった様子で矢継ぎ早に言葉を放つ。
カストールは一歩、前に出た。
「順を追って話せ!」
甲高く上ずった呼吸。目の焦点が合わない兵。膝をついたまま震えている男。
誰も彼も、自分が見た光景をうまく言葉へできずにいる。
それでも共通しているものが一つだけあった。
恐怖だ。
だが、黒禍のおぞましさに対するものとも、戦いで感じるものとも違う。
まるで、自分たちが取り返しのつかない禁忌を犯したと知っているような怯えだった。
兵は、断片を吐き出すように続けた。
黄金の水場で、黒禍、女神、聖者、御子と遭遇したこと。
ペリエレスとマグヌスの部隊が入り乱れた交戦に至ったこと。
聖者が巻き込まれ矢を受けたこと。
御子が地面に投げ出され、消えたように見えたこと。
そして、女神が姿を消してから起こった出来事を。
「地面が……濡れて」
「湧き出したんです! 水が! 地面のあちこちから……っ」
「水滴が、浮いて……触れた奴が、金になって……」
「何も感じないって言うんです……痛み、何も……そのまま、動かなく……」
「いきなりです、副長、いきなり! あああぁ……っ」
言うなり、自分の手を見て青ざめる兵がいた。両手とも、まだ肉の色をしている。
だがその指先を、何度も何度も撫でて確かめていた。
まだ自分のものなのか、変わっていないか、そう確認しないではいられないのだろう。
カストールは奥歯を噛んだ。
聖者が撃たれ、御子が消えた。そこまでは拾える。
その先は、報告になっていなかった。
それでも、ここにいてはまずいということだけは、嫌というほど分かった。
水が地面から湧き、水滴が空へ昇り、触れた者から黄金になる。
しかも、苦痛さえなく、そのまま物言わぬ塊へ変わっていく。
黒禍ではない。ならば、女神イズミールのもたらす罰なのか。
わからないが、ひとつだけはっきりしている。
聖地で、もはや兵の統制や武力ではどうにもならぬ異変が起きている。
――それでは遅いと申しておる。
老魔術師の言葉が脳裏に浮かぶ。
カストールは吐き出したくなる息を喉の奥で押し留めた。
遅れて、背後から重い足音がした。
「何事だ」
部隊長のオイバロスだった。
カストールは敬礼を略して、ただちに進言した。
「緊急事態です。黒禍と異なる異変が聖地内で発生している模様。
向かわせた部隊は未知の攻撃を受けて壊滅状態です。
直ちに聖地から距離を取るべきです。撤収の御判断を!」
事態を正確に把握できているわけではないが、迷いはなかった。
「御子はどうした」
問いがそこから始まるのを見て、カストールは胸の内で舌打ちした。
いま確認すべきはそこではない。まずは被害規模と退路、そしてこの現象の広がりだ。
だが上官にとっては違った。
御子は持ち帰るべき成果であり、ペリエレスの優位を保証する鍵であり、この場の混乱すらひっくり返し得る価値そのものなのだ。
「隊長、もはや、御子に執着している場合ではありません。今は――」
「執着ではない」
オイバロスは切って捨てた。
「ここで退けば、何が起きたかも分からぬまま、主導権を他都市へ渡すだけだ。
奇跡であれ災厄であれ、御子を確保できれば解釈も権威もこちらにある」
カストールは歯を食いしばる。
彼にも分かっていた。
この男は、聖地の動向よりも、それによって動く勢力図を見ている。
「ですが、兵はもう――」
反論を述べようとしたのと、ほぼ同時のことだった。
足元で、ぴちゃん、と小さな音がした。
カストールは反射的に視線を落とす。
乾いたはずの土の上に、小さな水の粒が乗っていた。
露のように見えたのは一瞬だ。次の瞬間、それはふわりと浮き上がる。
水は低きに流れ落ちる、その理を忘れたように、夜の空へ向かってゆっくりと昇っていった。
「下がれ!」
カストールが叫ぶより早く、兵の一人が後退りし、その手甲で水滴を払おうとした。
触れた指先が、瞬く間に金へ変わる。
「ぁ……?」
男は自分の手を見た。
鉄の籠手ごと、指が金色に固まっていく。
肉の柔らかさが、みるみるうちに失われ、冷たく、重く、鈍く、命のない光沢だけを宿していく。
「あ、ああ……うわああっ!!」
悲鳴とともに男は腕を振る。だが遅い。
黄金は手首まで、肘まで、蔓のように這い上がっていった。
周囲の兵が悲鳴を上げて散る。
「水に触れるな! 地面から来るぞ!」
カストールは叫びながら、しかし自分でもその命令がどれほど無意味か分かっていた。
触れるなと言っても、地面そのものが湿り始めている。
そこかしこで、小さな水の珠が土の中から生まれ、夜気へと立ち昇っていた。
まるで大地が、呼吸の代わりに水を吐いているようだった。
夜の間は、まだ異変と呼べた。
だが、朝日が差した瞬間、それは災害へ変わろうとしていた。
馬の手綱を引いていた兵の手に、浮いた水滴がひとつ触れる。
手綱ごと指が金に変わり、馬が狂ったように暴れた。
後退った別の兵の脛当てへ水が跳ねる。
金が這い上がる。
外縁は一気に騒然となった。
「なんだ、これ……なんなんだ……!?」
「足がっ、足が動かない……待って、待ってくれぇっ」
「いやだ、いやだいやだ、女神様、助けて! 助け――」
夜の闇が薄れ、東の空がわずかに白み始めていた。
遠く、神域と呼ばれる湖の方から、ひときわ大きな水音が響いた。
どおん、と。
地の底で巨大な扉が揺れたような音だった。
兵たちがいっせいに振り向いて固まる。
そして、誰かが息を呑む。
「水が……」
聖地のいたる所にある水場から、いっせいに水があふれ出していた。
水溜まり、泉、小川、沼、湿った地面としか言えないような場所まで。
まるで見えない大河が地下にあって、その堰がいっせいに切れたみたいに。
森の中から水が迫ってくる。
茂みを、木々を、地面すら黄金に変えながら、水が来る。
夜の間は、まだ“何か起きている”で済んでいた。
だが、いま目の前のそれは、はっきりと人を呑みに来る災いだった。
恐慌状態のまま、水に矢を放つ者もいたが、当然、無意味だった。
「撤収だ! 撤収しろ!」
オイバロスの判断を待たず、カストールは叫んだ。
越権行為だ。軍人として許される行いではない。
だが、人として黙っていられなかった。
「カストール! 何を言うか!
撤収は許可できない、動くな! 陣形を保て!」
相反する命令が飛ぶが、兵たちは既に聞くまでもなく逃げ出そうとしていた。
だが、何もかも遅かった。
水は足元から来る。逃げる先の地面からも湧く。
聖地から離れようとしても、宙に浮かぶ水滴が、見えない網のようにそこかしこに張られていて、獲物を捕らえると、触れたものをすぐさま黄金に変えていく。
どこへ向かえば助かるのか、誰にも分からない。
オイバロスだけがまだ動かない。
「馬鹿な。なんなのだ、これは――」
言葉の途中で、彼の纏う外套が裾から金色に染まっていく。
オイバロスは舌打ちし、剣で裾を断ち切ろうとした。
だが剣先が触れたところからも金色が這い、彼は咄嗟に剣を手放す。
「隊長!」
カストールが一歩踏み出す。
オイバロスは高台へ駆けた。逃げるためではない。
上から見渡せば、事態を把握し、対応できると信じていた。
御子の確保と、神域の主導権をまだ諦めていないのだ。
「ええい、退け! 命令だ!」
幾人もの兵が高台に逃れようと見張り台に群がる。
オイバロスは兵たちを掻き分け、よじ登って上を目指した。
その選択は、致命的に誤っていた。
日が昇る。
夜露とも飛沫ともつかぬ湿りを帯びた支柱が、朝日に照らされてぬらりと光る。
その濡れた輝きが、次の瞬間には金色に凝結する。
支柱に掴まっていた兵が先に黄金の彫像となる。
物言わぬ黄金となった兵たちをよじ登るオイバロスの手も染まっていく。
「御子を確保しろ! ペリエレスへ――」
言葉の続きは最後まで出なかった。
胸、喉、顔。黄金が這い上がり、怒号と焦燥に歪んだ表情ごと、彼をひとつの像に変えていく。
黄金と化した兵たちで出来た山の頂で、彼もまた物言わぬ像となった。
夜明けの光が、その黄金の横顔に冷たく差す。
カストールは、歯を食いしばった。
「退け! こっちだ!」
自分に言い聞かせるように叫ぶ。
兵たちと共に必死で走る。もう統制だの隊列だのと言っていられない。
背後で、黄金の見張り台が朝日に照らされて燦然と立っている。
栄誉の記念碑のような煌びやかさをした無様な墓標は、やがて水に沈んでいく。
◆◆◆◆◆
ゴルディウムの人々にとって、夜明け前の参拝は珍しいことではなかった。
とくに拡大の進む聖地の工事や、水上神殿の建設に携わる者は、日の出の前には神域の湖を拝みに行く習慣がある。女神や御子に捧ぐ建築は、祈りと同義とされているからだ。
水位を見、足場を確かめ、今日の作業を決めるためでもある。
信仰と労働が、ここではずっと隣り合っていた。
水上神殿の建築に携わる大工のギュゲスも、その一人だった。
夜明け前の空気は冷えている。
だが湖の方から吹いてくる風は、いつもと違って湿り気が濃かった。
変に生温い。妙な感じだ、とギュゲスは顔をしかめる。
道の脇で、同じように湖岸へ向かう信徒たちが、ひそひそと囁き合っていた。
「昨夜も湖が騒がしかったそうだ」
「御子様方が遊ばれてるんじゃないか」
「いや、聖者様が通っておられるんだろう。あの方は特別だ」
誰もが、自分に都合のよい意味を探している。
ギュゲスは会話に加わらなかった。
祈りが嫌いなわけではない。
水上に神殿を建てるという前代未聞の大建築に惹かれ、この地にやって来た。
今では、女神や御子、聖地そのものにも大いに敬意を抱いている。
だが、材木も石も継ぎ手も、神話だけでは成り立たない。
現場を見る者の勘として、今朝の湿り気は厄介だと感じた。
湖岸へ近づくにつれ、その嫌な予感は形を持ち始めた。
足場が半分、沈んでいる。
「なんだ、あれ……」
誰かが呟く。
昨日より湖面が高い。昨夜まで見えていた杭や浮き台の一部が、水面の下へ隠れている。
それでいて、水は静かすぎた。嵐の増水のような荒れ方ではない。
雨が降ったわけでもないのに、水量が明らかに増えている。
ふと、視界に奇妙なものが映った。
足元から小さな水滴がひとつ、ふわりと浮かび上がったのだ。
「……は?」
不可思議な光景にギュゲスは思わず声を漏らした。
信徒たちがにわかに騒然となる。
「女神様の御業だ……」
「いや、これは御子様のいたずらでは」
「これは試練の始まりだ、裁きだ!」
解釈は割れた。
奇跡だと受け取って手を合わせる者。
顔を引きつらせて後ずさる者。
涙を流して祈る者。
誰も、逃げろとは言わない。言うはずもない。
聖地で起きることを、まず神意として読もうとする習いが、彼らの足を縫い止めた。
参拝に来ていた老婆が、浮いた水滴へ震える指を伸ばした。
「ああ、女神様。ありがたや――」
その顔に、最初は恍惚が浮かんだ。
次に、困惑が差した。
掌の感覚がない。
老婆は意味が分からず、自分の手を見た。黄金色の硬質な輝き。
それはあっという間に腕を伝って肩へ這い、理解と恐怖が来る前に、彼女を黄金の彫像へと変えた。
周囲が混乱に陥った。
誰かがその場に膝をつき、額を地へ擦りつける。
誰かは逆に、逃げるべきだと叫ぶ。
だが、祈りの言葉が長く身についた者ほど、その場を離れる理由を見失っていた。
「水に触るな!」
「女神様のお怒りだ!」
「女神様、お鎮まりを――!」
祈りが悲鳴へ変わる。
逃げようとした若い信徒が、足元の滲んだ水を踏み抜く。
足袋の上から金が上がる。
抱えていた供物を放り出し、泣きながら足を叩くが止まらない。
ギュゲスは息を呑む。
女神の裁定。恩寵。祝福。
信徒たちが勝手に名をつけるが、そんなものはどうでもよかった。
これは、人が近づいていい現象ではない。
湖の方を見る。
水上神殿の足場が、ゆっくりと沈んで――いや、水面が上昇している。
昨日まで人が立っていた場所が、水に沈み、金色に染まっていく。
湖の縁から溢れた水が地面を滑り、神殿建設の資材置き場を濡らし、その先の道へ伸びていく。
濡れた板が黄金に変わり、縄が金の蔓みたいに硬直する。
地面の土が朝日を浴びて金色に照っているのを見て、ギュゲスは我に返った。
「逃げろ!」
ギュゲスは怒鳴った。
「水に近付くな! 丘だ、丘に行け!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
何人かは従い、何人かはなおも湖を見つめた。中にはその場に跪く者もいた。
祈りの言葉を呟く者。泣く者。黄金を恩寵だと言い張る者。
女神への信心の深い者ほど、かえってそこを離れられない。
真面目に参拝しにきた者や、働きにきた者が、次々、呑み込まれようとしている。
その不条理が、ギュゲスにはたまらなく腹立たしかった。
夜遅くまで酒を飲み、博打に興じ、今は宿舎で惰眠を貪っている怠惰な仲間が無事で、早起きをした自分がこんな恐ろしい目に遭っているなんて、あまりにも不条理だと思った。
「どこが恩寵だよ、畜生!」
敬う気持ちを捨て去ったわけではないが、悪態くらい吐きたくなるというものだ。
湖の方から、ひときわ重い水音が響いた。
どおん、と、見えない巨人が水底を踏み鳴らしたような音だった。
次の瞬間、湖岸の縁が音を立てて崩れた。
溢れた水は、これまでのように静かに染み広がるものではなかった。
白み始めた朝の光を弾きながら、一気に岸を越え、足場も、資材も、祈りの場もまとめて呑み込んでくる。
黄金と化した板材は跳ねない、縄も動かず、足場は崩れることなく水に没した。
悲鳴が上がる。
逃げようとした者の足元を濁りのない水がさらい、膝まで浸かった時にはもう、その全身が黄金へと変じて悲鳴が止む。次の波が容赦なく覆いかぶさるが、物言わぬ像は揺れることも叫ぶこともなかった。
もう誰の目にも明らかだった。
聖地は今、水の底に沈もうとしている。
森も、湖も、人も、いまや金色に呑まれつつあった。
◆◆◆◆◆
ペッシヌスの命で、ヘレノスは聖地と街道を見下ろせる丘に立っていた。
異変と人の争いの行く末を見届け、主へ報告するためだ。
朝日がまだ地平線を越え切らないうちから、湖と森のあちこちに金色の輝きが見えた。
森の縁の合間から、神域周辺の樹々から、流れ出す川の底から。
それらはじわじわと聖地に広がっていく。
黄金。
本来なら、これ以上なく価値のあるものだ。
だが今、聖地に生まれつつある黄金は、世にある黄金すべてより多い。
あれは、もはや値付けもできず、秤にも乗せきれないだろう。
「……旦那様、これは到底、扱いきれません」
思わず漏れた呟きに、誰も答えない。
主は女神の奇跡も黒禍も、すべて値札を付けて売れるものだと信じていた。
だが、聖地から離れた館へ引っ込み、酒に溺れるようになってからは、その目にも怯えが混じっていた。
ヘレノスは何度も、聖地の変質と黄金の危険を告げた。
それでも主は、これすら商機に変えられると言い切った。
だが今、森も湖も人も、際限なく黄金へ変わっていくこの景色を前にすれば、誤っていたのは明らかだった。
ヘレノスは唇を舐めた。
乾いていた。
聖地はどこにいても水の気配を感じられるのに、自分の喉だけが妙に渇く。
この情報を主の元に持ち帰らねば、と思う。
だが、持ち帰ったところで、今更どうなるというのだろうか。
聖地が沈み、黄金が増える。
だが、水に沈んだ黄金を求めれば、自らが黄金に変えられてしまう。
そもそも、途方もない量になってしまった黄金に価値を見出す者がいるのか?
黄金は、希少であるからこそ確かな価値があったのに。
主は、神秘を恐れながらも、最後には値段をつけられるものだと思っていた。
唯一、信じているのは黄金の重さと価値だけだった。
だが、黄金の価値は今、女神の奇跡によって失われようとしている。
逃げるべきだ、とヘレノスは思った。
それでも足が動かないのは、忠義の名残か、それとも最後まで見届けたいという意地か、自分でも分からない。
いや、違う、と彼はゆっくり息を吐く。
見てみたいのだ。
黄金だけを信じ、どんなものでも商品へ変えることができると思っていた男が、値付け不能の黄金と、売り捌きようのない奇跡を前にして、どんな顔をするのか。
忠節はまだ残っている。
だがそれと同じくらい、あるいはそれ以上に、ヘレノスは主が信じるものに裏切られた時の顔が見てみたいと思った。
「……旦那様。さぞ、滑稽な顔をなさるのでしょうね」
誰に聞かせるでもない声は、朝の湿った風に溶けた。
眼下では、朝日に照らされた水と黄金が、なおも聖地を呑み広がっていた。
◆◆◆◆◆
ギュゲスは背後から迫ってくる水から逃れようと、息を切らせて丘の斜面を駆け上る。
さっきまで湖岸にいた者たちの悲鳴が、まだ下の方から聞こえていた。
振り返れば足が止まると分かっていても、水音が背を追ってくるたび、どうしても肩越しに後ろを見てしまう。
そんな中、湖から溢れ出した流れの中から、小さな舟が浮かび上がってきた。
泡のようなものに包まれたその小舟は、黄金になることもなく、木の質感を保ったまま、水の上を流れてくる。
舟上に小さな人影が見えた。舟の周囲には、小さな水の幼子たちが浮いている。
その光景に、ギュゲスは思わず足を止めて、声を漏らした。
「――なん、だと……?」




