63.幼き龍は黄金へと導く(前編) ◇★
御子様を収めた桶は、舟の中央で小さく揺れていた。
中に溜まった水を、ちいさな手がちゃぷちゃぷと叩く。
叩くたび、水面に丸い波紋が広がって、すぐに消える。
『マァーマッ! マッマ!』
急かすような、呼ぶような、その声が何度も繰り返された。
私は櫂を握ったまま、その桶の中の御子様を見下ろす。
「……大丈夫。大丈夫だ」
そう言いながら、私は櫂を強く押した。
半ば自分に言い聞かせるように口にしただけの言葉だった。
だが、桶の中で揺れる御子様を見ていると、不思議と呼吸が整っていく。
焦りは消えない。
それでも、この子を無事に彼女の許へ送り届けねばならぬという思いだけは、むしろ強く澄んだ。
御子様が指差す方へ舟首を向ける。
神域の静けさを背に、ズミュルナ湖の広がった水域を辿っていく。
湖とはいえ、ただの一枚の水面ではない。
森の中へ細く入り込んだ流れ、浅い淀み、泥を含んだ湿地、小さな泉めいた湧き場。
どれも同じ水で繋がっているはずなのに、場所ごとに匂いも音も違う。
リディアは目を閉じて、何度も浅く息を吸った。
「……さっきより、分かりやすいです」
「何がだ」
「流れ、です。中心は、女神様の力が大きすぎて……全部が近すぎて、逆に見えなかったんです。
でも、離れると……あの、傷んでるところが、点々とあるのが、少し……」
「傷んでいる、か……」
私が呟くと、サルディスが低く応じた。
「言い得て妙よ。水脈全体を一つの身体としたなら、指先に傷を負っておるようなものかもしれんな」
その生々しい喩えに、胸が冷たくなる。
御子様は話の意味など分からぬはずなのに、急かすように桶の縁を叩き続けていた。
『ママ! マ!』
私はその方向へ舟を向ける。
神域から離れるにつれ、水面は細く、浅くなる。
岸辺の草が近づき、張り出した枝が頭上に影を落とす。
やがて、御子様の動きが変わった。
桶の中でぴたりと静かになり、身を乗り出すように前方を見つめる。
その視線の先には鬱蒼と木々が生い茂っている。
「……向こうか」
その方向にある水場の位置は、おおよそ頭に入っている。
方角が掴めただけでもありがたい。
御子様は神域を離れてなお、桶の中に留まったままだった。
その様子を見て、私は前を向いたまま懸念を口にした。
「……サルディス殿。御子様は、この湖から離れてよいものなのか」
老魔術師は、舟縁に杖を立てていた手をわずかに動かした。
「ふむ……本来ならば、そう遠くへは出られまいな」
やはり、と思う。
泉だった頃も、湖へ広がってからも、御子様方は常に水場と共にあった。
畔へ近づきはしても、こうして“連れていく”ようなことは一度もなかった。
だが、現に今、御子様は桶の中で私たちと共に進んでいる。
リディアも同じ疑問を抱いていたのだろう。桶と御子様を交互に見ながら尋ねた。
「じゃ、じゃあ、どうして……」
「その桶が、ある種の"座"になっておるのだろうよ」
サルディスは当然のことのように言った。
「桶が、ですか……?」
リディアが首を傾げる。私も同感だった。
"座"というのは、精霊が生まれる場だと聞いていた。
「うむ。それはもはやただの桶ではない。
女神の奇跡が宿った品で、社の内で御神体のように祀られておったそうだな?
人が長く祈りを向け、意味を与えた器物は、精霊にとって"柱"にも"棲み処"にもなり得る」
老魔術師は御子様を一瞥し、続ける。
「社や神殿が信仰を集めて留めるように、その桶にも人の崇敬が染みついておるのだ。
小さな祠を、そのまま持ち歩いておるようなものだな」
なるほど、と理屈では理解できる。
イズミールはやはり、ただの思いつきでこの桶と瓶を寄越したわけではないのだろう。
御子様が崩れず、私の案内ができるように、きちんと選んで託したのだと思う。
それだけの判断をする余裕が、まだあるのだ――そう信じたい。
だが同時に、我が子を遣いに出してでも助けを求めねばならぬ状況だということでもあった。
※※※※※
舟を寄せ、岸に着ける。
私が桶の持ち手を握っても、御子様は桶から離れようとはしなかった。
桶を持ち上げる。
持ち手の縄がピンと張ったのが物珍しいのか、御子様は私の手や縄をパチャパチャと叩いた。
水で出来た身体は縄をすり抜けてしまうが、痛みなどはないようで楽しそうに身体を揺らす。
『マァ!』
御子様の号令に従って上陸する。
透き通った水の輪郭は、陽を受けてなおはっきりしている。
靴が湿った土を踏み、浅い水際でぬかるみが沈んだ。
リディアとサルディスに手を貸してから、船首を岸に乗り上げさせる。
私はまず周囲を見た。
黒禍の獣の気配はない。油のような穢れが目に見えるわけでもない。
空気は静かで、鳥の声すら聞こえる。
「行こう」
桶を持ち上げると、御子様は森の中を指差して、また母を呼ぶ。
私たちは森の中の小道へと分け入った。
私が桶を提げて先に立ち、その後ろにリディア、さらにサルディスが続く。
男と水の幼子、少女と老魔術師。森の中を、奇妙な一行で進んでいった。
「本当に離れても大丈夫みたいですね」
リディアは御子様を見つめながら、安心と感心、半々の表情で言った。
水場から離れても御子様は形を保っていた。
いや、正確には、しばらくの間は桶の中でむずがるように、水に戻ったり、大きくなったり小さくなったりと忙しなかった。
足先まで身体を形作って、私の腕をよじ登ろうとしてきたこともあったが、最終的には上半身だけを水面から出した状態で落ち着いた。
そんな落ち着きのない幼児そのものの仕草をしながらも、進行方向が変わるときは即座に指摘してくる。
『メー!』『ヤーッ』
指差した方へ進み出すと、満足そうに頷いて『マ!』と叫ぶ。
見た目も言動も幼児そのものだ。
それでも、母から託された役目だけは決して違えない。
※※※※※
そうして、神域から遠ざかる方角へ森の中を進んでいくと、御子様が水面をパチャパチャと叩き始めた。
『マッマ! マーッ!』
そこには、木々に囲まれた窪地にできた小さな水場があった。
森は静かだが、その水場の周囲だけ、音がさらに一枚薄く削がれているように感じられた。
水面には風のさざめきもなく、落ち葉さえ沈みきれずにためらっているように見えた。
「えっ」「ふむ……」
リディアが小さな驚きの声を、サルディスが訝しむ声を発した。
だが、私は居ても立ってもいられず、茂みを超えて水場に近付いていった。
一見すれば、ただの水溜まりにしか見えない。
森の影を映した浅い水。縁には泥と草が絡み、落ち葉が何枚か浮いている。
人の手など入っていない、ごくありふれた森の窪みだ。
私は目を凝らして周囲を見回す。
イズミールの姿はどこにも見当たらない。
だが御子様は、桶の中から身を乗り出して、その水場を指していた。
ここだ、と言わんばかりに。
追いついてきたリディアが水際に膝をつく。
目を閉じ、指先を水面の上へかざす。
そのまましばらく黙っていた彼女が、眉を寄せた。
「……やっぱり、変です」
「どうした」
「水の気が……とても小さいんです。
神域と繋がっているなら、もっと濃い水の霊子が感じられる筈なのに」
サルディスも杖を突いて水際へ立ち、じっと覗き込んだ。
「ふむ……生きておるのに、息を止めているような水だな。
近づいてこの目で見るまで、この水場の存在に気付かなんだわ」
「御師匠様、これって、ただの水溜まりなんでしょうか……?」
「いいや、微かだが神域と同じ霊子を感じる。無関係ということはあるまい」
その言い方に、私は胸の内がざわつくのを覚えた。
水が息を止める。
彼女が、自分の一部を無理に押さえ込んでいるのだとしたら。
「イズミール、イズミール、居ないのか?」
私はしゃがみ込み、落ち葉を指先でそっと払いのけ、水の中に手を差し入れた。
水底の泥に触れると、土煙で水が濁ってしまう。
その濁りが彼女の不在の証のように感じられて気持ちが沈みかける。
その時、泥の下、指先が何か硬いものに触れた。
石ではない。
もう一度、泥を掻いた。
濁りの向こうに、金色が覗いた。
思わず息を止める。
宝石のような華やかな光ではない。
泥と落ち葉に半ば埋もれながら、鈍く、冷たく光を返す色だ。
「……黄金?」
口をついて出た言葉に、リディアが身を乗り出した。
「えっ」
水底一面がそうなのではない。
だが、見える範囲だけでも、砂利や泥が固まるように金色へ変わっている。
葉の残骸まで飲み込んだまま、そこだけ異質な硬さを帯びていた。
水の底に金属を流し込んだのとは違う。
底の泥そのものが黄金と化していた。
だが、その黄金は財宝と言うより、触れてはならない禁忌のように映った。
サルディスは目を見開いた。その口から洩れたのは呆れたような声だ。
「……なんと、まぁ」
「何かわかるのか」
「これが黄金化とやらだな? まるで意味が分からん。なんなのだ、これは」
理屈に合わん、と老魔術師は首を振った。
しかし、続けて言った。
「この水場は、下から湧き上がる力と、それを押し留める力とが噛み合っておる。
黄金はその後者だ。見栄えのためではない。楔か、蓋か……そういう類のものに見える。
ただの黄金に霊子を堰き止める力など無い……何をどうすればこんなものが創れるのだ?」
リディアが水面の上で手を震わせた。
「ほ、本当だ……ほんの少しだけ、神域と同じ霊子が流れてる……」
私は水底の金を見つめた。
――黄金化。
プルヌスの実の種と、木彫りのルテアの花の姿が思い出される。
これまで、それは奇跡として、人の欲望を煽り、彼女を祭壇へ縛りつけるものだった。
だが今、目の前にあるそれは、明らかに違う。
木彫りの花の芯を黄金に変えた時、イズミールは明らかに恐れていた。
彼女にとっても好ましい力ではなかった筈だ。
その力を敢えて使ったのは何故か。
少なくとも、見せびらかすための奇跡ではない。
「イズミールは……私にこれを見せたかったのか」
そう呟くと、御子様が桶の中で強く水を叩いた。
『マ!』
肯定のようにも聞こえる。
少なくとも、違うと否定された気はしなかった。
私はもう少しよく見ようとして、積もった泥を掻き分け、黄金と化した葉の一枚に手を伸ばした。
その瞬間だった。
『メーッ!』
鋭い声が飛ぶ。
御子様が桶から身を乗り出し、今までで一番強く叫んだ。
小さな手をぶんぶん振って、こちらを止めようとしている。
リディアもはっとして顔を上げた。
「だ、だめです! 今、すごく……こわい、って……!」
私はぴたりと手を止めた。
御子様はなおも必死で首を振る。
『メッ! メーッ! ヤッ!』
サルディスが低く吐く。
「剥がすな、ということだろうよ」
老魔術師は黄金の底を見下ろしたまま続けた。
「おそらく、蓋をせねばならんのだろう。
これを掘り返せば、押さえ込んでおるものが解き放たれる。
だからこの幼子は、我らに触れさせぬ」
御子様がまた桶を叩く。
その必死さが、何より雄弁だった。
私は手を引いた。
「……一体、何を押さえ込んでいる」
「元素の澱み、霊子の異常噴出――あるいは、黒禍だ」
サルディスの言葉に、呼吸が止まり、胸の奥が重く沈んだ。
「魔樹、と呼ばれておるアレが、必ずしも空にばかり伸びるとは限らん。
地の底、水の底で生じたならば、目に見えぬところで広がっていくことになる」
故郷の泉の最期の姿が蘇る。
水の底から湧き出した黒い濁り……あれが、この黄金の下に?
彼女は、自分の水域のどこかが傷むたび、こうして一つ一つ、蓋を打って回っているのだ。
だとすれば、きっとこの水場の一つだけで終わる話ではない。
リディアが、急に顔を上げた。
「……っ、また」
「どうした!」
思わず強い口調で問い返してしまった。
少女が小さく首を竦める。御子様がその仕草を見て同じように首を竦めた。
「すまない……」
「い、いえ、その、別のところ……少し離れた方……今、また流れが乱れました」
サルディスが弟子の後に続ける。
「凄まじい霊子の高まりが起こってから、急に収まった……息を潜めるようにな。
つまり、ここと同じだ……つい先ほどまで女神がそこにいた可能性が高い」
ほとんど同時に、御子様も違う方向を指差して騒ぎ出す。
『マ! マァ!』
サルディスが舌打ち混じりに言う。
「やはり一つではないか」
私は立ち上がった。
焦りが喉元までせり上がる。
一箇所ならまだしも、これが点々と増えているのなら、彼女は今もどこかで別の水場を封じている。
姿を見せられぬのも、祈りに応えられないのも、御子様が遣いに出さざるを得ないほど追い込まれていたのも、すべて辻褄が合う。
その時、背後の林で、枝を踏む音がした。
私は即座に戦斧へ手をかけ、振り向く。
「誰だ!」
返事はない。
だが、確かに何かがいた気配がある。
木の幹の向こう、茂みの揺れが、ほんの一瞬だけ遅れて止まった。
見間違いではない。人が、息を殺して潜んでいた。
サルディスも眉をひそめる。
「精霊や黒禍の気配はなかった……人だろう」
私は一歩踏み出しかけた。
だが、御子様がさらに大きな声で叫ぶ。
『ママ! マァマ!』
追え、と急かすのではない。
行け、と別の方向を指している。
今、優先すべきはそちらだ。
ただの人影ひとつ追うために、彼女の手がかりを取り落とすわけにはいかない。
私は奥歯を噛み、林から視線を切った。
「行くぞ」
リディアが頷く。
サルディスも杖を返して、水場から離れた。
私は最後に一度だけ、黄金の底を振り返った。
森の薄暗がりの中で、それは静かに沈んでいる。
眩い宝などではない。これは冷たい楔だ。
何かを押さえ込むために打ち込まれた金の蓋。
その鈍い輝きは、涙を堪えたまま歯を食いしばる彼女の姿を思わせて、痛ましかった。
彼女は今も、ひとりで立ち向かっている。
誰にも見られぬまま。
悲鳴の代わりに、黄金を残して。
御子様は桶の中で落ち着きなく跳ねている。
『ママ! マ!』
その幼い声だけが、いまや私たちに残された確かな道標だった。
次の“傷口”へ向けて歩き出しながら、私はもう一度だけ後ろを見た。
木々の奥、さきほど人影が潜んだ辺りは、もう静まり返っている。
あの黄金を見られたかもしれない。
その嫌な予感だけは、どうしても振り払えなかった。
人があれを宝と見なした時、何が起こるのか。
考えるまでもなく、嫌な想像だけが、胸の底でゆっくり形を取り始めていた。
今は一刻も早く彼女と落ち合い、この災厄の根を断たねばならない。
瓶を手に取る。
ガラス越しにも指先へ伝わる水の揺れが、まだ途切れていない繋がりのように思えた。
彼女の姿を思い描きながら、どうか届いてくれと願って名を口にする。
「イズミール……」
(私はここに居る。君の娘と共に君の元に向かっている。
もうひとりにはさせない、どうか待っていてくれ――)
瓶の中の泉は、私の呼びかけにまだ応えを返してくれない。
代わりに、母を呼ぶ幼子の声が、私の背中を押してくれた。




