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69.夜の底から災禍が湧き出る ◆★

 夜の森は、昼とはまるで別の場所だった。


 空を覆う枝葉が月の光を細く裂き、地表へ落ちる前に呑み込んでしまう。

 木の根は黒い蛇のように土の上を這い、下生えは膝を取ろうと伸び、湿った空気は肺の奥へじっとりとまとわりつく。

 昼なら水面の照り返しで気づける小さな水場も、今はただ闇の溜まりとしか見えない。


 その闇の中を、カストールは小隊を率いて進んでいた。


 灯りは絞っている。前に一つ、後ろに一つ。

 左右に散った兵たちは、月明かりにもならぬ薄い光を頼りに、足元と周囲を交互に睨んでいる。

 人数が足りていないことは、誰の目にも明らかだった。


 その少なさを、隣を歩く老魔術師は最初から不満として隠さなかった。


「これでは夜の散歩だな」


 低く、だがはっきりとサルディスが言う。

 杖で根を避けながら歩く横顔に、遠慮はない。カストールは前だけを見たまま、短く返した。


「声を落としていただきたい」


「これ以上落としたら独り言にもならんわ」


 返答もまた遠慮がなかった。


 カストールは眉を寄せたが、言い返しはしなかった。言われなくとも分かっている。

 人手が足りないことくらい、隊の誰より自分がよく知っていた。


 御子に導かれて最初に辿り着いた黄金化済みの水場。

 サルディスは、その場所をカストールらへ示し、はっきり口にしていたのだ。

 黄金のある場には見張りを置け、と。そこがもう安全だと考えるのは浅はかだ、と。


 だが、すべてには置けなかった。


 聖地には水場が多すぎた。外縁部だけに限っても兵が足りず、詰所の守りも要る。

 そのうえ、女神と聖者が現れ、黄金の存在をカストール自身が確認した水場の方が、優先順位は高いと判断された。

 理屈は立つ。立つからこそ、カストールも異を唱えきれなかった。


 それでも、その判断が喉につかえているのは確かだった。


「夜目の利かぬ兵をこれだけ連れて、しかもこの暗さだ。

 水場の数を考えればまるで足らん……他の部隊とやらはまだ来んのか」


 サルディスの声には、責めるというより、呆れがあった。


「……囲うべき場所が多すぎる」


 他の部隊、という言葉がカストールの胸に刺さる。


 だが、それを顔にも声にも出すことはできなかった。

 マグネス、クレテウス、デイオン。ほかの都市の部隊へは、協力要請自体を出していないからだ。


 この一件は、ペリエレスの主導で収める。

 それが上の決定であり、その方針をこの老魔術師へ明かすことはできなかった。


「それは理由にはなっても、言い訳にしかならん」


 老魔術師は即座に切った。


「そもそも探しておるものは、地上へ突き出た幹や枝葉ではなく、水の底や地の下にあるやもしれんと言ったはずだ。

 夜の森で水場を巡って歩くなら、なおさら数が要る」


 カストールは無意識に奥歯を噛んだ。サルディスの言っていることは、間違っていない。


 聖地の浸蝕は複数の水場で続いている。

 女神は黄金でその流れを堰き止めているが、それは応急措置に過ぎず、自らの力の源まで封じるやり方だ。

 魔樹もまた、空へ伸びるばかりではなく、下から広がっている可能性がある。


 そこまで聞かされれば、カストールにも分かる。これは、ただ森を見張れば済む話ではない。

 だからこそ、今こうして夜の森を小隊で歩いていること自体が、どこか噛み合っていないと感じる。


 その時、老魔術師が足を止め、声をあげた。


「……待て」


 不平や皮肉ではないことは、その声と表情の硬さが物語っている。

 カストールは嫌な予感を覚えつつ、兵に止まれと命じた。


「……霊子が乱れておる。水、だけではないな……土に木、風も騒いでおる」


 魔術師の感じている気配は、カストールには理解できない。だが、続く言葉は想像がついた。


「――黒禍であろう。あちらだ」


 指し示した方角は、サルディスたちが最初に辿り着いた黄金がある辺りだった。


 カストールは弁明せず、頷いた。サルディスも無駄口は叩かない。


 一行は夜の森を急ぎ進んだ。

 誰も余計な口を開かない。兵たちは浄化の水の祝福を受けた武器を、縋るように強く握りしめていた。


「副長」


 先を行く兵が立ち止まり、抑えた声で呼んだ。


 全員の足が止まる。


 兵の指差す先、木々の隙間の暗がりの中に、かすかな光の反射があった。

 松明の灯りを受けて輝くのは水だけではない。黄金色の鈍い照りに、誰かが息を吞む。


 カストールが息を整える横で、サルディスが杖先をそちらへ向ける。


「……ここだ」


 苦々しい声だった。カストールは兵たちに周辺警戒を命じ、慎重に近づく。


 夜の冷えの中で、その場所だけが妙に湿っているように感じられた。

 水の匂いに混じって、鼻をつく生臭さがある。鉄のような、腐りかけの甘さを含んだ、嫌な臭いだった。


 灯りを一つ寄せる。


 水場の縁で、カストールは膝を折った。


 まず目についたのは、踏み荒らされた泥だった。

 昼にはなかった靴跡が、水際に幾つも残っている。大きさと歩幅から見て男のものだ。

 しかも一人ではない。向きも重なり方も違う。

 少なくとも二人がここへ来て、揉み合うか、慌てて動いた痕跡がある。


 泥の上には黒ずんだ染みもあった。乾きかけているが、まだ新しい。


「血か」


 誰かが囁く。


 サルディスはしゃがみ込みもせず、水場を睨んだまま言った。


「それだけではないわ」


 杖先が水面へ近づく。触れはしない。その一寸手前で、浅い水がぬたりと揺れた。


 灯りをさらに寄せた兵が、短く息を呑む。


 底に貼りついた黄金が、傷ついていた。


 黄金と化した泥や葉の蓋。その一部が不自然にめくれ、継ぎ目が裂かれている。

 刃物を差し入れてこじったとしか思えぬ痕が、素人目にも露骨に残っていた。


「……やってくれたな」


 サルディスが呻くような声をあげ、杖を固く握りしめた。


 裂けた継ぎ目の奥からは、黒い濁りがじわじわと滲み出ていた。

 泥とも血ともつかぬ、ぬめる闇だ。

 黄金そのものを押し退けることはできないのか、僅かな隙間に集まっては溢れ、水底をまだらに汚していく。


「女神の封印を壊した愚か者がおる」


 兵たちの顔から、夜気とは別の色が引いた。カストールもまた、喉がひどく乾くのを感じた。

 誰がやったかは分からない。だが、何のためかは考えるまでもない。


 黄金のためだ。


「黒禍は、触れたものを侵しながら広がる。手近な生き物を捕らえれば、なお早いぞ」


 サルディスの低い声が続く。


「封を傷つけた者が浸蝕されておるなら、もう別の動きが始まっているやもしれん」


「副長殿」


 サルディスが振り向く。


「事は一刻を争う。女神でも聖者でも、どちらかに伝える必要がある。

 ここが最初に見つけた場所だが、おそらく他にも封じた水場がある。

 ここが傷つけられたということは、他もいつ掘り返されてもおかしくない」


 カストールはその言葉に頷きかけ――喉の奥で、ぴたりと動きを止めた。


 ――他陣営と接触するな。


 ――現状を漏らすな。


 ――余計なことを悟らせるな。


 隊長オイバロスの声が、思考の底から浮かび上がる。

 そして、そのさらに奥にもう一つ。


 ――サルディスが逆らうなら、弟子の身柄を押さえていることを思い出させろ。


 カストールは拳を握り締めた。


「……上へ報告する」


「それでは遅いと申しておる」


 サルディスが振り向く。その目に苛立ちが宿った。


「昼、儂は見張りを置けと言ったが、置かれなんだ。その結果がこれだ。

 今この瞬間にも、同じことが起きておるかもしれん……聖地が落ちるぞ」


「分かっているっ」


 返した声が思ったより強くなり、自分で自分に驚いた。

 兵たちがこちらを見る。カストールは息を吸い、低く言い直した。


「……分かっている」


「分かっておる者の顔ではないな」


 サルディスの言葉は静かだった。静かだからこそ刺さる。

 カストールは視線を逸らしかけ、こらえた。


 ここで何も言わなければ、この老人はさらに踏み込んでくる。


 口にせねば止められない。


 あまりに後ろ暗いその言葉を、カストールは喉の奥で噛み砕いた。

 倫理と軍規が、鈍く軋んだ。


「御弟子殿は……」


 それでも、言うしかなかった。


「彼女は詰所に残ってもらっている」


 サルディスの眼がすっと細くなる。


「知っておる」


 カストールの言葉は脅しの形をしていない。

 だが、サルディスはそこに含みがあることを察した。


「……今は、勝手な動きは控えていただきたい」


「……そういうことか」


 老魔術師の声から熱が消えた。理知的な瞳に浮かぶ失望の色。

 怒鳴りもしない。責め立てもしない。ただその一言で、夜の森の空気がさらに重くなった。


 カストールの胃のあたりが、鈍く締めつけられる。


「だがな、私はアイオリス殿に頼まれておる。それを――」


 サルディスが再び口を開く。その顔には反骨心が垣間見えた。

 どうか、それ以上は口にしないでくれと、カストールは思わずにいられなかった。


 あの年若い少女を盾にしてまで、押し進めねばならないことなのか。

 そう思わずにいられない。


 それでもカストールは知っている。かつての同胞、城塞都市オルセイスが辿った末路を。

 ペリエレスで同じことを起こすわけにはいかない――その焦りが、非道と知りながらも命令へ従わせる。


 その時だった。


 森の奥から、濁った咆哮が響いた。

 獣とも人ともつかぬ、喉の潰れたような声。遠いようでいて、耳の奥を直接掻くように近い。


 兵たちが一斉に身構える。槍が上がり、抜きかけた剣の鍔が鳴る。


 サルディスは水場から目を離さず、短く呟いた。


「……遅かったか」


 咆哮は二度目に、少し近くなった。カストールは剣の柄へ手をかける。


「隊形を詰めろ。灯りはそのまま。撤収する!」


「……撤収、だと?」


 サルディスが振り向く。


「現場を押さえずにか」


「ここで潰されれば、何も持ち帰れん!」


 カストールは短く答えた。


「今の人数では足りない。詰所へ戻り、報告を上げる。増援を要請する」


 本音だった。

 同時に、それが言い訳でもあると自分で分かっていた。


 サルディスは何か言いかけた。

 だが三度目の咆哮が、今度は明確に近く響いたことで、言葉を飲み込む。

 前衛の兵が怯えを押し殺しきれぬ声で告げる。


「副長、来ます!」


 カストールは最後にもう一度、水場を見た。


 こじ開けられた黄金。血の跡。人の足跡。裂け目から滲み続ける黒い濁り。


 これは偶然や事故ではない。

 人の欲や無知が壊したのだ。


 その認識が、鉛のように腹へ沈んだ。


「戻るぞ」


 命令とともに、一行は来た道を引き返し始める。


 その背後で、水場の底がぬたりと脈打った。


 夜の森は深く、暗く、そして静かだった。


 その静けさの向こうで、既に何かが、こちらの遅れを待っていたかのように動き始めていた。


◆◆◆◆◆


 天幕の布は分厚く、外の気配を妙に遠ざけていた。


 リディアは用意された椅子ではなく、隅に積まれた木箱に背中を預け、膝を抱えて座っている。


 ――夜の森に子どもを連れていくわけにはいかない。ここで休んでいろ。


 そう言われて通されたこの天幕の中には、寝台も毛布も水差しもあって、見た目だけなら丁寧だった。けれど、入口の外には兵が立っていて、危険だから出歩くなと何度も念を押された。


 御師匠様は、ここに連れてきた人と一緒に森へ向かった。

 女神様を困らせている魔樹を探すためだという。


 黒禍は怖い。

 それでも、私も御師匠様と一緒に行きたかった。

 アイオリスさんがあんなに必死になって助けようとしている女神様の力になりたかった。

 案内してくれたあの子が、お母さんと一緒にいられるようにしてあげたかった。


 御師匠様ほどじゃないけど、自分だって水の霊子や黒禍を感じ取って案内できる。

 そう何度も言った。


 でも、それを言うたびに兵たちは困った顔をして、同じことしか返さない。


「危険ですので」

「命令ですので」

「少し待ってください」


 そう言われて、もう随分経った気がする。

 リディアは何度目か分からないため息を飲み込んだ。


 その時だった。外が急に騒がしくなる。


 怒鳴り声。足音。馬のいななき。布越しでも分かるくらい、空気がぴんと張った。

 何事かと入口へ寄って外へ出ようとすると、兵士が慌てて制してきた。


「中に戻ってください」


「あの、何があったんですか?」


「他所の部隊です」


 その答えに、リディアは目を瞬いた。


 他所。つまり、このペリエレスっていう都市以外の場所から来た兵士たちだと思う。

 アイオリスさんは、皆で魔樹を探してほしいって頼んでいた。

 少し……いや、だいぶ遅い気もするけど、本当ならすぐにこうなるはずだった。


 けれど、外から聞こえてくるのは苛立った大声だった。


「何故、聖地外縁を貴殿らだけで封鎖している」

「女神と黄金を見たという報せが入っている」

「説明を求める」


 リディアは思わず布の隙間から外を覗いた。


 松明の赤い光の中、見慣れない紋章をつけた兵たちが詰所の前で詰め寄っている。

 その向こうに、昼間見た偉い人――オイバロスがいた。


 落ち着いた顔で応じているが、何を言っているのかまでは聞き取れない。

 ただ、言われた相手が納得していなさそうなのは明らかだった。


「ペリエレスは聖地を独占するつもりか」


 そんな声が聞こえたと思ったら、天幕の入り口に人が立って、視界を塞がれた。


「中へ」


「あ、あのっ! アイオリスさんからのお話、ちゃんと伝わってるんですよね?!」


 そう聞いた瞬間、兵の顔がわずかに固まった。

 ほんの一瞬だった。けれど、見逃せるほど鈍くはない。


 あ、と思った。

 ああいう顔は、何か隠している時の大人の顔だ。


「……心配ありません」


 間があった。


 その間だけで充分だった。


 何かがおかしい。


 伝わっているなら、どうして御師匠様だけが連れて行かれたのか。

 どうして私はここに留められているのか。

 どうして隠すみたいな真似をしているのか。


 胸の奥に、じわりと冷たいものが広がった。


 その時、森の方から、ぞわりと肌の粟立つような咆哮が響いた。


 人の声ではない。獣とも違う。喉の奥に泥を詰めたような、濁って裂けた声。


 詰所の空気が一変した。


「黒禍だ!」

「来るぞ!」

「構えろ!」

「灯りを上げろ!」


 怒号が飛び交い、外の兵たちが一斉に動く。

 詰問に来ていた他所の部隊も、矛先を森へ向けた。

 さっきまで睨み合っていたのに、黒禍が絡んだ途端に空気が変わる。

 そのこと自体は少しだけまともで、でも、それで安心できるほど状況は軽くない。


 リディアは布を押しのけて外へ出ようとした。


「危険だ! 中に入って、寝台の下に隠れるんだ!」


 突き飛ばされるような勢いで、天幕の中に押し戻される。


 暗がりの向こうで、何かが動いたように見えた。

 目に見えるもの以上に、土や風や、木々にまとわりつく霊子がざわめいている。


 そこに在ってはいけない、ざらついた気配――黒禍だ。

 たぶん、一頭だけじゃない。闇の奥で低い唸りが重なって聞こえる。


 武器や鎧の音、忙しない足音。怒号と悲鳴が一気に重なった。


 混乱の中で、伝令らしい兵が駆け込んできた。


「副長たちはまだ戻りません!」

「南側でも異常が――」

「討伐は済んだのではなかったのか! 何を隠している!」


「後回しだ! 今は防衛を優先しろ!」


 怒鳴り返したのが誰だったのか、リディアには見えなかった。


 でも、その一言だけで十分だった。


 アイオリスさんの話は、受け取られたようでいて、ちゃんと進んでなんかいないんだ。


 御師匠様は危ない場所へ行かされて。

 私は閉じ込められて。

 外では押し問答が続いていて――その上、黒禍までやってきた。


 遅い。何もかも、遅すぎる。

 御師匠様は言っていた。女神様はとても追い詰められているって。


 リディアは拳を握った。


 怖い。黒禍獣も、兵たちの怒鳴り声も、夜の森も、全部怖い。

 でも、それよりずっと嫌だった。

 このまま何も知らされず、何もさせてもらえず、ここで待っているだけなのが。


 あの子の顔が浮かぶ。

 女神様を追いかけようと、桶の中から飛び出した水の幼子。

 必死にお母さんを呼んでいた。


 それから、御師匠様の渋い顔。心配そうな顔。笑ってる顔。

 私のことを子ども扱いして、からかっている時の顔。

 ここを出ていく時は、どんな顔をしていただろうか。


 最後に、アイオリスさんの、真っ直ぐすぎるくらい真っ直ぐな目。

 女神様のことが本当に大事なんだって、見ていれば分かる。

 少しだけ、うらやましいなって思ったのは胸の奥にしまっておく。


 女神様も、あの子も、アイオリスさんも。

 みんなで幸せになってほしい。


 行かなきゃ。ここにいても何にもできない。


 御師匠様のところ――ううん、アイオリスさんのところへ。

 自分が何かの役に立てるとしたら、御師匠様よりアイオリスさんの方だと思うから。


 何とかしてここを抜け出さなきゃ。

 正面は無理だ。けれど、天幕の隙間なら潜れるかもしれない。


 灯りがなければ歩けない。

 でも、灯りを持てばすぐに見つかってしまう。


 それでも、行くしかない。


 黒禍獣の咆哮と兵たちの怒声が、夜の底で混ざり合う。


 ――今なら、抜け出せるかもしれない。


 何かが、もう始まっている。

 だったら待っている場合じゃない。


挿絵(By みてみん)

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