65.女神の黄金は人を駆り立てる 〇◆
64話「幼き龍は黄金へと導く(後編)」のイズミール視点+α
『――イズミール』
名前を呼ばれた。
俺を増やす祈りじゃない、あいつの声だ。
真っ直ぐで、熱く、重たいやつ。
俺のことを女神じゃなくて、女として好いてる男の声だ。
……そんなの、気持ち悪いだけだ。
呼ばれて嬉しいだなんて思う自分が増えていくのも、気色悪い。
(ああ、でも……畜生――)
――届いたんだ。
桶に瓶を入れて、湖面に浮かべて、保険として量産型も残した。
でも、あんなのは苦し紛れの思いつきだ。
いつ見つけて貰えるかも分からない賭けでしかなかった。
それでも、見つけてくれた。
そう思った瞬間、胸の奥――いや、胸なんかないんだけど、でもそう言うしかないところが、ぎゅっと縮んで、そのままじわっと緩んだ。
今まで散々名前を呼ばれてきた。
祈りも、縋る声も、勝手な期待も、信仰も、欲望も、山ほど浴びてきた。
あいつの呼び声だって、何度も聞いた。
何度も何度も、しつこいくらいに。
でも、今のは違った。
俺を探してる。
心配してくれている。
助けようとしてくれている。
そういう呼び方だった。
「……っ、は」
変な声が漏れた。
水の上に無理やり作った身体が、ぐらりと揺れる。
今いるのは、湖からだいぶ離れた、外縁の小さな水場だ。
森の木々に囲まれた、浅い水溜まりみたいな場所。
見た目はただの水場なのに、底の方からはずっと、じくじくと嫌な痛みが滲み上がってくる。
黒いのが浮いてくる。
浄化すると一旦引っ込む。
でも、しばらくするとまた湧く。
そういう、最悪の場所。
俺はその場で膝をついたまま、両手を水面につけていた。
全力の浄化の余韻で身体の水が震えている。
たった今、黄金化で蓋をしたばかりなのに、もう別のところが痛み始めてる。
身体をほどいて、次の場所を見つけ出し、そちらに身体を創り直す。
※※※※※
……駄目だ、追いつかない。
次の水場はさっきのところのすぐ近くだった。
ここも小さい。
身体を創る分の水量が足りない小さな水場だと、涌き口から吸い上げる必要がある。
そうすると、僅かだけど黒いのが身体に入り込んでくる。すぐ浄化するけど、酷く疲れる。
眠気とは違う。意識が朦朧としかけてるんだ。
化け物だった木こり野郎を全力で吹っ飛ばした時みたいに。
今、意識を失ったら次こそ間に合わなくなる。
そんな焦りばかりが募っていくところに、あの呼びかけだ。
「ばっか野郎、お前……タイミング良すぎんだろ……ヒーローかよ」
憎まれ口のつもりで言ったのに、泣いてしまいそうだ。
今まで、誰も俺を助けてくれなかった。
訳の分からない身体にされて、化け物には襲われて、人と会っても言葉は通じない。
勝手に崇められて、利用されて、心までおかしくなっていって。
結局、全部ひとりでどうにかするしかないんだと、諦めかけていた。
それなのに。
あいつが、俺を助けるために向かってきている。
それが、泣きそうなほど心強かった。
あいつの呼び声のした方に意識を伸ばす。
あいつが長いこと持ち歩いて、散々呼びかけて、散々着信を寄越してきたせいで、妙に通りが良くなってる瓶。
瓶越しだけど、あれだって俺の一部だ。今の俺なら探すことくらい――
近い。
さっき蓋をした水場の近くじゃないか。
こっちから場所を報せる余裕なんかなかったのに、どうしてこんなに早く……?
足元の水溜まりから、じくり、とした痛みが走る。
疑問を感じている場合じゃない。浄化して、一時的に押さえ込む。
「……っ、ぐ」
水底の泥の下から痛みが昇ってくる。
熱いような冷たいような。痺れてざらつく、鈍くて鋭い痛み。
嫌な感じが全部一緒くたになって、俺の感覚を引っ掻き回してくる。
今立ってるこの水場だけじゃなく、もう次の点がじくじくし始めてる。
くそ。
休ませろよ。
でも、休んでる暇なんかない。
すぐに黄金化して蓋をしたい。
でも、あいつがもうすぐ近くまで来てるなら、これを見せないと。
今までだって、指差したり、怒ったり、量産型ぶつけたり、色々やってきた。
でも肝心なところは伝わってなかった。
何に困ってるか。
何が起きてるか。
どうして姿を見せられないか。
そこが、全然だった。
でも今度は違う。
瓶が届いた。
もうすぐ、あいつが来てくれる。
俺が今、どんな状況にあるか、ちゃんと伝えなきゃ同じことの繰り返しだ。
だったら、現物を見せるのが一番手っ取り早い。
黒いのが湧くところ。
浄化しても、すぐまた浮いてくるところ。
黄金で蓋しないと駄目なところ。
それを見せる。
言葉じゃ説明なんかできない。
でも、見れば分かるかもしれない。
少なくとも、何もかも気まぐれで姿を消してるんじゃないってことくらいは分かるはずだ。
瓶の存在と、木こり野郎の姿を意識しながら、浄化する。
わざと弱く、間を置かず小刻みに。
(こっちはもういっぱいいっぱいだ、急げ、頼む……助けて)
俺は浮き上がって水面を見下ろす。
木々の隙間から薄い光が落ちて、水面に揺れている。
他の場所から感じる痛みに苛まれながら、あいつが来てくれるまで浄化で堪える。
水脈のどこかがまた疼く。
次の次の“傷口”まで、もう半分開きかけてる感じがする。
痛い。怖い。焦る。
けど、さっきまでとは違う。
さっきまでの焦りは、もう駄目かもしれないってやつだった。
今の焦りは、早く来い、見せるから、ってやつだ。
痛いのに、少しだけ軽い。
ああ、もう、なんだよ、これ。
希望とか、信頼とか、そういうやつか?
俺らしくなさすぎてが腹立つ。
その時、瓶越しに微かに呼ばれた気がした。
言葉じゃない。けど、確かに近づいてる感じ。
来る。
木こり野郎が、こっちへ。
水面を見下ろすと、また黒が滲みそうになってる。
「……よし」
何がよしだ。全然よくない。
でも、見せて伝える。助けが必要だってことを、分かってもらうチャンスなんだ。
(だから、よし!)
木々の奥から、人の気配が近づいてきた。
足音でなんとなくあいつだって分かる。けど、他にも何人かいる。妙な気配も混じってるが。
木こり野郎、ちゃんと人を連れて来たのか。
ワンオペで勝手に全部背負い込んで死にかけるタイプかと思ってたのに。
(……やるじゃん。そういうの出来るんなら前からやれよ)
感心してる場合じゃないのに、そんなことを思ってしまう。
※※※※※
やがて、がさりと草をかき分ける音がして、背後の空気が変わった。
「イズミール!」
名前を呼ばれる。
その声が、今度は瓶越しなんかじゃなく、はっきりと耳に届いた。
その瞬間、水温が熱くなったのを感じた。
(ああ、くっそ……悔しいけど嬉しいな……)
振り向くとあいつがいた。
その後ろに見覚えのある女の子と知らない爺さん。
それから、桶の中でぴょこぴょこ跳ねてる、うちの……うちの何だあれ。
桶で運ばれてきた量産型俺が、そこにいた。
え? お前、なんで平然と居るの? 限界距離はどうなってんだ……?
じくり、と痛みが走る。
そうだ、今はそれどころじゃない。
すぐに水底を指差した。
何度も。早く見ろ、ほら、これだ、って。
「これだ、これ! 見ろ!」
言葉は通じないが、見りゃ分かるだろ? 分かれよ!
木こり野郎が水場を見て愕然とした。
爺さんと女の子も、同じように息を呑んでいた。
よし。次だ。
両手を底へ向けて、浄化を叩き込む。
浮きかけた黒いのが消える。けど、これで済んだら困ってない。
「まだだ、終わってねぇ」
案の定、すぐに次の黒が滲み出した。
爺さんが何か叫ぶ。誰か知らんけど、こいつは何か分かってそうな気がする。
(いいぞ、たぶん伝わってる)
その手応えに、少しだけ救われた気がした。
さあ、仕上げだ。
水面へ降り、膝をつき、両手を沈める。
水底へ向かって、渦を、圧を、浄化を、全部まとめて叩き込む。
この水溜まりは小さすぎる。周囲の大気からも水をかき集める。
髪が、衣が、大きく波打って、身体の内側を黒いの混じりの水が循環する。
痛いし気分は最悪だが、水量が少ない場所で黄金化を起こすにはこれしかない。
――俺自身が浄水器になることだ!
黄金化に向けて気合を入れていたその時。
『マァマ!』
横から、幼い声。
次の瞬間、木こり野郎が持つ桶の中に何故かいた量産型が、俺に向けて水の球を飛ばしてきた。
(えっ!?)
ぶつかってきた水は僅かだったけれど、渦の回転に弾みがついた。
よく分からないけど、このまま押し込む!
「消えろ! 俺ん中に入ってくんな!」
ぱちん、と。
またあの何かが切り替わるみたいな音がした。
手の中で、水の底で、金色の光が漏れ出る。
黒が押し返されるみたいに滲みを失い、泥も砂利も、沈んだ葉の残骸までもが黄金に変わり始める。
湧き口から上ってくる痛みが薄れていく。
あと少しで終わりだ。
そう思った瞬間、水底ではなく“外”から、黒いのの気配がした。
茂みから化け物が飛び出してきた。
『ヤーッ! ヤーッ!』
幼い悲鳴が響いて、木こり野郎が声をあげ、前に進み出て斧を振るう。
呑気に観戦している余裕はないから、こっちも黄金化に集中する。
化け物が現れた時は、もうおしまいかと思った。
けど、あいつが背中を守ってくれるなら大丈夫だと思えた。
……頼れるじゃん、木こり野郎。
いや、本当に。
仲間を連れてきて、どうやってか知らないが量産型も持ってきた。
ちゃんと人を頼れてるし、無茶苦茶強い。
お前、いつからそんな出来る男になったんだよ。
水底に蓋がされたせいか、身体を維持してるのが少ししんどい。
なのに、ほんの少し、笑いそうになった。
※※※※※
その時だった。
森の方から鎧の擦れる音。複数の足音。ざわめき。
今度は武装した人間たちが現れた。
木こり野郎や爺さんも渋い顔をしているように見える。
敵対してるわけじゃなさそうだが、面倒事の予感がした。
木こり野郎以外の人間に、黄金を見られるのは不味い気がしていた。
だからこそ、あいつに黒いのに蓋をするところを見せたんだ。
俺じゃどうやっても説明しきれないから。
(頼むぞ、木こり野郎……お前から説明してくれ)
次の痛みの気配がある。
でも、今ここで崩れると、あいつはこの現場を放り出してでも俺を追う。
そういう奴だって、もう分かってるから、耐えて見守るしかない。
「……□□□□□□□□□」
「□□□□□□、□□□□□□□□□」
兵隊っぽい奴らと木こり野郎の会話の内容は、まるで分からない。
途中、俺の名前を口にしてたけど、流れはさっぱりだ。
でも、雰囲気からして、木こり野郎の方が上に立っているように見えた。
兵隊が口答えしている様子は無いし、爺さんも補足するみたいに何か話している。
他から補足が入ったってことは、あいつから最低限の話は済んだって事だよな?
こっちはそろそろ不味い。ここに留まる余裕がない。
※※※※※
そう思ったら、急に木こり野郎が振り向いてきて、驚いてよろけかけた。
「イズミール!」
(急にこっち見んな、ビビるだろうが……そんな顔、すんなよ)
兵隊に向けていたのとまるで違う情けない顔だ。
泣くなよ? 兵が見てる。
俺は動かすのが少し億劫になってきた腕を持ち上げて、次の方角を指差した。
それからあいつの顔をじっと見る。
金色の髪、白い肌、青い瞳。俺が変えてしまった姿。
――でも、助けに来てくれた。
だから、きっと、次も助けてくれる。助けてほしい。
「□□□□」
こっちは指差すことしか出来ないのに、あいつは頷き返して、何かを言った。
分かった、とか、そんな感じだろう。
相変わらず、意思の疎通は完全じゃない。絶対に何か思い違いや抜けがあるだろう。
それでも、もう一人じゃないと思えた。
俺は、なんだかんだ、あいつに助けられている。
ありがとうって、伝えたかった。
でも、言葉じゃ伝わらないし、表情も変えられない。
こんな中身のない薄ら笑いなんかじゃなくて、ちゃんと感謝してるんだってこと、伝えたいのに。
こんな事なら身振り手振りででも、もっと色々伝えられるようになっておけばよかった。
今更になってそんな後悔を抱きながら、俺は身体をほどいて次の場所へ向かった。
◆◆◆◆◆
城塞都市ペリエレスから派遣された聖地守護部隊の副長、カストールは、森を抜けて外縁部に設営した詰所へ戻るまで、何度も背後を振り返った。
見たものが現実だと、どうしても思い切れなかったからだ。
黒禍の獣の死骸。
聖者アイオリス。
水面に膝をつき、黄金を生み出した女神。
そして、桶の中の水の幼子。
神話めいた光景だった。だが、神話と呼ぶにはあまりに生々しかった。
女神に余裕はなく、聖者は説明を残してすぐ走り去った。
水底の黄金も祝福ではなく、黒禍を押さえ込む蓋だという。
詰所へ戻るなり、カストールは幕舎の中へ入った。
報告を受けた隊長オイバロスは、机上の地図から顔を上げ、短く言った。
「逃してはおるまいな?」
「はい。ですが、討ったのは聖者殿です」
その一言で、幕舎の空気が変わる。
「……続けろ」
「黒禍獣を追跡中、水場で聖者アイオリスと遭遇。
現場には女神イズミール、ならびに魔術師の男と少女、水の幼子のような精霊が存在していました」
「……何?」
「おそらく、女神の御子と思われます」
隊長は怪訝そうに眉を寄せたが、先を促した。
カストールは唾を呑み込み、もっとも重要な部分を口にした。
「聖者殿は、聖地そのものが浸蝕を受けていると仰いました。
外縁の水場において、女神は黒禍を黄金で封じているとも」
「黄金で?」
「はい。水底の泥や砂利そのものが黄金に変じていました。
それが黒禍への封印だと、聖者殿も同行していた老魔術師も断言しました」
その場にいた数名の士官がざわめいた。
黄金。
その響きは、どんな警句よりも早く人の心を刺激する。
オイバロスは指先で机を叩いた。沈黙の後、低く問う。
「聖者は我らに何を求めた」
「外縁部に潜む黒禍の捜索と、聖地防衛への協力です。
魔樹、あるいはそれに類するものがどこかにある可能性が高いと。
これを聖地防衛にあたる各部隊へ広く伝えるようにと申されました」
「……他都市の部隊には?」
その問いに、カストールは一瞬だけ答えに詰まった。
オイバロスはそれだけで十分だったらしい。ふっと口元を歪める。
「まだ伝えておらぬな」
「……未報です」
「よろしい」
副長は顔を上げた。よろしい。そう言われるとは思っていなかった。
「隊長?」
「よく考えろ、カストール。聖地が浸蝕を受けている。女神自らが封印を施している。
聖者は現地で指揮を執っている。
――この事態に、どの都市がどれだけ貢献できたかで、その後の発言力はまるで違う」
幕舎の中にいた士官たちが、互いの顔を見る。
オイバロスは地図の上でズミュルナ湖の周囲を指でなぞった。
「ペリエレスは聖地にもっとも近い。本国に伝令を出し、増援を呼ぶ。
ここで我らが主導となって聖地を守り切れば、単なる傭兵扱いでは終わらぬ。
ペッシヌスのような商人風情に、今後の聖地の差配を握らせるわけにはいかん。
この機に、発言力は我がペリエレスが押さえる」
「しかし、他都市への報告を怠れば、聖者殿に……」
「怠るとは言っておらん」
オイバロスは淡々と答えた。
「優先順位をつけるだけだ。まずは我らが実情を掴み、封印地点を確保する。
黒禍の発生源も、女神の動きも、御子の所在も、先んじて押さえる。
その後で必要な範囲にだけ共有すればよい。
情報が錯綜したまま各部隊へ一斉に流せば、現場は混乱するだけだ」
理屈は通っていた。
だが、どこかひどく冷たい理屈でもあった。
女神は苦しんでいた。聖者は焦っていた。いま必要なのは取り分ではなく、単純な人手のはずだ。
そう思いかけたカストールだったが、口には出せなかった。
軍とはそういう場所だ。正しさより先に、指揮系統と利がある。
「外縁部の封印地点には見張りを置く。聖者の言葉どおり、それが封印なら迂闊に触れれば厄介だ。
黄金には触れぬよう厳命しろ」
「はっ」
「本国へ至急、伝令を送れ。他都市には“黒禍獣と交戦中、聖地の警戒を強化中”とだけ伝えよ。
女神の状態も黄金の件も伏せる」
「……承知いたしました」
オイバロスはそこで少しだけ声を落とした。
「それから、可能ならば例の御子を“保護”したい」
幕舎の空気が、別の意味で張り詰めた。
「……“保護”、でありますか」
「聖地と女神に“もしも”のことがあった場合の備えだ。本来なら女神の同意を得るべきなのだろう。
だが、今は危急だ。ためらって取り返しがつかなくなれば、それこそ不敬になる。
我らの判断でお救いするほかあるまい」
カストールは思わず唇を引き結んだ。
保護。
その言い方は、都合のよい言い換えにしか聞こえなかった。
だが、今後、聖地がどのような状況になるにせよ、女神の子を“保護”している価値はあまりにも大きい。
隊長の視線は真剣だった。彼は本気で言っている。悪意や功利だけでなく、必要な処置として。
「……承知しました」
結局、カストールにはそう答えるほかなかった。
◆◆◆◆◆
同じ頃、別の詰所では、ペリエレスと同じ都市国家同盟に属する都市マグネスから派遣された聖地防衛部隊の見張り兵が眉をひそめていた。
森の奥へ、ペリエレスの兵が慌ただしく出入りしている。
黒禍が現れたことを示す狼煙は上がったが、伝令はなく、増援の要請もない。
小規模の襲撃だったにしては、一向に動きが収まる様子がない。
何より、聖地から離れていく早馬があった。
徽章を外し、平民の服を着ていたが、あれはペリエレスの伝令だ。
「……何かを隠してるな」
誰かがそう呟いた。
反論する者はいなかった。
聖地で異変が起きている。
そしてペリエレスは、それを自分たちだけで押さえ込もうとしている――。
確証のない憶測は、だが、確かに疑念として広がり始めていた。
◆◆◆◆◆
その頃、森の別の場所では、もう一つ別の報告が走っていた。
ペッシヌスの子飼いの一人であるアシオスは、聖者アイオリスの見張り役の一人だ。
ここ数日、聖者が外部からやってきた魔術師らしき老人と少女と行動を共にし始めたため、監視体制を強化していた。
聖者が少女と神域に舟で向かい、何かをしていることまでは遠目にも観測できた。
御子が何度も現れる様も目撃されている。
だが、神域への立ち入りは禁じられていて、何が行われているかまでは正確には掴めない。
森へ移動したことで、はじめて近くから動向を窺えるようになったが、驚くべき光景を目にした。
聖者は老魔術師と少女だけでなく、御子を伴って森の中を歩いていた。
女神も御子も水場から離れることはないと言われていたのにもかかわらずだ。
御子に導かれるように進む一行の後を追うと、そこには水底に黄金が敷き詰められた小さな水溜まりがあった。木陰に身を潜めていたアシオスはそれを見て思わず物音を立ててしまい、急いでその場を離れた。
おそらく、気付かれただろう。だが、姿までは見られていないとアシオスは判断した。
遠巻きにでも、この出来事は可能な限り見届ける必要がある。
細心の注意を払って、大きく距離を置いて聖者一行の後を追った。
そして次の水場では、女神、聖者、黄金だけでなく、外部から派遣されてきた兵士たちが一堂に会しているところを目撃した。
会話の内容を聞き取れる距離までは近付けない。
だが、御子の導きを受けた聖者が、黄金と女神のもとに辿り着いたこと。
そして、その場にゴルディウムの外から来た兵士たちが現れたことは事実だ。
それが何を意味するかまでは、アシオスの判断することではない。
彼は音を立てぬよう身を引き、来た道を急いで戻り始めた。
ペッシヌスは信仰に価値を見出す男ではない。
だが、価値あるものに群がる人間の欲を、誰よりもよく知っている。
黄金が出たと知れば、必ず動くだろう。
聖者が誰と結託していようとも、あの黄金が人の目に触れたとあれば、必ず確保に動く。
そういう男だ。
アシオスは帰路を急ぎながら、もう一つの算段もつけていた。
ペッシヌスに報告するのは、二つ目の黄金だけでいい。
あの黄金を巡って、外地の兵士との間で騒動が起こるのは疑いようもない。
その騒ぎが起こる前に、一つ目の黄金を掘り出して持ち去るつもりだった。
アシオスには、諸勢力を手玉に取って扱いきれぬほどの大金を集める主のような商才はない。
だが、あの黄金を目にした時、思った。
このままペッシヌスに仕え続けるより、あの黄金を売り捌いた方が利になる、と。
あれだけの黄金を、女神がまた生み出すのなら。
ぐずぐずしていれば値打ちが下がるかもしれない。
だったら、早い者勝ちだ。
ペッシヌスなら、たぶんそう考える。
欲をかき過ぎるつもりはない。
一抱えの黄金があれば、一生食うに困ることはないだろう。
◆◆◆◆◆
森の上では、夕暮れの色がじわじわと濃くなり始めていた。
聖地の沈黙の下で、黒禍と黄金と人の欲が、それぞれ別の方向から、ゆっくりと動き始めていた。




