68.黄金の下で黒き災禍は脈打つ ◇◆★
森を裂くように走りながら、私は何度も胸の内で祈っていた。
――どうか、間に合ってくれ。
瓶を手に取って呼びかけたい衝動を抑える。
右手は斧、左手は御子様を運ぶ桶で塞がっている。
どちらも今は、手放すわけにはいかなかった。
何よりも、私が安心を得るために彼女の集中を乱すようなことがあれば本末転倒だ。
だから急いだ。枝を払い、泥を蹴り、肺が焼けるのも構わずに。
木々の間を縫うように駆けるたび、桶が揺れ、水音が小さく鳴る。
水の幼子は桶の縁にしがみついて零れまいとしながら、前方を指差し続けてくれる。
森の暗がりの向こうに、眩い金色の光が見えた。
既に黄金による封印を始めているのだと一目でわかった。
それは、彼女が力を使っている最中だということでもあった。
もし、そんな状況で襲われでもしたら――
私は足を速めた。
最後の茂みをかき分けて飛び出した瞬間、私の目に映ったのは、想像していた惨状ではなかった。
金色の光は既に収まっていた。
浅い水場の底には、夕闇の中でも鈍く分かる異様な輝きが沈んでいる――黄金だ。
そして、沈んだ黄金の上の水面に、彼女はいた。
水面にぺたりと座り込み、微笑を浮かべたまま、肩を落としている。
その笑みはいつもと変わらぬ穏やかなものなのに、だからこそ余計に痛ましい。
あまりに静かで、あまりに細く、今にも水へ溶けてしまいそうで。
――無事でいてくれた。
その事実が胸へ流れ込んできた瞬間、私は大きく息を吐いた。
自分でも気付かぬうちに、戦斧を握る手に入りきっていた力まで抜けていく。
間に合わないのではないか、そう思い詰めていたものが、一気にほどけた。
安堵と同時に、別の痛みが胸を刺す。
また、彼女を一人で立ち向かわせてしまった。
せめて、その傍らで護らなければいけないというのに。
だが今は、悔しさよりも、目の前の彼女が消えていないことの方が何倍も大きい。
私は戦斧を構えたまま周囲を見回した。
黒禍の気配が迫ってはいないか。彼女や黄金に対して、欲を抱いた者が現れないか。
森は不気味なほど静まり返っている。
あの光に鳥も獣も逃げたのだろう。水音ひとつが、妙に鮮明に耳に残った。
ひとまず、危険の兆候はない。
だが、終わったのではない。凌いだだけだ。
そう思いかけたところで、木桶の中から勢いよく水の幼子が跳ねた。
『マァーッマ!』
甲高い声に、彼女の肩がぴくりと揺れた。
私が言葉をかける間もなく、桶の縁から身を乗り出し、彼女へ向かってしきりに両手を伸ばしている。
その声は道中の急かす響きではなく、ただひたすらに、目の前の母を求めるものだった。
私は思わず口元を緩めかけた。
幼子の姿が、胸の奥にどうしようもなく温かなものを灯す。
理屈も、言葉も超えて、この小さな存在が母を求めているのが理解できる。
だが、当の彼女は、幼子の声にひどく狼狽した様子を見せた。
口元の微笑は変わらない。だが、薄く伝わってくる感情は激しく揺れていた。
水面の下でいくつもの波がぶつかり合うような、忙しない感情の乱れ。
そのまま彼女は私に向かって何かをまくしたて、水面をぱしゃぱしゃと叩いた。
言葉は分からない。
それでも今は、薄い膜越しに触れるように、感情だけは少し伝わってくる。
今、届いたのは怒りだった。
しかも、あの神域に姿を現した時と同じ、ひどく人間臭い怒り方だった。
あの微笑は崩れない。それなのに、睨まれている気がした。
静謐な女神の相貌のまま、癇癪を起こした子供のように腹を立てている。
そのちぐはぐさが、私の胸をどうしようもなくかき乱す。
こんな時に、可愛い、などと思うべきではない。
女神を前にして、何を考えているのだ私は。
――不敬だ。
そう自分へ言い聞かせ、私は咄嗟に俯いた。
胸の奥からこみ上げるものを、ただ飲み込む。
その時だった。
『マァマ……メー? ヤー……?』
私と彼女が険悪になったと思ったのだろうか。
幼子が不安げな声をあげた。
桶の中で小さな身体を震わせ、うつ向いた顔から雫がぽたりと零れた。
まずい、と息を呑むより早く。
彼女が動き出した。
水面を蹴るように立ち上がり、ほとんど飛び出すような勢いで私のそばへやって来た。
さっきまであれほど憔悴して見えたのに、その瞬間だけは矢のように速かった。
私は反射的に木桶を差し出していた。
彼女は躊躇なく桶から御子を引き抜くと、そのまま胸へ抱き寄せ、幼子に語りかける。
言葉の意味は分からないが、見れば分かる。
必死になだめ、あやそうとしている。
だが、その仕草は意外なほどぎこちなかった。
穏やかな微笑は慈母そのものなのに、その抱き方はまるで、初めて子供を抱いた者のようだった。
腕の回し方は覚束なく、持ち上げ方は大胆というより少し雑で、背を撫でる指先も加減を探っているように見える。
けれど、幼子はまるで気にしていない。
むしろその腕の中で、安心しきったように身を寄せている。
ぐずり声はすぐに甘いものへ変わり、彼女の胸元へ頬を押しつけて、嬉しそうに震えた。
抱き直す手つきが不器用であればあるほど、どうしようもなく優しく見えた。
私は息をするのも忘れて、その光景を見ていた。
たぶん、私は彼女を思い違いしていたのだ。
いや、たぶんではない。きっと、今もなお、数えきれぬほど思い違いをしている。
彼女は、私が最初に想ったような、ただ静かで遠い慈悲そのものではない。
もっと臆病で、衝動的で、粗雑で、不器用だ。感情を隠すのも上手くない。
怒るし、焦るし、持て余すし、逃げもする。
そのくせ、一人で立ち向かってしまう。
助けを求めるのが遅く、痛みに耐えて、限界まで抱え込んで、それでも困っているものを見捨てられない。
それはきっと、女神だからではない。彼女が「そういうひと」だからだ。
知らなかった彼女の姿を一つ知るたび、惹かれてしまう。
もっと知りたい。
分からぬまま敬うのではなく、近くで見て、間違えて、それでもなお知りたい。
じっと見つめていると、彼女が顔を上げ、こちらを見た。
睨まれている――表情は変わらないが、そう感じた。
見つめ返すと、顔を背けられる。
正面に見えるヒレが、見たことのない動きをしていた。
あれは一体どのような感情なのだろうか。
仕草から言って拒絶ではないのだと思う。
羞恥や困惑だとすれば――駄目だ。自惚れてしまいそうになる。
イズミールは私の視線を遮るように、幼子を雑な手つきで持ち上げた。
彼女は幼子へ言い聞かせるように何かを呟き、御子はそれに元気よく返事をする。
そのたび彼女が少し呆れたように、しかし優しく抱き直す。
その一つ一つが、あまりにも尊かった。
こんなにも満ち足りた気持ちになるのは、いつ以来だろう。
いや、違う。
これはただ満たされているのではない。
怖いのだ。
この光景が壊されることが。
ようやく目の前に現れたこの小さな幸福の景色が、人間の欲や都合、無理解で踏みにじられることが、恐ろしくてならない。
だからこそ私は、胸の内に湧き起る想いを誓いとして言葉にする。
「イズミール。君を――いや、君たちを守りたい」
私の言葉は、きっと伝わってはいない。
母と子の他愛ない――だからこそ、かけがえのないやり取りは続く。
それでいい。
伝わらなくても、私はこれを守りたい。
彼女がふとこちらを見て、何かを言った。
言葉は分からない。だが、そこに宿る感情だけは、かすかに伝わってくる。
困る、照れる、腹立たしい――それでも、突き放しきれない。
その揺らぎの底に、私はたしかに、感謝に似たぬくもりを感じた。
『~~――――――』
張りついた微笑の奥に、はじめて本心のぬくもりを見た気がした。
私が頷くと、真似をするように幼子がこくんと頭を揺らした。
その仕草を彼女が見咎めて何かを告げるが、可愛らしい返事に額を押さえる。
甘えたように首元にしがみつく我が子を抱え直す彼女は、とても安らいで見えた。
――守りたい。
この光景を、そのまま。
彼女と、その子どもたちを。
その輪の内側に自分もいたいと、願ってしまう。
そんな気持ちから、思わず一歩、踏み出してしまった。
彼女が身構えるのが分かった。私もまた、咄嗟に足を止める。
近づきすぎれば消えてしまうのではないか、怖がらせてしまうのではないか、そんな臆病さが身体を縛る。
しかし、母にしがみついたままの幼子がこちらへ手を伸ばした。
『マ!』
腕の中で身をよじりながら、なお私へ手を伸ばす様に、彼女はひどく困ったように私と御子を見比べ、それから何かを不承不承といった様子で、こちらへ歩いてきた。
彼女の方から歩み寄ってくれた。
それだけで、胸が熱くなった。
彼女は子を抱いたまま私の前まで来ると、半ば押しつけるように小さな身体を差し出してきた。
持て余した荷でも押しつけるような雑さが、いかにも彼女らしくて、私は思わず笑いそうになった。
『ヤー! マーッ』
幼子はじたばたと暴れながらも、私と彼女、両方に手を伸ばしている。
彼女の腕の中にいつつ、私にも触れてほしい。そう言わんばかりの貪欲さが、幼いくせに妙にたくましい。
おそるおそる手を伸ばし、小さな頭へ触れる。
冷たい水の感触なのに、そこには確かなぬくもりがあった。
『マッ! ンマッ』
幼子は嬉しそうに声を上げる。
その笑顔の向こうにいる彼女を見た。
微笑のまま、少しだけ警戒し、少しだけ困り、少しだけ安堵している彼女を。
胸の奥で、言葉になりきれないものが溢れた。
森の上では、空の色が静かに変わり始めていた。
黄金が橙へ、橙が赤へ、やがて紫へ沈んでいく。夜が近い。
不穏はまだ消えていない。むしろ、これから濃くなるのだろう。
それでも今、この一瞬だけは、たしかにここにあった。
何よりも大切な者たちの傍らに、私は立っている。
その尊さと重みを胸の奥に刻みつけるように、私は静かに目を伏せた。
必ず守る。
たとえ言葉で伝わらなくとも、この誓いだけは、私の中で微塵も揺るがなかった。
◆◆◆◆◆
日が沈み、森が闇に包まれていた。
アシオスはランタンの灯りを絞り、息を殺して進んでいた。
頭の中では、昼に見た光景が何度も何度も反芻されている。
水場の底を覆う黄金。女神。御子。聖者。兵士ども。
アシオスにとって重要なのは黄金だけだ。
欲深い主は、あれもこれも呑み込むつもりなのだろう。
だが、自分はそこまで欲をかくつもりはない。
この水場の分だけ確保できれば、それだけで人生が変わる。
誰かに使われ、命じられる側のまま、一生をすり減らすだけの人生など御免だ。
(全部じゃなくてもいい……持ち出せる分だけでいいんだ)
そう自分に言い聞かせながら、アシオスは藪を押し分けた。
空はもう、藍と黒の境へ沈んでいる。鳥の声はしない。獣の気配も薄い。妙に静かだ。
その静けさの中で、湿った水の匂いだけが妙に濃かった。
辿り着いた先の浅い水場は、ランタンに照らされ、底だけが異様に明るい。
黄金。
ごくりと喉が鳴る。
アシオスは膝をつき、水面へ手を差し入れた。
指先に触れる水は冷たいはずなのに、妙にぬるついて感じられる。
底に触れると、形だけは泥や葉のように見えるのに、その手触りと硬さは紛れもない金属のそれだった。
「……本物。本物だ」
思わず漏れた声は、ひどく乾いていた。
腰から抜いた小刀の先で、アシオスは黄金の縁を探る。
ぴたりと一枚板のように底を覆っているわけではない。
よく見れば、堆積した落ち葉の形をしている部分に、僅かな継ぎ目が見えた。
そこへ刃を差し込み、こじる。
ぎちり、と重たい感触がした。
刃先へ力を込める。筋に沿って、わずかに黄金が浮く。
爪ほどの幅。だが浮いた。剥がれる。取れるのだ。
興奮で呼吸が浅くなる。
(いける……!)
さらに力を込めると、ぱき、と薄い板を割るような音がして、黄金の葉が一枚、底から剥がれた。
手のひらに乗るほどの大きさ。濡れているのに沈まぬ輝き。
小さく薄いくせに、石ころの倍も三倍もありそうな重みがある。
アシオスの顔が、みっともなく綻ぶ。
「は、はは……」
やれた。やれてしまった。
彼は周囲を見回し、誰もいないのを確かめると、小刀を放り出してノミと槌を取り出した。
最初は音を立てぬように恐る恐る。
だが、継ぎ目に沿って表面の薄い欠片が二つ三つ剥がれると、その慎重さはすぐに消えた。
あと少し。もう少し。いや、もっと。
これさえ懐へ入れて逃げれば――
「それがお前の値段か?」
背後から声が落ちた。
アシオスは飛び上がるように振り返った。
闇の中から、一人の男が歩み出てくる。主ペッシヌスの側近の一人。
いつもと同じ、整った、何を考えているのか読ませぬ顔。
足音ひとつ立てていなかったのかと、アシオスの背筋に冷たいものが走る。
「へ、ヘレノス……」
「泳がせた甲斐があった。お前は実に分かりやすい」
淡々とした声音だった。怒りも嘲りもない。ただ事実を述べる調子が、かえって恐ろしい。
アシオスは反射的に黄金片を背へ隠した。
「ち、違う。これは、その、確認だ。旦那様にご報告する前に、確かめておこうと――」
「そうだろうな」
ヘレノスは頷いた。
「そして確かめ終えた。場所も、採れるということも」
その一言で、何もかも終わったとアシオスは悟った。逃げるべきだった。だが、足が動かない。
「それを渡せ」
ヘレノスが手を差し出す。
「旦那様へお渡しする。それはお前のものではない」
「な、何言ってやがる。俺が見つけたんだぞ!」
「違う。お前は盗もうとしただけだ」
静かな言い方だった。
だからこそ、アシオスはかっとなった。恐怖が怒りの形を取ったのだ。
黄金片を握り締め、ノミをヘレノスへ向ける。
「ふざけるな! 見てるだけの連中が掠め取りやがって! これは俺の――」
言い終わる前に、ヘレノスが動いた。
短く、そして、あまりに速い動きだった。
何が起きたのか理解するより先に、アシオスの腹へ熱が走る。
次の瞬間、遅れて激痛が弾けた。ヘレノスの短剣が深々と脇腹へ差し込まれている。
「……っ!?」
声にならぬ悲鳴が漏れた。
膝が折れ、水場の縁へ倒れ込む。
黄金片を取り落としそうになって、それでも手だけは執拗に握り締めた。
「他にも手をつけた場所があるなら言え」
ヘレノスは短剣を引き抜き、血を払う。その顔には嫌悪も興奮もなかった。
仕事を済ませた職人のような静けさだけがある。
「内容次第では助けてやる」
「ま、待て……待って、助け――」
アシオスが手を伸ばした、その時だった。
水場の底で、何かが脈打った。
二人とも動きを止める。
黄金の継ぎ目。アシオスが剥がしたその隙間から、黒いものがじわりと滲んでいた。
泥のようでもあり、血のようでもある。だがどちらとも違う。
生き物のように蠢き、ぬるりと広がり、泡を吹く。
水が、ぶくぶくと不気味に煮えた。
血と蜜を煮立たせたような腐臭が、水の底から吹き上がる。
ヘレノスが初めて顔色を変えた。
「なっ、これは……」
答える者はいない。
黒い濁りは黄金そのものを押し退けられぬのか、継ぎ目の隙間からじわじわと染み出してくる。
それでも周囲の水はみるみる黒く濁り、汚れが水底一帯へ広がっていった。
アシオスは這い退って水場から逃げようとした。だが傷んだ腹に力が入らない。
黄金と化した水底には指を立てることも掴むこともできず、身体を起こすことができない。
傷口から零れた血が水を赤く染める。
すると、無秩序に広がっていた黒が、血の匂いを嗅ぎつけた獣のようにアシオスへ向かって這い寄った。
「ひぃっ!? へ、ヘレノス! 助け――ぎぃああっ!?」
その叫びの途中で、黒いものが傷口へ触れた。
熱い。
いや、熱いのではない。冷たいのに焼ける。焼けるのに凍る。
そんなあり得ない苦痛が、一気に肉の奥へ流れ込み、身体の内側を食い進んでくる。
アシオスは喉を裂くような声を上げた。
腕に、首に、顔に、黒い筋が伸びて広がっていく。
ヘレノスは一歩退く。二歩退く。
目の前の現象を理解しきれずにいながら、それでも本能で、ここにいてはならぬと悟った顔だった。
地面に落ちていた黄金片を、彼は素早く拾った。
「く、ぞ……返ぜ……ぞれは……おれ、の……ッ」
ヘレノスは答えず、踵を返した。
アシオスは泥と血と黒い濁りの中でのたうち回る。傷口から何かが入り込んでくる。
腹だけではない。脚へ、背へ、喉へ、目の奥へ。
黒い泥が血管の内側を這い回り、骨と肉を別の形に書き換えていく。
指が引きつり、爪が割れ、伸びる。
歯が軋み、口の奥から黒い泡が溢れた。
それでも手だけは、なお黄金片を探していた。見えなくなり始めた視界の中で、奪われた輝きだけを追い求めて。
「おォれレ、の……おォう、ごン……」
言葉は途中で潰れた。
喉が膨れ、裂け、濁った咆哮へ変わる。腕が不自然に伸び、腹の傷口から噴き出した黒禍が肉と絡み合って盛り上がる。水場の縁へ爪を立てていた手は、もはや掴むためのものではなく、引き裂くための鉤へ変わっていた。
「――■█■█■■ッ!!」
森の中へ、獣とも人ともつかぬ声が響く。
ヘレノスはその叫びを背に走った。
息が上がる。足場の悪い夜の森を、枝に頬を裂かれながら、それでも止まらない。胸の内では恐怖が脈打っていた。
あの黄金は危険だ。あれはただの富ではなかった。黒禍を封じ込める蓋だったのだ。
急がねば。
この事実を持って帰る必要がある。まず、主に報せねばならない。
※※※※※
館へ戻る頃には、夜はすっかり降りていた。
灯りの下で迎えたのは、すでに酒の入ったペッシヌスだった。卓には杯と、空になった幾つかの瓶。彼の眼はいつものように冴えているようで、その奥だけがどこか熱を帯びている。
「遅かったな、ヘレノス」
ヘレノスは礼もそこそこに、濡れた布包みを卓へ置いた。布を開けば、鈍く光る黄金片が現れる。
ペッシヌスの眼が細くなる。
「ほう」
「旦那様、あの黄金は危険です」
ヘレノスは息を整える間も惜しんで報告した。
黄金の水場。アシオスを泳がせたこと。
剥がした継ぎ目から黒禍が噴き出したこと。
深手を負わせたアシオスは、その場で浸蝕され、怪物へ変じたこと。
「黒禍です。黄金の下には黒禍が潜んでいました。
あれはきっと封です。女神がいない場では、とても手に負えません」
言い終えた時、ヘレノスは自分の声がいつになく強張っているのに気付いた。
ペッシヌスは黄金片を指で摘み上げる。
酒気を含んだ息の向こうで、その表情は恐怖ではなく、むしろ深い思索に沈んでいた。
「なる、ほど」
彼はゆっくりと頷いた。
「黒禍が湧いた場所に、女神は黄金を残すのか」
ヘレノスは眉をひそめた。
「旦那様、問題はそこでは――」
「いいや、そこだ」
ペッシヌスは笑った。大声ではない。
だが、ぞっとするほど愉快そうで含みのある笑みだった。
「あの女神は黒禍を酷く疎んでいる。黒禍が湧けば、進んで消しにかかる。
そうして、消した跡には黄金が残る。そういうことだろう?」
ヘレノスは返す言葉を失う。
黄金片を杯の脇へ置き、ペッシヌスは酒杯を呷った。
「現れた黒禍は、女神に処理させればいい。
それにアイオリスもいる。あれも決して黒禍を見過ごせない男だ。
あの男が渦中にいるならば、あの女神も日和ってはいられまい」
卓上の灯りが揺れる。黄金片がそれを受けて、ぬめるように光った。
ヘレノスの背に、現場で感じたものとは別の寒気が這い上がる。
「黒禍とは言うが、魔樹という程までは育っていないのだろう?
場所が分かっているならば、深淵殺しどもか、外様の連中を向かわせても良い。
だが、まずは女神が本当に黒禍から黄金を生み出せるのかを確認するのが先だ」
森の奥では今も、アシオスだったものが蠢いている。
深い闇夜の向こうで黒禍が広がりつつある。
だというのに、目の前の男は、それを脅威としてではなく、利用すべき現象として見ている。
「旦那様、それは……あまりにも危険かと……」
ペッシヌスは卓上の黄金へ指先を滑らせ、呟いた。
「あの女神はな、ずっと出し渋っていたのだ。黒禍など物ともしない力を持ちながら、奇跡を小出しにして、自分を高値で売る頃合いを見計らっていたのだろうよ……なら、こちらもそれに乗ってやるまでだ」
酒に濡れたその声は、冗談めいているようでいて、その目は少しも笑っていなかった。
ヘレノスには分かった。
この男は、恐れていないのではない。むしろ、きちんと恐れている。
黄金の下から湧いた黒禍も、女神が自分の思惑通りには動かぬことも、聖者がそこに絡めば話がさらに厄介になることも、すべて理解した上で、それでもなお、自分に都合のいい形に並べ替えようとしているのだ。
分からぬものを分からぬまま恐れることが、この男にはできない。
だから、脅威を利に。災いを商いに。
奇跡を値札に、無理やり置き換え、掌中で転がそうとする。
そうでもしなければ、目の前のものに呑まれると分かっているからだ。
だが、その行いは、今夜ばかりはあまりにも危うく見えた。
ペッシヌスは黄金片を摘まみ上げ、灯りへ透かすように眺めた。
琥珀色の酒と、ぬめるような黄金の光が彼の指先で混ざり合う。
その横顔には、いつもの計算高さの奥に、拭いきれぬ苛立ちがあった。
女神が、自分の作った舞台に乗り切らぬことへの苛立ち。
聖者が女神と結託し、外との繋がり得る位置にいることへの苛立ち。
そこには、利を追求する冷めた論理だけでなく、私怨が見え隠れする。
ヘレノスは何も言わなかった。
言っても届かぬと知っていたからではない。
届いたところで、この男はその言葉すら己に都合よく使うと分かっていたからだ。
卓上の黄金は、灯りの揺れを受けて、まるで生きた目のように光った。
夜は、深まっていく――




