87.俺と、お前(中編) 〇★
84話「お前と、俺(中編)」、85話「お前と、俺(後編)」のイズミール視点
「……で?」
口にしてから、自分でも、ずいぶん偉そうな声が出たと思った。
白い世界の底で、どく、どく、と水の鼓動が鳴っている。
さっきまで取り乱して、喚いて、悪態を吐いた。
そうしているうちは、まだ夢だと言い張れたけど、いい加減厳しい。
だからといって、こいつを素直に認めるかといえば、それはまた別だ。
しゃがみ込んだまま木こり野郎を見上げると、黒い髪が頬にかかる。
さっき褒められたことまで思い出して、余計に調子が狂った。
なんだよ、美しいって。
お前が言うな、このイケメンが。
目が合う。当たり前みたいに逸らされない。
ほんと、そういうところなんだぞ、お前。
「大丈夫だ、私がいる、とか言っといて、それで終わりじゃないだろ。
何をどうするつもりなんだよ、木こり野郎」
木こり野郎は、俺の悪態を聞いても、すぐには何も言い返してこなかった。
こっちは勢いで吐き散らしてるだけなのに、真正面から受け止められると、次の悪口の置き場がなくなるじゃないか。
見当違いでも何でもいいから言い返してくれた方が、まだ楽だった。
だから、結局、こっちからまた喋ってしまう。
「言っとくけどな。俺は女神様なんかじゃない。奇跡の泉でもない。
救いの御業とやらをポンポン都合よく振り撒く便利アイテムでもねぇからな。
お前が勝手に誤解して、祈って、変な名前まで付けやがったんだ」
ああ、でも、これだ。
こういうことを言いたかった。ずっと。
本当の俺はそんなんじゃないって。
お前が見てるような、立派なもんじゃないって。
口を切ったら、止まらなくなった。
「しかも、ちょっと追い払ったくらいで、なかなか帰ってこねぇし……。
かと思ったら、遠くから何度も囁いてきやがって、野郎の囁きなんか需要ねえんだよ!」
帰ってこない。
でも、祈りだけは飛んでくる。
あっちの都合で好き勝手に寄越される着信のたび、水は揺れて、増えて、こっちはそのたびに落ち着かなくなる。
あれがどれだけ面倒だったか、こいつは知らない。
もう半分くらい、八つ当たりだ。
でも、木こり野郎は「はいはい」と流してくれない顔をしている。
そのせいで、雑に怒鳴りつけて終わりにすることもできない。
「ハッ、残念! お前の信じた女神様なんかどこにもいねぇよ!」
喚くだけ喚いてから肩を竦め、そっぽを向く。
余裕があるふり。投げやりなふり。
言いっ放しで逃げただけともいう。
なのに木こり野郎は、俺が言ったことを、ひとつひとつ認めた。
誤解していたこと。
勝手に祈ったこと。
使命を授かったと勘違いして、俺の元を離れたこと。
その道中で、救いの女神だなんだと吹聴して回ったこと。
全部、その通りだと。
――は?
その一言で、勢いが崩れた。
認められると困るんだよ。
そこは「そんなつもりじゃなかった」とか、「君を救いたかった」とか、そういう言葉で押し返してくる場面だろうが。
そうしたらこっちだって、勝手なこと言ってんな馬鹿、で済む。
なのに素直に認められると、俺の方が子どもみたいに喚いてるだけになるだろうが。
……いや、実際そうなんだけどさ。
でも、だからって素直に認めるなよ。開き直りも出来ないだろうが。
「……そこ、言い返してこねぇのかよ」
つい漏れた声は、自分でも思っていたより頼りなかった。
木こり野郎は、相変わらず真っ直ぐな目で俺を見たまま、さらに厄介なことを言った。
俺ひとりに全部を背負わせる気はない、とか。
世界がどうなるか以前に、俺の身が危ういのが重い、と。
何があっても君と共にいる、と。
私がそうしたいからだ、と。
いちいち返しが重すぎる。
こっちはいま、どうしようもない状況と、俺の中のイカれ女どものやらかしで、もう頭が処理落ちしてるんだよ。
そこへ平然と「共にいる」とか被せてくるな。
そんなもの、まともに受け止められるわけがない。
ふざけるな。
そういうのは、息苦しくなるんだよ。
……それを、嫌だとだけ言い切れないのが、いちばん性質が悪かった。
文句を吐き捨ててやろうと口を開いた、その前に。
木こり野郎が、静かに「確認したいことがある」とか言った。
嫌な予感しかしなかった。
そして、その予感は最悪の形で当たる。
木彫りの花。
俺が突っ返して、壊して、黄金に変えてしまった、あの花。
思い出した瞬間、喉の奥がきゅっと縮んだ。
そこかよ。
今さら何だよ、蒸し返すなよ、それ。
もう済んだことにしておきたかった。
俺の中では、とっくに“俺が悪い”で片付いていたからだ。
でも、木こり野郎は流してくれない。
それどころか、あの日のことを、自分にはどう見えていたのかと聞いてくる。
泣いているようだった、とまで言ってきた。
はぁ?
なんだそれ。泣いてたとか……ありえねぇし。
ただ、ぐちゃぐちゃで、みっともなくて、どうしていいか分かんなくて、最悪だっただけだ。
思い出しただけで、胃のあたりが重くなる。
胃なんか無いくせに、こういう時だけあるみたいな感覚になる。いつもは渦とかだろ。
なのに木こり野郎は、花のことより、その時の俺の方を見ようとする。
俺が傷ついていたんじゃないか、だの。
そんなの、やられた側のお前が言うことじゃないだろ。
「お前がやたら真面目で不器用で、クソ面倒臭い野郎なんてのは見りゃ分かるんだよ!
どうせ頼まれたらハイハイやって、関係ないことまで勝手に責任感じてんだろうが。
ついでに口下手で、要領が悪くて、ストーカー気質でムッツリスケベなこともお見通しだ!」
自分でも何を言ってるのか分からない。
でも、自分をあの盗っ人野郎と同罪みたいに言うのだけは、なんか許せない。
「イケメンのくせに、なんかある度に泣きそうなツラしやがって、いちいち重たいんだよお前は。
っていうか、泣いたって言うんなら、俺じゃなくてお前の方だろうが!
居なくなったと思ったらメソメソ、あの木彫りを壊した時だって……、……っ」
詰め寄って、畳みかけるみたいに文句を並べ立てた。
泣きそうなツラをしょっちゅうしてんのはお前の方だって。
俺はこいつの、あの情けないツラが大嫌いだ。見ていられない。
……で、口が滑って思いきり自爆した。
他人に対するやらかしは、自分の中だけで片付かない。
しかも責められてもいない。
だから余計に痛い。
そうだよ。
俺はずっと、あの時のことを引き摺ってたよ。
それを、俺のせいじゃないなんてお前が言うな。
「壊したものは壊したんだよ!
返そうが、拒もうが、受け取れなかろうが、結局ああなったんだろ!」
あいつの言葉に乗っかって素直に謝ればいいのに、こんな言い方しかできない。
それがたまらなく嫌だ。大人げないし、往生際が悪い。
俺みたいなつまんない奴に、なんでお前みたいな奴が、こんなにご執心なんだよ。
おかしいだろ。そのツラなら選び放題だろうが、人間の相手を探せよ。
木こり野郎は、いつか改めて贈るとか、簡単に取り戻せることみたいに言う。
でも、俺のやらかしは、あんな木彫りどころじゃない。
もっと取り返しのつかないことが別ある。
俺は、木こり野郎の髪も、目も、肌も、まるごと変えてしまった。
俺の浄化だか何だか知らない力で、あいつの見た目を勝手に塗り替えてしまったんだ。
言うならそっちが先だろ。なんでそんなに平然としてんだよ。
だってお前、あの時、泣いてたじゃないか。
お前が懲りもせず俺を追ってくるたび、鬱陶しいとか以前に、その姿を見るだけで罪悪感があった。
花のことより、ずっと言いたくなかった。
でも、もう言わずにいられなかった。
そしたら木こり野郎は、あっさり否定した。
元から金髪碧眼で、この肌の色だった。
黒髪黒目褐色肌の方が、黒禍……たぶんあの黒いのの影響だった。
あの時、元に戻っただけだ、と。
間抜けな問答のあと、最初に出たのは怒りじゃなかった。
……そっか。
それだけだった。
自分でも情けないくらい、それが先に出た。
よかった。
じゃあ俺、あれをやらかしてなかったんだ。
こいつを勝手に塗り替えたわけじゃなかったんだ。
呆れるほどほっとした。
まず、それが先だった。
元の世界じゃ、たぶん俺もこんな色だった。
だから、あいつの黒には、嫌悪なんて感じてなかった。
むしろ、この世界で黒髪をそんなに嫌われてるとか思いもよらなかった。
そこまで分かった瞬間、今度は猛烈に自分に腹が立った。
何だよそれ。
俺、馬鹿みたいじゃん。
クッソしょうもない勘違いじゃないか。
どんだけそれを引きずってたんだよ。
もっと早く言え。
勘違いするだろ。
紛らわしい。
そうやって怒鳴ったのは、半分くらい本気で、半分くらい言いがかりだ。
木こり野郎が悪いわけじゃない。
言葉が通じなかった。俺が知らなかった。ただそれだけだ。
でも、その「ただそれだけ」で、俺はずっと、一人で勝手に罪悪感をこねくり回してたんだと思うと、やってられなかった。
俺の情緒はもうぐちゃぐちゃなのに、木こり野郎の方は平気な顔で言ってくる。
「泣いていたのは、嫌だったからじゃない。元に戻れたからだ。
なにより、やっと君に触れられる身になったことが嬉しかった」
「ファッ!?」
変な声が出た。
出るだろそんなの。何言ってんだお前。そんな平然と。何を。
触れられる身ってなんだよ。
汚れてなかったら触れてもいいとか、そんな許可してないが!?
いきなりそっちに話を持っていこうとするな。いちいち刺さるんだよ。
こっちはお前が思ってるよりずっと、そういうのに耐性ないんだよ。
陰キャだぞ。もう少し配慮ってものを覚えろ。
……でも、この際だ。
折角、話が通じるんだから、これにもケリをつけなきゃいけない。
いまそれどころじゃない気もする。
でも、ここまで来たら、もう無視できない。
――こいつは、俺に惚れてる。
今までの態度から、もうはっきり分かっていた。
これは流石に勘違いじゃない……よな……?
これが勘違いだったら死ぬ。なんか分からないけど爆発して死ぬ。
黙ってりゃいいのに。
でも、ここで黙っていられるなら、最初からこんなに拗れてない。
この流れで、そこへ踏み込むのは完全に自爆だ。自滅だ。
でも、ここらで完全に断ち切っておかないと、こいつは絶対にぐいぐい来る。
それを続けたら――分かんない、知らない、とにかく駄目なんだ。
だから、向こうに踏まれる前に、こっちから地雷を踏み抜いてやるしかない。
「お前……俺に、惚れてんだろ」
「ああ」
間髪入れずに、肯定された。
たった一言。
迷いも、照れも、言い淀みもなく。
は?
早すぎるだろ。
少しは詰まれよ。
なんでそんな、呼吸みたいに言えるんだよ。
こっちは言うだけで息が詰まるのに。
息なんてしてないはずなのに、ここだと何故か肺も心臓もあるみたいに動いてやりにくい。
ヒレ耳も勝手に動き出す。犬の尻尾かよ、落ち着け。
俺は必死に、効いてないアピールをする。
嘘だ、効いてる。
めちゃくちゃ効いてるわ。ボケが、クソが、マジでいい加減にしろ。
だからこそ喋る。喋らないと無理だ。なんか顔が熱い。
なのに、奴は「愛している」とか「間違いも誤解も無い」とか追い打ちをかけてくる。
しかも、俺から聞いてきたから答えただけだなんて言いやがる。
やめろ、ド正論で殴り返してくるな。
確かに地雷を踏みに行ったのはこっちだ。
だからって、ミサイルで撃ち返してくるな。人の心とか無いんか。
馬鹿っ、俺! あいつの戯言にいちいち乗るな、戻れ!
ここで奴のペースに飲まれたら、敗北者コース待ったなしだぞ。
「だーかーらー! やめろってそれ! 禁止!
いちいち言われなくても分かってんだよ! 今度言ったら殴るからな!」
まだだ、まだ巻き返せる。
俺には最終兵器があるんだから。
俺の脅しに怯んで、奴は黙り込んだ。よし。
ここで一気に論破する。
お前が俺に惚れてるのは、命の恩人とか女神様とか見た目フィルターによるものだ。
それに、男ならこのスケベボディに目が行くのはしょうがない。
なんせ俺の自信作だ。目が行くよな? 当然だよな?
しかし、奴はいまいち、ぴんと来てない様子だった。
言葉が通じてないフリか? いや、今、何で通じてるかも分かんないんだが。
これはもう最終兵器を使うしかないか、と思った。
これを言えば流石に終わる。
木こり野郎だって、さすがにそこで引くはずだ。
そうなれば、こいつの恋も信仰も……たぶん、この関係も。何もかも片付く。
木こり野郎がドン引きする顔を想像しようとする。
汚いものを見るみたいな目。
さっと逸らされる視線。
引き攣った口元。
……どうしても、思い浮かばない。
それがどうしようもなく苛ついて、髪をかき上げる。
黒髪は重たく湿って見えるのに、さらりと指の間を抜けていく。
でも、心の引っ掛かりの方は、そんなふうに簡単には抜けない。
この棘みたいなものは、言葉にしなきゃずっと抜けない。
※※※※※
そう思って、吐き出した。
「――俺はな、男だったんだよ」
言ってしまった瞬間、どくん、と大きく身体が震えた。
背中に嫌な汗をかいてる気がする。
汗じゃなくて身体が溶けてるのかもしれない。
溶けて、どっかの水溜まりの底に逃げ込みたい。
ほんとは、こんなの、言うつもりじゃなかった。言いたくなかった。
誰にも。
だって、言ったところで何になる。
どうせ説明しきれない。
気持ち悪がられるだけだ。
だからずっと、なるべく考えないようにしてきた。
だから、言ってやった。
これで全部、終わらせられるように。
――ほら、引けよ。
――気味悪がれ。
――嫌になったろ。
そう思っていたのに。
木こり野郎が返してきたのは、嫌悪でも、動揺でもなかった。
そうか、と。
それを俺に明かしてくれたのだな、と。
ずっと、それを一人で抱えていたのか、と。
そこじゃねぇだろ、と思った。
何でそっちに目を向けるんだよ。
今の話の要点はそこじゃないだろうが。
お前の恋だの信仰だのが、根本からおかしいって話だろうが。
なのに、何で、言えなかったってことの方を見てくる。
何で、俺がずっと抱えてた方を見てくる。
可哀想なものみたいに見るな。
そういう顔をするな。
そう言って反発してみせた――本当はそんなの嘘だ。
あいつは同情でも憐れみでも嫌悪でもない、ただ気遣う顔をしていた。
それが見ていられなくて、目を背けただけだ。
俺が目を背けたくてたまらないことに、あいつは踏み込んでくる。
俺が何を抱えてるのか、知りたいとか言って近づいてくる。
泉だった俺を覗き込んで、探そうとするみたいな、あの目で。
今、この身体は水というより、まるで本物の人間みたいだ。
だから、息が詰まったり早くなったりする。
心臓の鼓動に急かされるみたいに、言葉が漏れ出してしまう。
「っ……ああ、くっそ……。
お、俺は、別の世界で、人間だったんだよ。普通に。……たぶん」
一度、吐き出したら、堰が切れた。
別の世界で人間だったこと。
名前も曖昧で、どう死んだかもはっきりしないこと。
気づいたら泉になっていたこと。
身体がないこと。
手足も喉もない。
熱さも寒さも腹減りもない。
疲れないのに休めない。
眠くならないのに終われない。
ずっと起きていて、ずっと続いて、朝も夜も区切れない。
濁ると気分が悪い。
雨が降ると訳もなく嬉しい。
そんなものを自分の感覚として抱える気持ち悪さ。
やっと身体を作れても、水から離れられない。
声を出せても通じない。
相手の言葉も分からない。
自由になったんじゃない。檻の形が変わっただけだ。
その上で、勝手に女神様だの奇跡だの救いだの言われる。
本当の俺は、人付き合いを自分から切り捨てて趣味に逃げ込んだ社会人失格の駄目人間だ。
笑えよ、なんて言ってみたが、予防線を張っているだけで、本当に笑われたら傷つく。
俺はその程度のちっぽけな奴だ。お前とは釣り合いが取れないんだってば。
そこまで吐き出しても、木こり野郎は引かなかった。
分かったふりはできない、と言った。
こっちはドン引きされる覚悟で言ったのに、そんな受け止め方されたら困るだろ。
そうだよ、男とか女とか以前に、困る。
俺はこの世界で誰にも頼れなかった。誰とも繋がれなかった。
なのに、こんな風に受け入れられたら……もっと頼りたくなっちまうだろうが。
「……君は、それを言えば、私が諦めると思ったのか」
……知ってたよ。
お前は、責任感があって、実直で、覚悟が決まってる。
そういう奴は、一度、抱え込んだものを簡単には投げ出さない。
その結果が、あれだ。
俺に入れ込んで、滅茶苦茶な状況に首を突っ込んで。
そのくせ、女の子を助けるために自分を投げ出すみたいにして傷ついた。
見捨てろ、なんて言えない。そういう奴じゃないってことまで分かってる。
「……だって、お前はちゃんとした奴だろ」
ちゃんとしてる奴なら、もっと早く見切りをつけると思ってた。
こんな面倒なもの、抱え込まないと思ってた。
なのにお前は、そこでも引かない。
だから、駄目なんだ。
お前みたいなのが、俺みたいな人外の男女なんかに関わってちゃ。
俺の気も知らないで、あいつは近付いてくる。
「黒禍で故郷を失くしたとき、父は私に生きよと言い遺した。
だが私は、その言葉に従うより、死に場所を求めるように深淵殺しの道を選んだ。
生き残ることより、どこかで終わる方を望んでいた人間だ。
“ちゃんと”などしていない。君よりまともだとか、君を導けるなどとは思わない」
ああ、たぶん、これはこいつの傷だ。
自分を棚に上げた綺麗ごととかじゃなくて、本当にそう思ってる奴の顔だった。
こっちが傷を晒したら、あいつも降りてきた。
同じ高さまで。
その上で、それでもって顔で見てくる。
不器用過ぎるだろ。
「何も分からず、不自由で、逃げ場もない。君の苦しみは計り知れない。
私なら、その中で正気を保っていられたとも、他者を見捨てずにいられたとも思えない」
嘘つけ。
お前ならもっと上手くやれただろ。少なくとも俺よりは。
「それでも君は、本当に救いを求める者を見捨てはしなかった。
君は姿を見せずとも、私を、そして後の者たちを救ってきた。
ミュルナたちのことも含めて、あれは君から生まれた救いだったのだと、私は思っている」
見てきたみたいに言うな。
ちびどもは俺が引き籠るために造った、ただの道具だ。そのはずだったんだ。
「私はいま、女神を見ているわけではない。
苦しみながらも、人としての善良さを捨てなかった君を見ている」
何が人としてだ。
もう人間じゃない俺が、そんな良識とか持っててどうすんだよ。
なのに、どうしてこんな人外になっても捨てきれないんだ……。
嬉しいとか、そんな綺麗な話じゃない。
ただ、もう雑に自分を切り捨てて済ませる道が塞がっていく。
嫌だった。
怖かった。
逃げたかった。
見捨てた方が後味悪かっただけだ。
頼られるのも迷惑だった。
好んで救ったわけじゃない。
そうやって、自分のやったことをいくらでも貶せるはずだった。
なのに、木こり野郎はそこを拾わない。
動機が綺麗かどうかじゃなく、見捨てなかった事実の方を見る。
救われた側にとっては、それで十分だとまで言う。
「少なくとも私は、そうして命を拾われた。
君がどんなつもりで力を使ったとしても、私が救われた事実は変わらない。
君に救われた者たちがいなくなるわけでもない」
何だよそれ。
そんなふうに、動かしようのない事実みたいに置かれたら、反論のしようがないだろうが。
こんな俺でも、少しはまともになれるかもなんて錯覚させるな。
そんな目で見られたら、もう開き直って腐ることも出来なくなるだろうが。
「……ほんと、そういうとこだよ」
掠れた声が出た。
「お前、こっちが雑に投げたもんまで、いちいち真面目に拾って、投げ返してくるじゃん……。
そういうの、反則だろ……」
散々、言葉でぶっ刺してきておいて、木こり野郎は何も言わない。
ただ、もう、言いがかりや八つ当たりの言葉をぶつけようとは思わなかった。
※※※※※
何が本当の自分なのか分からないんだ、と、結局そこまで言わされた。
気付いたら言葉が止まらなくなってた。
水が増えるたび、どこまでが俺か分からない。
男だった俺なのか、この身体なのか、泉なのか、救いたがりの女神様なのか。
全部ぐちゃぐちゃだ。
嫌だと思ってる俺がいる。
でも、嫌じゃないっていう“わたし”も、確かにいる。
あいつらは異物だ。
そう思いたかった。
俺の中から湧いたバグみたいなもんで、俺じゃないと思いたかった。
でも、木こり野郎にこうやって真っ直ぐ見られて、言葉を返されて、逃げ道を塞がれて、ひとつひとつ自分の中身を言葉にしていくと、どうしても無関係とは言えなくなる。
木こり野郎を離したくない、あのヘラってる濃いやつ。
ちびどもや人間を放っとけない、あの真面目なやつ。
何もかも嫌で逃げたい、いまの俺。
全部、気に食わない。
全部、付き合いきれない。
でも、全部、俺の中から出てきたってことも、なんとなく分かる。
胸の内側がうるさかった。
熱っぽくざわつくような何かと、冷たく澄んだまま理屈を並べるような何かが、いまは妙に静かに沈んでいる。
消えたわけじゃない。ただ、そこで黙っているだけだ。
その静けさが、逆に気味が悪かった。
あいつらを異物だと言い張っていた頃の方が、まだ単純だった。
なのに今は、嫌って、切って、無かったことにするには、少し知りすぎてしまった。
だんだん、堪え切れなくなってくる。
ちゃんとした人間で、ちゃんとした男なら。
そんな言葉が口から出た時点で、もう限界を通り越していた。
男だったことだけじゃない。
泣きそうになっていることも。
この身体で好かれて、嫌だと思うのに嫌じゃないと感じる部分がいることも。
全部まとめて、みっともない。認めきれない。認めざるを得ない。
そう思った瞬間、喉の奥がひきつった。
息を吸おうとして、うまく入らない。
胸のあたりが痛いくらいにつっぱって、次の呼吸がどこへ行けばいいのか分からなくなる。
泣くな。
止まれ。
まだ喋れる。平気なふりくらい出来る。
そう思った端から、ひゅ、と潰れた音が漏れた。
その一つをきっかけに、次の嗚咽が喉を裂いて飛び出した。
見せたくない。
こんなの俺じゃないって言い張りたい。
なのに、もう止め方が分からない。
声が潰れて、喉が詰まって、息がうまく吸えなくて、止めようとしても次の嗚咽が勝手に出る。
嫌だ。
男なら、こんなふうに人前でぐちゃぐちゃになったりしない。
なのに、泣くなと思うほど、余計に崩れた。
見んな。
やめろ。
そうやって必死に否定しても、木こり野郎は目を逸らさなかった。
肩に触れられた時、びくっとした。
逃げるならその時だった。
振り払うことだってできた。
なのに、しなかった。
してしまったら、たぶんもっと惨めだった。
抱き寄せられるのも十分惨めだ。ガキがされることだ。あのちびにしたみたいに。
でも、放っておかれるよりは、少しだけマシだと思ってしまった。
逃げようとして半歩引いたはずなのに、力の抜けた膝がそのまま木こり野郎の胸元へもたれ込んだ。
いつの間にか、胸元へ額を預けるみたいな格好になっていた。
まるで、俺の方から抱きついてるみたいで最悪だ。
腕の中は、広くて、硬くて、熱かった。
熱いのに、不思議と息がしやすくなる。
泣くのを止められないまま、少しだけ楽になる。
畜生が。
でも、これを拒みきれない。
今は格好をつけなくていい、とか。
ここにいる君を放って目を逸らす方が耐え難い、とか。
そういうことを言われた気がする。
ちゃんとは覚えてない。
覚えてないけど、妙に深く残る。
残るから困る。
泣き疲れて、ようやく少し息が落ち着いてきた頃には、もうさっきまでみたいに強く突き放す気力も残ってなかった。
それどころか、ここが定位置みたいな顔をして、背中に腕が回されてる。なのに、嫌じゃない。
最悪だ。
ほんと、最悪だ。
「……っ、くそ……お前、ほんと、最悪……面倒くさい……っ」
こんな醜態を晒したのに、恥の上塗りみたいに悪態が飛び出る。
それが自分でも馬鹿みたいだと思いながらも、まだ格好をつけたがる自分がいるのかと呆れる。
放っておかれなかったことに、少しだけ救われている自分がいるのが、いちばん腹立たしかった。
しょうもない愚痴だ。答えなんて期待してなかった。
どうせ、これも寛容に受け止めるみたいな返しが来るんだろって思ってた。
「君に言われたくはない」
そしたら、これ。
皮肉か。
今の、皮肉だよな?
お前、そう言うことも言えるのかよ。
……言うか。そうだよな。お前だって人間だし、そんくらいは言うか。
不覚にもちょっと笑えてしまった。
その時点で、もう負けに近い。
だけど、負けっ放しは悔しいし、抱かれてヨシヨシされて宥められましたなんてムカつくから、笑ってなんかやるまいと息を吐く。
「いま答えを出そうとしなくていい」
そんなことを言われながら、背中をゆっくりと撫でられる。
(ひぅっ)
びりっと来た。
ぞくっ、とか、ぞわっ、じゃなくて、びりっだ。
声が漏れそうになったのを必死に抑え、悟られないようにする。
ヒレ耳、動くな。止まれ、止まれ。
「君が何者なのか、何を受け入れられないのか、それを急いで決めなくていい。
ただ、もう、ひとりで抱えたまま沈まないでくれ」
おい、木こり野郎。
良いこと言ってるつもりなんだろうが、その撫でるのやめろ。
お前に撫でられると、なんか俺の中ですごい騒ぐ奴がいるんだよ。
出てくんな、戻れ。
ちょっと撫でられただけで舞い上がりやがって。
良い子ちゃんぶりの“私”も大概だけど、“わたし”は最悪だな。
言いたいこと、言っちゃいけないことまで全部吐き出してしまった気がする。
さっきまで、ぐちゃぐちゃで大変だったのに、今は妙に静かで、胸のあたりがすかすかする。
変に楽になったような、何か大きなものがごっそり抜けているような、落ち着かない静けさだった。
熱っぽくて鬱陶しいものと、澄まして正論ぶるもの。
いつもなら勝手に口を挟んでくるそれが、いまは少し遠い。
その空き具合に、遅れて気づく。
木こり野郎が好きで好きでたまらない、とにかくキモい“わたし”。
女神様とか母親とか、ちゃんとした自分でいたい“私”。
そいつらが収まっていた場所が空いている。
でも、居なくなったわけじゃない。ただ大人しくしてるだけだ。
どうにも気に入らないけど、俺の中には、確かにあいつらがいる。
心底、厄介な奴らだ。極端で、激重で、自分勝手で、正直付き合いきれない。
俺を置いて勝手に突っ走った時点で、今も腹は立ってる。
でも――全部が全部、俺とは無関係だって言い張るのも、もう無理だった。
どれも分かってしまう部分はある。それは認めるしかない。
そう思うだけの材料を、木こり野郎に無理やり並べられてしまった。
認めたくない。
でも、なかったことにもできない。
(ひとりで抱えるな、か……)
ちゃっかり俺を抱きしめたままでいる男を見上げる。
お前のせいで増えたんだからな。責任取ってお前も何とかしろよ、役目だろ。
それをどう伝えてやろうか――そう思ったその時。
白い世界が、ずん、と重たく脈打った。




