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66.貧しき者は黄金に溺れる ◆

 夜はまだ浅いというのに、私の執務室には、すでに一日の終わりのような澱んだ空気が沈んでいた。


 机の上には帳面、聖地周辺の見取り図、巡礼路の整備計画、各都市から派遣された部隊の配置を書き込んだ羊皮紙が幾重にも重なっている。

 乱雑に見えても、そこには私にしか分からぬ秩序がある。


 少なくとも、酒杯だけはいつでも手に取れる位置に置いてあった。

 私はその酒を一口含み、喉を鳴らして飲み下した。


 葡萄酒の香りが鼻腔を抜けるより先に、水の音が耳の奥で蘇る。


 ちゃぷん。


 ぽたり。


 ざあ、と押し寄せるような気配。


 私は眉間を押さえた。

 聖地が広がってからというもの、どこにいても水音が付きまとってくる。


 現実に聞こえている音ではない。


 記憶と想像と恐怖が勝手に混ざり合って鳴る、厄介な幻聴に近いものだと分かってはいる。

 分かっていても、不快さは減らない。

 むしろ、理屈で正体が知れている分だけ性質が悪かった。


 その時、扉の向こうで控えめな声がした。


「ペッシヌス様。アシオスが戻りました」


 私は顔を上げないまま言った。


「入れ」


 扉が開き、アシオスが入ってくる。


 泥を払った跡はあるが、衣服の裾や靴にはまだ森の湿り気が残っていた。

 息は整っている。だが、整え過ぎている。

 興奮を押し殺して平静を装っている時の顔だ、と私は一目で見抜いた。


「遅かったな」


「……慎重を期しましたので」


「結構。で、見たのか」


 アシオスは頷いた。


「はい。聖者アイオリスが、例の老人と娘、それに……御子様を伴って、神域から離れました」


 酒杯を持つ手が止まる。


 私はようやく顔を上げた。


「御子を?」


「はい」


「神域の外へだと?」


「桶に収めて連れ出しておりました」


 部屋の空気が、わずかに引き締まった。


 御子は水場を離れない。

 少なくとも、そういうものとして扱われてきた。

 秘かに連れ出そうという試みはあったが、どれも上手くいかなかった。


 私は酒杯を置く。表情は動かさない。だが、眼だけは冷たく細める。


「順を追って話せ」


 アシオスは一礼してから語り始めた。


 聖者が老人と娘、そして御子を連れて森へ入っていったこと。

 その後を慎重に追跡したこと。

 御子が道を知っているかのように、一行を導いていたこと。

 そして、水場で見たもの。


 女神。

 黄金。

 外から現れたペリエレスの兵。

 聖者と女神、御子、外部勢力が一堂に会し、会話を交わしていたこと。

 もっとも、そこまで近づけば見つかると判断し、会話の中身までは聞き取れなかったこと。


 そこまで話し終えたところで、私は低く問うた。


「女神は、聖者を見ていたか」


「……はい。他の誰よりも聖者を見ておりました」


「御子は?」


「聖者の傍におりました。桶で運ばれておりましたが……先を導いているように見えました」


「ペリエレスの兵は、外縁の守備隊の者で間違いないのだな?」


「遠目ではありましたが、背格好から、副長のカストール殿かと」


「聖者との会話の様子は?」


「聖者から何らかの指示を受けているように見えました」


「女神はどうした」


「……聖者とペリエレス兵のやり取りを見た後、北西を指差してから、崩れるように消えました」


「……その後は?」


「聖者は御子を連れ、そちらへ向かいました。

 ペリエレス兵は四名が水場に残り、残りは老人と少女、カストールと共に詰所の方へ。

 聖者の追跡を続行すべきとも思いましたが、至急、報告すべき変事と考え――」


 私は椅子の背にもたれ、そこでアシオスの言葉を遮った。


 天井を見ながら、指先で机を二度、三度と叩く。


 今まで水場を離れようとしなかった御子が、神域の外へ出て聖者を導く。

 黄金と共に聖者を待っていた女神。

 その場に居合わせたペリエレスの兵。


 偶然にしては、線が綺麗に繋がりすぎていた。


「……なるほど」


 そう呟いた私の声は、むしろ静かだった。


 アシオスが顔色を窺うように目を上げる。


「旦那様……?」


 私の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

 愉悦の笑みではない。嫌な予感が最悪の形で確信へ変わった時の、乾いた笑みだった。


「ペリエレスの兵は、黄金に手を付けなかったのだな?」


「……はい。気を取られてはおりましたが、あれだけの黄金を前に誰も……」


 そこで私は確信した。

 この男は何かを飲み込んでいる。


 ただ黄金を見ただけの人間の眼ではない。

 もっと近くで、もっと生々しくそれに触れた者の顔だ。

 露骨な嘘の匂いはしない。だが、全てを差し出した顔でもなかった。


 それでも、表には出さない。


「まあよい。お前はよくやった」


 その一言に、アシオスの肩がわずかに緩む。


 愚かだな、と私は心中で嗤った。

 褒められて安堵する程度には、まだ私を出し抜いたつもりでいるらしい。


「今夜はもう下がれ。だが、引き続き聖者の動きには目を光らせろ」


「承知しました」


 アシオスが下がる。扉が閉まる音を待ってから、私は別の側近の名を呼んだ。


「ヘレノス」


 隣室に控えていた細身の男が、音もなく進み出る。


「ここに」


「今の話、聞いていたな」


「はい」


「アシオスを見張れ」


 ヘレノスの表情は変わらない。


「どこまで」


「今夜からだ。単独で動くなら、どこへ行くかを突き止めろ。

 何か隠し持っているなら、その隠し場所まで洗え」


「押さえますか」


「まだだ」


 私は即座に否定した。


「小物が拾える餌に飛びついたところで仕方がない。まずは巣穴だ」


「承知しました」


「もし奴が黄金を見つけていて、独り占めを考えているなら、いずれ必ず動く。

 欲深い者ほど、見た宝を地面に埋めたままでいられないからな」


 そこまで言って、私は薄く笑った。


「もっとも、その欲深さを見込んで使っていたわけだが」


 ヘレノスは黙って頭を下げる。


「必要なら、帰り道で処理しろ。だが先に地図を作れ。

 ひとつの黄金より、黄金が湧く流れそのものの方が価値がある」


「は」


※※※※※


 ヘレノスが去ると、執務室はまた静かになった。


 私はゆっくりと立ち上がり、地図の前へ歩み寄る。


 ゴルディウム。

 ペリエレス。

 そして、今は地図から消えた故郷オルセイス。


 アイオリスはオルセイス領主の息子。

 ペリエレスは、かつてオルセイスの盟友だった。


 アイオリスはオルセイスの失陥後、“深淵殺し”になど身をやつしていた。

 だが、それは表向きの没落に過ぎず、秘かに人脈を保っていたとしても何らおかしくはない。


 女神からの寵愛を一身に受け、黄金を授かった。

 その黄金を餌に、聖地を売り渡す。

 いや、女神とペリエレスを後ろ盾にすれば、自分を排除してゴルディウムの実権を握ることすら容易い。


 アイオリスは清廉で愚直な男だ。利だけで動く男ではない。

 だが、ここゴルディウムを第二のオルセイスとして復興する腹積もりだとしたらどうか。


 父の遺志を継ぐ。

 散り散りになった領民を呼び戻す。

 奪われたものを取り戻す。


 あの男が好みそうな“正義”ではないか。


 たとえアイオリス本人がそこまで明確に望んでいなかったとしても、周囲がそういう筋書きを用意し、旗印として担ぎ上げることはできる。

 そして、そうした筋書きを描くには、女神という存在はあまりにも都合がよすぎた。


 ……誰が描いた筋書きだ?


 ペリエレス単独か。

 都市国家同盟内での談合か。


 それとも、あの女神自身か――


「ふざけるなよ……」


 小さく零れた声は、自分でも驚くほど低かった。


 聖地を商品に変えた。

 神話で耳目を集め、値を吊り上げた。

 奇跡を黄金へ変える――その価値を最初に見抜き、ここまで形にしたのは私だ。


 それを、今さら人の言葉も介さぬ化け物や、外の国などに横から掠め取られてたまるものか。


 酒杯を掴み、一気に空ける。

 赤い雫が唇の端を濡らし、喉へ落ちていく。

 だが熱は足りない。胸の内の冷えを焼くには、あまりにも足りなかった。


 誰が主導で動いているかは、もはや関係ない。


 重要なのは、自分が外されつつあるという事実だ。


 ならば、こちらも手を打つしかない。


※※※※※


 私は地図の上に指を置いた。

 ズミュルナ湖の周囲に点在する都市国家の印を、順に撫でていく。


 ペリエレス。

 マグネス。

 クレテウス。

 デイオン。


 聖地に兵を出しているのは一つではない。

 それぞれが“守護”を名目に人を寄越し、内心では功を求めている。

 聖地への影響力を高め、あわよくば接収を目論んでいる。


 だからこそ均衡が保たれていた。

 どこか一つが聖地を押さえ込めば、他が反発する。

 誰も決定打を持てないからこそ、私のような仲介者に価値があった。


 だが今、ペリエレスは先んじようとしている。


 女神。

 御子。

 聖者。

 黄金。


 どれか一つでも手中に収めれば、発言権は跳ね上がる。

 四つまとめて結び付けられれば、もはや“保護”を名目にした占有すら可能だ。


 ならば、崩すべきはその結び付きだった。


 扉の外へ声をかける。


「誰か」


 すぐに下男が顔を出す。


「はっ」


「マグネスから来ている連中に繋ぎを持つ者を呼べ。ただ、露骨に呼びつけた形にはするな。

 雑用でも、取引でも、何でもいい。自然に話が入る形を作れ」


「承知しました」


 下男が去る。


 私は机へ戻り、別の羊皮紙を引き寄せた。

 そこには聖地周辺に展開する諸勢力の略記と、補給路の走り書きがある。

 筆を取ると、何本かの線を付け足しながら独り言のように呟いた。


「ペリエレスが聖者と通じている。

 何らかの密約を交わしていた可能性がある。

 女神の奇跡を囲い込もうとしている」


 言葉にして並べると、噂として流すには十分すぎる毒だった。


 大事なのは、断言しないことだ。

 断言は反論を招く。

 だが疑念は、勝手に育つ。


 同盟を結んでいると云っても、権力者は功名心と猜疑心が強い。

 ペリエレスが一歩先に出たと知れば、それだけで身構える。

 しかも今回は相手が聖地だ。女神だ。御子だ。黄金だ。

 兵を出しておきながら何も知らされていないとなれば、面白いはずがない。


 そこへ一滴、疑念を垂らしてやればいい。


 ペリエレスは他都市に先んじて独断で動いている。

 聖地の秘蹟を秘匿している。

 もしかすると、聖者アイオリスを担いで新たな秩序を作るつもりかもしれない――。


 確証は要らない。

 疑ってもよいと思わせるだけで、人は勝手に敵を作る。


 やがて別の側近が呼ばれて入ってきた。

 商隊の取りまとめも担う、口の軽すぎぬ男だ。


「旦那様」


「マグネスの連中に、こう伝えろ」


 私は声を落とした。


「ペリエレスの守備隊が、聖地外縁で独自行動を取っている。聖者とも接触済みだとな」


 側近が慎重に頷く。


「まずはペリエレスへの不信を育てる。

 奴らが聖地を私物化しようとしている、という土壌を作れ」


「御子様のことは」


「匂わせろ。聖者が神域の外で御子を伴っていた、とだけな。

 それで十分だ。“御子が動かせる”となれば、向こうが勝手に膨らませる」


 側近は深く一礼した。


「承知しました」


「クレテウスやデイオンにも、同じ種を少し遅らせて撒け。

 一斉では露骨だ。時間差をつけろ。別々の場所で、別々に“気づいた”ように見せろ」


「はい」


※※※※※


 男が去ると、私はようやく椅子へ座り直した。


 少しだけ頭の中のざわめきが収まる。

 水の音はまだ消えない。


 だが、今度はそれを押し返すように、人間のざわめきが浮かんでくる。


 不信。

 対抗心。

 縄張り意識。

 功名心。

 信仰心。


 どれも扱い慣れたものだ。


 神は読めない。

 だが、人間は読める。


 御子を見れば奪いたくなる者がいる。

 黄金を見れば掘りたくなる者がいる。

 ペリエレスが先んじれば、黙っていられぬ都市がある。

 女神と聖者が結んだように見えれば、それを壊そうとする者が必ず出る。


 そこへ、少しだけ風向きを整えてやればいい。


 女神と聖者とペリエレス。

 あの三つが手を結んだまま事を進められるのが最悪だ。

 ならば、その周囲から軋ませる。

 兵に兵を疑わせ、都市に都市を警戒させ、信徒に外様を憎ませる。


 誰もが誰かの邪魔をする状況を作れば、結託はもろくなる。


 女神の奇跡がどれほど強大であろうとも、人間同士の足の引っ張り合いまでは、そう簡単に制しきれまい。


 聖者を旗印に、新しい秩序でも打ち立てるつもりなのだろうが――


「何もかも思い通りに行くと思うなよ……化け物が」


 私は最後の一口を飲み干した。


 空になった杯の底に、灯りが赤く揺れている。

 血にも、金にも、夕焼けの残りにも見えた。

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>聖地を商品に変えた。 神話で耳目を集め、値を吊り上げた。 奇跡を黄金へ変える――その価値を最初に見抜き、ここまで形にしたのは私だ。 それを、今さら人の言葉も介さぬ化け物や、外の国などに横から掠め取ら…
もうそのまま愚かさを愚かさと認識しない…するほどの賢さもなさそうだけど…ままくそう俺が黄金と世界を握るはずだったのに!!で夢想しながら世界ごと滅べばいいんじゃないかな。
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