70.決壊前夜(前編) ◆★
幼子を抱いたイズミールは、ひどく静かだった。
水面に腰を下ろしたまま、微笑だけは崩さない。
腕の中の幼子へ視線を落とし、時折ぎこちない手つきで撫でてやる。
そのたび御子は嬉しそうに震え、母の胸元へ頬を寄せた。
穏やかな光景だった。
いや、そう見えただけかもしれない。
実際には、彼女は明らかに消耗していた。
水場の底を覆う黄金の鈍い光が、夕闇の残りを受けてぬめるように返っている。
その上に座る彼女の姿は細く、あまりにも頼りない。
あの柔らかな微笑のせいで余計にそう見えるのだろうが、今にもそのまま水へ溶けてしまいそうで、目を離すのが怖かった。
だから私は、戦斧を手にしたまま周囲を警戒し続けていた。
黒禍の気配は、今は薄い。だが、消えたわけではない。あれは唐突に現れる。
彼女が封じ、押し留めたとしても、こちらの都合など待たずにやってくる。
人もまた同じだ。黄金に目の色を変える者がいないとどうして言える。
幼子が母の腕の中から、私へと手を伸ばしてきた。
『マァー』
呼ばれた気がして、私は思わず目を細める。
イズミールはそんな私をちらりと見て、微笑のまま何かを言って、頷いた。
言葉は分からないが、苦笑めいた気配で「応えてあげて」と言っているように感じた。
私は喉の奥で小さく息を飲み込み、頷き返す。
これが、このまま続けばいいのにと、そんな不遜なことを考えた。
イズミールと、その子らと、その傍らに立つ自分。
黒禍も、人の欲も、噂も、権力も、何も届かぬところに、この温かく小さな輪だけを閉じ込めて守れたらと。
だが次の瞬間、その願いは断たれた。
イズミールの肩が、びくりと跳ねた。
抱かれていた幼子が驚いたように顔を上げる。穏やかな微笑は変わらない。
なのに、彼女の内側を駆け抜けたものの鋭さが、私にまで伝わってきた。
――痛みだ。
「イズミール?」
呼びかけるより早く、彼女は立ち上がっていた。
幼子を抱く腕がきつくなり、水面がばしゃりと鳴る。
彼女は胸の辺りを押さえるような仕草をして、それから森の一点を指差した。
水がざわめく。彼女の足元の水面が、落ち着きなく波打つ。
またか。
お前たちは尚も彼女を苦しめるのか――
私は水場が黒禍の浸蝕を受けたのだと思っていた。
だが、彼女の様子は今までとは明らかに違っていた。
首を横に振り、額に手をやった。
頭を押さえるその仕草は、ひどく人間じみていた。
そして、身を寄せてくる幼子をそっと引き剥がした。
幼子は不安げに母を見上げ、声をあげる。
『ヤー……?』
イズミールは幼子を傍らの桶に入れ、短く何かを言った。
宥めるようでもあり、自分に言い聞かせるようでもあった。
意味は分からないが、苛立ちと焦りは分かった。
そして、小石を一つ拾い上げると、私の方を見てから、それを水底の黄金に叩きつけた。
ばしゃん、と水が跳ね、石と黄金のぶつかる鈍く硬い音が小さく響く。
「イズミール!? 何を――」
彼女はもう一度、私を見てから、再び黄金を石で叩き、もう一度、森を指差した。
私の中で疑問が疑惑に、そして確信に変わった。
今、彼女が知らせようとしていることは、単なる黒禍の出現ではない。
黄金の封印が破られたのだ――
咄嗟に口を押さえ、激情を呑み込んだ。
今、私がすべきことは激高でも闇雲な突進でもない。抑えねば。
黄金を目にした誰かが、欲に駆られて掘り返す可能性をもっと考えるべきだった。
だが、時間も人員も足りなかった。
サルディスに後を任せたが、今、把握している三か所以外の場所かもしれない。
すぐに向かわなければならない。
だが、この水場の黄金をそのままにすれば、繰り返しになりかねない。
私は斧を地面に振り下ろした。
イズミールが驚いたように僅かに身を引いたが、私はそれを何度か繰り返して地面を掘り起こした。
掘り返した土を両手ですくって彼女へ近付くと、イズミールは意図を察したようだった。
彼女は水面を滑るように移動し、黄金と泥を順番に指差してから、小さく頷いた。
やはり、彼女は聡い。
サルディスは若い精霊だと言っていたが、人の欲がどこへ向かうのか、彼女はよく知っているように思えた。
私は水底の黄金を泥で埋め立てる。
イズミールが身震いし、幼子が桶の中で暴れながら『メー!』と叫ぶ。
水を汚す行為は彼女たちにとって、嫌悪か抵抗があるのだと思う。
だが、私には分かる。
イズミールは今、それ以上の痛みを覚えている。
苦痛に耐えながら、また私にすべきことを伝え、助けを求めている。
それに応えきれずにいる自分の不甲斐無さが赦せない。
焦燥を押さえながら土を掘り起こし、黄金の上に盛っていく。
埋め立てを済ませた後、彼女は幼子に何かを言い聞かせ、頭を撫でた。
接し方からぎこちなさが抜けてきているのが分かる。
それがたまらなく胸に詰まる。
彼女は私の方に向き直り、頭を下げた。
感謝か、謝罪か、要請か……謝らなければいけないのは私の方だというのに。
最後にもう一度、森の方を指し示し、イズミールの身体は水に還った。
痛みの先へ向かったのだと分かった。
『マァマ! ヤーッ! ヤーッ!』
母が姿を消すと同時に、幼子が泣き出す。
桶を持ち上げて、小さな背中に手を添えて宥める。
「分かっている。分かっているから……頼む、イズミールの元へ導いてくれ」
私が声をかけると、幼子は身体を震わせた後、その小さな手で彼女と同じ方向を指差した。
「……ありがとう。行こう」
『マァ!』
私は桶と戦斧を手に夜の森を走る。
※※※※※
森の中は、日が落ちると本当に暗く、狭い。
枝葉は行く手を塞ぎ、根は足を取ろうと浮き上がる。
水の気配が増していく。
小さな流れ。湿った土。朽ち葉の匂い。その中に、鼻を刺す別の臭いが混じり始めた。
鉄錆びた血のような、甘く腐ったような臭いだ。私は舌の奥に苦いものを感じた。
やがて、木々の隙間の向こうに鈍い照りが見えた。
黄金だ。
辿り着いた瞬間、私は言葉を失った。
浅い水場だった。この子が最初に導いてくれた、あの場所だ。
だが昼に見た時とは違う。
水底を覆っていた黄金の一部が不自然に裂け、落ち葉の形をした表面がこじ開けられている。
その継ぎ目から、泥とも血ともつかぬ黒いものがじわじわと滲み出し、水底をまだらに汚していた。
水際の泥には、深い靴跡が幾つも重なっている。
散らばった小刀。ノミ。血の跡。掘り返された痕。削り取られた黄金の欠片。
黒禍が黄金を食い破ってきたのではない――人間が壊したのだ。黄金を手にするために。
やるせない怒りが胸の中で荒れ狂う。
彼女がどれほど身を削って押し留めていたのかも知らず、知ろうともせず、ただ黄金を剥がしたのか。
その結果が、これか。
私は奥歯を噛み締め、斧の柄を強く握り込んだ。
怒りや憎しみに囚われている場合ではない。
イズミールの気配は確かにここへ続いていたのに、姿が見えない。
間に合わなかったのかと、胸が冷えた。
辺りを見回したその時、周囲から異質な気配が立ち上った。
反射的に桶を足元に置いて戦斧を構える。
血と蜜を煮詰めたような腐臭が漂ってくる。
――来る。
そう思った瞬間、黒い塊が茂みから飛び出した。
獣のような四足。だが形は定まらず、毛皮の代わりに泥がまとわりつき、顔の半ばは溶けたように崩れている。
目のあるべき場所で赤黒い光がぬらりと灯った。
私は踏み込み、横薙ぎに戦斧を振るう。
重い手応え。だが肉ではない。濡れた根を叩き切ったような鈍い抵抗の後、黒い塊が大きく弾けた。
飛び散った泥が木の幹へ張り付き、その表面をじゅう、と腐らせる。
獣は半ばを削がれながらも、なお二、三歩とよろめき、こちらへ爪を立てようとした。
私は柄を返し、頭部らしき位置へ叩き込む。今度こそ形が潰れ、黒い泥となって崩れ落ちた。
だが終わりではなかった。
森の奥で、低く、濁った唸りが重なる。
一頭ではない。
裂け目から漏れ出した黒禍が、すでに森の獣を取り込んでいるのだと分かった。
どこからともなく葉擦れが走り、左右の茂みが不自然に揺れる。
幼子は不安げに水面を震わせ、母の名を求めるように声を上げる。
『マァ……マァ……』
私は桶を庇うように立ちながら、名を呼んだ。
どうか無事であってくれと強く願う。
「イズミール!」
すると、水場の中央で、水が持ち上がった。
いや、ただの水ではない。
黒禍に汚されながらも、なお透明さを残した水が、無理やり形を取ろうとしている。
美しい人の輪郭。角とヒレ。細い腕。長い髪。見慣れた姿。
だが、その現れ方はひどく緩慢だった。
いつものように滑らかに立ち上がるのではなく、何度も崩れかけ、形を失いながら、ようやくそこへ身体を引きずり上げてくる。
衣が形を保てずに流れ落ちる。枝角の片方が溶け崩れたまま戻らない。
『マァマ!』
幼子が桶の中から母に向かって手を伸ばし、水流を放った。
水はイズミールの身体に吸い込まれ、崩れかけた箇所を僅かに整える。
代わりに幼子の身体が小さくなっていく。身を削って母に水を分け与えているのだ。
水場の大半はまだ黄金で塞がれている。そこへ黒禍が滲み出している。
彼女にとって、ここに姿を現すこと、身体を保つこと自体が、苦痛でしかないのだと見て取れた。
――それでも、あの微笑だけは変わらない。
そのことが、余計に胸を締めつけた。
彼女はふらつきながらも裂けた黄金へ手を伸ばした。
指先が触れた途端、ぶわ、と白く泡立つ。黒い濁りが悲鳴を上げるように痙攣し、押し返される。
だが同時に、彼女の腕も大きく揺らぎ、輪郭を失いかけた。
「イズミール、無理をするな!」
叫びながら、私は横手から飛び出してきた二頭目へ斧を振るう。
今度は鹿だったものだろう。角の半分が黒い枝のように捻じれ、腹は裂け、内側から泥が滴っている。
足元の桶を守るため、躱すことはできなかった。
戦斧を打ち込み、突進を正面から受け止め、その勢いのまま横へ押し崩す。
泥にまみれた胴が地面へ転がったところへ、私は斧を振り下ろした。
黒い泥混じりの返り血を浴びる。肌からじくじくと黒禍が染み込んでくる不快感がある。
だが、そんなものを気にしている暇はない。桶にも水場にも近づけるわけにはいかなかった。
背後から鋭い水音が響いた。
急いで振り向くと、イズミールが水を槍のように細く伸ばして、空から近付いてきた鳥に向けて放っていた。
地に墜ちた鳥は、頭と翼が既に鳥ではなくなっていたが、水に触れたところから、僅かに元の姿が垣間見えた。
だが、浄化しきれていない。水が足りていないのだ。
私はその鳥が黒に再び飲まれる前に、斧を振るって叩き潰した。
彼女はこの命を救いたかったかもしれないが、私が救いたいのは彼女自身だ。
イズミールは湧き出す黒を押し返し、裂けた封を塞ごうとしながら、さらにこちらを助けようとしている。
無茶もいいところだった。そのたびに彼女の姿が薄くなる。
「イズミール、もういい! ここから逃げてくれ!」
鼠や兎だったと思われる小型の獣が、黒い泥を垂らしながら足元をすり抜けて行こうとする。
戦斧でまとめて薙ぎ払いながら、彼女に叫ぶ。
その時、桶の中から幼子が声をあげた。
『マァーッ! マッ!』
母を呼ぶ叫びではないと感じた。それに重なるように、人の足音がある。
軽い。けれど迷いのない、夜の森を駆けてくる足だ。木々の合間から覗く松明の灯り。
「アイオリスさん! その子も、女神様も、ご無事で……っ」
茂みをかき分けて現れたのは、息を切らしたリディアだった。
髪は乱れ、頬には枝で切った細い傷がある。それでも目だけは強く、まっすぐこちらを見ている。
「リディア!? 何故ここに――」
「後です! こっちも大変なんです、偉い人たちが変で、黒禍まで出て――っ」
言い終わる前に、彼女は現場を見て息を呑んだ。
裂けた黄金。黒い濁り。イズミールの不安定な姿。崩れた獣の残骸。
「……ひ、ひどい」
小さく漏れたその声が、怒りより先に痛みを含んでいた。
その間にも、森の奥でまた唸りが重なる。
数が増えている。
互いの状況を詳しく話し合っている暇はない。
私は一瞬だけ考え、すぐに決めた。このままでは守り切れない。
水の幼子は桶から動けない、イズミールは封を押さえるので精一杯だ。
私は桶を掴み、リディアへ突き出した。
「リディア、この子を頼む」
「えっ」
「封印が破られた。イズミールの傍には近づきすぎるな。
だが、この場を離れすぎても駄目だ。見える位置にいて、異変があったらすぐ呼べ」
手短な説明にリディアは桶と私の顔を交互に見た。
躊躇いと責任の重さに顔が強張る。だが、その目は逃げなかった。
「わ、分かりました!」
両手で桶を受け取る。
幼子は不満そうに水面を揺らし、母の方へ身を乗り出した。
『マァマ! ヤーッ!』
イズミールもその声に一瞬だけ振り向いた。微笑は崩れない。
けれど、引き留めたいような、今はそちらまで手が回らないような、複雑な感情が薄く伝わる。
私は短く頷いた。
「大丈夫だ。私がついている」
誰に向けた言葉だったのか、自分でもよく分からなかった。
次の瞬間、茂みを突き破って新たな獣が飛び出してきた。
猪だったものだろう。まだ"なりかけ"だ。
肩から背にかけて黒い泥が盛り上がり、片目の代わりに裂けた傷口が口のように開いている。
私はそれを迎え撃ち、斧で首を斬り飛ばし、その背骨に食い込んだ黒へも刃を叩き込む。
遺骸を蹴り飛ばし、他の遺骸や黒い泥から遠ざける。
生きているものも、生きていたものも、こいつらは呑み込む。
敵を増やさせない。強くさせない。
確実に殺し、徹底的に壊す。そのために、この戦斧を選んだ。
だが、今は深淵を殺すためだけに振るっているわけではない。
守るために、こいつらを殺す。
背後でリディアが桶を抱えたまま後退する足音がした。
あの子の泣き声が遠ざかる。イズミールが再び封へ意識を戻す。
水音と獣の唸りと、黒い臭いが混ざり合う。
その混沌へ、新たな灯りが差し込んだ。
最初は松明の揺れだと思った。だが違う。数が多い。
森の奥から一直線に近づいてくる複数の灯火。統率された足音。金属の擦れる音。
兵だ。
私は獣を弾き飛ばし、息を乱したまま顔を上げた。
木々の間から現れたのは、ペリエレスの兵たちだった。
槍兵、弓兵からなる複数の小隊。間合いを保ちながら黒禍を狩ることを意識した編成だ。
この水場の異変を追ってきたのか、それとも――
助かった、と一瞬だけ思いかけた。
先頭の男は、見知った顔ではなかったが、居合わせた私たちを見て、目を瞠った。
そして、その目がリディアの抱える桶へ向けられた。少女は息を吞み、身を強張らせた。
男の顔に僅かな逡巡の色が浮かんだ。
副官と思われる男と目配せを交わしている。
嫌な予感がした。
「……御子様は、こちらで保護いたします」
丁重だが冷えた声音だった。
リディアが思わず後ずさる。私は眉を寄せた。
「何を言っている」
「事態は深刻です。
魔樹はまだ見つかっておらず、浸蝕がどこまで広がっているかも未知数です。
それ故、御子様をこちらで保護するようにと、命令を受けております」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。
違う。
彼らは、ただ助けに来たのではないと直感した。
保護、と口にしながら、その目は「資源」に向けるものだ。
イズミールの目の前で、彼女の子にそんな目を向けるのか。
この期に及んで、自分たちの利や権威を優先するつもりか。
リディアはこれを報せるために来たのだと遅まきながら気付く。
強張った表情でリディアが桶を抱きしめる。
幼子が私やイズミール、リディアを交互に見て小首を傾げた。
『マァー……?』
緊迫した空気の中、幼く無邪気な声が響いた。
私の手の中で、戦斧の柄がきしんだ。




