73.分水嶺(中編) 〇★
嫌な予感ってのは、たいてい当たる。特に、俺のは。
兵隊の先頭にいる男が、もう一度何かを言った。言葉は分からない。
けど、丁寧そうな顔をしておきながら、譲る気がまるでないのは見れば分かる。
木こり野郎がすぐに言い返す。短く、強い声だった。間に割って入るみたいに。
あの女の子も、怯えた顔のまま何か口を挟んだ。
高い声が、ぴんと張った空気を余計に尖らせる。
何なんだよ、この兵隊ども。何しに来たんだ。
まだ黒いのは漏れてるし、化け物だってそこらにいる。
こっちは身体を保つだけで精一杯だってのに。手伝いに来たんじゃないのかよ。
俺は裂け目へ両手をかざしたまま、どうにか意識を集中させる。
黄金に変えた時と同じ要領で――そう思っても、上手くいかない。
そもそも前にどうやったのか、自分でもよく分かってないものを再現しろって方が無茶だ。
浄化すると漏れ出す黒いのが溶けて、水面が白く泡立つ。
けど、溶かした先から、また別のところから滲み出してくる。
モグラ叩きかよ。しかも、こいつらは黙って叩かれるだけじゃない。
じくじくした痛みを寄越す。ふざけんな。
木こり野郎がもう一度、強い調子で何かを言った。
兵隊どもも退かずに何かを言い返してる。
ちびが桶の中で揺れて、分かってない顔で周りを見回した。
そりゃそうだ。俺だって全部は分かってない。分かってたまるか。
ただ、場の空気と視線の向きだけで、最悪な方向の想像はついてきた。
あの兵隊どもは黄金目当てじゃない。
何を言ってるのかは分からないが、桶を渡せ、みたいなことだろ。
女の子はそれを嫌がって、木こり野郎が庇ってる。
つまり、あいつらの目的は、ちびだ。
そう思った瞬間、腹の中で渦が巻いて、身体の表面にさざ波が走った。
とにかく嫌だって感情が、一気に膨れ上がってきた。
――私の大切なあの子を連れて行かないで。
(“私”じゃない、俺だ。……いや、でも、ちびは関係ないだろうが)
女の子が兵隊どもへ訴えかけるように何度か叫ぶ。結構、度胸あるじゃないか。
兵隊どもの顔つきが次第に変わっていく。図星を突かれたらしい。
流れが変わったな。そう思った瞬間、木こり野郎が動いた。
横合いから飛び出してきた化け物を一撃で片づけながら、女の子に向かって叫ぶ。
たぶん、ちびを連れて逃げろって言ってるんだと思った。
女の子が目を見開く。怖がってる。でも、頷いた。
木こり野郎は本気だ。
ちびをここから離そうとしてる。
――やめて。連れて行かないで。
そう思う私がいる。
でも、ここに置いとくのがまずいことくらい、俺にも分かる。
今の俺はちびまで抱えられない。裂け目を押さえなきゃいけない。
黒いのはまだ増える。どうしたって手が足りない。
分かってるのに、俺の中の“私”の部分は納得しきれない。
桶の中から、ちびがこっちを見て騒ぐ。
『ヤァ! ヤァ!』
――うるさい。行かないで。さっさと行け。待って。黙れ。
俺の中で、ぐちゃぐちゃしたものが一気に暴れた。
木こり野郎がまた何か叫ぶ。たぶん、「行け」だ。
女の子が桶を抱えたまま、水場の脇を走り抜けて茂みに向かう。
その背を、兵隊どもが追おうとする。
木こり野郎が地面に向かって戦斧を払った。
ごしゃ、と嫌な音がして、泥と根がまとめて吹き飛ぶ。
斬ったというより、ほぼ爆発だ。どんな怪力してんだ、あいつ。
木こり野郎が一歩前に踏み出した、その時だった。
また、黒いものが飛び出してきた。
でも、それは獣じゃなかった。
人の形をしてる。
腕が妙に長い。腹のあたりから触手みたいなのが垂れている。
顔も半分は人のままなのに、もう半分は崩れて、泡みたいな黒がぶくぶく漏れていた。
脚も、肩も、輪郭の一部がまだ人間だった。だから余計に気持ち悪い。
「■█■□□■█■□□□□█■■■ッ!!」
そいつは、人間の声が混ざったみたいな叫びをあげた。
思わず、裂け目から意識が逸れる。
何だこいつ。人間、だよな……?
何であんなのがここに――
木こり野郎は迷わず斧を振りかぶった。
そして、一瞬のためらいもなく、戦斧が横薙ぎに振られる。
銀の刃が、黒い泥と肉と骨をまとめて薙いだ。
鈍い手応えが、こっちにまで伝わってくる気がした。
上半身が、下半身とずれて、吹っ飛んだ。
黒い泥が弾け、血や臓物と一緒に木の幹や地面へ飛び散る。
真っ二つだった。
(ひっ――)
助かった。助かった、のに。
怖い。ぞっとした。
人間だったかもしれないのを、あんなふうに。
さっき何か言ってた。もしかしたら助けを求めてたのかもしれない。
俺の浄化なら、戻せたかもしれない――いや、そう思いたかっただけかもしれない。
今の俺にそんな余裕なんてないし、今更どうしようもない。
でも、あいつは迷わず真っ二つにした。
しなきゃ危なかったのは分かるけど、怖いものは怖い。
あんなこと、平然とできる奴だったのか。
この世界では、それが普通なのか。
化け物がいて、武器や鎧とかある時点で、危ない世界なのは何となく分かってた。
でも、俺には、本気の殺し合いなんて、無理だ。
俺の知ってる世界じゃ、こういうのは画面の向こう側の話だった。
遠いニュースの中の、痛ましいけど現実味の薄いもの。
目の前で血と肉が飛び散るのを見せられて、平気でいられるわけがない。
木こり野郎は、飛び散った黒泥を浴びたまま、もう次を見ていた。
すぐそこに人だったものの下半身が転がってるのに、見向きもしない。
今、どんな顔をしてるか分からない。
俺がちびを抱いてるのを、あんな優しい顔で見てた奴が、こんなことするなんて。
頼りになると思ってた背中が、急に得体の知れないものみたいに見えて、怖くなった。
それでも、今はあいつが前に立ってくれないと困る。
あいつが、俺やちびに近付けさせないようにしたんだってくらい分かる。
――じゃあ、俺のせいで死んだみたいなものじゃないか。
俺が動けないから、あいつも動けない。
だから、敵は殺すし、ちびを逃がそうとしてる。
俺がぐずぐずしてるせいで、状況がどんどん悪くなってる。最悪だ。
余計なことばかり思い浮かんで集中できない。
でも、そんなことに気を取られている場合じゃなかった。
※※※※※
桶を抱えた女の子が向かおうとした先から、逃げ道を塞ぐように別の灯りが近付いてきた。
金属の鳴る音。槍の穂先。さっきの連中と似てるのに、微妙に違う。
細かい区別なんかつかない。ただ、また兵隊が増えた。
(まだ来るのかよ……!)
新しく来た連中の先頭が、女の子を見て声を張り上げた。
強い声。止まれ、みたいな調子。
女の子がびくっと止まり、怯えたように首を振る。
元いた兵隊どもが怒鳴り返す。互いの怒鳴り声が二つ、三つ、重なった。
耳障りだった。
この兵隊ども、味方同士じゃないのかよ。揉め事ならよそでやってくれ。
何を言い合ってるのか分からないけど、どっちも俺やあいつの味方じゃないのだけは分かる。
矢をつがえる音がしただけで、心臓が縮むみたいに苦しい。
撃つなよ。撃つんじゃないぞ。人間同士の殺し合いなんか御免だ。
木こり野郎が叫んだ。たぶん、止まれとか、戻れとか、そういう類だ。
女の子は半泣きみたいな顔で、桶を抱えて足をすくませてる。
その時、ひゅっ、と空気が裂ける音がした。
女の子の近くの地面へ矢が突き立った。
(嘘だろ!? 本当に撃ちやがった! そんなことしたら戦争だろうが!)
空気が変わった。さっきまでの「張ってる」どころじゃない。
怒号が響く。弓矢を撃ち合う。槍を構えて前に出る。
もう、完全に戦いが始まってしまった。それも、俺たちを巻き込んで。
矢が飛び交う中、女の子が叫ぶ。
なのに、ちびが桶の中で、きょとんとした声を漏らす。
『マァ……?』
馬鹿、そんな声出すな。目立つな。頼むから今は大人しくしてろ。
兵隊のひとりが、女の子に向かっていって手を伸ばした。
女の子は悲鳴を上げ、身を捩って躱そうとする。
別の手が桶へ伸びる。
先にいた兵隊がそれを払う。誰かが押す。誰かが引く。
黒いのの唸り。人間の怒号。風を切る矢の音。
全部が一緒くたになった。
俺に近寄る化け物を片付けて、木こり野郎が駆けつけようとする。
裂け目を押さえながら、俺は動けないままそれを見るしかなかった。
気を抜くと、身体が崩れそうになる。今、崩れたら次はたぶん創り直せない。
やめろ。
おい、よせ、やめろ。
誰か止めろよ。木こり野郎、どうにかしてくれ。
いや、どうにかしてる。してるけど間に合ってない。
黒いのもいる。人間もいる。多すぎる。何でこうなるんだ。
何で俺はここで裂け目を押さえてるだけなんだ。
人間が勝手にこじ開けたのを、塞いでやってるのに。
その時、風が裂けた。
ひゅっ、と空気が鳴ったのが、やけに遠く聞こえた。
矢だ、と分かった時には、もう遅い。
今度の矢は、人にも地面にも行かなかった。
桶の縁に突き立って、ばき、と嫌な音がした。
桶が大きく弾かれる。
女の子の手が空を掻く。
ちびの小さな身体が、ふわっと浮いた。
時間がゆっくりになった気がした。
ちびの手が空を掴もうとする。
丸い目が、こっちを見た気がした。
『ヤーッ!?』
高い悲鳴。
透明な小さな身体が、ばしゃり、と地面に落ちた。
ひどく軽い音だった。
『ヤーッ、マァマ! ヤーッ――』
地面に落ちたちびの輪郭が、みるみる崩れていった。
泥を吸って透明な身体が濁る。小さな手が、まだ空を掴もうと動く。
角も、ヒレも、顔も、水の塊へ戻っていく。
必死にこっちを見て、叫んでいるけど、形が保てなくなっていく。
水は広がって、土へ染み込んでいく。
待て。
待て待て待て。
何だそれ。何でそんな苦しそうなんだよ。
だって、お前、水じゃないか。崩れても、また戻るんじゃないのか。
――いや、違う。
――俺は戻れても、あいつがどうなのかなんて、何も知らない。
駄目だ、駄目だ。駄目。戻れ。戻れよ。
『マァ……マ……』
最後の声が、泡が弾けるみたいに途切れた。
後に残ったのは、濁った小さな水溜まりだけだった。
どんどん染みこんで小さくなっていく。
見ているだけで心が軋んだ。
さっきまでいた。確かにいた。
私の腕の中にいた。私を呼んでいた。
名前をつけてあげるって言ったのに。
あんなに怖がって、助けを求めていたのに。
助けてあげるどころか、声もかけてあげられなかった。
あの子はもういない。
(違う。俺はあいつの母親なんかじゃない。
ああ、くそ。でも、こんなに悲しい。許せない。俺は、私は――)
――あの子が、死んだ。
――人間が、私の子を殺した。




