89.木こりの仕事 ◆★
冷たい、と思うより先に、痛みが戻ってきた。
左肩から背へ抜ける、焼けつくような痛み。
白い世界では遠のいていたそれが、一気に肉へ食い込んでくる。
思わず息を呑んだ瞬間、肺の奥へ水が流れ込む気配はなかった。
代わりに、頬の外側をやわらかな膜がそっと撫でる。
目を開ける。
暗い。
目が利かなくなったわけではない。
ただ、ここがあまりにも光から遠く、深い闇の底なのだ。
神域の底だ、とすぐに分かった。
私は白い世界から弾き出され、現実へ戻ってきたのだ。
上下の感覚すら曖昧な深い水の中、自分だけが丸い泡に包まれている。
薄く揺れる膜の外を、重く冷たい水がゆるやかに流れていた。
泡の内側には息のできるだけの空気があり、閉塞感はあっても、溺れる心配は感じない。
あの白い世界へ私を招いた巨大な水の手は、もうここにはない。
けれど、泡そのものに、あの金色のイズミールの気配が残っていた。
甘やかな執着を、そのまま丸い守りにしたような泡だった。
両手には、たしかな重みが残っている。
見ずとも分かる。片手には斧。もう片方には小さなガラス瓶。
その瓶の中の水だけが、この深い水底の中でも別の鼓動を宿しているように思えた。
胸の奥が、どくりと強く鳴る。
戻ってきたのなら、呼ぶべき名は一つしかない。
「――イズミール」
掠れた声が泡の内側を震わせる。
その呼びかけに応えるように、瓶の中の水が仄かな青白い光を灯した。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間、暗い水の向こうから、たしかに声が返ってきた。
『――アイオリス!』
息が止まった。
名を、呼び返された。
ただそれだけのことが、矢に射抜かれるより深く胸を撃った。
同じ声に、これまで幾度も名を呼ばれてきた。
金色のイズミールは甘く囁くように。
銀色のイズミールは静かに諭すように。
けれど、今のこれは違う。
あの白い世界で悪態を吐き、孤独と断絶を叫び、涙を流した、あの黒いイズミール。
その声が、今、私の名を確かに呼んだ。
暗闇の向こうに、青白い光が灯る。
はじめは遠い水面の反射のようにかすかだったそれが、見る間に強くなる。
深い水を裂き、闇の中に光の軌跡を描きながら、真っ直ぐこちらへ降りてきた。
青白い燐光をまとった人影が、泡の外へ現れる。
水色の髪。水色の瞳。透けるような肌。枝角とヒレ。
泉で初めて見た時から変わらぬ、清らかな色彩。
だが、その顔つきが違った。
以前のような、何があっても崩れない仮面のような微笑ではない。
こちらを見つけた安堵が浮かび、その次には眉が寄る。
心配、不安、焦り、苛立ち――そうしたものが次々に表へ出て、隠されることなく揺れていた。
その変化が、私には何より嬉しかった。
あの穏やかな笑みそのものが失われたのではない。
ようやく、その奥にあった彼女の心が表へ現れることができたのだ。
本音を言えば、その人間らしい表情をもっと見ていたかった。
だが今は、それを眺めている場合ではない。
イズミール自身も、そういう顔をしていた。
『生きてるな、木こ――』
そこまで言って、彼女は小さく顔をしかめる。
『……いや、アイオリス。
だ、大丈夫か、お前……それ……。
その傷、まだそんなで平気なわけないだろ……』
「平気だ」
反射で答えた直後、肩に走る痛みに息が詰まる。
無論、平気などではない。処置が遅れるほど傷は悪化するし、後にも響く。
しかし、今はそもそも後があるかどうかの方が先だった。
「私のことより外だ。リディアたちは無事なのか」
イズミールは、まず私を睨むように見た。
自分の方を先に気にしろ、とでも言いたげな顔だったが、結局は言わず、諦めたように息を吐く。
そうして水の流れへ意識を広げるように目を細めた。
『リディアって子は――うん、ちびたちと一緒だ。
ここから流された先……町みたいなのが見えるな。無事だ。今んところは』
「今のところ、か」
『水が多すぎるんだよ。森なんかもう沈みかけてるし、あの町もたぶん沈む。
黄金の方も問題だ。今止めたらヤバい』
「……止めたら、どうなる」
『沈んでいく連中が、そのまま溺れ死ぬに決まってんだろ!』
短く、苛立った声だった。
言ったあとで、自分でも言い過ぎたと思ったのか、イズミールは唇を噛む。
『だから止めらんねぇ。止めたいけど、今止める方が最悪なんだよ……っ、くそ』
救いと罰と災厄が、もう綺麗に切り分けられる段階ではないのだと、その一言で思い知る。
だが、先に問うべきことは別にある。
「外をどうするかの前に聞かせてくれ。“大いなる源”との繋がりどうなっている。
君は……、あとどれだけ持つ」
イズミールがあからさまに顔をしかめた。
『今、それを訊くのかよ……。いや、お前は訊くか。そういうやつだし』
ぼやくように言ってから、彼女は私の肩越しに、さらに深い底を見下ろした。
青白い光の届く範囲のさらに先、神域の底に巨大な暗がりが口を開けている。
ただの穴ではない。
水の中にあるのに、その奥だけ別の世界へ繋がっているような、底なしの暗さだった。
『あの下に境目がある。
俺と、その“大いなる源”とかいうのの間にある水門みたいなもんだ。
あのバカどもが門を開けやがったせいで、向こうからドバドバ流れ込んできてる』
乱暴な言い方だったが、指し示すものの巨大さは十分すぎるほど伝わった。
『まだ完全には開き切ってねぇ。でも、勢いが強すぎる。止めきれない。
増えて、混ざって、薄まって……正直、大丈夫かって聞かれたら、大丈夫な訳あるかって話だ』
捨て鉢な悪態だった。
だが、その声にはまだ、自分を失い切らない者の意地が残っていた。
イズミールは一度は逃げた。
あの白い世界の奥に閉じこもって、何もかも見ないようにしていた。
それでも戻ってきたのだ。
その事実に言葉を返そうとした、その時だった。
※※※※※
イズミールの身体が、唐突に大きく震えた。
『ッ、ぁ……っ!?』
水色の髪がぶわりと揺れる。
彼女は腹を抱えるように身を折り、声にならない悲鳴を噛み殺した。
青白い光が激しく乱れ、その輪郭が一瞬だけ滲む。
水色の肌の奥に、黒い筋が走ったように見えた。
「イズミール!」
泡の内側から、反射的に手を伸ばした。
だが、指先は膜に阻まれる。
薄い膜一枚の向こうで彼女が苦しんでいるのに、触れることすらできない。
その事実に、胸の奥が焼けるように焦った。
『痛っ……い、なに、これ……っ、くそ、くそっ……!』
返ってきた声は、悪態というより、痛みに押し潰されかけた呻きだった。
白い世界で泣き崩れた彼女の姿が、一瞬、重なる。
自分の在り方を嫌がり、それでも全部を吐き出して、ようやく少しだけ息をつけたはずの彼女。
その彼女が、現実に戻った途端、また別の痛みに身体を折られている。
もうやめてくれ、と思った。
世界でも、黒禍でも、神でも、何でもいい。
彼女にこれ以上、背負わせるな。
そんな叫びが喉までこみ上げたが、言葉にはできなかった。
イズミールは片手で自分の胸元を押さえ、もう片方の手で水底を指す。
『下……っ、門の、向こうから……なんか、来てる……!』
その言葉より早く、私もそれを見た。
神域の底。
水門と呼ばれた暗がりのさらに奥。
そこに、ただの闇とは異なる黒が滲んでいた。
夜でも、影でも、泥でもない。
視界に入れただけで、目の奥が軋む。心の内側を粗い刃で掻かれるような、あの不快感。
決して相容れない、理解してはいけない、この世に在ってはならぬもの。
――黒禍だ。
次の瞬間、黒は裂け目となって伸びた。
幹のように太く、根のように分かれ、幾重にも枝のように広がって、水の中を侵す。
聖地を侵し、黄金で蓋をされて封じようとしたものが、ついにこの神域まで侵蝕してきた。
『な、なんだよ、あれ……っ、この感じ、あの黒いの……コクカとかいうやつかっ』
「魔樹だ」
私は短く言った。
イズミールが苦痛に歪んだ顔をこちらへ向ける。
「黒禍を撒く、世界の亀裂だ。君が浄化し、封じてきたものが、あれだ」
『それが、なんで……こんな、とこに……っ』
イズミールは唇を噛んだ。
何か言い返しかけ、その次の瞬間、また大きく身を震わせる。
「おそらく、地中を伝ってここまで伸びてきた」
『蓋したら横からって、くっそ……っ、ふざけんな、っ……!』
イズミールは怒鳴ろうとした。
だが声は途中で潰れた。
『ッ、ぁあ……!』
彼女の身体がさらに強く震える。
水色の髪が乱れ、周囲の青白い光が明滅する。
泡の膜がびりびりと震え、内側にいる私の肌にまで、その痛みの余波が伝わるようだった。
魔樹が伸びるたび、イズミールが傷ついている。
それが見て取れた瞬間、私の中で何かが冷えた。
外の惨状が軽いわけではない。
だが今この瞬間、目の前でイズミールが苦しんでいる。
ここで見ているだけなら、私は何のためにここまで来たのか。
「イズミール、浄化を……!」
『……だめだ。俺、あれに、手ぇ出せそうに、ねぇ……っ』
声が途切れ途切れになる。
悪態で誤魔化しているが、それで押し切れる痛みではない。
「なんだって!?」
『あぁ……っ。あの辺、もう俺の水じゃない。門の向こうだ……っ』
言葉が途切れる。
イズミールは痛みに息を詰まらせながら、それでも水底の黒から目を離さなかった。
『意識、伸ばしたら……持ってかれる。溶ける。混ざる。
俺じゃなくなる……!』
感覚的な理解なのだろうが、より切迫している。
言いながら、その先を想像して怯えているのが見て取れる。
それを聞いた瞬間、答えは決まった。
理屈は後から追いついた。
彼女は行けない。行けば戻れない。
魔樹は彼女の届かない向こう側にあり、それでも彼女を傷つけ続けている。
ならば、こちら側から手を伸ばせる者が行くしかない。
それ以上、彼女に痛みに耐えろとは言えなかった。
「私が行く」
『は……?』
イズミールの顔が、痛みとは別の驚きで強張った。
「私があれを断つ。君が手を出せないなら、私が行くしかない」
『馬鹿かよ……っ』
即座に返ってきた声は、かすれていた。
それでも、その中に怒りが混じる。
『お前、そんな傷で……無理に決まってんだろ……っ』
イズミールが怒鳴った瞬間、また黒い亀裂が底で脈打った。
『ッ、ぐ……!』
彼女は声を詰まらせ、身体を折る。
青白い光が途切れかけ、泡の膜が大きく揺らいだ。
もう一度、手を伸ばしかける。
やはり届かない。
この泡は私を守ってくれていると同時に、私たちを隔てている。
届かないことが、これほど腹立たしいと思ったことはなかった。
あの白い世界では抱き締めることができた。
泣き崩れた彼女を支えることができた。
だが現実へ戻れば、私は泡の内に守られ、彼女はその外で苦しんでいる。
このまま守られている場合ではない。
「イズミール」
『……っ、なんだよ』
「私は“深淵殺し”だった。魔樹を断つために生きてきた」
『なんだよそれっ、知らねえよ! 無茶すんなって、言ってんだよ……!』
彼女は知らない。
私がどんな道を歩いてきたのかも、その危うさも。
今なお、自分が痛みに震えながら、それでも、私が危険に向かうことを拒んでいる。
そのことが、たまらなく苦しく、同時に、嬉しかった。
だから私は、首を横に振った。
泡の中で、斧の柄を握り直す。
「私は死にに行くのではない。あれを伐って、戻る」
『戻れる保証なんか、どこにあんだよ……っ』
「ない」
即答すると、イズミールの眉間の皺がさらに深くなった。
『即答すんな!』
「だが、君が行けば戻れない。ならば、私が行く」
イズミールは言葉を失った。
痛みに濡れた水色の瞳が、こちらを睨む。
私は意識して少しだけ口元を緩めた。
「それに――“樹”を伐るのは、“木こり野郎”の仕事だろう?」
今度こそ、イズミールは完全に固まった。
『……は?』
痛みも怒りも、一瞬だけ忘れたような顔だった。
自分で散々投げつけてきた呼び名を、役目として返されるとは思っていなかったのだろう。
『いや……お前、それ……ずるくねぇ?』
「すまない」
『謝るくらいなら言うな……っ』
噛みつく声は弱い。
止めたいのに、止める言葉が見つからない顔だった。
底の魔樹が、また黒い枝を広げる。
イズミールの身体が小さく跳ねた。
『ッ……くそ……!』
彼女は歯を食いしばり、私を睨んだ。
怒り、焦燥、苦痛、逡巡。表情が目まぐるしく変わる。
最後に残ったのは、諦めに似た覚悟だった。
『……瓶、持ってるな』
私は小瓶を掲げた。
「ああ。ここにある」
『溺れ死にたくなきゃ、離すな。絶対に』
「分かっている」
イズミールは、それでもまだ迷っているようだった。
視線が、瓶から私の傷へ、そして斧へ移る。
イズミールは一度息を詰め、それを見てから言った。
『それ、貸せ』
少しだけ、警戒した。
彼女は時々、思いもよらないことをする。
「これがなければ伐れない」
『貸せって言ってんだよ! 取り上げるんじゃねぇ、準備するだけだ!』
痛みで声を震わせながらも、そこだけは妙に強い。
私は黙って斧を差し出した。
泡の膜越しに、イズミールが手を伸ばす。
彼女の指先は、斧へ直接触れない。
けれど、刃の縁に青白い光が宿った。
『ほんとは、こんな力……好きじゃねぇんだよ』
小さく震えた声だった。
それに合わせるように光が明滅する。
『散々な目にあったし、俺も、何がどうなってるか、分かってねぇ……。
でも、今はこれしかない』
イズミールは痛みを紛らわせるように言葉を続ける。
青白い光が徐々に強くなり、やがて、黄金色へと変わっていく。
刃の先から柄へ、鮮烈な金色が走った。
深い水の底に、朝日のような光が咲く。
鉄が鳴いた気がした。
断末魔の悲鳴もない。無垢な産声でもない。
戦いへ向けて、自らを鼓舞する鬨の声のような響きだった。
光が収まった時、斧は黄金へと変わっていた。
純金そのものではないのだろう。重さはほとんど変わらない。
だが、握った瞬間に分かった。
何者にも侵されないもの。
失われることを拒むもの。
そういう頑固な意思が、武器そのものに通っていた。
イズミールの祈りが、悪態と共にそこへ刻まれている。
『絶対戻れ』
イズミールは低く言った。
『くたばったら承知しない。
全身、金ピカにして……水の底に、沈めて置物にしてやる』
「ずいぶん優しい脅しだな」
『優しくねぇ! 俺は、やる時はやるからな!』
顔を顰めたまま、すぐに噛みついてくる。
その悪態が、苦痛を誤魔化すための強がりなのは明らかだった。
私は黄金の斧を握り直し、瓶を胸元へ引き寄せた。
斧を握り直すだけで、左肩から背へ火のような痛みが走った。
だが、その痛みさえ、今は足を止める理由にはならなかった。
「必ず戻る。君のところへ」
イズミールは顔をしかめた。
また悪態が飛ぶかと思ったが、彼女は一瞬だけ目を伏せ、すぐにこちらを見返した。
心配も焦りも不安も、その全部を押し込めたうえで、それでも信じると決めた顔だった。
彼女は泡の膜に手を当てる。
薄い膜越しに、手のひらが重なったように見えた。
『……遅ぇと怒るからな』
「努力しよう」
『努力じゃねぇ。絶対戻れ』
命令だった。
そして、祈りだった。
「分かった」
泡が揺れる。
イズミールが膜へ指先を触れさせる。
薄い膜は一瞬だけ光を帯び、私の身体を包んだまま、水門の向こう側へと静かに沈み始めた。
水門の向こうへ。
源流に巣食う、魔樹が蠢く深みへ。
黄金の斧が、暗い水の中で細い光の筋を引いた。
最後に一度だけ振り返る。
イズミールは、水色の髪を揺らしながら、こちらを睨むみたいに見ていた。
私は小さく頷き、足元の暗がりで蠢く魔樹へ向き直る。
身体は万全ではない。
左肩の傷は深く、腕もまともには使えまい。
足場もなく、満足に避けることも、腰を入れた一撃も難しい。
それでも、不思議と無理だとは思わなかった。
耳の奥で、あの雑な呼び名が蘇る。
――木こり野郎。
俗っぽくて、ぶっきらぼうで、けれど、嫌な呼び名ではなかった。
そういえば、どういう由来なのか聞いていない。
まさか本当に、斧を持っているから木こり、などという短絡的な話でもあるまい。
これから魔樹へ向かうというのに、胸にあるのは陰惨な過去でも深淵への憎悪でもなく、イズミールとのやり取りの残響だった。
ああ、そうか。
私はもう、ただ深淵を殺し、どこかで死ぬだけの者ではない。
行って、伐って、帰ってくる。
それが、木こりの仕事だ。




