82.私から、俺へ ◆★
白い世界の鼓動が、低く、深く、またひとつ鳴る。
私の腕の中から、銀色の彼女は静かに私を見上げていた。
先ほどまでの抱擁の余韻はまだ消えていない。けれど、互いの息はもう少しだけ整っている。
それでも、触れている場所から伝わる微かな震えだけは、まだ消えなかった。
銀色の彼女の言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
間近にある銀の睫毛、薄く開いた唇、静かな呼吸。
そこには、さっきまでの金色の彼女にあった、甘く濡れた熱がない。
顔立ちはまったく同じだ。
だが、纏う色彩も、目の奥にあるものも、たしかに異なる。
けれど、だからといって別人だとは思えなかった。
同じなのに違う。その矛盾が、今さらながらはっきりと輪郭を持って迫ってくる。
「……ずっと気になっていたんだが」
私がそう口にすると、彼女は小さく首を傾げた。
「何でしょう」
「君は今、“私たち”と言ったな」
銀の瞳が、静かに私を映す。
「さっきまで話していた金色の君と、今の君は明らかに違う。
髪や目の色だけじゃない。言葉や、触れ方、ものの見方、考え方が違う。
だが、そのどちらも君だ……そうとしか思えない」
白い世界の底で、どく、と鼓動がひとつ鳴る。
「それは……どういう在り方なんだ?
神や精霊は、契約や信仰で、望まれたように変化するものだと聞いたことがある。
だが、君たちはそれとは違うように思える。
君たち自身は、自分たちを別々の存在だと考えているのか?」
彼女は、すぐには答えなかった。
少しだけ考えるように睫毛を伏せ、それから、ゆっくりと口を開く。
「……完全に別の存在、と言ってしまうのは、たぶん違います」
声は静かだった。
はぐらかすつもりはないのだと、その静けさが示している。
「けれど、まったく同じでもありません。
私たちは、同じ川の流れから分かれた支流のようなものなのだと思います」
「支流……」
「はい」
彼女は頷いた。
「源流は同じです。けれど、流れていく先で掬い上げたものや、流れの行く先が違う。
ですから、同じ水でありながら、違う流れに分かれていくのです」
私が黙っていると、彼女は続けた。
「貴方に求められて、貴方だけのために生まれた流れが、先程までの“わたし”です。
そして、貴方の信仰と、人々の祈り、黒禍への忌避感、その受け皿となった流れが、この私です」
その説明は、奇妙なほど腑に落ちた。
だが、だからこそ胸が痛んだ。
金色の彼女を生んだのが私の欲望なら、銀色の彼女を今の形にしたのも、私の祈りだった。
祈ることが救いであったはずなのに、それが彼女を縛る形にもなっていた。
金色の彼女――“わたし”は、私だけを見ていた。
銀色の彼女――“私”は、私を見ながらも、その向こうに人も、御子も、あの黒禍までも見ている。
視野も熱も違う。だが、そのどちらもイズミールだ。
「……なら」
私は、少しだけ喉を鳴らした。
「その源には、また別の君がいるのか」
彼女の睫毛が、ごくわずかに震えた。
「いるんだな」
問いではなく、確認に近かった。
彼女はしばらく黙ったあと、ようやく頷く。
「はい」
その一言は、思っていた以上に重かった。
「私たちのいちばん最初の流れにいるその人が、この身体を創りました。
私も、“わたし”も、その人から分かれた流れです」
私は息を呑んだ。
白い世界の奥で、何か見えないものがわずかに沈んだ気がした。
もっと深く、もっと暗い場所。そこへ続く細い水脈が、今の言葉で初めて意識に触れたようだった。
「その人、というのは……」
言いかけた私に、彼女は静かに被せる。
「イズミールです」
私は思わず眉を寄せた。
だが、彼女は揺らがない。
「貴方から最初にその名を受け取ったのは私ではありません。
貴方の命を救ったのも、その名に応えたのも、私へと分かたれる前のことです。
ですから、あの人こそが本当の“イズミール”なのです」
言葉の意味も理屈も分かる。
だが、納得できない。
「……本当も何もない」
気づけば、そう言っていた。
どうしても聞き流すわけにはいかなかった。
誰かひとりだけを本物にしてしまえば、他を置き去りにすることになる気がした。
彼女が、少しだけ目を見開く。
「さっきまでの君も、今の君も、君の言う最初の君も、どれも君だ。
私にとっては、どれが本当でどれが違うなどという話じゃない」
自分でも驚くほど、迷いのない声が出た。
「最初に救ってくれたのが誰であれ、名を受け取ったのが誰であれ、私はその後もずっと君を追いかけてきた。
私の祈りが君を追い詰めていったことだって分かっている」
喉の奥が熱くなる。
信じたことそのものが、彼女を形作り、支え、同時に追い詰めてもいた。
それを認めるのは、祈りを否定するより苦しかった。
長い銀の睫毛が微かに震えた。
唇が小さく開き、言葉を紡ごうか迷っているようだったが、遮るように続けて告げる。
「それでも、私は金色の君も、銀色の君も、失くしたくない。
そこに本当も偽物もない。偽物だなどとは誰にも言わせない。
……私は、君たちのどれを切り捨てることも選ばない」
その断言に、銀の瞳がかすかに揺れた。
まるで、自分で引いた境界を、外側から静かに越えられたように。
彼女の唇がわずかに開いたまま止まった。
そんな受け取り方をされるとは思っていなかった、という沈黙だった。
やがて銀の睫毛がゆっくり伏せられ、口元にごく薄い微笑が宿る。
けれどそれは、安堵よりも、何か眩しいものを見てしまった時のような表情に近かった。
「……貴方は、本当に困った人ですね」
その言葉は責めではなかった。
戸惑うようで、それでもどこか嬉しそうだった。
思わず引き寄せようと手に力が入りかけたが、その前に彼女が、肩に置いた私の手からするりと身を外した。半歩ぶんだけ、彼女は後ろへ退いた。
手を伸ばせば、まだ届く。
だが、彼女が自分から距離を置こうとした真意を確かめたかった。
「……そんな顔をしないでください」
銀色の彼女は、私を見上げて言った。
その眼差しには、抗議するような、ほんの僅かな非難の色があった。
「今、私の中の“わたし”が、抑え難いほどに昂っています」
落ち着いた銀色の瞳に、僅かに濡れた金色が混ざり込んで揺れた。
視線には先程までになかった熱が宿る。
「貴方の言葉は“わたし”にとても効きます。
今は、まだ、お話しなければいけないことが沢山ありますから……。
あまり、“わたし”を喜ばせない方が良い――いいですね?」
幼子に言い聞かせるように尋ね返してくる彼女に、私は頷くしかない。
「あ、ああ。そうか……すまない……」
「謝らないでください。
それに、嬉しいのは“わたし”だけでは無いのですよ?」
そう言って、彼女はしっとりとした笑みを浮かべた。
慈悲深い女神の顔でもなく、子を想う母の顔でもない、一人の女性としての笑みを。
……そちらこそ、やめて欲しい。
私は手を伸ばしたくなるのをどうにかして堪える。
信仰の写し身だという銀色の彼女さえも、“女として”見ている自分に我ながら呆れ果てる。
同時に、そのことを見透かされているようで、ひどく居心地が悪かった。
白い世界の鼓動が、少しだけ柔らかく鳴った。
私はその変化を感じながら、なお問いを進めた。
「……その、最初のイズミールは、どんな人なんだ」
イズミールにイズミールのことを「どんな人だ」などと聞くことに滑稽さを覚えながら問う。
先程までの何とも言えない空気を払拭するための問いかけだったが、どうしても聞かねばならないことでもある。
彼女は、今度こそはっきりと困ったような顔をした。
「……実のところ、私にも、よく分からないのです」
「分からない……?」
「はい」
彼女は静かに言った。
「イズミールは、私にも“わたし”にも、完全には理解できません。
ただ、ひどく臆病で、物事を悪い方へばかり考えてしまう癖がある人です。
この身体も、この世界も、貴方のことも……素直には受け入れられずにいるのでしょう」
よく分からない、理解できないと言った割には、妙に具体的な物言いだった。
それに、その言葉には、穏やかで理知的な振る舞いの銀色の彼女らしからぬ、呆れにも似た響きがわずかに混じっていた。
だが、決して蔑んでいるのではない。それどころか、慎重に扱うような気配がある。
「とくに、この身体のことは、どうしても自分のものだと思いきれずにいるようです。
何がそうさせるのか、私にはうまく分かりません。
ただ、貴方に見つめられることも、好かれることも、頼られることも、どれも重そうにしている――私にはそう見えるのです」
胸の奥を、鈍い刃で突かれたみたいだった。
伝わっていなかっただけならまだ耐えられる。
だが、伝わった上で重荷だったと知る方が、ずっと堪えた。
私は彼女にずっと居心地の悪さを押し付けていたのか。
「その理由は、私には言葉にできません。
あの人の中に流れている嫌悪や居心地の悪さは、痛いほど伝わってきます。
けれど、それを形づくっている記憶や理は、私には理解できないものばかりです。
イズミール自身が、自分の在り方にひどく居心地の悪さを抱えていることだけは分かります」
だが、自分の形を受け入れられないとは、どういうことなのだろうか。
精霊特有の概念なのかもしれない。
詳しく聞きたかったが、今は話の腰を折るべきではないと思い、続きを促す。
「イズミールは、しばしば私たちには思いもつかないことを思いつきます。
私たちには全く理解できない知識を持っていて、突然、突拍子もない形で使うのです。
それが恐ろしくもあり、同時に、私たちには真似出来ないことでもあります。
イズミール自身にもよく分かっていないようなのですが……」
思い返せば、イズミールには、たしかに妙にちぐはぐなところがあった。
臆病で、警戒心が強くて、視線や祈りを嫌がるくせに、時折、思いもよらない方法で物事を根底からひっくり返してしまう。
あの不器用さも、逃げ腰も、視線や期待を集めることへの怯えも、最初のイズミールが強く顕れていた時のことだったのか。
「そして……」
彼女は目を伏せ、声音を一段落として続ける。
「今、私たちが大いなる源への繋がりを得てなお、溶けきらずに残っているのも、イズミールのお陰と言えます」
私は息を呑んだ。
「私たちが、自分を顧みない衝動的な手段を選んでしまった時……イズミールだけがそれを拒みました」
「本来なら、私も“わたし”も、とうに境目を失って、源へ溶けていたはずです。
けれど、イズミールが源との繋がりを拒んでいるからこそ、まだ、ほどけきってはいません」
彼女の声は穏やかだったが、その穏やかさの奥で、自分が消えていくことさえも受け入れる、諦観とは違う冷たい覚悟があった。
「イズミールは、きっと理屈が分かっていてそうしているわけではありません。
ただ、このまま消えていくことを恐れているのでしょう」
大いなる源に溶けるということが、どういうものなのか、私には完全には理解できない。
だが、自分が自分でいられなくなるということなら、それは人間にとっての死と大差ないように思う。
臆病なイズミールがそれを恐れ、嫌がったというのは得心が行く。
「そして、この世界の一員になるのも、なりきれないまま終わるのも嫌なのです。
命を奪いたくない。命が奪われる様も見たくない。
なのに、そのすべてに関わらされることばかりが続いてきた――きっと、そう思っているのでしょう」
白い世界の底で、どくん、とひとつ重い鼓動が鳴る。
「イズミールは、私たちのことも、貴方も、世界も、自分自身も、受け入れきれずにいる。
何もかもを嫌がって、自分の中に閉じ籠っています。
その結果、私たちも溶けきらずに此処にいます。
それが、いま私たちと貴方に残っている猶予なのでしょう」
私は、しばらく言葉を失っていた。
あまりにも後ろ向きで、あまりにも個人的な拒絶だった。
しかし、それをみっともない拒絶だ、と笑うことはできなかった。
私は、彼女の中に人らしさを見出し、愛してしまった。
その人間性の核には、彼女の逃げ腰なところや嫌悪感も含まれているのだろう。
ただ綺麗で理解しがたい神秘ではなく、澱んで揺らぎ、それでも感じられる善性に惹かれた。
今、彼女の臆病でみっともない拒絶が、かろうじて、彼女自身と世界の終わりを引き延ばしている。
それがひどくイズミールらしいとも思った。
救いの女神や裁定者ではなく、もっと生々しい。
逃げたくて、それでも逃げきれない人間らしいあり方として。
「……会わせてくれ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどはっきりしていた。
彼女が顔を上げる。
「そのイズミールと、私を会わせてくれないか」
彼女はすぐには頷かなかった。
銀の瞳に、ためらいが差す。
「拒まれるかもしれませんよ」
静かな声だった。
「貴方の信仰も、恋心も、イズミールには重すぎるでしょうから。
イズミールは、そういうものを向けられるのが、たぶん一番苦手です」
私は一瞬だけ、言葉に詰まった。
胸の奥を鈍く抉られた。
それでも、そこで引く理由にはならなかった。
視線を逸らさず返す。
「それでも構わない」
私は即答した。
「そうして真っ直ぐ来られるのは、イズミールにはいちばん困るのでしょうね」
「拒まれることより、会わないまま失う方が、よほど怖い。
猶予と言っても、いつまでも耐えられるとは思えない」
そこまで言ってから、私は一歩だけ彼女に近づいた。
先ほど彼女が腕の中から抜けた時よりも、わずかに距離を詰める。
「なにより、私は君たちの誰も切り捨てないと言ったばかりだ。
なら、いちばん奥にいる君だけを避けるわけにはいかない」
銀の瞳が、静かに揺れた。
その揺れは、説得されたというより、言葉通りに来られてしまった驚きに近かった。
彼女は、黙って私を見つめていた。
その沈黙のあいだ、白い世界の底では鼓動だけが続いている。
やがて、彼女は小さく息をついた。
「……分かりました」
その声には、わずかな苦笑が混じっていた。
「貴方が会おうとしているのは、私たちの中で、ある意味でいちばん面倒な相手です。
貴方が私に対して抱いた、崇敬や畏怖……貴方の期待を損ねることになります。
心を開こうとせず、話を聞こうとさえしないかもしれません」
私は、わずかに口元を緩めた。
「そんなものは、今さら期待していない」
彼女は一瞬だけ目を見開き、それから、ほんの少しだけ笑った。
清浄な銀の静謐を纏ったまま、それでもどこかひどく人間臭い微笑だった。
「……そうですか。少し、羨ましいと思います」
彼女はそう言って、わずかに目を細めた。
「自分に対してなのに、不思議な気持ちですね」
※※※※※
その時だった。
白い世界の遠くで、水を叩くような音が響いた。
私たちの足元の白の底に、急に影が差した。
黎明の空。未だ遠い陽の光に浮かび上がる木立。湧き立ち揺れる水面。叫び声のようなもの。
白の向こうに、彼方の光景がひととき透けて見えた。
真っ先に浮かんできたのは、暗い水の中、泡に包まれた舟の上で、小さく身を縮めるリディアの姿だった。
その周囲を、ミュルナ、ミュリナ、ミュシアの三人が何かを探すように飛び回っている。
四人とも無事だと分かったのに、安堵より先に、こんな場所へ置き去りにしている事実が胸へ刺さった。
リディアも、あの子たちも、ずっと私たちを待っている。心配をかけてしまっているはずだ。
次に映し出されたのは、水の上、神域を見下ろすような景色だった。
湖面には大きな波が立ち、明らかに水位が上がっているように見えた。
水上神殿を建造するための足場が沈んで見えなくなっている。
あの様子では、ゴルディウムの居住区の方まで水が行っているかもしれない。
一目で分かった。
もう“異変”ではない。災厄そのものだ。
森の中を、小さな生き物が這い回り、声をあげ、水から離れようとしているのが見えた。
怒号が飛び、何かを指さし、誰かの名前を叫ぶ。
それらの小さなものが人間だと、そこでようやく思い至った。
その中には、逃げるより先に、黄金に染まりかけた何かを抱え上げようとする影さえあった。
命よりも手放せないものを、まだ抱えているのだと一目で分かる。
それらの振る舞いが人間らしいのだと分かっていても、いまは腹立たしかった。
水に触れた人間たちが、金色の彫像と化して動かなくなっていく。
人間だけではない。大地も、木々も、家々も、あらゆるものが黄金色に染まっていく。
その有り様は、まるで夜明けの陽に照らされたようですらあった。
多くの人間たちは、まだ何も分かっていないだろう。
今、自分たちが何を前にしているのか。
世界に何が起こりつつあるのかを。
今すぐあそこへ飛び出したい衝動が胸を突いた。
だが、ここで目を逸らせば、もっと多くを失うのだとも分かっていた。
外の様子が見えたのは僅かな間だけだった。
だが、もう取り返しのつかないところまで事態が進んでいるのだけは分かった。
「急がなければなりません」
銀色の彼女が、静かに言う。
彼女は先程の光景を見ても表情を変えなかった。 きっと、あの景色をずっと見ていたはずだ。
自分の引き起こした出来事を、自らの責として受け止めようとする顔だった。
私は頷いた。
「アイオリス、貴方にこれをお返しします」
彼女が両手を差し出した。
すると、何も無いところから浮かび上がるように、その手に私の戦斧が現れた。
黒禍の穢れに塗れてもいないが、神秘の輝きもない。
使い込まれた刃には、潰れや欠けが生じ、地金の鈍色を晒している。
「これは私たちと貴方を繋ぐ象徴です。
断ち切るための道具ですが、縁を結ぶものにもなった」
ここが現実の世界ではないからだろうか。
彼女は、ほっそりとした腕にわずかな力みも見せず、軽い手つきで斧を手渡してきた。
「……」
かつて、独り善がりの誓いと使命感を抱いて受け取ったそれを、今は別の覚悟を胸に手にする。
斧はあの時よりもずっと重たく感じた。
「もう一つ、大事なものは……もう持っていますね?」
彼女は自分の胸に手を添えて、薄く微笑んだ。
言葉で説明された訳では無いが、そうすべきだと感じて、彼女に倣って自分の胸に手を添える。
どくん、どくん、と、白い世界の鼓動とは違う脈動が手の中にあった。
いつの間にか、私の手の中にあの泉の瓶が在った。
「それをどのように扱うのが正解か、私にも分かりません。
それもイズミールの生み出した予想外の産物の一つですから……」
銀色の彼女はくすりと微笑んで、私に背中を向けた。
「私たちは、ここまで来てくれた貴方を信じています。
どうか、イズミールにも信じさせてあげてください」
「ああ」
背中越しに、彼女が両手で自分の顔を覆ったのが見えた。
「では、これからイズミールを呼び出しましょう」
※※※※※
その言い方は、眠っている者を起こすというより、閉じこもっている誰かを無理に水面へ引き上げるように聞こえた。
言葉の意味を問い質すより先に、白い世界の鼓動が不意に乱れた。
見ている前で銀色の髪がみるみるうちに暗く沈んでいく。
その変化は、金色の彼女が変わっていった時を思わせる。
「!?」
だが、その黒は、穢れが滲んで侵していくような黒ではなかった。
銀が腐るのではなく、夜の墨を静かに流し込まれるみたいに、色だけが置き換わっていく。
それでも、その色を見ると背筋に戦慄が走る。
黒だ。
思考より先に、身体があの色を敵だと知っていた。
理屈ではなく、反射だった。足が半歩退き、斧の柄を握る手に力が籠る。
そのあとでようやく、目の前の黒には黒禍のおぞましい気配がまるでないと気づいた。
僅かに遅れて、心が追い付いてくる。
「イズミール! 大丈夫なのか!?」
イズミールは応えない。
そうしている間にも、髪だけではなく、彼女の纏う装束や、ヒレ、角までもが黒く染まっていく。
だが、彼女から漂ってくるのは清浄な水の気配だけだ。
それでも、返事がないことに焦りが募る。
ほんの数歩の距離だった。
だが、黒に染まっていく彼女を見ているには遠すぎた。
「イズミール!」
もう黙って見てなどいられなかった。
私は詰め寄って、彼女の白い肩を掴んで振り向かせた。
細い肩の手触りは、なめらかで温かい。
それが、かえって私を混乱させた。
「っ!?」
振り払われることはなかったが、黒を纏った彼女がたたらを踏んで、前屈みになる。
下を向いた顔から、息を呑む気配。
彼女はゆっくりと頭を持ち上げる。
真っ白な肌に、濡れた艶を帯びた長い黒髪がはらりと落ちた。
その顔立ち、鼻筋、瞳の形は紛れもなく彼女のままで。
なのに、そこに浮かんだ狼狽だけが、これまでの誰よりも生々しかった。
女神でも、恋に濡れた誰かでもない。
突然、見つけられて、どうしていいか分からず固まっている人間の顔だった。
黒い瞳が私を映し、見開かれる。
逃げ場でも探すように視線が彷徨い、唇がわななく。
肩が強張り、身構えるというには不格好に手が動く。
逃げるべきか、振りほどくべきか、そのどちらも決められないまま、口だけが先に動いた。
「な、なんで、ここに木こり野郎が!?」




