76.聖地に訪れる、黄金の夜明け(中編) ◆★
森の暗がりの向こう、神域の方角で闇そのものが脈打った。
それは音や光ではなく、ただ、気配のようなものだった。
だが、遠く離れているはずなのに、胸の奥へじかに響いてくる。
深い水の底で、とてつもなく巨大な何かがゆっくりと身を起こした。
その身じろぎが森じゅうへ伝わってきたかのような震えが、足裏から這い上がってくる。
私は痛む肩を押さえる暇もなく、神域の方角を見据えた。
落ち込んでいる暇も、迷っている暇もなかった。
「走れ。足元を見るな、水に触れるな。風の通り抜けた跡から出るでないぞ!」
サルディスが叩きつけるように命じる。
リディアは桶を抱え込んだまま、泣き腫らした目で一度だけ私を見た。
その目は私の肩と背中に突き立ったままの矢に向けられていた。
返す言葉を考える前に、私は彼女の背を押した。
「大丈夫だ、行くぞ」
それだけ言って、地を蹴る。
矢は深く食い込み、肩と背を動かすたびに鏃が傷口を抉った。
抜けば楽になるどころか、肉を裂き、血を噴かせるのは分かっている。
今は、耐えて進むしかない。
立ち止まってしまうことの方が怖い。
あの黄金化は、きっとイズミールの力だ。
だが、あれが彼女の望んだものではないことだけは分かる。
彼女は、あの力をこそ恐れていた。
黒禍を封じる蓋として用いることも本意ではなかったはずだ。
サルディスの風が、夜の森の道なき道を無理やり切り開いていく。
浮き上がりかけた雫を吹き散らし、枝葉を薙ぎ、足元へにじみ出ようとする水を押し返す。
風の壁の向こうでは、金色を帯びた飛沫が双子の月の明かりを受けてぎらぎらと光っている。
それは地面や茂み、森の樹々に触れた先から、葉や小石をじわじわと黄金へ変えていった。
今は風の切り拓いたこの狭い道だけが生き残るための綱だった。
背後の叫びはまだ消えていない。
だが、怒号も悲鳴もひとつの塊ではなく、森のあちこちへ散っていく。
あの場にいた者たちがどうなったのか、もう振り返って確かめる余裕はなかった。
「……ほんとう、に」
前を向いたまま、リディアがやっと声を出した。
桶を抱く腕に力が入りすぎて、指先が白くなっている。
「ほんとうに、あの子……戻るんでしょうか」
自分を責める声ではなかった。信じたいのに信じきれない者の声だった。
サルディスは振り返らずに答えた。
「死んだと決めつけるなと言ったであろうが。
水の精霊は感情に沈みやすい。風より重いぶん、拗れると厄介でな」
「でも……」
「でももへったくれもあるか。人と精霊は違う。そこを履き違えるな」
老人の声音は荒っぽかった。だが、そのぶっきらぼうさがかえって頼もしかった。
慰めるための嘘なら、もっと柔らかく言うはずだ。サルディスは、そういう男ではない。
リディアは唇を噛み、桶の中を見下ろした。
割れた縁から、ほんのわずかな湿りが月光を受けて鈍く光っている。
中に残っているのは、もう雫と呼べるかどうかも怪しいほどの僅かな水だ。
それでも、彼女はその欠片を落とすまいと抱えている。
私は神域の方角から目を離せなかった。
「サルディス殿。イズミールは……」
問いかけた声が、自分でも情けないほど掠れていた。
傷の痛みからくるだけのものではない。
老人は舌打ちを一つ、荒く息を吐く。
「さあな。分からんから行かせるのだ。あの高まりは尋常ではないぞ。
泉が湖になったどころの話ではない。もはや、海に呑まれるようなものだ」
彼の言葉に重なるように、また地の底で脈が打った。
どくり、と。
今度はさっきよりも近く、はっきりと。
森の土そのものが、一瞬だけ水面のようにゆっくりと波打ったような錯覚を覚える。
リディアが小さく悲鳴を飲み込み、桶を胸へ押しつけた。
「濃すぎる水の霊子に、土や木の霊子が気圧されておる」
サルディスは吐き捨てるように言った。
「もはや、女神ひとりの変調では済まぬ。どこまで広がるか予想もつかん」
私は歯を食いしばった。
イズミールは、まだそこにいる。
そう信じるより他にない。
だが同時に、あの時の彼女が、それまでとは別の存在になったかのような違和感もあった。
不安を言葉にすれば折れてしまいそうで、胸の奥へ押し込む。
枝を払って、風の通り道を駆ける。
足元の土は湿り始めていた。踏むたび、ぬかるんだ音が混じる。
靴や足が、黄金に変じていないかを確認するゆとりはない。
もし、そうだとしても、動ける限り進み続けねばならない。
地面や根の間から水がにじみ出ている。
雨粒のような雫が浮かび上がり、木の葉の裏に逆さまの露を生じさせ、その葉を黄金に変えていく。
聖地の森は、人の常識では計れない理外の領域になりつつあった。
その異様さの中で、サルディスが不意に速度を緩めた。
ほんの一瞬だけだが、風の膜が薄くなる。
浮いていた雫の一つが内側へ入りかけ、彼が杖を振るって慌てて押し返す。
私は眉を寄せた。
「サルディス殿」
「……黙って走れ」
呼吸が荒い。声にほんのわずかだが掠れが混じっている。
足取りも、よく見れば一定ではなかった。
風を維持するために無理をしているのかと思ったが、それだけではないように見えた。
だが、老人の背からは、質問を許さない厳しさがあった。
前方の木立が開け、川縁へ下る細い獣道が現れる。
あの川を遡れば神域の湖だ。岸に引き上げた舟もまだ残っている筈。
そこまで辿り着いた時、サルディスが初めて足を止めた。
「……リディア。その桶を見せい」
彼女はびくりと身を固くし、それでも素直に差し出した。
両手で捧げるような格好だ。
月光の下、割れた縁が痛々しい。
底には湿りが残り、その片隅に、かろうじて一つの丸みを保った透明な珠が揺れていた。
掌で掬うには小さく、けれど消えずにそこに在る。
サルディスの目が細くなる。
「よし、まだ残っとるな」
リディアが息を詰めた。
「……でも、これだけで……もう、気配も感じられません」
「ふん、残ったもんを使うしかなかろうよ」
老人は桶から目を離さずに言う。
「リディア。おぬしはあの幼子を何と呼んでおった?」
彼女はぽかんとした顔をした。
「え……」
「呼び名だ。いつも何と呼んでおった」
「……み、御子、様とか……あの子、って……」
「それでは弱いな」
きっぱりと言い切る。
リディアの肩が小さくすくんだ。だが、サルディスは気に留めない。
「幼い精霊ほど在り方が揺らぐ。ただ呼ぶだけでは戻れん。名を与え、戻る場所を示せ」
リディアの瞳がわずかに見開かれる。
「御師匠様、それは……わたしが、あの子を縛ることになるんじゃ……」
「そうだ。良い形になる保証はない。
だが今の女神へ強く届くほど縁が深いのは、アイオリスか、あの幼子だけだ。
そして、その欠片を今ここに留め、呼び戻せるのはお前しかおらん。
リディア――その役目を果たせ」
リディアの瞳が揺れる。迷いがあるようだった。
私は思わず口を挟んでしまった。
「サルディス殿、無理強いは……」
「黙っておれ」
だが、サルディスに、にべもなく切り捨てられる。
老魔術師は動揺を隠せない弟子に、講義するような口調で語りかけた。
「あれは幼子の姿をしておるが、何も出来ぬ赤子ではない。
お前が名を与え、役目を与えれば、ただの幼子のままではおらん。
ずっと幼子として崇められるばかりが幸せとも限るまい」
リディアはハッとした表情で、師の顔を見上げた。
老魔術師は肩眉を上げ、あの皮肉気な笑みを浮かべた。
「神域へ着いたら、その一滴を湖へ返せ。
それを呼び水に、消えておらぬと信じて、戻れと呼べ。
手順は忘れておらんだろうな?
お前が名を与え、あの幼子がそれを受け取れば、ただの呼び声ではなく、命名と契約になる」
私は息を呑んだ。
契約。確か、以前サルディスが話していた。
精霊にとって名は輪郭であり、人と精霊を結ぶ縁を強めるものだと。
リディアは桶を抱き直した。
さっきまで壊れ物を守るようだった腕が、今はそれを持って行く者の抱き方に変わっていた。
「わたしに……そんなこと、できるんでしょうか」
問う声は震えていた。だが、もう“わたしのせいで”とは言わなかった。
サルディスは、珍しくやや静かな声で答えた。
「できるかどうかではない。やってみせよ」
「でも、わたしなんかが――」
「お前は短い時間の中であろうとも、あの子と縁を結んだ。
失くしたのもお前ならば、捨てがたいと思っておるのもお前だ」
言い方は容赦ない。だが、責めているのではなかった。
「ならば、お前が戻る場所を示してやれ。あれを母に巡り合わせてやれ」
リディアはしばらく俯いていた。桶を抱く指先に力がこもる。
やがて、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……やります」
サルディスがそこで初めて、ほんのわずかに息を緩めた。
「よろしい。それが出来たらようやく半人前は卒業だな」
そう言って、サルディスは深い息を吐いた。
その表情には、ひとつ役目を渡し終えた者の安堵と、隠しきれぬ虚脱が混じっていた。
※※※※※
次に、その視線が私へ向いた。
「アイオリス。おぬし、あの瓶は持っておるな?」
私は腰に括りつけていた瓶を取り出した。
もとはランタンの油を詰め、封じていた瓶だ。
それをイズミールは、開けることなく水へ変えた。
彼女と私を繋いできた、一瓶の泉だった。
戦場でも離さなかったそれを、月明かりの下に掲げる。
中の水面が、微かに揺れた。
風でも、私の手の震えでもない。
もっとはっきりと、神域のある方角へ寄るように、静かな波紋が片側へ寄っていく。
サルディスが低く唸った。
「やはりな。繋がってはおるが完全にひとつではない」
魔術師の言葉の意味を、私は正確には理解できなかった。
難解な言い回しは焦れったくもあったが、彼らしい物言いだと思った。
「これをどうすればいい」
「それは女神と出会って間もない頃に授かり、一度たりとも封を開けてはおらんのだったな?」
質問に質問で返されたが、ただ頷く。
「その瓶の中身はな、その頃から、増えも、減りも、何も混ざってもおらん水だ。
つまり、お前が出会った頃の女神……いや、そう呼ばれる前のイズミールの名残りと言えよう」
サルディスの言葉に、私は衝撃を受けた。
イズミールからこの瓶を受け取った時の私は、彼女にどんな影響を与えるか知りもしないで、祈りを捧げてきた。
だが、瓶で隔てられたこの水は、確かにあの頃のままとも言える。
「女神になる前のイズミールが、ここに……」
私はずっと、これを女神の泉の欠片として扱ってきた。
だが、まだ何者ものでもなかった頃の彼女が、ここに居るのか。
手の中の瓶が、急に熱を持ったように感じた。
その熱を冷ますように、サルディスがぴしゃりと言った。
「それっぽっちの水で、巨大な水域と化した女神を染められるなどとは思うな。
だが、きっかけくらいにはなるだろう。その桶の水と同じだ」
リディアの抱える桶に目を向けた。
少女の緑色の瞳はまだ揺れていたが、しっかりと私を見つめ返してきて、頷いた。
私が頷き返すのを見て、サルディスが続けた。
「分かっておろうが、女神に祈るな。イズミールを呼べ。
言葉を惜しむなよ。おぬしが聞かせたいことを聞かせい」
私は瓶を握りしめる。冷たいガラスの向こうで、水面がかすかに揺れた。
「届くだろうか」
問いは半ば、自分へのものだった。
言葉が通じるのか、という入り口から躓いている。
だが、本質的にはその先、気持ちが通じるのかが一番の問題だ。
サルディスは私をまっすぐ見た。
その目に、初めてほんの一瞬だけ、老いとは別の憂いの影が差した気がした。
「迷うな」
静かに言う。
「掴める時に掴まねば、二度と届かん縁もある」
その言葉の奥にあるものを問おうとして、だがやめた。今、それを聞く時ではない。
代わりに、ただ頷いた。
サルディスが鼻を鳴らす。
その瞬間、彼の纏う風の流れが乱れ、ローブの袖がめくれた。
サルディスの左手が、月光とは違う鈍い光を帯びていた。
皮膚の下から、冷えた金属が滲み出したような黄金色だった。
「……サルディス」
反射的に声が漏れた。リディアも気づいたらしく、息を呑んだ音がする。
老人は一瞬だけ眉をひそめ、手を袖の中へ隠そうとした。だが遅い。
「それは……」
「御師匠様!?」
「来る途中で浴びた」
吐き捨てるように言い、サルディスは手を下ろした。
左手の指先だけではない。よく見れば、手首へ向かっても薄く鈍い光が這っている。
「あの騒ぎのおかげでペリエレスの連中からは離れられた。よしあしだな。
抑え込んではおったが、そろそろ重たくなってきたわ」
「何故、言わなかった」
思わず声が強くなる。サルディスは鼻で笑った。
「言ってどうにもならぬから、こうして急がせておるのだろうが」
リディアは、サルディスの左手を見たまま動かなかった。
さっきまで御子のために強張っていた顔が、今度は別の意味で強張っていく。
理解したのだ。黄金が兵たちだけのものではなく、師の身体にも及んでいることを。
「……うそ」
掠れた声だった。
桶を抱える腕が揺れる。抱えたまま駆け寄ろうとして、けれどその一歩が出ない。
何をすればいいのか分からないのだ。
触れていいのか、何か魔術で止められるのか、それとも水から離すべきなのか。見習いの知識と焦りが、目の前の現実に追いついていない。
「御師匠様、それ、そんな……っ、わたし、何か、何か出来ること――」
「ない」
サルディスは即答した。
あまりにも早い否定に、リディアの顔が引き攣る。
泣き出しそうな、怒り出しそうな、どうしていいか分からない子どもの顔だった。
「そんな顔をするな。儂に構うなと言うておる」
「でも……!」
「今、お前が違えてはならんのはそっちだ」
サルディスの顎が、桶を指す。
リディアは息を呑んだ。
自分の腕の中にあるものへ視線を落とす。
割れた縁、底に残るわずかな湿り、その片隅で震える小さな雫。
その一滴を守らねばならない。
理屈では分かる。分かるのに、感情がそれを拒んでいた。
御子を落としてしまったばかりなのに。
今度は師まで置いていけというのか。
リディアの喉がひくりと鳴る。
何かを言おうとして、それが言葉にならないまま潰れた。
足元へ視線を落とすと、彼の靴の隙間から覗く肌にも金が這っている。
歩を進めるたび、その動きがわずかに硬い。
風で無理やり自分の身体を前へ押し出しているのだと、ようやく分かった。
「水以外の元素の力で進行を遅らせることは出来るようだが、神域までは持たんだろう」
サルディスは他人事のように淡々と告げた。
「や、やだ……そんなの、どうして……っ」
リディアが悲痛な声をあげるが、サルディスは顔を顰めて耳を塞いで取り合わない。
「やかましい、そう喚くな。アイオリスの傷に障る。」
私は一歩詰めた。傷が軋むのも構わず、声が低くなる。
「サルディス、共に来てもらう。神域で必要なのはあなただ」
「必要なのは“知っておる儂”ではない。“届くおぬしら”だ」
切り捨てるように言う。
「そのうち、文字通りの荷物になる身だ。足手まといにしかならん。
ならば使い道のあるうちに役に立つ方を選ぶまでだ」
リディアがはっとしたように彼の袖を見た。
「御師匠様……」
「泣くなと言うておる。何の為に魔術を習いに来たか思い出せ」
私はリディアがサルディスに師事するようになった経緯を知らない。
だが、その言葉は彼女にとって、前に進ませる力を持ったもののようだった。
リディアは袖で目元を拭い、顔を上げた。
「……っ、……な、泣いて、ません……」
「言ったな? ならば堪えて一人前になってこい」
サルディスはいつものように返して、杖を握り直した。
指がわずかにきしむような音を立てたのを、私は聞き逃さなかった。
川縁に引き上げた舟のところまで辿り着いた。
幸い、舟はまだ木の質感を保っていた。
「時間がない。よく聞け」
杖を立て、二人を睨みつける。
「失うのが怖いなら、縛ることも、変えることも厭うな。
覚悟を決めろ。
失ってから空しく悔い続けるより、その方がずっといい」
リディアは桶を抱きしめたまま、涙を滲ませて頷く。
「……はい」
「ああ」
サルディスの言葉には苦い響きがあった。
その理由をあえて問い質すことなく、私も強く頷いた。
「よろしい。さあ、乗れ」
リディアが先に舟へ足をかけた。
桶を胸へ抱え込み、何かを落とすまいと身を丸めて、危なっかしくも確かに乗り込む。
私も続こうとして、一度だけ振り返った。
サルディスは岸辺に立ち、風の流れの中心にいた。ローブの裾が激しくはためく。
左手首から先は既に金色を帯び、ローブの袖口にも鈍い光が這っていた。
「サルディス」
呼びかけると、老人は眉を上げた。
「必ず――」
「言うな」
切られる。
「余計な荷を持っていこうとするな。言葉は、イズミールに使え」
そして、ほんのわずかに口の端を上げた。
「今度は取り落とすな」
その言葉が誰に向けられたものだったのか、私にも、リディアにも、たぶん本人にも分からなかった。
次の瞬間、サルディスが杖を振り抜いた。
轟、と風が唸る。舟が岸を離れた。
押し出されるように水面を滑り出し、暗い神域の方角へ向かっていく。
リディアが振り返る。口を押さえて言葉と嗚咽を呑み込んでいた。
私もまた、振り返らずにはいられなかった。
岸辺に立つサルディスの姿が、風と夜気の中で少しずつ小さくなる。
足元の金色はじわじわと上へ這い、それでも彼は杖を下ろさない。
最後まで、こちらを向いて、風を保ち続けていた。
やがて湖面の靄と夜明け前の闇の向こうに、その姿は見えなくなった。
舟の底が、水面を切るたびに小さく鳴る。
湖の底から、なお低い脈動が響いていた。
巨大なものが寝返りを打つような、重苦しい音だ。
真っ黒な湖面に、二つの月が双眸のように浮かんで揺れている。
リディアは桶を両腕で包み込み、目を閉じるようにして中を覗いた。
「……動いた?」
掠れた声だった。
私は瓶へ視線を落とす。中の水が、神域中心へとはっきりと寄っていた。
瓶の中で、小さく、しかし確かに波打っている。
同時に、リディアの抱える桶の底でも、残された一滴が震えた。
それが恐れか、応えか、私には分からない。
私は瓶を握り直し、水面を覗き込んだ。
月明かりでも見通せぬ黒い水の底に、イズミールはまだいる。
私が取り落とし、見失っていたものを、あの日、彼女は拾い上げてくれた。
なのに私は、その返し方をずっと誤ってきた。
――だから、やり直す。
今度は彼女が失ったと思っているものを、私が返す。




