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85.お前と、俺(後編) ◇★

 「――俺はな、男だったんだよ」


 どくん、と白い世界が大きく脈動し、それから凍り付いたように静まり返った。


 私はすぐには何も言えなかった。


 正直に言えば、衝撃はあった。

 目の前の姿と、今告げられた事実が、私の中でまだうまく重ならない。

 だが、その噛み合わなさこそが、イズミールがずっと抱えてきた居心地の悪さなのだと、遅れて悟った。


 銀色のイズミールが言っていた、「自分の身体を自分のものだと思いきれずにいる」というのは、このことだったのだ。


 そう思った瞬間、胸を締めつけたのは驚きではなく、これを誰にも言えなかったのだという痛ましさだった。

 心と身体の噛み合わなさを、どれほど長くひとりで抱えてきたのか。


 黒髪のイズミールは、言ってしまったことを自分で持て余したように、顔を歪めていた。

 吐き出せば少しは楽になるとでも思っていたのかもしれない。

 だが実際には、自分で傷口を抉りながら見せつけてきたような痛々しさがあった。


 瓶を握る手に力がこもる


「……そうか」


 返す言葉はいくつも浮かんだ。

 だが、そのどれもが、今ここで口にすれば彼女をさらに遠ざける気がした。

 私がようやく絞り出せたのは、それだけだった。


 イズミールは私の顔を睨むように見ていた。

 睨んでいるのに、その実、どこか怯えている。

 黒い瞳の奥にあるのは怒りではなく、判決を待つ者の緊張だった。


「……それを、私に明かしてくれたのだな」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど低かった。


 イズミールは、びくりと肩を震わせた。

 それから、何かを予想して身構えるみたいに、唇の端をひきつらせる。


「は?」


 予想していなかった返事だったのだろう。

 黒い眉がぴくりと跳ねる。


「いや……は? そこ?

 いやいや、待てよ、お前、今の聞いてそれなのか?」


 語尾が少し上擦っている。

 吐き捨てるような声音だった。

 けれど、その実、ひどく怯えているのが分かる。


 視線は逸らさなかった。


「大事なことだ。君にとって」


「いや、大事とかそんなんじゃねえって!?

 だいたい、君にとってはってなんだよ! 大事なのはお前の方にだろ! お前も……っ」


 イズミールは途中で言い淀んだ。

 きっと、本当はこう言いたかったのだろう。これで嫌になっただろう、と。


 だが、私の胸に先に来たのは別の感情だった。


「……君は、ずっと、それをひとりで抱えていたのか」


 その瞬間、長い睫毛が大きく震えた。


 男だったことを責めも嫌悪もせず、そんな問いが返ってくるとは思っていなかったのだろう。

 イズミールはわずかに目を見開き、それから、苛立ったように舌打ちしそうな顔で目を逸らした。


「おい、よせ。そういう顔すんな」


「どういう顔だ」


「しらばっくれんな。その、可哀想なもん見るみたいな……そういうのだよ」


 低く、刺すような声だった。

 だが、その声の裏にあるのは怒りだけではなかった。


「私は、君を憐れむために言っているのではない」


「じゃあ何だってんだよ」


「知りたいからだ」


 私は一歩だけ、イズミールへ近づいた。


「君が今まで何を抱えてきたのか。何に苦しんできたのか。

 私が知らずに踏みつけてきたものが何なのかを」


 イズミールは、喉の奥で息を詰まらせたような顔で僅かに後退った。


「は、はぁ? 趣味悪すぎんだろ……サドかよ、いや、マゾ……?」


 そして、呆れたように、また意味の分からない悪態を吐く。

 しかし、私がその意味を問い質すまでもなく、観念したように、吐き捨てる。


「っ……ああ、くっそ……。

 お、俺は、別の世界で、人間だったんだよ。普通に。……たぶん」


 別の世界。


 それは驚くべき言葉だったが、世界の裂け目だとされる魔樹の存在を思えば、この世界の他に別の世界があるという話も、今は否定しきれない。

 だが、その不可解さより先に、私は「人間だった」という響きへ引き寄せられていた。


「たぶん、というのは……?」


「……細かいとこは曖昧なんだよ。男だったのは間違いない。けど、名前は思い出せねえ。

 死んだのかどうかも、どうやってここに来たのかも、はっきりしない……。

 気がついたら、もう泉だった……だから何だって話だけどな。

 ほら、気持ち悪いだろ? 女神様だと思って追っかけ回してた相手の中身が、実は陰キャヲタの男でしたって、最悪じゃん」


 おどけたような口ぶりにしようとして、自分で言って、自分で傷ついている声だった。


 私は否定を急がなかった。


 今、ここで「そんなことはない」とだけ言えば、イズミールはきっと、それを何も分かっていない慰めとして弾くだろう。


 白い世界の鼓動が、低く鳴る。


 イズミールはそこで一度、自分の黒髪を掴むように後ろへ流した。

 落ち着かないのだろう。

 言葉にしてしまったものを、今さら引っ込められないと分かってしまった者の手つきだった。


「最初は夢か何かだと思ったよ。だって意味分かんねぇし。

 いきなり身体が無ぇんだぞ。手も足も喉も無い。

 目があるのかどうかも分かんねぇのに、見えてる。

 耳が無いのに音は聞こえる。ありねぇだろ、そんなの……」


 イズミールの声は、少しずつ早くなる。

 溜め込んだものが、出口を見つけてしまったのだと分かった。


「熱くも寒くもねぇし、腹も減らねぇし、匂いも味も分かんねぇ。

 なのに、人間だった頃の感覚だけは残ってるんだよ。

 喉が渇くはずだとか、腹が減るはずだとか、そういうのだけは頭のどっかに残ってる。

 残ってんのに、何一つ通用しねぇの。ひたすら気持ち悪いんだよ」


 私は何も挟まなかった。想像の追いつかない世界の話だ。

 今ここで不用意な相槌を打てば、イズミールの言葉がまた引っ込む気がした。


「眠くもならない。疲れもしねぇ。じゃあ楽かって言うと全然そんなことない。

 便利みたいに思うじゃん? でも、全然、違うんだよ……休めないんだ。

 終われないし、区切れないし、時間だけがただ流れてく。

 朝から晩までずっと起きてて、ずっとずっと続くんだぞ、わかるか? ずっとだ!」


 “ずっと”という言葉の繰り返しが、重くのしかかる。

 戦いどれほど長くとも、痛みも、疲れも、眠りで意識を途切れさせることで人はどうにか耐える。

 だが、その僅かな途切れすら無かったら、どこまで正気を保てるだろうか。


 イズミールは自嘲するように唇を歪めた。


「しかも、水が濁るとクッソ気分が悪くなるし、落ち葉とか泥が溜まってくると、うわぁってなるし、雨が降ると訳も分かんないのに妙に嬉しいんだよ。

 自分で言ってて訳分かんねぇって思うよ……気持ち悪いだろ? 何だよそれって話じゃん。

 俺、何になっちまったんだって、そればっかだった……ほんと、なんなんだろうな」


 最後のところだけ、無理に笑おうとしたみたいに唇が歪んだ。

 だが、笑いにはならなかった。


 イズミールが虚ろな表情をこちらを向けてきた。

 その視線には、どうせ分からないだろう、という諦めがあった。


「やっと身体を作れるようになっても、結局、水から離れられねぇし。

 声が出ても、全然伝わってねぇし、相手の言葉も分かんねぇ。

 自由になれる、出来ることが増えるとか思ったけど厄介になるだけだった」


 目の前の黒髪のイズミールは、女神の秘密を明かしているのではなかった。

 誰にも言えなかった弱みを、喉を裂くように吐き出している。


 抱き寄せたい衝動は何度も喉元までせり上がった。

 だが、いま触れれば、それを慰めではなく逃げ道として差し出すことになる気がして、私はこらえた。

 指先が、勝手に震えるが、それでも握らずに開いたままにした。


 黒い睫毛が震える。

 その目元が、じわりと熱を持ち始めているのが分かった。


「言葉も通じない奴らに、勝手にありがたがられて、祭り上げられて、祈られてさ。

 こっちは自分が何なのかすら分かってねぇのに、外からどんどん集まってきやがって。

 女神様だの、奇跡だの、浄化だの、救いだの……。そんなの知るかよ!」


 私はイズミールを奇跡の泉の女神だと見ていた。

 だが目の前で言葉を吐き出すイズミールが見せているのは、神秘ではない。

 出口のない牢に閉じ込められた者の、息苦しさそのものだった。


 イズミールの声が掠れた。


「元の世界じゃ、俺は陰キャで、オタクで、単なる社畜だった。

 別に偉くもねぇし、立派でもねぇし、ちゃんとした大人かってのすら怪しかった。

 なのに、こっち来たら、何の説明もなしに女神様扱いだぞ? 笑えるだろ。笑えよ」


「笑えない。笑えるものか」


 私はただ、その言葉のひとつひとつを、胸の奥へ受け止める。

 誰にも言えなかった苦しみの叫びを、やっと受け取ることが出来た。


 私は今、この為にここに居るのだと思った。


 その視線を受け止めたまま、ゆっくり言う。


「……私には、君の痛みと孤独のすべてを同じようには分からない」


 揺れ動く黒い瞳がこちらを向いた。

 そのまま、続ける。


「別の世界で男として生きていた君が、突然それらを失って、この世界でその姿でいることの居心地の悪さを、分かったふりはできない」


 その言葉に、イズミールの肩からほんのわずかだけ力が抜けた。

 軽々しく“分かる”と言われることに身構えていたのかもしれない。


「……当たり前だろ」


 力のない、乾いた声が返ってくる。


「だが、分からないからといって、軽いことだとは思わない」


 それだけ告げると、イズミールは一瞬だけ言葉を失ったように黙り込んだ。

 そして、すぐに苛立ったように舌打ちしそうな顔をする。


「だから、そういうのやめろって言ってんだろ……」


 黒髪をかき上げ、イズミールは視線を逸らし、片手で額を押さえた。


「分かんないなら分かんないで、そこで終わっとけよ!

 真面目ぶって”受け止めた”みたいな反応されるの……一番困る」


「困る、か」


「困るだろ。だって、こういうのって、普通はもっとこう……」


 イズミールは言い淀み、やけっぱちみたいに言葉を継ぐ。


「気持ち悪ぃとか、詐欺だとか、そういう方に行けよ普通……!

 なんでそこ飛ばして、別のとこ見んだよ。そういうの、ずるいんだよ……」


 そこでようやく、私は少しだけ理解した。

 イズミールは今、自分を理解してほしいのではない。


 拒絶されるために敢えて告げたのだ。

 気味悪がられる覚悟は、とうに決めていたのだろう。

 それを告げれば、私の恋も信仰も止まるだろうと、そう思っていたのだ。


 だからこそ、その覚悟ごと空を切った今、イズミールは余計に立つ場所を失っている。

 拒絶なら受け止められた。

 だが、受け止められることには、きっと備えていなかった。


「……君は、それを言えば、私が諦めると思ったのか」


 イズミールはぴたりと黙った。

 答えない。それが答えだった。


「……だって、お前はちゃんとした奴だろ」


 やがて、観念したようにこぼす。 

 深くに沈んでいた、やるせなさそのものの声だった。


挿絵(By みてみん)


 その言い方は、おそらく褒め言葉ではなかった。

 自分には届かないものを、遠くから眩しがるような響きだった。

 そんなふうに見られる資格が、自分にあるとは思えず、胸の奥が鈍く痛んだ。


 “ちゃんとした”――銀色のイズミールが、同じ言い方で私を評したのを思い出す。

 どうやら、どのイズミールにとっても、私はそのように見られているらしい。


 清廉、誠実、義理堅い、そんな意味合いで使われているのだと思う。

 だが、私は決してそんなに立派な人間ではない。


 一歩だけ、私は近づいた。


「黒禍で故郷を失くしたとき、父は私に生きよと言い遺した。

 だが私は、その言葉に従うより、死に場所を求めるように深淵殺しの道を選んだ。

 生き残ることより、どこかで終わる方を望んでいた人間だ。

 “ちゃんと”などしていない。君よりまともだとか、君を導けるなどとは思わない。」


 イズミールは、きょとんとしたように私を見た。

 その言葉を、私自身から否定されるとは考えていなかったのだろう。


「だからこそ、はっきりと言える」


 私は声を落とした。


「何も分からず、不自由で、逃げ場もない。君の苦しみは計り知れない。

 私なら、その中で正気を保っていられたとも、他者を見捨てずにいられたとも思えない」


 そこで一度、言葉を切る。


「それでも君は、本当に救いを求める者を見捨てはしなかった。

 君は姿を見せずとも、私を、そして後の者たちを救ってきた。

 ミュルナたちのことも含めて、あれは君から生まれた救いだったのだと、私は思っている」


 黒い瞳が、大きく見開かれた。


「私はいま、女神を見ているわけではない。

 苦しみながらも、人としての善良さを捨てなかった君を見ている」


「……っ、やめろ」


 即座に返ってきた声は、ひどく掠れていた。


「そういうのやめろ。そんな持ち上げ方されたって嬉しかねぇんだよ!」


「そんなつもりで言ったわけじゃない」


「どう考えたってそうだろうが!」


 イズミールは苛立ったように叫んだ。

 だが、さっきのような噛みつく勢いは続かない。

 続かないまま、言葉だけが荒くなる。


「何が立派だよ。嫌だったし、怖かったし、逃げたかった。

 居座られるのが嫌だから片付けただけだ! 助けたっていうか、結果的にそうなっただけだし。

 死なれると後味悪ぃし、見捨てたらそれはそれで気分最悪なんだよ。

 頼られるのだって迷惑でしかなかった! ……とにかく、そんなんじゃない!」


「それで十分だ」


「十分なわけあるか!」


 イズミールは言葉を重ねて、自分の行いを否定し続ける。

 自分の卑小さを訴えることで、女神としての自分を否定しようとしている。


 私はそれを見つめながら、静かに答えた。


「君は、自分が善い心で人を救ったわけではないと言いたいのだろう。

 嫌だった。怖かった。見捨てる方が気分が悪かった。ただそれだけだと」


 イズミールの唇が、ぴくりと止まる。


「それでいい」


「……は?」


「救われた者にとっては、それで十分だ」


 私は瓶を握る手を見下ろした。

 その中に揺れる水は、私が一度失いかけた命を、たしかに繋いだものだ。


「少なくとも私は、そうして命を拾われた。

 君がどんなつもりで力を使ったとしても、私が救われた事実は変わらない。

 君に救われた者たちがいなくなるわけでもない」


 白い世界の鼓動が、低く鳴る。


「君は、喜んで手を差し伸べたわけではなかった。

 怖がり、嫌がり、逃げ出したことがあるのも知っている。

 それでも、苦しんでいる者から最後には目を逸らせなかった。

 私が見てきたのは、そういう君だ」


 イズミールは小さく首を振り続ける。黒髪がはらりと白い肩に零れる。


「だから私は、君を立派だと思う」


 そう言った瞬間、イズミールの顔から、怒りとも困惑ともつかない表情がすっと剥がれ落ちた。


 代わりに現れたのは、逃げ場を失った子どもみたいな、あまりに無防備な戸惑いだった。


「……ほんと、そういうとこだよ」


 漏れ出た声は、力なく掠れていた。


「言い訳とか、責任転嫁とか……そういう逃げ道、ちょっとは残しとけよ……」


 黒い瞳が、ひどく疲れた色で私を見る。

 責めているようで、責めきれていない。

 むしろ、これ以上自分を追い詰めるなと訴えているようにすら見えた。


「お前、こっちが雑に投げたもんまで、いちいち真面目に拾って、投げ返してくるじゃん……。 

 そういうの、反則だろ……」


 最後はほとんど愚痴だった。

 否定されたいのに、否定してもらえないことの方が、よほど堪えている顔だった。


 私は何も言い足さなかった。

 ここで言葉を重ねれば、せっかく零れ始めた本音までまた引っ込んでしまう気がしたからだ。


※※※※※


 イズミールはしばらく口元を引き結んでいたが、やがて視線を落とし、自分の手を見た。

 白くほっそりとした、女の手。

 しなやかな指先が、わずかに震えている。


「……最悪なんだよ」


 ぽつりと零れる。


「向こうで男だったとか、そういうのもそうだけど……。

 いちばん気持ち悪いのは、何が本当の自分なのか分かんなくなってくることなんだ。

 雨が降ったり、お前らに祈られたりするたびに、水が増えていく。

 俺は水だ……じゃあ、その増えた分も俺なのか? どこまでが俺なんだ?

 増えて、薄まって、混ざって、気づいたら別のもんになってんじゃないかって……。

 それが、ずっと、ずっと怖かったんだ……」


 イズミールの喉がひくりと動いた。


「……嬉しいとか、嫌だとか、安心するとか、そういうのはあるんだよ。ちゃんと。

 でも、それ感じてるのが誰なのか、もう分かんなくなってきてんだよ……。

 男だった俺なのか、この身体なのか、泉なのか、救いたがりの女神様なのか……もう、ぐちゃぐちゃでさぁ……」


 声の端が溜息に混じってほどける。

 それを取り繕うように、イズミールは乱暴に息を吸った。


「で、お前まで俺を変な目で見るようになったじゃん……」


 私を見上げるその顔は、怒っているというより、怯えていた。


「助けられたとか、救われたとか、好きだとか。

 お前が本気なのは……分かるよ。分かるから、余計にキツいんだよ……。

 だって、それ受け取ったら、もう知らないふり出来ねぇじゃん。

 男だったことも、この身体のことも、お前が見てるもんも、全部まとめてさ……」


 そこで言葉が止まる。


 イズミールは何かを呑み込もうとするみたいに喉を鳴らした。


 だが、堪えきれていない。


「お前に見られてるのが、この身体で。

 それを嫌だと思うくせに、嫌じゃないっていう自分(わたし)がいる。

 それがいちばん気持ち悪いんだよ……」


 呼吸が目に見えて乱れ、胸が浅く上下する。

 肩が小さく上下し、それを自分で押さえ込もうとしているのが分かった。


「……ちゃんとした人間で、ちゃんとした男なら、こんなことで。ぐらつかねぇんだろうなぁ……」


 イズミールは笑おうとしたらしい。

 だが、上がりかけた口元はすぐに歪み、呼吸だけが浅く乱れた。

 堪えようとしているのに、その堪え方を身体がもう思い出せないように見えた。


 “ちゃんとした男”――。

 その言葉に込められているのは、誇りではなく、届かなかった規範への劣等感だった。

 イズミールは、女の身体であることだけでなく、そこから零れ落ちる自分自身まで責め続けてきたのだ。


「気持ち悪いなら気持ち悪いで切り捨てて、そうじゃないなら割り切って、もっとマシにやるんだろ。

 なのに俺……ずっと、嫌がって、逃げて、びびって、うまく誤魔化してたつもりで……っ」


 そこで、とうとう完全に言葉が途切れた。


 口元を押さえ、息を吸い直そうとした。

 せめて次の一言だけは平然と吐こうとしたのだろう。

 だが、喉の奥で何かが決壊したみたいに、その努力は音もなく崩れた。


 イズミールは膝から崩れ落ち、そのまま真っ白な地面にへたり込んだ。


「っ、ぁ……や、だ……」


 咄嗟に踏み出したが、私はすぐには触れようとはしなかった。

 ただ手の届くところへ膝をつき、いつでも支えられる距離で止まる。


 イズミールは片手で顔を覆ったまま、肩を大きく揺らしていた。

 さっきまでのように息を殺して誤魔化す段階は、もう過ぎている。

 喉の奥から、押し潰されたような嗚咽が洩れ、それがひとつ出るたびに、次が堰を切って続いた。


「ああ、ちく、しょう……っ、く、そ……違っ、こん、な、うぅっ……」


 泣くまいとしているのが分かる。

 だが、止めようとして止まらないのだ。

 自分でもそれが分かっているから、余計に狼狽えている。


「ぅ、あ……っ、あぁ、ぅあああっ!……っ、ひぐっ、うぅ、あ、ああぁ……お、おれぇ……っ」


 それはもう、みっともないくらいの号泣だった。

 嗚咽を噛み殺そうとしても噛み切れず、呼吸のたびに声にならない泣き声が漏れる。

 目元を押さえても涙は止まらず、指の隙間からぽろぽろと零れ落ちて、白い床へ小さな染みを作った。


「ぃやだ……っ、こんなの、やだ……もうっ、おれ……っ、こんな、ガキみたい、に……!

 ちが……ちがぅ、こんなの、おれじゃ、ない……っ」


 その言葉が、胸に深く刺さる。


 こんなふうに泣いてしまう自分が、イズミールには耐え難いのだ。

 人前で泣き出す弱さを自分に許せない、その気持ちは私にも理解できる。


「う、うぅ……っ、やだ、見んなって……っ」


 嗚咽の合間に、かろうじて繋ぐ言葉は、どうにかして矜持を保とうとするものだった。


「こんなん……見せたく、なかった、のに……っ、う、ぁ……っ」


 顔を伏せたままの細い肩へ、ゆっくりと指先を置く。

 びくりと跳ねたが、振り払われはしなかった。


挿絵(By みてみん)


 拒まれないのを確かめてから、ゆっくりと抱き寄せる。

 ここで抱けば、慰めになるのか、それとも逃げ道になるのか、最後まで迷った。

 それでも、もうこの震えをひとりで放っておく方が、私には耐えられなかった。


「あ……」


 細い身体は、思っていたより軽かった。

 だが腕の中で震える熱だけは、生々しいほどたしかだった。

 泣きすぎて息の仕方を忘れたみたいに、イズミールは何度も喉を詰まらせ、私の胸元へ額を押しつけた。


「もういい」


 耳元ではなく、逃げ道を塞がない距離で言う。


「今は、格好をつけなくていい」


「よぐ、ない……っ」


 即座に返ってきた声は、涙でぐしゃぐしゃだった。


「よくない、だろ……っ、男、なのに、こんな……っ、みっともなぐ、泣くとか……っ、最悪、だろ……っ」


 語尾がそのたびに崩れ、また大きな嗚咽になる。

 自分で自分を恥じているのが、痛いほど分かった。


 私は背に手を回し、呼吸を整えさせるようにゆっくり撫でる。


「見せたくて見せているわけではないことは、分かっている」


「じゃ、じゃあ……見るな、よぉ……っ」


「それはできない」


 きっぱり言うと、腕の中の身体が小さく強張った。

 だが振りほどこうとはしなかった。


「ここにいる君を放って、目を逸らす方が、私にはよほど耐え難い」


 白い世界の底で、水音がひとつ、静かに鳴る。


 イズミールは肩口へ額を押しつけたまま、しゃくり上げる。

 泣き止もうとしているのに、止め方が分からないみたいだった。

 そのたびに衣を掴む指先が強くなって、また慌てて緩む。


 そうして、しばらくの間、声を押し殺してイズミールは泣き続けた。


挿絵(By みてみん)

※※※※※


 嗚咽が収まり、互いの息遣いだけが白い世界に響く中、沈黙を嫌うようにイズミールが掠れ声で吐き捨てた。


「……っ、くそ……お前、ほんと、最悪……面倒くさい……っ」


 その言葉が、どこまでもイズミールらしいと感じて、私は安堵した。


「君に言われたくはない」


 そう返すと、腕の中で少しだけ空気が揺れた。

 笑いになり損ねた、泣き混じりの息だった。


「いま答えを出そうとしなくていい」


 私は背をゆっくり撫でながら言う。

 触れた瞬間、背筋が硬くなったが、それでも逃げようとはしなかった。


「君が何者なのか、何を受け入れられないのか、それを急いで決めなくていい。

 ただ、もう、ひとりで抱えたまま沈まないでくれ」


 イズミールは、返事の代わりに小さく首を振った。

 おそらく、単なる否定ではない。

 ただ、まだ素直に頷けないだけだと分かる、弱い動きだった。


 イズミールを腕の中へ半ば抱き込むような姿勢のまま、私はその曖昧な答えを黙って受け止めた。


 その時だった。


 白い世界が、ずん、と重たく脈打った。


 イズミールの肩に置いた私の手が、ふっと薄れた。

 次いで、左肩と背中に激痛が走る。


「……っ!?」


 イズミールが顔を上げた。

 涙に濡れた黒い瞳が、戸惑いと不安に揺れる。


「お、おい、どうしたんだよ、お前っ」


 白い床の底から、巨大な何かが蠢くような低い轟きが走った。

 真っ白な世界が軋みをあげる。


 その度に、途絶えていた痛みが蘇ってくる。


「な、なぁ、おいっ、だ、大丈夫なのか……?」


 掠れた声が、今度ははっきりと怯えを帯びた。

 泣いたところを見られたあとの気まずさも、まだ消えていないはずなのに、その怯えの中には、私がいなくなることへの恐れが含まれていると感じた。


「お、お前、消えるのか……? だって、そんな! さっきまで全然……っ」


 大丈夫だ、と言ってやりたかった。


 だが、痛みが私に告げてくる。


 この白い世界、イズミールの中に留まる猶予が切れかかっているのだと――

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