84.お前と、俺(中編) ◇★
「……で?」
黒髪のイズミールが、しゃがみ込んで俯き加減のまま、瞳だけ私に向けてきた。
狼狽と悲鳴を無理やり飲み込み、私に憤慨をぶつけることで自分を支えようとしている顔だった。
「大丈夫だ、私がいる、とか言っといて、それで終わりじゃないだろ。
何をどうするつもりなんだよ、木こり野郎」
私はすぐには答えなかった。
彼女は、私に対しても、金と銀のイズミールに対しても、まだ大きなわだかまりを抱えている。
銀色の彼女は、このイズミールに私を信じさせてほしいと言った。
今の態度の陰に覗く、不信と怯えの色を見れば、まだ、その段階にないのは明らかだ。
だから、彼女が次に何をぶつけてくるか、少し待った。
案の定、彼女は眉を吊り上げたまま、吐き捨てるように続ける。
「言っとくけどな。俺は女神様なんかじゃない。奇跡の泉でもない。
救いの御業とやらをポンポン都合よく振り撒く便利アイテムでもねぇからな。
お前が勝手に誤解して、祈って、変な名前まで付けやがったんだ」
次から次へと飛び出す言葉は、清くもなければ整ってもいない。
あの澄んだ水と穏やかな顔の奥に、ずっと抱えていた言葉なのだろう。
その内容は耳に痛いどころの話ではない。
だが、どれほど痛みを伴うものであっても、受け止めねばならない。
彼女は息も継がずに畳みかけてくる。
返事を求めているというより、とにかく吐き出したいのだと思った。
だから、私は聞きに徹することにした。
「しかも、ちょっと追い払ったくらいで、なかなか帰ってこねぇし……。
かと思ったら、遠くから何度も囁いてきやがって、野郎の囁きなんか需要ねえんだよ!」
追い払ったとは一体なんのことを言っているのだろうか。
察するに、この斧と瓶を渡された時か。
水面を割って水底に招き、行く先を示された。
あの行いが、私を追い返すためだったというのか。
では、あの旅の果てに魔樹に辿り着いたのは偶然だったとでも?
真実だとすれば、眩暈のするような衝撃的な内容だ。
だが、私が聞き逃せなかったのは全く別のことだった。
彼女は今、「帰ってこない」と言った。
そんなつもりで口にしたのではないのだろう。
それでも、その一言が胸の奥にひどく残った。
追い払いたかったと言いつつ、私が戻らないことを、彼女はどこかで数えていたのだ。
私がそんなことを考えている間も、彼女の文句は止まらない。
「あとお前、あちこちで布教とかしやがったんだろ。社とか勝手に建てるし!
ぞろぞろ信者っぽいのが集まってきて、わけわかんなかったんだからな!
報連相を守れ! 俺の都合を考えて、察しろよ! 加減しろ、バカ!」
そこまで言ってから、さらに苛立ったように唇を歪める。
「お前がどんどん話でっかくしやがったから、こうなったんだぞ、分かってんのか?
ハッ、残念! お前の信じた女神様なんかどこにもいねぇよ!」
わざとらしく肩を竦め、そっぽを向くその仕草も、余裕から出たものではなかった。
投げ出すようなことを言いながら、目だけは私の反応を窺っている。
ここで突き放したら、本当にそのまま閉じてしまうのだと分かる危うさが滲んでいる。
私は息を整えた。
軽口のように装っているが、あれは紛れもなく彼女の切実な叫びだった。
ならば、その声に今度こそ応えねばならない。
「確かに、私は君を誤解していた」
「あ?」
彼女は胡乱げな目で私を睨み返す。
「君に救われ、救いの女神と信じて祈った。
君から使命を授かったと誤解して、君の元を離れてしまった。
そして、その道中で救いをもたらす存在だと広めてしまった。
君が言ったことは、全てその通りだ」
彼女の黒い瞳が、怯んだように揺れた。
反論が来ると思っていたのだろう。素直に認めるとは思っていなかったようだった。
「……そこ、言い返してこねぇのかよ」
拍子抜けしたような、苛立ったような声だった。
反論される準備はしていたのに、認められる備えはなかったのだろう。
私は視線を外さずに続ける。
喉の奥まで出かかったのは、もっと違う言葉だった。
世界を救うだの、責任を分け合うだの、そういう立派なものではない。
ただ、君が消えるのが怖い――その一言を、私はようやく飲み込まずに済んだ。
「だから、君ひとりに全部を背負わせる気はない」
「……外がどうなってんのか見ただろ。
だいたい、お前に何が出来んだよ。その斧でぶった斬って済む話じゃないだろうが」
「それでもだ」
言葉を重ねる。
「このままでは君の身が危うい。
私にとって、それは世界がどうなるかよりも、重い」
黒い睫毛がぴくりと揺れた。
「だから、何があろうとも君と共にいる。私がそうしたいからだ」
その言葉に、彼女は一瞬だけきょとんとした。
それから、妙に悔しそうに顔をしかめる。
「……っ、だからそういうとこだぞ、お前。
真顔で変な方向から殴ってくるなよ」
少しだけ、呼吸が戻ったように見えた。
完全に落ち着いたわけではない。
だが、混乱だけで喚いていた状態からは、もう半歩進んでいる。
いまなら、次の話ができる。
「ひとつ、確認したいことがある」
「……山ほどありそうだけどな」
何をどうするつもりなのか、という彼女の問いかけに、私はまだ答えられていない。
それのに、彼女は話を聞いてくれようとする。
その面倒見の良さにつけ込むようで気が引けるが、どうしても知りたいことがあった。
私がイズミールを女神として見られなくなった、あの日の涙のことを。
この話題に触れれば、彼女をまた閉じさせるかもしれない。
それでも、あの涙だけは、ずっと私の胸に棘のように残っていた。
ここを越えずに先へ進めるとは思えなかった。
「中でも一番大事なことだ。
君に捧げた木彫りのルテア……木彫りの花を覚えているだろうか」
彼女の肩が、目に見えて強張った。
「……あの日、黄金に変わったあの花だ」
質問そのものより、そこへ切り込まれたことが意外だったのだろう。
黒い瞳が、ちら、と私を見て、すぐに逃げる。
「……今さら何だよ、それ」
忘れた、とは言ってこない。
むしろ、傷口に触れられたような顔だ。
「教えてくれ、あの日、私は君に何をしてしまった?
私が君にしてきたことを思えば、失望や怒りを向けられるのは分かる。
だが、君はあの時、泣いているように――」
「――泣いてねぇ」
被せるように反論の声が即座に上がった。
目を逸らしたまま、硬い声で。
「私にはそう見えた。
君を深く傷つけてしまったのではないか」
「うっわ、しつこ……」
吐き捨てるように言いながらも、彼女は完全には黙らなかった。
黙れないのだ。
そこにまだ、棘になって刺さっているものがあるから。
「泣いてねぇけど、気に入らなかったんだよ。
……お前が、あの盗っ人野郎とつるんでたからだ」
小さく、しかしはっきりと言う。
盗っ人野郎。彼女らしい独特の呼び名だ。
私と誰かの関係を誤解していた? 誰のことだ。
あの場に居合わせた者たちのことを思い出す。
思い当たる人物は一人だけだった。
私と同時期にイズミールと出会い、救われた者――ペッシヌスだ。
「それは私より年嵩で、髭を生やした金髪の男のことか……?
私とは別に、君に救われたことがあると言っていた。
ペッシヌスという商人だ。君から黄金の種を授かったと言っていた」
「種ぇ!? そいつ、そいつだ! 名前なんてどうだっていい。
授かった? 救った? 冗談じゃねぇぞ!
あ、あの野郎、俺の水ん中で……ああぁーーっ! クソッ!」
彼女は強い嫌悪感と怒りに表情を歪め、叫んだ。
……あの男、彼女に一体何をした? 疑念と怒りが腹の底で渦巻く。
詳しく問い質したかったが、今は理由が見えてきた誤解を解くのが先だ。
どうやら、私はペッシヌスと同列に思われていたらしい。
「彼とは同郷の出だが、元々、知り合いだったわけじゃない。
私が君の元を離れている間に、ペッシヌスはあの森と泉を聖地として、君の名と共に広めていた。
欲深く、油断のならない男だ。君の奇跡を広めて、開拓と商売に利用してきた」
あの男はイズミールだけでなく、私の名も利用していた。
だが、皮肉なことに、彼が築いて整えた道は、多くの人々を聖地に導いた。
「それでも……ここに集まる人々が救いを必要としていたのも確かだった。
私と同じ、黒禍に蝕まれた者が同じ救いを求めることを、私は見過ごせなかった」
イズミールはあれほど憤慨していたのに、口を挟まずに聞いてくれた。
黒い瞳にジッと見つめられていると、心を透かし見られているように感じた。
「だから、あの男と一緒に、君を利用したと思われても仕方がないことだ」
言った瞬間、黒い瞳に激しい怒気が宿った。
彼女は拳を握り締め、震わせてから、身を乗り出して私に指を突き付けてきた。
「何が仕方ないだ! ふざけんな!」
詰め寄って怒鳴りつけてくる仕草は、どこまでも人間らしい。
いつの間にか、彼女はほとんど私の目前まで来ていた。
逃げ腰のくせに、怒る時だけ距離が近い。その不用意さまで妙に彼女らしい。
「お前がやたら真面目で不器用で、クソ面倒臭い野郎なんてのは見りゃ分かるんだよ!
どうせ頼まれたらハイハイやって、関係ないことまで勝手に責任感じてんだろうが。
ついでに口下手で、要領が悪くて、ストーカー気質でムッツリスケベなこともお見通しだ!」
「い、イズミール……?」
詰られているのは確かだが、だんだん様子がおかしくなってきた。
ところどころ意味の分からない言葉も混ざっているが、妙に具体的に言い当てられていると思える部分も多い。
言葉も通じないうちから、私の為人を彼女なりに読み取ろうとしてくれていたのか。
何より、言葉は辛辣だが、私が利用する側だったことを認めないような口振りだった。
これでは詰られているというより、擁護されているようなものだ。
それにしても、近い。近すぎる。
仄かに感じられる水の匂いに、疚しさを覚えてしまうほどに。
私の葛藤などお構いなしに、彼女の罵声は続く。
「イケメンのくせに、なんかある度に泣きそうなツラしやがって、いちいち重たいんだよお前は。
っていうか、泣いたって言うんなら、俺じゃなくてお前の方だろうが!
居なくなったと思ったらメソメソ、あの木彫りを壊した時だって……、……っ」
不意に、その声が途切れた。
彼女は、自分が口にした言葉で火傷をしたような顔をしていた。
やはり、あの時の出来事は彼女にとっても、大きな傷跡を残していたのだと確信する。
「君は悪くない」
あの時、私たちの間には通じる言葉がなかった。
信心は押し付けで、互いの間に信頼はなく、誤解ばかり膨らませていた。
即座に否定するが、彼女は気まずそうに目を逸らして吐き捨てる。
「人の造ったもんを壊したんだ……悪いに決まってるだろ。
しかも、わけの分からない力のせいで、直るどころかあんなにしちまったんだぞ……」
私は、静かにその言葉を受け止めた。
「君が壊した、と言ってしまえばそれまでだ」
彼女が、びくりと目を上げた。
「だが私には、君だけの乱暴には見えない。
私が受け止められなかったことも、あの結果の一部だ」
「それに、あれを、ただ捨てたかったわけではないんだな」
「っ……」
彼女は何か言い返しかけて、言葉を失ったように口を閉じる。
「君に触れるべきではない、近づくべきではないと思っていた」
その一言に、彼女の表情が止まった。
「あの時、私にはまだ黒禍の穢れが残っていた。
私から君に手を伸ばすのは不敬だと信じていた。
だが、結果的にそれが君を傷つけてしまったんだな」
しばらく、何の音もしなかった。
白い世界の鼓動さえ、一瞬だけ遠のいた気がした。
「……何、言って」
彼女はうまく言葉を繋げられないように、喉の奥で音だけを震わせる。
「ふざけんな。あれは……俺が……」
「それでも、自分が悪いと言いたいのか」
彼女の唇が止まる。
図星だったのだろう。
私はそこで追い詰めるようには続けなかった。ただ、静かに言う。
「私は、あの時になって初めて、君にも戸惑いや恐れがあるのだと気づいた。
それまでは、偉大な女神なのだと妄信し、考えようともしなかった」
彼女の指先が、震える。
瞳はそれ以上に揺れて曇っていた。
「違うなら、違うと言ってくれていい。
だが、私にはあの時の君が、戸惑い、恐れ、後悔していたように見えた」
「……うるせぇな」
かすれた声だった。
「分かったようなこと言うなよ。あの時の俺が、何考えてたかなんて……」
「分からない」
今度は、私が先に認めた。
「全部は分からない。だが、やっと言葉を交わすことが出来るようになった。
だから、今、分かろうとするためにこうして聞いている」
彼女は俯いた。
黒い髪が頬へ流れ、表情が隠れる。
その沈黙は、拒絶ではなかった。
むしろ逆に、真正面から否定しきれない沈黙だった。
私はさらに静かに言葉を置く。
「あの花を持っていてくれたこと。
そんなにも大事に思ってくれていたこと、ありがとう。
君の気持ちを理解できず、受け止め切れなかったこと、すまなかった」
「……っ、そんなの」
彼女の唇がわなないた。
「そんなの、今更だろ……結果は一緒じゃん」
「違う」
「違わない!」
今度は、はっきりと叫んだ。
顔を上げた彼女の目は、怒りではなく、ひどく傷ついた色をしていた。
「壊したものは壊したんだよ!
返そうが、拒もうが、受け取れなかろうが、結局ああなったんだろ!」
その叫びがあまりにむき出しで、私は一瞬、胸を突かれた。
ああ、と思う。
彼女はあの一件を、まだずっと、自分の失敗として抱えていたのだ。
「……そうだな」
私はゆっくり頷く。
「あの時、君にあの力を使わせずに済んでいれば、と、何度も思った。
君を女神の座に押し込めてしまったことを、ずっと後悔してきた」
彼女が息を呑む。
「だが、あの花は違う。私は、君があれを蔑ろにしたとは思っていない。
あれが壊れたことより、あの時の君の気持ちを理解できなかったことの方が痛い」
言いながら、あの日の彼女を思い出す。
困惑と恐れ、後悔に震えたあの姿を。
あの光景がずっと、私の心に深く刺さって残っていた。
「だから、いつか、改めて贈らせてくれ。今度は君の傷にならない形で」
これだけは、どうしても伝えたかった。
こうして話していて分かったことがある。
私と彼女には似ているところがある。
思い込みが激しく、後ろ向きで、自分一人で抱え込んでしまう。
彼女は私などよりも遥かに孤独で、それを抱え続けていたはずだ。
「……お前が、それを言うのかよ」
返ってきた声は弱々しかったが、納得しきれていないのは明らかだった。
「すまない、私のしてしまったことは、到底……」
「違う! ……そうじゃない。
もっと、あるだろ……他にも、取り返しのつかねぇことが」
責めを受けるべき心当たりは山ほどある。
だが、彼女の声音には非難の色がない。
むしろ、逆だ。これまで以上の後悔の念が滲んでいる。
私が訝しみ、どう返すか考えているうちに彼女は目を逸らしたまま言った。
「花だけじゃねぇ……俺は、お前の見た目までおかしくしちまったんだぞ……。
髪も、目も、肌も、あの時、まるごと変わってたじゃねぇか。
それこそ、取り返しがつかねぇだろうが……どうしろってんだよ……」
私は言葉を失った。
一瞬、意味が分からなかったからだ。
彼女は長い黒髪を一房掬い取って、指先で弄りながら、私の顔を見上げた。
いや、髪と目を交互に見ている。姿を変えたというのは、まさか――
「イズミール」
私が名を呼ぶと、彼女は叱られた子どものように、びくりと肩を震わせた。
間を与えず言う。
「私は元から、金の髪で、青い目で、この肌の色だった。
あの黒髪や黒い瞳、肌の色は黒禍に侵蝕された証、穢れだ」
私は、自分の髪へ手を触れた。
聖地の付近で魔樹が発生し、浸蝕を受けた難民が大挙して訪れた日。
私は水に落ちた者を追って、飛び込み、そして完全に浄化された。
この色を、彼女は自分が塗り替えたのだと思い込んでいたのだと、今やっと分かった。
黒い瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。
「……は?」
「君と初めて会った時の私は、黒禍に侵され、異形になりかけていた。
君の浄化を何度受けても、髪や瞳、肌までは戻り切らなかったんだ……あの時までは」
その一言が落ちた瞬間、彼女の顔から血の気が引いたように見えた。
彼女の視線が、私の髪へ、目へ、肌へと順に這う。
まるで今初めて見るものみたいに、ひどくおそるおそる。
「元々……?」
「そうだ」
「最初から……その色?」
「そうだ」
「金髪で、青い目で?」
「そうだ」
「……え、じゃあ」
短い言葉の応酬を経て、彼女の顔から、張り詰めていたものが一瞬だけ抜ける。
怒りでも嫌悪でもない、純粋な安堵が、先に来たのが分かった。
「……そっか」
その一言だけが、先に落ちた。
怒鳴るより前に零れたそれが、彼女の安堵の深さを物語っていた。
その一言で、彼女がどれほど長く、その勘違いを罰として抱えていたのかが分かった。
安堵したのは私ではなく、彼女の方だった。
そのことが、胸を抉るように痛かった。
彼女の中で、どれほど罪悪感を抱かせていたのかを痛感する。
銀色の彼女が、黒禍について何も知らないと言っていたことの意味を遅れて理解した。
私たちにとっての常識は、彼女にとっては未知だった。
それを正す機会すら私たちにはなかった。
その理解が、今、彼女にも一気に流れ込んだのだろう。
黒い瞳が揺れる。
虚脱から安堵、困惑、驚愕へと表情が変わっていく。
「……じゃあ、俺、ずっとそれ気にしてたってことかよ!?」
怒鳴り声が、白い空間に跳ねた。
「はぁ!? いや、ちょっと待てよ! それさぁ、もっと早く言えよ!!」
驚愕のあとに来たのは、憤慨だった。
だがその怒りは、私へ向かっているようでいて、その実、自分ひとりで抱え込んでいた時間へ噛みついているようでもあった。
「だ、だって、お前、あの時泣いてたじゃねぇか!
そりゃ勘違いするだろ普通! 何なんだよ、紛らわしすぎんだろ!」
その時になって、ようやく腑に落ちた。
彼女が先ほど、自分の黒髪をまるで災いとは無縁のように眺めていた理由が。
黒は、彼女にとって忌むべきものではなく、どこか懐かしいものだったのだ。
あるいは、かつて黒に染まっていた私の姿にも、違和感より先に馴染みを覚えていたのかもしれない。
「泣いていたのは、嫌だったからじゃない。元に戻れたからだ」
「なんだよそれ!? ふっざけんな!」
彼女は叫んだあと、しばらく動かなかった。
なので、続けて言わせてもらう。余計な一言なのは承知の上だ。
「なにより、あれでやっと君に触れられる身になったことが嬉しかった」
ここで曖昧に濁せば、また彼女は“女神への信仰”の方へ逃げるだろう。
それだけは、もう許したくなかった。
「ファッ!?」
裏返った声をあげ、彼女は目を見開いて、ぎこちない動きで顔を向けてきた。
その仕草がひどく人間臭くて、胸が妙に熱くなる。
「お、お前……、おまっ、それ……っ」
真っ白な肌がみるみる赤く染まっていく。
それが単なる羞恥ではないのは明らかだ。
彼女は私の気持ちを理解はしていても、受け入れがたいと思っている。
金色の彼女なら素直に喜んでくれただろう。
だが、黒い彼女は違う。その違いを別人だからと切り捨てる訳にはいかない。
この白い世界は現実ではないはずなのに、現実よりも雄弁に表情や感情を伝えてくれる。
そのことに深い感動と満足感を覚える。
――もっと早くにこうなっていられたら。
金色の彼女が、ミュルナたちに対して抱いた想いが私にも実感できた。
もし、あの小さな泉だった頃に、言葉が通じていれば……そう思わずにいられない。
(未練がましい)
もしも、の想像を打ち切る。
過去はやり直せない。
今、外では洪水が進みつつある。
イズミールの未来も、ひどく危うい。
悠長なやり取りをしている場合ではないという焦燥がある。
だが、私はこの場に自分がやってきた意味を改めて考えた。
私は人間だ。少しばかり戦えるだけで、天変地異を止めるような奇跡など起こせない。
事態を収拾できるとすれば、それはやはりイズミールだけだ。
だが、彼女は孤独に苛まれ、傷つき、自分の中に生まれた別の自分達に戸惑いと恐れを抱いている。
今、この世界でただ一人、私だけがイズミールと言葉を交わし、心を通わせることが出来る。
私がここで出来ることは、彼女の心に働きかけることだけだ。
寄り添って、癒せる、信頼や愛情を勝ち取れるなどと自惚れてはいない。
彼女が他の自分を受け止められるように、抱えるものを全て吐き出させて、整理をつける。
その結果、疎まれることになったとしても構わない。
疎まれたら、また築き直すだけだ。
私は彼女を諦める気など無いのだから。
※※※※※
「……おい、木こり野郎」
イズミールは口元を押さえながら、据わった目を向けて低い声で言った。
「気になっていたんだが、その呼び名は一体――」
「うるせぇ黙れ、そんなのはどうでもいい」
にべもなく答えを拒否される。
先程の私の言葉に言いたいことがあるのだろう。
今までの罪悪感や失敗とは違う、別の緊張が漂う。
「お前……俺に、惚れてんだろ」
彼女にとっては間違いなく踏み込まれたくない話題のはずだ。
それなのに、自分から切り出してきたことに驚きを禁じ得ない。
この問いかけに答えるには覚悟が要る。
金と銀の彼女たちに告げたことを、私自身の口で取り違えるわけにはいかない。
「ああ」
紛れもない事実なので、即答した。
「は、はや……」
変なところで呆れたみたいな声が漏れた。
たじろいだのをごまかすように、彼女はすぐ顔をしかめる。
「……ああ、ああ、出たよ。お得意の火の玉ストレート。どうせ他の選択肢も肯定なんだろ!
なんでもド直球で言えば効くと思ったら大間違いだからな。ハッ、全っ然効いてねぇし!」
また意味の分からない言い回しをされたが、否定的な意味合いなのは察せられる。
耳の代わりに生えたヒレが忙しなく動いているのを見ながら、続ける。
「私は君を愛している。そこに間違いも誤解も無い。
それに、君から聞いてきたことだ」
「だーかーらー! やめろってそれ! 禁止!
いちいち言われなくても分かってんだよ! 今度言ったら殴るからな!」
叫んだあと、彼女は握り拳を作って見せてきた。
図星を言ってしまった子どもみたいな顔をしながら。
そちらこそ、本当にやめて欲しい。
あんな話を振っておいて、その顔も、仕草も。煽っているとしか思えない。
「……と、とにかくだ」
彼女はやけっぱちのように言い直す。
「お前が俺に向けてるのは、どう考えても命の恩人フィルターと、女神様フィルターと、あと見た目フィルターを全開で通したもんだろ。
まぁ、この身体は、俺が全身全霊を込めて創った自信作だ。俺の造形技術の粋を込めてある。
こんなスケベボディ、男ならたまんないだろ。まぁ、分かるよ、そのくらいはな」
また良く分からない表現を用いながら、顔を背け、時々、目だけでこちらを窺ってくる。
ひどく居心地が悪そうな様子だ。
言うか。言うまいか。そんな葛藤が透けて見える態度だった。
彼女が避け続けてきたのは、私の想いそのものではないのかもしれない。
その想いが向かう先としての“自分”をも、受け入れられないのだろう。
何か重要なことを告げようとしていると感じ、黙って待つことにした。
彼女は乱暴に黒髪をかき上げ、唇を歪めて吐き捨てるように言った。
来る、と私は身構えた。
「――俺はな、男だったんだよ」
「!?」
どくん、と白い世界が大きく脈動し、それから凍り付いたように静まり返った。




