77.聖地に訪れる、黄金の夜明け(後編) ◆★
風に押し出された小舟は、黒い湖面を音もなく滑っていた。
岸を離れてから、どれほど進んだのか分からない。夜の水面は距離感を奪う。
双子の月が映り込み、揺らぎ、その揺れる光を舟が切り裂いていく。
サルディスの風はまだ舟を包んでいた。
目には見えぬ薄膜のように、冷たい流れが舟の周囲を走っている。
おかげで、湖面から浮き上がる雫も、水底から立ち昇るぬめるような金の光も、こちらへ届く前に押し流されていた。
櫂は使っていない。使えるはずもない。
水に触れれば、どこから黄金が這い上がってくるか分からないのだから。
サルディスの起こした風だけが、細い舟を押し、夜の神域へと導いていた。
けれど、その守りが永遠ではないことも分かっていた。
あの老魔術師は、岸に残ったのだ。振り返れば、もう何も見えない。
夜明け前の靄と闇が、置き去りにした岸辺ごと呑み込んでいる。
もう追いつけない距離まで離れてから、リディアが小さく息を呑んだ。
「……っ」
見れば、少女は桶を抱えたまま俯いている。
唇をきつく噛みしめ、肩を震わせ、それでも声を漏らすまいとしていた。
だが、堪えきれなかった。
ひと粒、涙が落ちた。
それは割れた桶の底に残るわずかな水へ、静かに混ざった。
リディアは慌てて顔を背けた。
「ご、ごめんなさい……っ、わたし、泣いてる場合じゃ……」
「謝るな」
私はすぐに返した。
そう言ったものの、自分の声も思った以上に掠れていた。
「泣いてもいい。だが、手は離すな」
リディアは答えず、こくりと頷いた。桶の縁を抱き込む指に、さらに力がこもる。
私は視線を神域の方角へ戻した。
湖の中心。イズミールと最初に出会った、小さな泉。
そこはもう湖に呑まれて久しい。
だが、水の脈だけは今もその場所を中心に打っていた。
湖の中心へ近づくほど、水の重みを感じる。
ただ暗く深いのではなく、巨大な意思を宿したものの上を進んでいるような、息苦しい圧がある。
水面は静かなのに、その下で確かに脈打っている。
舟を包む風越しにも、底から伝わる微かな震えが、それを教えていた。
どくり。
まただ。
湖全体の底で、巨大な心臓が脈を打つような振動が走る。私は思わず右手で瓶を握り直した。
中の水が震えている。
神域に近づくにつれ、その揺れははっきりしてきていた。
まるで、向こう側から呼ばれているかのように。
「……イズミール」
口の中でその名を転がす。
私が女神の名として広めてしまう前の彼女の名残が、この瓶の中に残っているという。
サルディスの言葉が本当なら、私はこれを彼女へ還すべきなのだろう。
この瓶の水は、かつての彼女へと繋がる細い糸の端だ。
還せば、その繋がりも失うのだろう。
それでも、暗い水の底で黄金に囲まれ、独りでいてほしくはなかった。
せめて、子どもたちに囲まれて、穏やかでいてほしい。
そして、叶うなら、その傍に私もいたかった。
(……未練だな)
矢傷よりも鈍く柔い痛みが胸の奥で疼いた。
だが、憎しみや悲しみからもたらされるものとは違う種の痛みだ。
それは耐え難い。だが、だからこそ受け入れねばならない。
※※※※※
やがて、舟がふっと速度を落とした。
風はまだ吹いている。だが、押し出す力ではなく、留める力へ変わっている。
私は顔を上げた。
神域。今は湖の中心としか呼べないその真上で、舟は見えぬ手に押さえられたように止まった。
湖面は黒く静まり返っていた。
だがそれは死んだ水の静けさではなく、深い呼吸を押し殺したもののような、不気味な緊張だった。
イズミールの座す場所。
今ここには、小さな泉も、祠も、森の湿った匂いもない。
彼女に最も近い場所のはずなのに、底の見えない黒い水面に隔てられている。
私は舟べりへ身を乗り出しかける。
飛び込めば辿り着けるのではないかと、考えてしまう。
この真下に、イズミールがいるのなら。
どれほど深くとも、黄金になろうが、溺れようが構わない。
瓶の中に残った、かつての彼女の欠片を還し、その先は今の彼女自身に選んでほしかった。
その考えが頭をよぎった途端、リディアが顔を上げた。
「だ、駄目です」
桶を抱えたまま、必死に首を振る。
まだ涙の跡の残る顔で、それでも、はっきりと。
「今、水に触れたら……アイオリスさんまで……」
言葉の先を、彼女は言わなかった。言わなくても分かる。
「だが、ここで待っているだけでは――」
「待つんじゃありません」
リディアが遮った。
泣き腫らした目のまま、けれど今はまっすぐ私を見ている。
桶を抱きしめる腕に力がこもる。
「御師匠様が、やれって言いました。あの子を呼び戻して、契約を結べって。
そうしたら、きっと女神様のところへ行けるはずです」
小さな肩が震えている。
その言葉は、自分へ言い聞かせるためのものでもあったのだろう。
声は震えていたが、逃げてはいなかった。
少女はもう泣いているだけではなかった。
私は深く息を吐いた。
「……分かった。頼む」
そう答え、舟の真ん中へ戻る。
リディアは頷き返すと、短く息を吸い、舟の中央へ膝をついた。
桶を慎重に脇へ置き、震える指先を胸の前で組んだ。それから、目を閉じる。
少女の呼吸がゆっくりと整っていくのが分かった。
足元の板が微かに軋む。湖面の脈動に合わせて、舟そのものが呼吸を始めたような錯覚がある。
リディアがそっと両手を湖面へ向けて差し出すと、彼女の指先に淡い光が宿った。
魔力の灯だ。見習いとはいえ、彼女の魔法はもう、ただの子どもの遊びではない。
光が糸のようにほどけて、湖面の上へ小さな水の珠を形作る。
最初は夜気へ持ち上がった一滴の露に過ぎなかった。
それが彼女の魔力に引かれるように、少しずつ膨らんでいく。
珠は掌に載るほどの大きさになり、月光を受けて淡く透けた。
リディアは桶を引き寄せ、その底を見つめた。
底に残る雫は、あまりにも小さい。今にも消えてしまいそうなほど、頼りない。
だが、そこに在る。
彼女は両手で桶を捧げ持ち、底の隅に残ったわずかな水を、慎重に傾けた。
ぴちゃん、と。
最後の一雫が、水の珠の中で落ちた。
その瞬間、水の珠がぶるりと震えた。
リディアが息を呑む。私も、無意識に瓶を握る手へ力がこもった。
少女は震える声のまま、湖へ向けて語りかける。
「……お願い。聞いて、ください」
言葉を選ぶように、ひとつひとつを置いていく。
「ここで出会って……わたしたちを女神様のところへ導いてくれた、あなた」
風はない。水音もない。
それでも、その声は確かに湖の底へ沈んでいくように聞こえた。
「一緒に来て、助けてくれて、ありがとう」
リディアの喉が震える。
「守れなくて、怖い思いをさせて、ごめんなさい」
その次の一言は、泣きそうな声なのに、不思議と強かった。
「だから……もう一度、会いたいの。会って、ちゃんと名前で呼びたい」
水の珠が、もう一度震えた。
リディアは大きく息を吸い込んだ。そして、自分の胸へ手を当てる。
「わたしの名前は、リディア」
名乗る。
それはただの自己紹介ではない。
誰であるかを示し、向こう側へ手を差し伸べる行為なのだと分かった。
「わたしから、あなたに、この名前を贈ります」
少女は桶を抱き直すようにして、珠を見つめた。
「――ミュルナ」
その名が落ちた瞬間、湖面がどくりと脈打った。
水の珠が震え、内側から押し広げられるように輪郭を歪めた。
リディアが息を止める。私もまた、痛みを忘れて見入っていた。
「ミュルナ……」
もう一度、今度は呼びかけるように。
「わたしは、ここにいる。あなたも、そこにいる。
あなたに会いたいの。だから――帰ってきて。戻ってきて」
そして、もう一度息を吸って、言う。
「ミュルナ。女神様のもとへ、わたしたちを連れていって」
声と共に、淡い光が少女の指先から伸びた。
魔力の糸が水の珠へ触れ、そこへ形を与えていく。
珠の内側で水が渦を巻き、その表面がふるりと震えた。
次の瞬間、内側から押し上げられるように輪郭が歪み始める。
「……!」
私は息を呑んだ。
やがて、水の表面に小さな突起が現れた。
角だ。
続いて、ひれ。丸い頭。短い手。
水でできた幼い身体が、珠の内側から押し上げるように現れた。
水の珠が堪えきれなくなったように弾けた。
ばしゃり、と柔らかな音。
『ミュー!』
生まれたばかりの水の幼子が、産声をあげるように叫んだ。
小さな身体は水の弧を描き、まっすぐ桶の中へ飛び込んだ。
「……わっ、わぁ!」
リディアが悲鳴にも似た息を漏らし、桶を抱え直した。
跳ねた水が少女の手や裾を濡らした。
だが、そこへ黄金の色は這い上がってこなかった。
桶の中で、幼子はばしゃばしゃと暴れ、丸い目をぱちぱちと瞬かせた。
透明な水の身体であることに変わりはない。だが、以前より輪郭がはっきりしている。
そして、幼子は桶の縁へ手をかけて、リディアを見上げた。
『……リ、ィヤ』
舌足らずな、けれど確かに音になった呼び声だった。
リディアの目が、大きく見開かれる。
「い、今……っ……ミュルナ!」
『ミュ、ナ!』
嬉しそうに、水面を跳ねる。
幼子――ミュルナは、得意げとも不思議そうともつかぬ顔で、もう一度口を開いた。
『リィヤ、ミューナ!』
それから、今度は私を見た。
じっと見て、首を傾げる。
そして、何かを思い出したようにぱっと顔を輝かせ、ふにゃりと笑った。
『キコォ、ヤォー!』
私は思わず固まった。
言葉の意味はまるで分からない。
リディアも分からぬらしく、きょとんとしている。
だが、ミュルナ本人は満足げで、私へ向けて水の手をぶんぶん振っていた。
どうやら私を呼んでいるらしい。
まだ自分の名を教えていなかったことを思い出す。
私はひとつ息を吐き、ミュルナと目線を合わせた。
「……私の名は、アイオリスだ。ア・イ・オ・リ・ス」
一音ずつ区切って、ゆっくり伝える。
ミュルナは真ん丸な目で私を見上げ、嬉しそうに叫んだ。
『キコォ! キコォ! ヤォー!』
「何故そうなるんだ……」
思わず漏らすと、リディアがくしゃりと顔を歪め、泣き笑いのような声を出した。
それだけで、ほんの少し、この場の空気が和らいだ気がした。
次の瞬間、ミュルナが桶の中から身を乗り出した。
その瞳は、私の肩と背に突き立った矢に向けられていた。
『ナァー……? ンマッ!』
ミュルナは桶の中で小首を傾げていたかと思うと、突然、桶から飛び出してきた。
見知らぬものへの興味でいっぱいの、遊びたい盛りの子どもの顔で。
止める間もなく、ミュルナが肩へと突進してきて、ばちゃりと弾けた。
「ミュルナ! だ、駄目――」
リディアが慌てて叫ぶがもう遅い。
水の塊に矢羽根が押され、肩の奥に食い込んだ鏃が傷口を抉る。
「っ、ぐ……!」
激痛が走った。
視界が白く弾ける。私は反射的に歯を食いしばったが、呻きが漏れた。
肩へぶつかって弾けた水は、次の瞬間にはまた幼子の形を取り戻していた。
しかし、元に戻ったミュルナは、宙に浮いたままびくりと固まっていた。
何がいけなかったのか分からない、という顔だった。
だが、私の苦悶の声に、何が起きたのか分かったのだろう。
丸い目が見開かれ、次の瞬間には顔をくしゃりと歪めた。
『ミューナ……メー? メー……?』
そして、大きな声で泣き出した。
瞳そのものが溶けて流れ落ちているのかと思うほど、涙の雫がぼたぼた零れ落ちる。
『ヤァァァッ! ヤァーッ!』
「ち、違うの、怒ってるんじゃなくて、ああ、でもやっちゃいけないことで……!」
リディアが慌てて両手を伸ばすが、どう宥めていいか分からず空を掻く。
私は痛みに歯を食いしばりながら、泣き叫ぶ幼子にそっと片手を差し伸べた。
「ミュルナ」
名を呼ぶ。
幼子は泣きながらこちらを見た。水の目の中に、怯えと戸惑いがぐるぐると渦巻いている。
「大丈夫だ」
水でできた頭を、水面を大きく乱さないようにそっと撫でる。
「驚いただけだ。お前が悪いわけじゃない」
柔らかい。冷たいはずなのに、不思議と温度のようなものがある。
幼子がぴたりと泣き止みはしなかったが、撫でられると、しゃくり上げながらこちらを見た。
『キコォー……ミュ、ナ、メェー……』
「そうだ。ミュルナ。泣くな」
もう一度撫でると、ようやく泣き声が細くなる。
それから、おずおずと私の手へ自分の額を寄せた。
リディアがほっと息を吐いた。
「アイオリスさん、ほんとに大丈夫ですか……?」
心配そうに見上げてくる少女に頷き返す。
「心配ない。まだ動ける。……少し、油断しただけだ」
慰めではなく、事実だった。
ミュルナの無邪気さに、張り詰めていたものが少し緩んでいた。
だが、そのおかげで大切なことを思い出した。
この子をイズミールのもとへ送り届けたい。
そして今度こそ、ただ選ばせるだけではなく、私自身の望みも伝えたい。
互いの気持ちを知ろうとしなかったこと。
そこから、やり直したかった。
リディアが桶を掲げて、ミュルナの名を呼ぶと、水の幼子は素直に桶に収まった。
「言葉、じゃなくて……感じる、だけなんですけど……」
桶の中の幼子を見つめ、リディアはゆっくりと言う。
「女神様……お母さんは、忙しい、って。呼んでくれないの、さみしい、って、
あと……遊んでほしかったみたいです……今は、ごめんなさいって」
先ほどの突進は、浄化の時のぶつかり方にそっくりだった。
あれは、この子にとって、役目というより遊びだったのか。
ただ、人の傷も、痛みも、まだ何も知らないだけで。
ちゃんと、傷つけたと分かって怯えている。
その揺らぎが、痛いほどイズミールに似ていた。
『ミュ……ルナ』
桶の中で、自分の名を確かめるように、幼子は小さく呟いた。
私がその頭に再び手を置くと、今度は自分から私の手へ頬を寄せてきた。
その重みがたまらなく懐かしく、温かく感じた。
私はミュルナを見つめ、言った。
「ミュルナ。イズミールのところへ行きたい」
リディアも続ける。
「女神様のところへ、あなたのお母さんのところに連れていって」
ミュルナはぱちぱちと瞬きをした。
言葉の半分は分かっていないのかもしれない。だが、気持ちは伝わったらしい。
幼子はくるりと向きを変え、桶の中から湖の底を指差した。
『マァマ! ママ!』
私とリディアは顔を見合わせる。
「下……か」
やはり、水の底だ。
ただ深いだけではない。神域の水そのものが今や別の相を帯びている。
闇雲に飛び込んでも、息が続かないばかりか、辿り着く前に黄金化するだろう。
ミュルナは、ばしゃばしゃと両手を振り、今度は自分の胸をぺちんと叩いた。
その仕草は、湖面や黄金の蓋の上で、懸命に意思を伝えてくれようとしたイズミールとそっくりだった。
リディアが不安げに問う。
「わたしたちでも、行ける……?」
『ミュルナ、だぁーじょー!』
幼子は得意げに胸を張った。
まだふにゃふにゃの音だが、「大丈夫」と、確かにそう聞こえた。
「えぇっ!? ミュルナ、今、大丈夫って言ったの!?」
『だぁーじょー! だぁーじょー! いこぉー!』
驚いて問い返すリディアに、ミュルナは両手を振り上げ答えた。
語尾は崩れている。だが、その言葉だけは妙にはっきりしていた。
私は息を呑んだ。
――「大丈夫だ」「行こう」
あの時、桶の中の幼子を連れて走った時に、何度もかけた言葉だ。
それを今度は、この小さな導き手が返してくる。
サルディスが言った通り、ただ無邪気で幼いだけではない。
そして、あの時よりも学び、成長している。
リディアも同じことに気づいたのだろう。
驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「……うん。行こう」
ミュルナは嬉しそうに水面を跳ねた。
「リィヤ!」
リディアを指差す。
少女は緑色の瞳を細めて頷いた。
「キコォ!」
私を指差す。
頷き返してやると、ミュルナは満足げに笑った。
そして、もう一度、湖の底を指差した。
「マァマ! ミュルナ、だぁーじょー! いこぉ!」
その瞬間、私の手の中の瓶が、これまでより強く震えた。
黒い湖面が息を潜めるように凪いでいる。
だが、彼女は今もきっと、底にいる。
黒い水の底に、彼女はまだいる。
そう信じて、私は前を見る。
「行こう、ミュルナ。私たちを連れて行ってくれ」
『いこぉー!』
ミュルナが叫んだ瞬間、その声に応えるように黒い湖面にひとつ、ふたつと小さな波紋がひらいた。
それはミュルナの跳ねた位置とは別の場所で、眠っていたものが身じろぎしたような、かすかな応えだった。




