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74.分水嶺(後編) 〇◆★

 濁った水溜まりが、土へ染み込んで小さくなっていく。

 あの子(ちび)がそこにいた痕跡が、目の前で消えていく。


 俺の腕の中で騒いで、私を呼んで、胸元にしがみついていた、あの小さな子が――私の子どもが死んだ。


 そこにあったはずの重みだけが、まだ腕の内側に残っている気がした。

 その空っぽさが、遅れて私の中へ落ちてきた。


(違う)


 胸の奥で、すぐに俺が否定した。


(俺の子じゃない。俺はあいつの母親じゃない)


 けれど、そう言い聞かせても遅かった。

 喪った、という感覚だけは、もうどうしようもなく私のものだった。


 その認識が胸の奥へずぶりと沈んで、世界の音がやけに遠くなった。


 女の子が膝をつく。両手で土を掻く。濡れた土をかき集め、何かを掬い上げようとしている。

 無理に決まってる。それはもう、ただの泥だ。


 指のあいだから泥がぼろぼろ零れる。

 爪の先まで泥だらけになっているのに、その子は気づきもしない。

 震えた声で何かを繰り返しながら、手を動かし続ける。


 言葉は分からない。けれど、あの子が消えたことを悲しんでいるのは分かった。

 木こり野郎も――あの人も、斧を構えたまま呆然とそちらを見ている。


 なのに、周りの人間たちは止まらない。


 怒鳴り合い、武器を突きつけ、矢を飛ばす。

 すすり泣きも制止も、全部が怒号の中へ沈んでいく。


(やめろ)


 そう思ったのは私じゃない。俺だ。


 俺は裂け目へ手をかざしたまま、動けない。

 なのに、見たくもない光景だけは嫌でも目に入る。


 子どもがひとり消えたのに、何でまだ争ってるんだよ。

 意味が分からない。怖い。気持ち悪い。無理だ。


 けれどその思いに、私の声が重なる。


 ――私の子が、いなくなったのに。


(違う)


 ――私を呼んでいたのに。


(手一杯だったんだ)


 ――名前をつけてあげるって、約束したのに。


(こんなはずじゃなかった)


 胸の奥で、俺と私の声が擦れ合って、ぐしゃぐしゃに軋む。

 集中はもう滅茶苦茶だった。裂け目へ差し込んだ指は半ばほどけ、腕の輪郭にひびのような波が走る。

 痛い。寒い。熱い。全部いっぺんに来る。


 駄目だ。今は裂け目を押さえなきゃいけない。

 そう思った直後、また矢が飛んだ。


 空気が鳴る。


 木こり野郎が地を蹴った。

 女の子を抱き寄せ、その上へ覆い被さる。


 大きな背中が、びくりと跳ねた。


 血が散る。

 肩に深々と矢が刺さっていた。


(――っ!?)


 声にならない悲鳴が、俺の中で弾けた。


 ほんの一拍遅れて、さらにもう一本、女の子を庇ったあいつの背中へ矢が突き立つのが見えた。


挿絵(By みてみん)


 あんなに大きくて、あんなに強いくせに、刺されれば傷つく。

 ちゃんと死ぬ。死んでしまう――ちびみたいに。

 そんな当たり前のことが、今さらみたいに生々しくて、ぞっとした。


 それでもあいつは、女の子の頭を抱え込んでいた。

 自分を盾にしてでも守る気だ。


 何でそこまでできる。

 さっきまで人だったかもしれないものを迷いなく両断して、今度は同じ迷いのなさで人を庇う。


 その躊躇いのなさが怖い。


 そう思った瞬間、(わたし)自分(おれ)に腹が立った。


 ずっと助けられてるじゃない。

 今だって、あの人がいなきゃ、もっと酷いことになってた。

 なのに怖いだなんて、何それ。


 でも怖いものは怖い。

 血と泥まみれで、傷を増やしながら前へ出る背中が、頼もしくて、恐ろしい。


 俺の知ってる世界じゃ、こういうのは画面の向こうの話だった。

 目の前で、知ってる奴が血を流して、さっきまで腕の中にいた小さいものが消えるのを見せられて、平気でいられるわけがない。


 なのに同じ人間のはずの兵隊どもは、まだ怒鳴り合い、矢を放ち、奪い合っている。

 止まらない。

 誰も止まらない。人間って、こんなだったか。


 俺の嫌悪と、私の怒りがぐちゃぐちゃに掻き回され、胸の内で渦を巻いた。


(もう嫌だ)


 ――私の子を殺して。


(やめろ)


 ――あの人まで傷つけて。


(もう、やめろって言ってるだろ……!)


 裂け目へ伸ばしていた腕が大きく揺らいだ。

 押し留めていた黒い濁りが、一瞬だけ勢いを増す。

 水底のどこかでぶくりと泡立ち、汚れが逆流してくるような不快感が喉の奥まで迫った。

 吐く中身なんかない、偽物の身体なのに。


 けれど、その苦しさより先に、別のものがせり上がってきた。


 ――あの人が、傷ついた。


 冷たいはずの水の底で、沸騰しそうな感情が膨れ上がる。

 俺の嫌がる場所から、私の柔らかい場所から、ずるりと何かが這い出してきた。


 冷たい水の奥で、いつもそこだけが熱を持っていた。

 声になる前から、俺は、私はその気配を知っていた。


 ――あの人を奪わないで。


 低くも高くもない、甘く濡れた声が、自分の中で響いた。


(……誰だよ、お前)


 俺が怯え、私が息を呑む。

 そのくせ、その声はあまりにも自然にそこにいた。


 ――あの人は、救いでも奇跡でも女神でもなく、わたしを見てくれた。

 ――わたしを望んでくれた。

 ――わたしは、あの人の想いに応えたかった。


(ふざけんな)


 俺が吐き捨てる。


 木こり野郎は木こり野郎だ。顔が良くて、話が通じそうで、頼りになるけど、危ない男だ。

 それ以上の何かとして考えるなんて、あってたまるか。


 木こり野郎が顔を上げた。

 頬を泥と血で汚し、女の子を庇ったまま、こちらを見る。


 その視線の奥にあるものが、俺にはそう見えてしまった。


 守りたい。失いたくない。生きていてほしい。


 それは信仰じゃない。祈りとも少し違う。

 もっと近くて、もっと熱くて、ひとりへ向けたものだった。


 俺の中の誰かが、甘く笑った。


 ――ほらね。

 ――あの人は、わたしを呼んでる。


(うるせぇ、黙れ)


 裂け目に差し込んでいた指先がほどけ、水面へ落ちた。

 黒い濁りが待っていたみたいに湧き上がり、水場の底からぶくぶくと泡が上がる。


 身体が言うことをきかない。

 裂け目を押さえなきゃいけないのに、視線も意識も、全部どこかへ引っ張られる。


 水がざわめく。

 身体の輪郭が崩れ始めた。腕が解け、足元から溶けていく。


 だめだ。

 もう保てない。


 痛い。苦しい。怖い。嫌だ。


 ちびが死んだ。

 木こり野郎まで撃たれた。

 兵隊どもはまだ止まらない。

 化け物はまだ湧いてくる。

 裂け目も塞がってない。何一つ終わってない。


 もうたくさんだ。やってられない。


(ああ、畜生……ほんと、ロクな人生じゃねえな……)


 水面の上で、俺の身体が限界を迎える。


 視界が弾けた。


 裂け目の痛みが、遠のいていく――


※※※※※


 人の目線の高さが消えた。


 人間たちの喧噪も、水面すれすれの近さも、地面の泥臭さも、一気に遠ざかる。


 広がる。


 俺が、私が、わたしが、広がっていく。


 湖となった泉の底の湧き口。湖へ流れ込む川。湿った土の下を走る水脈。

 埋めたはずの別の水場。沈んだ社。落ち葉に蓋をされた水溜まり。

 点々と遍在する泉。沼。湿地。根のあいだを抜ける水流。


 全部がひとつの大きな臓腑みたいに脈打っていた。


 俺たちは最初から、水から出たつもりでいただけだったのかもしれない。


 痛みも一緒に広がる。


 塞ぎきれていない場所から湧き出す黒い痛み。

 破られた封の痛み。黄金で塞いだ場所の息苦しさ。

 あの子を失った痛み。

 あの人を傷つけられた痛み。


 全部が同時に来る。


 けれどその痛みの中で、三つの声だけがはっきりした。


 ――もう嫌だ。


 最初に叫んだのは、"俺"だった。


 嫌だ嫌だ嫌だ、もう嫌だ。

 何で全部こうなる。

 何で話の分かる相手ができたと思った瞬間に、そいつまで奪われそうになるんだ。

 何でどいつもこいつも勝手に俺を使って、勝手に争って、俺が何とかしようとしたことを全部ぶち壊すんだ。


 俺はただの水で、泉で、せめて静かにしてたかっただけなのに。

 話ができる相手がひとりいればよかったのに。

 それすら、許されないのかよ。


 もう嫌だ。関わりたくない。

 これ以上、誰が壊れるのも見たくない。

 返してくれ。俺だけの部屋を。俺を帰してくれ。


 ――人は救済を求めている。


 次に響いたのは、落ち着いた、澄んだ声の"私"だった。


 どこまでも優しく、穏やかで、だから余計に恐ろしい。

 俺が目を背けたくなるものまで、全部見据えている声。


 人は清い水を求めた。

 穢れを洗い流し、痛みを終わらせてほしいと願った。


 けれど人は、黄金を求め、私の子を奪った。


 それでも見捨てはしない。

 だから裁く。救いも、罰も、この手で与える。


 ――許さない。


 囁いたのは"わたし"だ。


 いつの間にか生まれていた。甘く、熱く、そしていちばん危うい声。


 あの人が傷ついた。

 血が流れた。

 あの人を奪おうとする奴らを、許せない。


 あの人は、救いでも女神でもなく、ひとりの女としてのわたしを見てくれた。

 わたしを望んでくれた。

 わたしは、あの人の想いに応えたかった。

 あの人が望んでくれるわたしでいたかった。


 なのに、あいつらはあの人を傷つけた。奪おうとした。


 全部いらない。

 全部、水の底に沈めてしまえばいい。

 誰もあの人を傷つけられないように。


 ――何言ってんだ、そんなこと出来るか!


 俺が叫ぶ。


 人殺しなんてしたくない。

 沈めるって、俺の中にだろ。自分の中で人が死んでいくなんて、見たくない。


 ――いいえ、私は人を見捨てない。


 私が言う。


 このままでは、人は争い、傷つけ合い、救われない。

 黒い災いはなお広がり、人を侵し続ける。

 そしてまた、人は私の子を奪い、黄金を求める。


 ならば人に、救いと罰を。

 彼らが望む平穏と永遠を与える。


 すべてを水底へ沈め、黄金に変える。

 そうすれば、壊れない。争わない。黒にも侵されない。

 人は、水底の黄金として永遠になる。


 ――そんなの、ちびを殺された腹いせだろうが!


 俺が噛みつく。


 全部沈めて黄金にする? イカれてる。

 何が見捨てないだ。

 救いたがりの女神様のくせに、考えてることは化け物そのものじゃねえか。


 ――腹いせの何が悪いの。


 わたしが笑う。

 熱を帯びているのに、冷たい笑いだった。


 散々好き勝手されてきたんだもの。今度はこっちの番でしょう。

 全部沈めてしまえば、あの人はもう奪われない。

 全部黄金にしてしまえば、もう傷つかない。

 わたしは、あの人を守れる。


 ――そんなの、まともじゃない……!


 俺の声は、もう悲鳴に近かった。

 こいつらはおかしい。極端すぎる。人間の考え方じゃない。


 沈めるとか、全部黄金にするとか、出来るわけないだろうが。

 今だって裂け目ひとつ塞ぐので精一杯だったのに。


 その時だった。


 深い深い水の底で、何かが、きし、と鳴った。


 細い。けれど決定的な音だった。


 俺はそれを知っている気がした。

 知らないはずなのに、なぜか分かる。

 それはたぶん、俺が俺でいられるために、ほどいてはいけないものだった。


 暗い水のずっと奥。底の見えない穴の先。

 固く結ばれ、ほどけずにいた何か。

 それが、軋んだ。


 ――私たちは、大きな流れと繋がっている。


 私が、静かに言った。


 ――今の力が足りないなら、もっと大きな流れを呼び込めばいい。


 ――ふざけんな! それ、絶対にやばいやつだろ!


 俺が叫ぶ。

 けれど、わたしが甘く囁いた。


 ――あの人を失うくらいなら、わたしがほどけたっていい。


 本気だ。


 こいつらは本気で、それをやる気だ。


 ――そんなの、戻れなくなる。


 俺が絞り出す。


 私が言う。


 ――失い、傷つくこともなくなります。


 その声は、いやに優しかった。


 わたしが重ねる。


 ――はやくしなきゃ、あの人が死んじゃう。


 その瞬間、水域全体で何かが噛み合った。

 すべての水が、一度に呼吸したみたいに脈を打つ。


 どくり。


 大きく、深く。


 地の底まで届く脈動だった。


 森の空気が変わる。

 土が鳴る。

 遠く離れた場所の水面まで、同時に震えたのが分かる。


 俺は――私たちは、その中心にいた。


 意識がさらに沈み、さらに広がる。


 人の目では見えなかったものが見える。

 人の意識では受け止めきれないほど広く、精緻な知覚がひらいていく。


 細い水脈が、地の下で血管みたいに繋がっている。

 黄金で塞いだ場所は、くすんだ灯みたいにいくつも瞬く。

 そこへ黒い染みが滲み、また押し返され、また滲み、せめぎ合っている。


 そしてその全部に、私たちの水が触れている。


 でも、今はもうここにある水だけじゃない。


 泉だった場所の下、流れが交わる結びの場所へ手がかかる。

 ほどいてはいけないと分かっていた結び目が、じわじわと解け始める。

 今までと比べものにならない大きな流れと繋がっていく。


 力が、一気に流れ込んでくる。


 ああ、届く。


 これなら全部に届く。全部へ行き渡る。


 それが分かった途端、わたしが笑った。


 ――みんな沈められる。


 私も頷く。


 ――もう何も壊れないように、黄金へ変えましょう。


 俺は最後の抵抗みたいに首を振る。


 ――やめろ。そんなの、ほんとに戻れなくなる。


 私が言う。


 ――失わずに済みます。


 わたしが囁く。


 ――あの人が悲しまなければ、それでいい。


 私が重ねる。


 ――人間に、浄化と裁定を。


 煩わしい。救いたい。許せない。愛されたい。

 矛盾した意思が、溶け合った濁流に翻弄される。


 ――この森も、こんな世界も、みんな底に沈んでしまえばいい。


 それが誰の声だったのか、もう分からなかった。


挿絵(By みてみん)


◆◆◆◆◆


 その時、聖地と呼ばれた場所の水が、いっせいに震えた。


 始まりは、女神が消えたあの水場だった。


 水面が渦を巻き、裂けた黄金から滲み出ていた黒い濁りが溶けて消える。

 黄金色の光が細い筋のように、渦の内側を走った。

 地面に染みていた水までもが、それに応えるように震えた。


 少女の手の下で、湿った土がじわりと光る。

 兵士たちの足元で、薄く広がった水たまりが揺れる。

 黒い獣の死骸の下で、穢れた土がきらりと光った。


 誰かが、ようやく異変に気付いて叫んだ。

 その声には、抑えがたい畏怖が混じっていた。


 地面からじわじわと水が染み出してくる。

 乾いていたはずの土が、足元から湿り気を取り戻していく。

 その変化に、誰もが思わず足を止めた。


 ぽつり、ぽつりと地面から水滴が浮かび上がる。

 雨が逆巻いたような現象に、誰もが息を呑んだ。


 雫は淡い光を放っていた。

 金色の光は目を奪うほど美しかった。

 なのに、触れてはいけないと本能が告げていた。


 青年に抱えられたまま、少女はようやく顔を上げた。

 指先の下で光り始めた土を見て、泣き顔で息を呑む。

 それが救いなのか、もっと別の何かなのか、少女には判別がつかなかった。


 血に濡れた青年が荒い息を吐いて顔を上げる。

 足元から滲み出し、浮かび上がる水と、その奥で立ち上がる光を見て、目を見開いた。

 誰もが動きを止める中、青年はひとり、傷付いた身体で立ち上がろうとした。


 そして。


 今、浮かび方を知った水は、奮い立ち、沸き立つ――

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― 新着の感想 ―
別人格の真の女神とも言うべきものすることは非常に過激で大雑把だけど、神の裁定ってこういうものだよねとも思う。 できれば選別して欲しいところだけど、アイオリス(とリディア)以外はみんな黄金にされてしまい…
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