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75.聖地に訪れる、黄金の夜明け(前編) ◆★

75話「分水嶺(後編)」最終盤から続くアイオリス視点

 水場の中央で、裂けた黄金を押し留めていたイズミールの姿は、もう人の形を保てていなかった。

 腕も、脚も、泡立つ水にほどけていく。


 目の前で我が子を失い、身体が崩れていきながらもなお、彼女は穏やかな微笑を浮かべている。

 それが仮面にすぎぬのだと、今の私には分かってしまう。

 あの微笑の下で、彼女がどれほど揺れているのか、想像するだけで息が詰まった。


 それなのに、何故だろうか。


 消える直前、彼女の浮かべる笑みがひどく蠱惑的で、熱の籠ったものに見えた。

 私だけを見据える青い瞳に、思わず魅入られそうになった。


(こんな時に、何を考えている……!)


 ばしゃり、と水音が響いた。

 イズミールの身体が、ついに弾けて崩れた音だ。


「ま、待て! 女神様が……っ!?」「そんな、御子様だけじゃなく……」

「い、一体何が!? ぐあっ」「よせ! 撃つな! 止まれ!」

「撃て! 撃ち返せ!」「指示を!」「こいつ、よくも!」


 怒鳴り合い、そして、弓と槍の応酬を続けていたペリエレス・マグヌス両陣営から、困惑と驚愕の声があがった。イズミールが崩れ去る様を目撃した者がいたのだろう。

 だが、それでもまだ、両者の小競り合いは収まり切っていない。


 私は、あの崩壊が彼女の死ではないことを知っている。

 彼女はどこかへ移ったのだ――今は、そう思い込むことにする。


 御子を――あの子を守ることができなかった。


 丸い瞳で母を見上げ、甘える幼子の姿が忘れられない。

 胸の奥に痛みが走る。だが、そこへ触れている余裕はない。

 失くしたものを嘆いて、立ち止まっている暇などない。

 罪を償うのも、悲しみに暮れるのも、後でいい。


 まだ、彼女のためにできることが残っているはずだと信じる。


(立て、歩け、考えろ、進め)


 肩と背に食い込んだ鏃が焼けつくように痛む。

 息をするたび、肋の内側を軋ませる。

 腕の中でリディアが小刻みに震え、うわごとのように呟く。


「アイオリス、さん、離して……け、怪我が……あの子が……」


 声が掠れている。泣き声にも悲鳴にもなりきれない。

 無理もない。魔術師見習いとはいえ、戦場は知らないはずだ。


 まず、この子をここから離さなければならない。


「リディア」


 自分でも驚くほど掠れた声だった。

 リディアは涙と泥で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、私を見上げる。


「……なんで……どうして、こんなことに……」


「リディア、立つんだ」


 今度は少し強く言い、片手で彼女の肩を掴んだ。

 肩の傷がずきりと脈打ち、息が詰まる。指先にびくりと震えが伝わってきた。

 私に触れられたことより、少女の目が再び焦点を結んだ。


「アイオリスさん……わたし、あの子を、落とし、て……っ」


「今はそれを言うな」


 言っている間にも、周囲の混乱は止まない。

 飛び交う矢こそ無くなったものの、互いを睨み、怒鳴り合い、槍を突きつけ合う。

 自分たちが何をしでかしたのか、分かっていないのか。

 それとも分かった上で、なお止まれないのか。


 どちらにせよ、ここにいて良いことなど一つもない。


 私はリディアの腕を掴み、ほとんど引き起こすようにして立たせた。

 少女の膝が震え、足元の泥に滑りかける。


 リディアが振り返り、土に染みた濁りを見た。

 口を開いて言葉を発しようとしたのに被せて言う。


「ここにいても何も救えない」


 言いながら、自分の言葉が刃のように胸へ返ってきた。

 何も救えない。まるで、自分に言い聞かせているようだった。


 御子を失い、イズミールを傷つけ、人間同士の争いまで止められない。

 それでも、まだ終わっていないものだけはある。


「イズミールを探す。今はそれからだ」


 リディアの唇が震える。

 何が正しいのか分からないという顔だ。私とて、そうだ。


 あてがあるわけではない。だが、神域を目指そう。

 イズミールはあの場所にいる気がする。


 リディアの肩を抱き、その場を離れようとした。


 その時、水が脈動した。


「――っ!?」


 私とリディア、息を呑んだのはほぼ同時だった。

 水音に似ていたが、現実に鳴り響いた音とは違う。


 だが、黄金で蓋をされた水場の底で、どくり、と何か巨大なものが脈打つ気配が走ったのを感じた。

 地の下を巡る見えぬ流れまでが、ひとつに繋がって呼吸を始めたような、低く深い震えだった。


 これが、水の元素霊子というものなのだろう。

 私よりも霊子に長く触れてきたリディアが、怯えたように震え始めた。


「ひっ……こ、これって……こんな……こ、こんなの……っ」


「リディア、落ち着け。……教えてくれ、今のはなんだ」


 だが、異変はまだ始まったばかりだった。


※※※※※


「お、おい……何だ、これ」


 背後で、兵のひとりが困惑の声を上げた。


 そちらを見やる。

 ペリエレスかマグヌスか、どちらの兵かも今は分からない。

 槍を持った男が、足元を見下ろしていた。


 地面からじわりと水が染み出して、男の靴を濡らしていた。


 槍を構えたまま、じりじりと後退する別の男の足元で、ぬかるんだ音がした。


 弓弦につがえた矢を引くべきか否か迷っていた男の頬に雫が当たった。

 雨ではない。下から水滴が上ってきたのだ。


 いつの間にか、辺り一帯に水の気配が満ちていた。

 水場で波や渦が起こることもなく、静かに、染み入るように。


 ぽつり、ぽつり、と地面から水滴が上ってくるのを、誰もが呆然と見つめた。

 戦いの音――武器や鎧、足音が収まっていき、場が静まり返る。


「……えっ」


 そんな中、誰かの洩らした小さな声がやけに大きく響き渡った。


 水際近くに踏み込んでいた兵の革靴が、鈍い黄金色を帯びていた。

 濡れたつま先から脛当てへ、まるで冷えた金属が薄く這い上がっていくように、色が変わっていく。


「おい、お前、なんだ……それ……」


 男は慌てて片足を引こうとしたが、ぐ、と不自然に身体が傾いただけで、靴は泥に縫い付けられたように地面へ貼りついていた。


「わ、わからない……足が、動かない?!」


 その声が裏返る。


 男の脛当てに、ぬめるような光が走った。

 革紐が金に変わる。濡れた布が硬くなる。足首まで、じわりじわりと金色が這い上がっていく。


「ひいっ……!」


 男は槍を投げ捨て、必死に靴を脱ごうとした。

 だが指先が触れた場所から、今度は手甲の縁が光り始める。

 濡れた皮革が、きん、と硬い音を立てた。


「う、うわぁ!?」


 別の兵が、腰の剣を抜こうとして目を見開いた。

 鍔と柄に触れていた手袋が、いつの間にか硬質な光を帯びている。

 濡れていた革紐も、血のついた袖口も、同じように。


「水だ!」


 誰かが叫んだ。


「水だ! 水に触れるな!」


 別の誰かがようやく叫ぶ。

 その声に兵たちがはっとして飛び退こうとする。だが、もう遅い。


 剣の鍔に飛んだ飛沫。

 血に濡れた袖口。

 泥に沈んだ靴底。

 地面を這う細い水筋。


 そこかしこで、同じ金色が灯り始めていた。


 誰かが悲鳴を上げる。誰かが味方を突き飛ばす。

 ついさっきまで敵と睨み合っていた兵たちが、今度は我先に水から逃れようとして押し合い、踏み合い、形もなく崩れた。


「下がれ! 下がれッ!」


「み、水が! 水がぁっ!?」


「触るな、触るなァ!」


 もはや命令も陣形もない。もう敵味方の区別ではない。

 恐慌だけが一気に広がっていく。


 兵たちは一斉に足元から離れようとし、互いを押し退ける。

 濡れた土を避けようとして別の水たまりを踏み、悲鳴を上げる。


 槍が落ち、剣が泥へ刺さる。

 折り重なるように転んだ兵の足に、濡れた裾から黄金が這い上がった。

 男は狂ったように仲間の腕を掴み、振り払われ、叫びながら地面を掻く。


 戦いは終わったのではなく、戦いですらなくなっていた。


 リディアはその光景を前に立ち竦み、反応がない。

 私は彼女を抱えるようにして一歩踏み出した。

 だが、肩の傷が鋭く軋み、視界が白く揺れる。膝が危うく折れかけた。


 くそ、と奥歯を噛み締める。


 背から抜いていない矢が動くたび、熱い痛みが身体の奥へ食い込んでくる。

 左腕にも力が入りきらない。

 彼女が自分で動けないのであれば、斧を置いていくしかない。


 それでも進もうとした、その時。


 地面に散った飛沫が、ふわりと浮いた。


 逆さまに降る雨のように、小さな水滴が泥の上から持ち上がる。

 ひと粒、ふた粒ではない。無数の雫が宙に浮かぶ。


 それがただの水ではないことは、分かり切っていた。

 透明な雫は淡く、鈍い金色の光を孕んでいる。


「っ……!」


 リディアを背へ庇い、戦斧を右手で構える。

 斧でどうにかなるものではないと分かっていても、そうするしかなかった。


 足元からも水が染み出し始めている。

 避け切れない。


 その瞬間、鋭い風切り音と共に、横殴りの突風が噴きつけてきた。


「きゃっ」


 強風に晒され、少女が悲鳴をあげる。

 だが、風は私たちを吹き飛ばすことなく、浮かび上がった水滴をばらばらに吹き散らした。

 金色の光を帯びた雫が、泥の上で弾け、地面を黄金色に変じさせる。


「そこを離れろ! こっちだ!」


 聞き慣れた、しかし今はそれ以上に頼もしく響く声だった。

 振り向いた先、闇を裂いて走り込んでくる影があった。


「サルディス……!」


挿絵(By みてみん)


 老魔術師は杖を掲げ、もう片方の手で何かを払うようにして、風を束ねている。

 年老いた顔には驚きも狼狽もなく、ただ険しい緊迫だけがあった。

 服の裾をはためかせながら、まっすぐこちらへ踏み込んでくる。


 サルディスは私の負傷や現場の惨状を一瞥し、こちらを見て叫んだ。


「立てるな、アイオリス!」


「問題ない」


「ハッ、嘘をつけい!」


 叱責と同時に、サルディスは杖を薙いだ。

 再び風が巻き、私たちの周囲だけ、浮き上がった水が押し返される。

 全てではない。だが、息を継ぐには十分な隙だった。


 サルディスの視線が、地面に転がる桶へ落ちた。


「リディア、桶を拾ってこい!」


 師の言葉に、リディアははっと桶を拾い上げ、抱きしめた。

 矢を受け、欠けた桶から雫が滴り、少女の裾を濡らす。


「水には触れるなよ! とにかくこの場は退くぞ、こっちだ!」


 老魔術師はもう一度、杖を振り、前方の茂みに向けて突風を放った。

 風が開いた突破口を三人で駆ける。


 背後では、ペリエレスとマグヌスの兵たちの叫びがまだ聞こえる。

 それが少しずつ遠ざかり、小さくなっていくのが、距離が開いたからなのか、声をあげることさえ出来なくなったからなのか分からない。


 私たちはひたすら夜の森を駆け抜けた。


「サルディス殿……」


 私は絞るように声を出した。

 喉が血の味でざらついている。


「御子が……」


 その先が続かなかった。

 口にした瞬間、それが本当になってしまう気がした。


 だが、サルディスは私の顔を見て、端的に言った。


「死んではおるまいよ」


 短く、断ち切るように言う。


 リディアが顔を上げた。

 私も、息を止めた。


「精霊がそう簡単に死ぬものか」


「で、でも……っ、だって、目の前で……!」


 リディアの声がひっくり返る。

 サルディスはその叫びを遮るように、さらに言った。


「ましてあれは幼子そのものだ。形も心も定まりきっておらん。

 おおかた、自分が消えると思い込んでおるだけだろうよ」


 リディアが息を呑む。涙の痕の残る顔のまま、かすれた声を漏らした。


「ほ、ほんとうに……?」


「今ここで泣き潰れている暇があるなら信じろ」


 サルディスは切るように言った。

 それが弟子を慰めるための方便なのか、魔術師としての知見によるものか分からない。

 だが、その言葉に救われたのはリディアだけではなかった。

 胸に深く打ち込まれていた何かが、ほんの少しだけ動いたのを感じた。


 あの子がまだ生きているのなら、何も終わってはいない。

 まだ、取り戻せるはずだ。


「それより、問題は女神だ。もはや黒禍や魔樹どころではないぞ」


 サルディスの表情が、はっきりと緊張を帯びる。


「イズミールは、今、どうなっている……?」


 浅く早い息を吐きながら、サルディスは答える。


「分からん。だが、神域に途方もない霊子の高まりを感じる。

 あの黄金化があちこちで起きるほどだ。“座”が壊れかねんぞ」


 “座”。

 精霊の力が集い、根を張る場所――サルディスがそう呼んでいたのを思い出す。


 イズミールにとっては、あの泉――ズミュルナ湖の中心――神域だ。


 そこが壊れる?

 それはイズミールの死を意味するのではないか。


「サルディス殿、それは……」


 動揺を隠せない私に、サルディスは低く、はっきりと言った。


「神域へ向かえ。成るか成らんかはさておき、行かねば話にならん」


 その時だった。

 夜の森の奥、神域のある方角で、闇そのものが一度、大きく脈打った。


 次の瞬間、遠く離れているはずの湖の方から、地を這うような水音が響いてくる。

 それは波ではない。もっと巨大な何かが、ゆっくりと身を起こした音に聞こえた。


 リディアが息を呑み、私の袖を掴む。


「アイオリスさん……」


 答える代わりに、私は神域の方を見据えた。

 もう、迷っている猶予はない。


 あそこへ行かねば、すべて手遅れになる。

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