67.黄金色のひととき 〇★
森の暗がりを照らしていた金色の光が収まると同時に、痛みがぴたりと止まった。
ついさっきまで、水底のもっと奥――土の、そのさらに下から這い上がってきていた嫌なざわつきが、黄金で蓋をした瞬間に静まった。
黄金化を起こす時に出る光や水音に驚いて鳥や獣が逃げたのか、辺りは不気味なくらい静まり返っていた。
でも、今はこの静けさがありがたかった。
俺は封をしたばかりの浅い水場の縁へ寄り、そのまま水面に腰を落とした。
足を崩して、ぺたりと座り込む。
底に蓋をしたとはいえ、この水も俺だ。当然、拒まれはしない。
座り心地なんてものはないが、落ち着いて身を預けられる。
地べたよりはずっといい。泥に座ると身体が濁るし、水気を吸われるから最悪だ。
(つっかれた……)
肩で息をする必要なんて、本当はない。
でも、そうしたくなる。
息を吐くみたいに、気を抜きたくなる。
黄金になった水底は、薄暗い木立の隙間から落ちる光を鈍く返していた。
きらきら、なんて綺麗なもんじゃない。
冷えて固まった臓物みたいな、いやなぬめりと重さのある光だ。
助かった証のくせに、見ていて心が休まる類のものじゃなかった。
それに、黄金で蓋をした水場にいると、妙なだるさがある。
俺の源っぽい湧き口が塞がっているんだから、今こうして身体を維持できてるだけでもマシなんだろうが、どこか詰まっているみたいで窮屈だ。
次の痛みは……来ない。
今のところは。
それでも、泣きそうなくらいほっとした。
こういう“切れ間”は少し前にもあった。
でも、これで収まるんじゃないかと期待するたびに裏切られてきた。
だから今回も、期待しすぎないようにしなきゃいけない。
(もう勘弁してくれ……)
座り込んだまま、水面に指先を沈める。冷たさは感じない。
けれど、水に触れていると少しだけ落ち着いた。
この水面も俺だから、自分で自分の背中を撫でているような妙な感じはするが……。
――ぱしゃ、ぱしゃ。
小さな水音を立て、波紋を眺めていると、切羽詰まった足音が近付いてきた。
顔を上げる。
茂みをかき分けて飛び出してきたのは、金髪碧眼のイケメン――木こり野郎だった。
瓶を持ってるからか、近くまで来てるのはなんとなく分かっていた。だから、こっちは驚かない。
けど、あいつは俺と水面下の黄金を見て、露骨にほっとした顔をした。
大きく息を吐いて、それからあのクソデカ戦斧を手に辺りを見回し始める。
飛び出してきた時の強張った顔つきとは、もう別人みたいだった。
あいつが安心した理由は分かる。分かるけど、今は考えないことにする。
どっかの湧き口がどっくんどっくんしてる気がするが、たぶん気のせいだ。
誰かが祈ってるとか、そういうことにしておく。
それにしても、あんな重たそうな武器を持って森の中をよく駆け回れるな、お前。
それに、そんな桶まで提げて――
桶。
そこに意識を向けて、やっと思考が現実に追いついた。
木こり野郎が左手に提げている、見覚えのありすぎる木の桶。
大工どもが社に飾って祀り上げてた、あの桶だ。俺が瓶を入れて湖に浮かべてきたやつ。
それをわざわざ持ってきたこと自体は、まあいい。まだ分かる。
問題は、その中身だった。
桶の中の水が、ぴょこん、と跳ねた。
小さな人型の水。
角とヒレがある、俺のミニチュアみたいな水の塊。
『マァーッマ!』
木こり野郎が持ってる桶の中に、何故か量産型の俺が入っていた。たぶん、湖に置いてきたやつだ。
前の水溜まりで見た時より縮んだか? そいつが桶から身を乗り出して――
――いや、待て。待て待て。違う。そこじゃない。
そんなことより今、あいつ喋ったろ。
喋ってたよな。聞き間違いじゃなくて。
しかも何て?
(……ママ?)
一瞬、思考が止まった。
誰が?
いや俺だな? めっちゃ見られてるわ。
待って、何で……?
何でお前そんなことになってんの?
ていうか喋れるの?
いつから?
は? 怖。
桶の中の量産型は、俺に向かってしきりに手を伸ばしてきている。
その動きがやけに生っぽい。操作してる感じも、演じてる感じもまるでない。
どう見ても、ただの水フィギュアじゃない。
もう完全に、別の何かだ。
『マァー! マッマァ!』
量産型が、また俺の方を見て喋った。
(キャーッ! シャベッタァァァ!?)
心の中だけで叫んだ。
今それどころじゃないから、口には出さなかった。えらい。
お、俺がママ? 男なのに? 水なのに?
ひょっとして量産型って、信者どもから俺の子ども扱いされてた感じなのか……?
(いや、だからって、なんで喋れるようになるんだよ、おかしいだろ!?)
信仰とか何かそういうので? そんなことまで変えられちまうわけ?
いや怖い怖い怖い。ちょっと後で説明してくれ、誰か。
……いや、後で説明できる奴いるのか、これ。
え。じゃあ何?
俺もそのうち、こいつに向かって、
『はぁい♡ 私があなたのママでちゅよ~♡』みたいになっちゃうの?
こわっ。尊厳破壊やめろ、マジで。
まだパパにすらなったことないのに、いきなりママにすんな!
しかも、もっと腹が立つのは、この謎のお子様化した量産型を連れてきた当人の顔だ。
金髪碧眼イケメン木こり野郎が、妙に満ち足りた顔をしている。
実際そうかは知らん。でも、そう見えた。
もうね、ブチギレですわ。
(お前さぁ、何してくれてんだよ)
だから思わず、水面をばしゃばしゃ叩きながら言ってやった。
「おい、木こり野郎、なに感動の再会シーンみたいなホッコリ顔してんだよ!
お前がこんなの連れてくるから、ややこしくなってるじゃねえか!」
案の定、全然伝わらない。
だろうなとは思った。
けど、あいつはあいつで、分からないなりに俺が怒ってるのは察したらしい。
少しだけ目を瞬かせる。
なんか傷ついた犬みたいな顔しやがって。
いや、被害者ぶるな。被害者は俺だ。
あとその顔やめろ。なんか……、とにかくやめろ。
勝手にカウンターダメージを受けていると、更に追い打ちをかけてくる奴がいた。
『マァマ……メー? ヤー……?』
お子様量産型の表面が、ぷるぷると震え出す。
丸い目元みたいなあたりが、しゅん、と下がる。
ぽたり、ぽたりと雫が零れた。
あ……。
ヤバい。
これ。
いや、この子――ガチでお子様だ。
泣く。
そう思った瞬間、胸のあたりに変な熱がぶわっと湧いた。猛烈な罪悪感。
抱っこして、撫でて、優しくしてやらなきゃという、訳の分からない焦りが湧いた。
親愛とか、愛着とか、そういうものまで一緒くたに。
(うわあ! 違う、違う! こんなの俺じゃない、俺じゃないけど、でも……っ)
「お、おー。よーしよしよし、泣くな、泣くなよー。はーい、いいこーだからねー?」
気が付くと俺は水面から立ち上がり、木こり野郎のところまで飛んでいって、桶からお子様量産型を引っこ抜き、抱きかかえて宥めていた。
いや、だって、泣かせるのはまずいだろ。
世間体とか、その、気分的に……。
いや誰に対する世間体だよ。
世間体どころか世界観も分かんねえっての。
けど、腕の中のちっこいのは俺の胸元にぴとっと張り付いて、ぐずぐず震えながらも泣き止んでいく。
軽くて小さい。当たり前だけど水だ。水なのに、あったかい気がする。
その軽さと小ささが妙に頼りなくて、放っておけない感じを増してくる。
抱いて、背を撫でる。
指先がちゃぷんと沈む。
背中って言えるか? これ。
まあ、背ってことにする。
『マ……マァ』
「……ママじゃない。そうじゃないけど、泣くな」
指先がちゃぷちゃぷ言ってるけど、これ大丈夫か? 合ってるのか?
水の子守りの仕方とか知らないんだけど。
いや、俺の子じゃないし、産んでないし。
でも、俺の水から造ったってことは、俺が産んだことになるのか……?
木こり野郎はそんな俺たちを見て、眩しいものを見るみたいな顔をしたあと、ひどく、ひどく柔らかく笑った。
その顔に、また胸の奥がざわつく。
さっきまでとは別のざわつきだ。
あいつの内側から、ふわりと何かが流れ込んでくる。熱っぽくて、静かで、祈りとも違う。
大切なものを目の前にした時の、息を殺すような、でもどうしようもなく満ちる感じ。
守りたい、と。
この光景を、と。
俺と、腕の中のちっこいのを。
それから――なんだ、その、俺の、この、抱き方とか、あやし方とか、そういうのに対して、やけに、やけに。
(やめろ)
思わず睨んだ。たぶん表情は変わってない。気分だ。
睨んだつもりなのに、あいつは余計に目を細めるだけだった。
なんなんだその顔は。
何を見てんだ。
何を勝手に感動してんだ。
いや、うっすらだけど、分かってしまう。分かりたくないのに。
微笑ましいとか。綺麗だとか。……愛しいとか。
そういう温かい感情に混じって、もう少し熱のあるものまで流れ込んでくる。
(や、やめろ……っ)
顔が熱い。
熱くなる仕組みじゃないだろ俺。
なのに耳まで熱い気がするの、なんなんだよ。
耳っていうかヒレだが……なんかパタパタ動いてる!? え、俺、こんな仕様だったか?
俺は胸元にしがみつくちっこいのを少し乱暴に持ち上げて、顔を覗き込んだ。
……なんか、さっきより重くなってないか?
あ。
こいつ、俺から水を持っていきやがったな?
やけにくっついてくると思ったら吸われてたのか。
……まあいい。けしからんけど、子どものやることだ。良しとする。
ほら、暴れんな、こっち見ろ。あの木こり野郎はほっとけ。
「お前なあ……なんなんだよ、ほんとに。なんで喋るんだよ。
なんでそんなに俺に懐いてんだよ。お前、俺の量産型だろ?
量産型っていったら、こう、もっとこう……道具寄りじゃん?
なんでいきなりお子様になってんだよ?」
『マァ?』
「返事するな。会話成立しそうで怖いだろ」
『ンマ!』
「元気よく返すな!」
思わず突っ込むと、ちっこいのが嬉しそうに顔や髪に手を伸ばしてきて、ぱしゃぱしゃさせてくる。
……くっそ。
可愛いな、おい。なんだこいつ。
俺の身体ほど気合いを入れて造ったわけじゃない。
それでも元が俺の造形なんだから、見た目が可愛いのは当然としても、こいつ、なんで表情が動くんだよ。
本体の俺にも実装されてない機能を量産型に載せるな。透明水ボディのくせに生意気だぞ。
ちびっこの頬を突ついてぱちゃぱちゃさせていると、木こり野郎が何かを言ってきた。
「イズミール、□□□□□□□□……」
いつもの、あの穏やかな声で。たぶん、落ち着いたことを。安心させるようなことを。
あるいは俺に向けてか、ちっこいのに向けてか、無事でよかったとか、そんなことを。
言葉は分からない。
でも、調子で分かる。
その声に、腕の中のちびが振り返り、今度は桶の方を指さした。
『マァ! マ!』
「ん?」
つられて見る。
木こり野郎が持っている木の桶。
本来、俺の体も水フィギュアも、水場からそう遠くへは行けない。
なのに、こいつはここまで来ている。あの桶に入って。
理屈は分からない。でも、似たようなものは他にもあった。
瓶や、あの社だ。
祈りを受けた器や場所は、いつの間にか俺の縄張りみたいになって、力が届くようになる。
この桶も、そういうものに変わったんだろう。
じゃあ、俺もあの桶で運ばれたら何処へでも――いや、あんな容積じゃ俺は収まらない、無理だ。
腕の中のちびが、また俺を見上げる。
まるい瞳、透き通った顔。
『マァマ』
さっきより、少しだけ甘えるみたいな響きで。
俺は顔をしかめた。
「……ママじゃないって」
否定したのに、声が弱い。
ちびは全然気にせず、俺の胸元に頬を摺り寄せてくる。
木こり野郎は、またあのどうしようもなく優しい目でこっちを見ていた。
その眼差しから伝わるものに、胸の奥が変なふうにきしむ。
――嬉しい、に近い。
――困る、にも近い。
――逃げたいのに、逃げたくない、みたいな。
――近づかれると腹が立つくせに、いないと困る、みたいな。
そういう、最悪に面倒くさいやつ。
腕の中のちびが、俺の服の裾を模した水の薄膜をきゅっと掴んだ。
その小さな手と、こっちを見つめる金の睫毛の向こうの青と。
全部まとめて視界に入ってしまって、なんだかもう、言葉にならなかった。
静かな時間だった。
さっきまであれだけ痛くて、苦しくて、次が来るかもしれないと身構えていたのに。
その次がまだ来ないだけで、こんなふうに誰かを抱いていられる。
誰かが来てくれる。
俺のいるところまで。
俺を探して。
こんな、ちっちゃいのまで連れて。
訳が分からなくて、怖くて、でも。
怖いだけじゃ、ない。
「……おい」
木こり野郎を呼ぶみたいに、そう言った。
もちろん、伝わるはずもない。
それでもあいつは、すぐに顔を上げる。
俺を見た。
待ってるみたいに。
俺の言葉を聞こうとしてるみたいに。
「……来るの、遅いんだよ」
ぽつりと出た声は、思ったよりずっと弱かった。
「いや、来たけど。来たのは分かってるけど……」
俺は腕の中のちびを抱え直し、視線を逸らした。
こっちを見るな、その顔で。
そんな顔されると、なんか、ほんとに、どうしていいか分からなくなる。
「……でも、ありがとうな……」
通じない。
通じないはずだ。
なのに、あいつは目を見開いて、それからひどく大事そうに頷いた。
頷くな。
分かったみたいな顔するな。
ほんとに、そういうとこだぞ、お前。
胸の奥が、また少しだけ熱くなる。
腕の中のちびが、それを真似るみたいに、こくんと頭を揺らした。
『マ!』
「お前は頷かなくていい」
『マァ』
「可愛い声出すな、ずるいだろ……」
思わず額を押さえる。
その隙に、ちびが俺の腕をよじ登って、首元にしがみついた。
ひんやりした感触。けど嫌じゃない。むしろ落ち着く。
こうしているのが自然だと思ってしまうのが怖いけど、今は安心の方が勝つ。
木こり野郎が一歩だけ近づいた。
思わず身構える。
けれど、あいつはそれ以上無理には寄らず、手を伸ばしてきたりもしない。
野良猫にそろそろ近づくみたいな、遠慮がちな接近。
『マ!』
腕の中のちびが、俺の胸に身体を預けたまま、木こり野郎に手を伸ばした。
こっち来いとでも言うように。
「お前、まさかあいつにも懐いてんのか……?」
ちびに手を向けられて、木こり野郎の気配が柔らかく揺れる。
けど、近付かない。
近付いたら離れるか消えるんじゃないかっていうみたいな、びびりの態度。
ああもう。
俺はちびを抱いたまま、あいつの方へ歩いていった。
俺の身体に溶け込むみたいにべったりくっついて離れないちびを、ちゅぽんと引っこ抜いて、あいつの方へ押しやる。
「……お前が連れて来たんだから、お前も面倒みろ」
『ヤー! マーッ』
手の中でちびがじたばたもがく。
そのくせ、あいつにも手を伸ばす。
抱っことイケメン、どっちもだと?
誰に似たんだ、このいやしんぼめ。
あいつは面食らった顔をしてから、目を細めて、ちびの頭に手を伸ばした。指先で、軽く触れる。
その手つきは、あの舟で乗り込んできた時の触れ方を思い出させて、水温がまた上がりそうになる。
『マッ! ンマッ』
でも、ご満悦そうなちびと、同じくらい綻んだあいつの顔を見ていたら、なんだかどうでもよくなってしまった。
次の痛みが、まだ来ないのなら。
この少しだけ空いた時間くらい、こうしていても、いいのかもしれないと。
そう思ってしまった自分に、いちばん驚いていた。
視線を上げると、木々の隙間から覗く空が黄金色に染まっていた。
日が沈む直前の、あの妙に綺麗な時間だ。
見ているそばから、空はどんどん色を変えていく。
金色から橙、赤から紫、深い藍色から黒へ。
夜が来る。
あの黒いのに囲まれてるみたいな夜が。
でも、ひとりじゃなくなった。
この世界に生まれ直して、たぶん、はじめてそう思った。




