88.俺と、お前(後編)~転職先は泉の女神~ 〇★
白い世界が、ずん、と重たく脈打った。
俺の肩に置かれていた木こり野郎の手が、ふっと薄れるのが見えた。
同時に、あいつの顔が苦痛に歪む。
「……っ!?」
肩と背中をよじるみたいに、木こり野郎の身体が強張った。
さっきまでの俺は、泣き顔を見られたとか、こっちから抱きついてるみたいで嫌だの、そんなので頭がいっぱいだった。
でも、その苦しそうな顔を見た瞬間、全部吹っ飛んだ。
「お、おい、どうしたんだよ、お前っ」
声が上擦る。
泣いた直後の情けない声のままなのが嫌だったけど、そんなこと気にしてる余裕はなかった。
白い床の底が、むずむずする。
泉でいる時に、水面や水底がゆっくり押し上げられるみたいな、あの落ち着かない感覚だ。
真っ白で、どこまでも平らで、静かだった世界に、鼓動みたいな音が響いて軋む。
ずん。
どくん。
ずん。
鼓動のようでいて心臓とは違う。そもそも、俺には心臓なんてない。
もっと大きくて、もっと深いところで何かが鳴っている。
身体の奥――いや、奥なんて曖昧なとこじゃない。
俺自身が脈打ってるみたいだった。
そのたびに、木こり野郎の姿が微かに揺らぐ。
溶けるとか崩れるとか、そういう感じじゃない。
焦点が合わなくなって、少しずつ遠ざかっていくみたいな、嫌な薄れ方だった。
「な、なぁ、おいっ、だ、大丈夫なのか……?」
俺が問うと、答えるより先に、またあいつの顔が強張った。
痛みを思い出したみたいな顔だ。
……そうだ。
なんで忘れてた。
こいつはあの時、矢で撃たれてたんだ。
あの傷が勝手に消えるわけがない。
今まで感じなかった現実の痛みが、戻ってきてる? なんで急に。
「お、お前、消えるのか……? だって、そんな! さっきまで全然……っ」
口に出してから、自分の声が情けないくらい焦っているのが分かった。
さっきまで、体温と鼓動を感じられた。
泣いてる俺を抱えて、重たいことを真顔で言って、勝手に撫でてきて。
クソ迷惑で、クソ面倒で、それなのに少しだけ楽だった。
その手の感触が、熱が、いま、勝手に薄れていく。
やめろよ。
やっと全部ぶちまけて、少しだけ楽になれたのに。
今さらいなくなるとか、そんなのもう嫌だ。
――大丈夫だって言ったろ。
――いるって言ったろ。
そう思ったのに、木こり野郎は唇を引き結んで、息を整えるばかりだった。
たぶん、俺を安心させる嘘をつく余裕すらないんだろう。
白い世界がまた軋む。
今度は、ただ音が鳴るだけじゃなかった。
足元の白に薄く影が差し、その向こうに、水の底みたいな暗さが滲む。
みたいな、じゃない。
外――現実のあそこは、光も届かない深い水の底だ。
そう、ここは現実じゃない、俺の中なんだ。
理屈は分からないけど、夢を見ているようなものなんだろう。
さっきまでは、木こり野郎を、夢とか、幻覚とか、そういう雑なもんとして扱えた。
俺の中のイカれ女どもも、全部まとめて、俺じゃない何かってことにして沈めておけた。
でも今はもう違う。
こいつはこいつだ。
俺に都合のいい夢なんかじゃない。
たぶん、俺の方が目を覚まそうとしてるんだ。
だから、曖昧なまま抱え込んでいられたものが、そうしていられなくなってる。
「ま、待てよ」
言った時には、もう腕が伸びていた。
肩でも、服でも、どこでもいいから掴んで引き止めるつもりだった。
けれど指先は、触れたはずなのに、うまく掴めない。
ぬるい水を掬うみたいに、手の中から形が抜ける。
なんでだよ。
水なのは俺の方だろ。
お前は人間じゃないか。
「待てって! ま、まだ、何にも片付いてねぇだろ。勝手に消えるな!」
喉がひきつる。
必死で言葉を掴もうとするのに、何を言えばいいのか分からない。
――いなくなるな。
――置いていくな。
だって、木こり野郎、お前は――
言葉にしようとしかけて、喉の奥で引っかかった。
(俺、こいつの名前、知らないじゃん)
嘘だろ。
こんなの、今さら気づくことかよ。
話せるようになってたんだから、いつでも聞けただろうが。
なのに、聞こうともしなかった。
いや、違う。
聞くのを忘れてたとかじゃない――聞くのを避けてたんだ。
俺にはこの世界で、ずっと名前がなかった。
イズミールなんて呼ばれるようになっても、勝手に付けられたあだ名みたいにしか思ってなかった。
だから俺も、誰のこともちゃんとした名前で呼ぶ気になれなかった。
適当な呼び名をつけて、自分とは違う世界の、無関係な奴だってことにしてた。
俺が持ってないものを、俺以外の奴らは当たり前みたいに持ってる。
俺は話もできないのに、俺以外の奴らが勝手に俺のことで盛り上がって、祀り上げてくる。
俺だけが、その“当たり前”から切り離されてる。
そんなこの世界が大嫌いだった。
木こり野郎なんてモブみたいに呼んでれば、ただの面倒くさい男で済んだ。
あの真っ直ぐな目も、しつこい祈りも、勝手にこっちへ踏み込んでくる感じも、ただうっとうしがることができた。
名前を知ったら、駄目だった。
たぶん、もっと前から分かっていた。
こいつを名前で呼ぶってことは、こいつが俺の中で、そこらの人間どもとは違う誰かになるってことだ。
だから避けてた。
だから、ずっと知らないふりをしてた。
なのに、いなくなりそうになった今になって、それに気づくなんて。
(馬鹿か、俺は)
自分でも何を言おうとしてるのか分からないまま、口が先に動いた。
「……俺! お、お前の名前っ、まだ、聞いてないし……っ!」
つっかえながら、情けない声で叫んだ。
あいつは、薄れかけた姿のまま、痛みに顔を歪めながら、それでも俺を見た。
今にも消えそうなくせに、あの真っ直ぐな目でこっちを見る。
「……もう、君には名乗っている」
掠れた声だった。
痛みを堪えながら、息を詰めながら、それでもはっきりと言う。
「は……?」
一瞬、頭が真っ白になる。
言葉の意味は分かるけど、言われた意味が分からない。
「君は、もう知っているはずだ」
何言ってんだこいつ、と思った。
俺は知らない。聞いてないって言ったろ。
名前くらい一言で済むだろ、言えよ、早く。
そう返すつもりだったのに、その言葉は喉で止まった。
知らない、と言い切るより先に、身体の内側が反応したからだ。
――わたしは知ってるけど?
ドン引きするくらい甘ったるい、べたべたして、いかにも気持ち悪い感情の塊みたいなあいつが、何かを囁いてくる。
――貴方も聞いていた筈です。
穏やかで、それでいて冷たく澄んだ、正しさだの役目だのを抱え込むあいつも、言い聞かせるみたいに語りかけてくる。
やかましい。急に喋り出すな。
お前らなんかに聞いてない。
そう怒鳴り返したかったのに、出来なかった。
俺は知らないはずなんだ。
だって、俺が言われたわけじゃない。
……でも、たぶん。
その名前は俺の中に、もうある。
俺じゃない俺たちが、とっくに受け取ってる。
あいつは、痛みに耐えるみたいに一度息を吐いてから、懐から瓶を取り出した。
中に水の入った、あの厄介な瓶。
小さなガラス瓶に閉じ込められた水。
それが、泉に閉じ込められてる俺そのものみたいで、ずっと気に入らなかった。
瓶の中にいるはずの水は、何故か、こいつの呼ぶ声を届けてくる。
いい加減にしろって叫んでも、しつこく繋げてきた。
でも、その厄介な繋がりが、こいつをここまで連れて来た。
その瓶を手に、あいつは笑った。
無理してんのが見え見えの、強がりで格好つけの笑顔だ。
なんだよお前、今まで見せたことのない顔、いきなりするな。
「どこにいても、私は君の名を呼ぶ」
――ああ、うれしいわ。
いきなり何言ってんだお前。意味わかんねぇこと言うな。
なんなんだよ、なんでお前の方が分かってますみたいな顔してんだ。
知ってるはずだ、とか気取ってんじゃねえ。
お前だって名前で呼ばれたがってたろうが。
俺が知らないとでも思ってんのか。
「……だから今度は、君も私の名を呼んでくれ、イズミール」
――ええ、喜んで。
もう、腕の感触も熱も感じられない。
俺は一歩下がって、あいつを睨みつけた。
「呼ぶとか、呼べとか、そのくせ聞いても教えねぇし!
わけわかんねぇし! 本っ当にお前、面倒臭い!」
勢い任せに文句をぶつけたけど、本当は違う。
こいつが言いたいことは何となく、分かってきてた。
さっきから俺の中で勝手なことをほざくバカ女どもがいる。
こいつはたぶん、あのバカ女どもも含めて”俺”だって言いたいんだろう。
見ないふりをするな、目を逸らすなって。
そいつらにはもう教えてあるから、そっちから聞けって?
仲直りでもしろって言うのかよ。大きなお世話だっての。
そう叫び返すことも出来たけど、飲み込んだ。
ここで駄々をこねたら、こっちが格好悪くなるだけだろうが。
……こいつに、これ以上、ダサいところ見せられるかよ。
「ああっ、もう! 分かったよ、もうお前には聞かねぇ!
あいつらに……金とか銀の俺に聞けばいいんだろ……っ」
そう言ってやると、あいつは青い目を、細めた。
痛みと、驚きと、ほんの少しの安堵が混ざったみたいな顔だった。
まだ何か言いたそうだった。
分かる。俺だって言いたいことは山ほどある。
でも、今それをやってる時間はない。
「だから、もういい……行けよ。ちょっと待ってろ、すぐ行くから」
あいつは、小さく息を吐いた。
痛みに顔を歪めたまま、それでも、少しだけ笑う。
「……ちゃんと呼ぶから、今度は勝手にいなくなるな」
「分かった。待っている」
短い返事だった。
その言葉と一緒に、あいつの姿が泡みたいにほどける。
焦って手を伸ばすけど、掴めたのは温度の残り香みたいなものだけだった。
「おい、待っ――」
喉が、勝手に動いた。
「ア――」
言いかけて、でも、続く音が出て来なくて呼べなかった。
そこまでだった。
白い世界がもう一度震えた。
次の瞬間、そこにもう、あいつはいなかった。
※※※※※
静かだった。
さっきまであんなにうるさかった鼓動も、今は収まって妙な静けさがある。
喉の奥には、さっき言い損ねた音だけが、馬鹿みたいに引っかかったまま残っていた。
さっきまですぐ近くにいて、重みや熱を感じられた。
それがなくなった今も、身体の方がまだ覚えているつもりでいる。
空っぽになった場所が、ひどく落ち着かなかった。
あーあ。
やっちまった、と思う。
せっかく、やっと話せたのに。
せっかく、名前に届きかけたのに。
……いや、違う。
本当はあの時だって呼べたはずなんだ。
俺の中にいる奴らが受け取った名前を、知ろうと思えば。
でも、俺があいつらとの関わりを避けたくて、聞けなかった。
あいつを“木こり野郎”って呼んで、壁を作ってたのと同じだ。
いまはどっちも黙っている。
でも、いなくなったわけじゃない。
黙って、見ている。俺の中から。
目を逸らせば、それで済んでいた頃とはもう違う。
約束しちまった手前、もう、逃げ回ってる場合じゃない。
今度は俺から話しかける番だ。
「……おい。いるんだろ」
呼びかけた相手がどこにいるのか、自分でも分かってる。
近いなんてもんじゃない、そいつらは俺の中にいるんだから。
金の、木こり野郎にベタ惚れのクソ重いメンヘラ女。
銀の、ちびどもや人間や世界まで抱え込んで自爆しかけた真面目ぶったやつ。
返事がくる前から、いるって分かった。
『やっと、こっちを見てくれたのね』
先に来たのは甘ったるい声だ。
同じ声なのに、ねっとり絡みつくような、いかにも女って感じの口調。
「うるせぇ」
即、黙らせる。
こいつはなんか俺のことを舐めてる気がする。俺のくせに。
『貴方にはすまないことをしたと思っています』
次に来たのは静けさだ。
声というより、澄んだ水が言葉の形を取るみたいな感覚。
「ふざけんなよ」
吐き捨てる。
こいつも良い子ちゃんぶって、分かってますみたいな顔をしやがって。俺の分際で。
「俺をそっちのけで勝手に暴走して、挙げ句の果てに世界ひっくり返して。
その上、あいつまで引っ張り込んで、あることないこと喋って、イチャコラしやがって。
で、いまさら“すまないことをした”じゃねぇんだよ。他人事みたいに言ってんな!」
言いながら、自分でも分かっていた。
これはただ怒っているだけじゃない。
こいつらの存在を、もう切り捨てて終わりに出来ないことへの苛立ちだ。
責任感も倫理観も終わってる恋愛至上主義のバカ女。
真面目な顔して正義感振りかざして、一番とんでもないことをするヤバ女。
なんだ、この地獄みたいなイカれたメンバーは。
……で、そいつらが、俺の中にいる。
最悪だ。
でも、こいつら抜きでどうにか出来るほど、外の状況は甘くない。
あの瓶を握って呼んでくるだろうあいつにも、応えられない。
喉の奥に引っ掛かった「ア」の音が、また疼く。
あー、もう。
ほんと、やってられない。
でも、これは人任せには出来ない。
このイカれたメンバーの手綱を、俺が握らないと駄目だ。
「いるんだろ、出て来い。顔を見せろ」
相変わらず、仕組みも何もわからない。
出て来られるかなんか知らないが、呼びつける。
俺の苛立ちに引っ張られるみたいに、そいつらは人の形を取って俺の目の前に現れた。
金ぴかで暑苦しいのと、銀色で澄ましたの。
見間違えるはずもない、どっちも俺の中の厄介者だ。
どちらも俺の造形そのままの顔と身体をしていて、ただ色と表情だけが違っていた。
芯がある、というよりは、キャラがブレない感じの連中。
「……あー、そういうことか」
誰にともなく吐き出す。
「なるほどな。完全に理解したわ。いや、全然納得はしてねぇけど」
本当は理解なんてしてない、憶測で、決めつけだ。
でも、それでいい。雑な理解くらいで丁度いい。
こいつらは、とにかく、やりたいことにド直球なんだ。
ブレないんじゃなくて、脇道や寄り道を知らないだけだ。
俺にも思い当たるフシがあるし、どっかのイケメン野郎とも似てる気がする。
思い込んだら一直線、勘違いで暴走上等みたいな。
とりあえず、そんな感じで分かったふりをして飲み込むことにする。
俺は昔からそういうのだけは得意なんだ。
伊達に社畜やってない。
俺が何に腹を立ててるのか分かってるのか、あいつらは口を挟んでこなかった。
いらん時に口出しするくせに、こっちで何か言うと無言なのが、また腹立たしい。
それが出来るなら最初から大人しくしてろよ。
「お前らは、アホみたいなやらかしで会社を傾けた問題社員だ」
「「??」」
揃って困惑の表情を浮かべた。
見た目も性格も真逆なのに、そういう時だけそっくりだった。
けれど、俺は親切に説明なんかしてやる気は無い。
察しろ、分かれ。社会は理不尽で不親切なんだ。
お前らは好き勝手にした。なら、俺もそうする。
ここからは俺の流儀、俺の解釈で勝手にやらせてもらう。
俺はこいつらを自分自身だなんて思いたくない。
女神様なんかにもなりたくないし、なる気も無い。
なら、あれは仕事だ。
やりたくなくても仕事ならしょうがない。
コクカ?とかいうよく分からん病気の連中を治すのが主な業務。
信者どもは顧客で株主だ。祈られると資本が増える。
そう、俺は“泉の女神”っていう“会社”の社長だ――
「まず、お前」
金ぴかの派手すぎる格好のわたしを指差す。
「お前はあれだ、客に入れ込みすぎの下手糞営業だ。
自分の担当だけえこひいきして、他の仕事をほっぽり出して周りに迷惑かける奴」
金ぴかは何を言われてんのか分かってない、きょとんとした顔をした。
でも、文句を言われてることは察したのか、少しだけ拗ねたように揺れる。
「だって、わたしのことをあんなに大事に想ってくれるし……」
それでも、自分のことより、あいつを軸にした答えを返してくる。
マジでそういうところなんだぞ、お前。
「だからって、よく分かんねぇとこから借りた水を使い込んで、滅茶苦茶してんじゃねえ!」
金ぴかは剣幕に圧されたのか黙った。
言われたことがわからなかっただけとも言う。知らんけど。
続けて、そのすぐ隣に指を突き付けた。
銀色の格好をした私が背筋を伸ばした。
「で、お前。お前はお前で、管理職ぶって勝手に全部背負いすぎだ。
うちは社会インフラでも慈善事業でもねえし、会社はお前の私物じゃねえ」
銀色のは、少しだけ間を置いてから返した。
こいつも言葉の意味は分からないんだろうが、文脈で理解したっぽい。
「……否定はしません」
「今さら、素直になるな。先に報告しろ、連絡しろ、相談しろ。
言われたことしか出来ない奴は二流だが、言われてねぇことを勝手にやんな!」
悪態を吐いたら、少しだけ頭の中が整理された。
息が楽になるとか、そういう綺麗なもんじゃない。
やってられない気分の置き場を、戯言を積み上げて組み立てているだけだ。
この金ぴかも銀色のも、許したわけじゃない。
今でも腹は立ってる。ほんと余計なことしかしない。
俺がここに閉じこもって、「俺じゃない」「あいつらがやった」なんて腐ってたら、現場はいつまでたっても収まらない。
嫌だから逃げた。怖いから見なかった。関係ないってことにした。
その積み重なりが、ここまでの惨状だ。
腹の底で、じわじわ熱が広がる。
これはたぶん、この金ぴかだけの感情じゃない。
銀色のが抱えてた責任感だけでもない。
俺自身も、あいつをこのまま失くしたくないとか思ってる。
認めたくねぇな、と心底思う。
「……勘違いすんなよ」
金と銀の両方に向かって、低く言う。
「別に仲直りしたいなんてわけじゃねぇ。
お前らが気に食わないのは今でも同じだ。
極端だし、重いし、勝手だし、マジで縁切りたい」
金ぴかが、むーとむくれ、銀色のが静かに受け止める。
「でも、ここで放り出したら、全部潰れる。っていうか、絶賛大炎上中だ」
その先を、吐き出すまでに少し時間がかかった。
「俺と、お前ら、あのちびどもも、路頭に迷うじゃすまない。
外で待ってるあいつまで巻き込んで、それで終わりだ。
……わかるか? これはもう、お前らだけの問題じゃない」
息を吸う。
呼吸なんてしてないから必要ないけど、溜息混じりでなきゃ言えるか、こんなもん。
「社員の不始末は会社にツケが回ってくる。
会社の不始末ってことになった案件の責任は誰が取る?
……そう、俺だ。社長の俺がお前らの尻ぬぐい役ってことになんだよ」
言いながら、自分で自分の理屈にうんざりする。
そして、こっちの世界で生まれたこいつらには分かりっこない。
でも、それでもいい。
綺麗に受け入れるなんて無理だ。
こんなふうにでも思わなきゃ、こんな連中引き受けられるか。
だったら、もうこういう無理やりな理屈で腹を括るしかない。
それが俺なりのやり方だ。
「お前らはどうしようもないクソ社員だ。
本当に気に食わねぇし、正直いまだに付き合いきれねぇ。けど――」
喉の奥が、少しだけ苦くなる。
「同じ会社の人間だ……そういうことにしておいてやる」
そう言った瞬間、金色と銀色の俺が互いに目を見合わせてまばたきをした。
そして、金ぴかは嬉しそうに笑い、銀色のは了承しましたみたいに頷いた。
俺は舌打ちしながら続けた。
「ようこそ弊社へ。年中無休のアットホームな現場だ。辞表は受理しねぇ」
皮肉で言ってやったのに、奴らは微笑んでスーッと消えていった。
くそったれが。
金色だったものが、温かな水となって溶け込んでくる。
銀色だったものが、冷たい水となって重たく沈み込む。
逃げ出したわけじゃない。俺の中へ戻ったんだ。
今更、逃げられると思うなよ。
あいつらは、俺という水の中の、温度や濃度の違う部分だ。
俺の中の同居人で、労働条件最悪な弊社の同僚と思うことにする。
理解し合ったわけでもない。
ひとつに混ざりあったわけでもない。
勝手に案件を取ってきて勝手に現場を燃やす、どうしようもない連中だ。
でも、今の俺は、もう一人の社畜じゃない。
いつの間にか、問題社員と、託児所が必要そうなお子様まで抱えた集団になってた。
ほんと、どこもロクなもんじゃねえなぁ。
誰に言ったのか、自分でも分からない。
金と銀か。
それとも、自分にか。
でも、その雑な結論で、ようやく覚悟が決まった。
すると喉に引っかかっていた音の続きが、胸の奥から浮かび上がってくる。
そうだ。あいつの名は――
※※※※※
白い世界が泡みたいに弾けて消えた。
辺り一面は真っ暗で、重たい水に満たされている。
曖昧な夢みたいな場所から、現実に引き戻されたんだ。
ずっと上の方、水面に光が見える。
陽の光だ。
そして、下の方。
俺にも見通せない深い穴がどこまでも続いている。
あの先には俺の意識が届かない。
むしろ、見ようとすると吸い込まれそうになる。
金ぴかの言う、もっと大きな水。
銀色のが言う、源の流れ。
あいつらは俺の元栓みたいなものをぶっ壊して、あれに繋がろうとした。
そうか。
あれが本流で、俺はその前に立ってる水門だったんだ。
俺があいつらに反対してたから、門はまだ完全に開き切ってない。
まだ“俺”っていう引っ掛かりが残っている。
拒絶と、意地と、みっともない執着と、そういうもので。
足元の広がる真っ暗な大穴を見ていると、普通に怖い。
こんなの、どうにかできるのか?
もう無理じゃないか、これ。
臆病の虫が騒ぎ始めた、その時だった。
――来る、と感じた。
暗い水の中に、細い糸みたいな感覚が差し込んでくる。
瓶だ。
あの瓶の中の水。
まだ小さな泉だった頃の俺の名残。
俺が嫌って、目を逸らして、それでもあいつがずっと持っていたもの。
それを通って、声が届く。
『――イズミール』
来た。
聞こえた。
暗くて重たくて冷たい水の向こうから。
水の重さに負けないくらい重たくて――でも、熱い感情の乗った声が届いた。
間違えようがない。
ああ、いた。
まだいた。
ちゃんと、呼んできた。
“わたし”が、真っ先にその名を呼び返したがった。
“私”が、祈るみたいにその名を口ずさもうとした。
うるせぇ、黙ってろ。
ここは俺が言う。
“俺”は、そいつらに負けじと、口を開け、喉を震わせて叫んだ。
水の中、音は風よりも早く、どこまでも遠くへ届く。
この世界で生まれて初めて、俺は声に出してそいつの名前を呼んだ。
「――アイオリス!」




