62.水面から覗き込むものたち(後編) ◇★△
拠点へ戻る頃には、日はだいぶ傾いていた。
小屋の前で待っていたサルディスは、私たちの顔を見るなり、ただならぬことが起きたのだと察したらしい。
いつもの皮肉も差し挟まず、杖を手にしたまま一歩前へ出る。
「何があった」
私は舟から降りるや否や、息を整える間も惜しんで告げた。
「イズミールが姿を現した。そして、目の前で崩れた。
姿を消すこと自体は以前にもあった。だが、今回は違う。
消える直前、彼女は私に手を伸ばした。――助けを求めていたと、私は思う」
老魔術師の眉がぴくりと動く。
横でリディアも、まだ息を乱したまま頷いた。
「その時……苦しんでる、痛い、みたいな感じがありました。
で、でも、霊子はすごく濃いままで……いなくなったわけじゃないと思います」
「ふむ……」
サルディスは私とリディアを交互に見てから、視線をズミュルナ湖の方へ向けた。
そして杖の石突きを地面へ軽く打ちつける。乾いた音がひとつ鳴り、彼は静かに目を閉じた。
周囲の空気が、わずかに張り詰める。
見えはしない。だが、何かが広がっていくのを感じる。
老魔術師の意識が、水域を満たす気配へ、そっと触れにいっているのだ。
ここ数日、リディアから教わったことで、そのように理解できた。
長い沈黙の後、サルディスはゆっくりと目を開けた。
「……なるほどな。神域の中心だけを見ておったら、見落とすところだった」
「何かわかったのか」
「断言はできん。だが、霊子の流れに妙な引っ掛かりがある。
森の中の水域は、おそらく水脈ですべてあの湖――神域と繋がっておる。
その間を滑らかに巡るべきものが、どこかで何度も引っ掛かっておる」
彼は顎鬚をしごいた。
「……中心ではないな。もっと外れだ。
湖の外縁部、あちこちに散った小さな水場があるだろう。あれらが末端に当たるのだろうよ。
その辺りから、僅かだが不快な濁りが立っておる。しかも一つ、二つではない」
私は息を呑んだ。
「黒禍か?」
「そこまではわからん。黒禍そのものと決めつけるには薄い。
だが、少なくとも、ただの霊子の揺らぎや偏りではない。
湖の主がそれほど取り乱し、形を保てなくなるほどの異変なら、無関係とは思えん」
リディアが不安げに胸元で手を握った。
「じゃ、じゃあ……外の方で、女神様に何か起きてるってことですか」
「その可能性は高い」
その一言で十分だった。
私は踵を返しかける。立てかけてある戦斧に視線を向けた。
「なら、外縁部を探る。今すぐにでも――」
「待て」
鋭く制したのはサルディスだった。
私は振り返る。
「気持ちは分かるが、闇雲に走っても成果は薄い。
この森に広がった水域は一つの水場ではないのだろう?
小川、湿地、泉、水溜まり――末端まで含めれば、おぬし一人で探して回れる広さではあるまい」
「だが、他にどうしろと」
「今から夜の森へ入るのは愚策だ。水場の輪郭も、地の起伏も見えん。
黒禍が潜んでおっても見落とすし、足を取られれば、おぬしの方が呑まれる」
分かっている。
分かっていても、待てなかった。
それを見透かしたように、老魔術師は続けた。
「まず、“大元”をもう一度確かめる」
サルディスは杖先を神域の方へ向けた。
「湖の主が自ら現れ、崩れたのは中心だ。
ならば、そこには膨大な霊子が集まり、砕けて流れた痕跡が残っておる可能性がある」
老魔術師は椀に水を汲み、私たちに渡してきた。
落ち着け、というのだろう。一息に飲み干す。
サルディスは自分の椀を少し傾け、天板へ水をこぼした。
水は板の上を広がり、細い筋となって端へ流れていく。
「巨大な霊子の塊が崩れたなら、痕跡はこうして流れる。
ならば、まずは流れ出した大元を見るべきだ」
私は歯噛みしかけたが、反論は飲み込んだ。
焦っているのは自分でも分かる。彼の言うことは理に適っている。
リディアも小さく頷いた。
「め、女神様の霊子は大き過ぎて、私にはどこまで分かりませんでした……。
で、でも、御師匠様なら、きっと、痕跡が分かる……と思います」
自信なさげにそう言ってから、首を振り、立ち上がって私の方を見た。
「女神様は、最後に、アイオリスさんに、何か伝えようとしていたと思います。
もしかしたら、手がかりを残してくださっているかもしれませんっ」
その言葉を「気休めだ」などとは言えない。
出会って間もない少女にまで気を遣わせてしまった。
私は深く息を吸った。
焦りに押されて濁った頭を、無理やり冷やすように。
この二人が居なかったら、私は徒に駆け回るだけになっていた。
「……助かる。力を貸してくれ」
二人にそう言葉を返すだけで、少しだけ足元が戻ってくる気がした。
「いいとも。ところで……おぬしは早く着替えた方が良いな。
リディアも目のやり場に困っておるぞ」
言われてやっと、自分が濡れたままだったことに気が付いた。
急に肌寒さを感じる。どれだけ気が逸っていたのか実感させられた。
「お、御師匠様!」
突然、自分を引き合いに出されたリディアは、顔を赤くして叫んだ。
だが、サルディスはどこ吹く風といった態度で取り合わない。
リディアには申し訳ないが、二人のそんなやり取りに、少しだけ心にゆとりが出来た。
※※※※※
その夜、私はほとんど眠れなかった。
小屋の外では森が鳴り、どこかで水の流れる音がする。
そのどの水音も、彼女に繋がっているように思えた。
助けを求めるように伸ばされた手が、瞼の裏に何度も浮かぶ。
夜明けは、ひどく遠かった。
※※※※※
翌朝、私たちは再び神域へ舟を出した。
リディア、サルディスを乗せ、静かな湖面を進む。
朝の光はまだ柔らかく、水の上には薄い靄が残っていた。
かつての泉のあった場所――今は底知れぬ深みを抱いた湖の中心、神域へと舟を寄せる。
水面は静かだった。
あまりにも静かで、先ほど彼女が崩れた場所だというのが嘘のようだった。
私は櫂を止め、水面を見下ろした。
透き通った水の底に社の影が見える。
更にその向こうにある深みの底には、朝の光でも届かず見通せない。
その青黒い闇が、オルセイスの泉の終焉と重なって見えて胸が鈍く痛む。
リディアが、はっと息を呑む。
「……います。やっぱり、います」
「どこだ」
「わ、分かりません……でも、います。昨日と同じです。
ひとつの形じゃなくて……広がって、沈んでるみたいな……」
サルディスも、湖面から目を離さず低く言った。
「この真下が“座”で間違いないな……霊子量があまりにも大きい。
わしでも細かな揺らぎを見落としかねん。目が眩みそうだ……」
だが、それだけだった。
サルディスとリディアは、しばらく無言で湖面を探っていた。
やがて、サルディスが低く言う。
「痕跡は残っている。だが、流れが乱れ過ぎておる……じっとしておらん。
今も、不規則に大きく動き続けているようだ」
老魔術師は眉間を揉みながら続ける。
「女神の力が大きすぎて、霊子の流れそのものが渦の中に放り出されているようだ……
……だが、少なくとも健在なのは間違いない。
次に現れる場所を予測するには、もう少しかかる……すまんが堪えてくれ」
彼女は姿を見せない。御子様も現れない。
湖は濃い気配だけを湛えたまま、沈黙している。
焦燥が、胸の内側を焼いた。
彼女を崇めるだけでは届かぬと考えたのは、私自身だ。
だが、彼女が苦しんでいるのなら、そんな理屈に拘っていられなかった。
私は舟の上で膝をついた。
両手を胸の前で組み、湖面へ向けて頭を垂れる。
「イズミール……応えてくれ」
名を呼ぶ。
無事を願う。
救いを乞う。
かつて何度も繰り返した祈りの形だ。
だが、その日は何も返ってこなかった。
増える感覚も、御子様の水音も、胸を打つような気配もない。
ただ、広大な湖が沈黙したまま、私の祈りを抱え込んでいた。
私は唇を噛み、祈りの姿勢を解いた。
サルディスもリディアも何も言わない。
それがかえって、胸に重かった。
私は拳を握りしめる。
呼びかけたい衝動を抑えながら、水面を見つめた。
その日は結局、何も得られぬまま拠点へ戻るしかなかった。
※※※※※
三日目の朝。
私はほとんど眠らぬまま、再び舟へ乗り込んだ。
焦りは消えない。
だが、空振りの一日を経たことで、別の覚悟があった。
彼女が動けぬなら、彼女の残したものを拾うしかない。
神域へ向かって舟を進める。
水面は今日も静かだったが、昨日までの沈黙とはどこか違う気がした。
リディアが目を閉じ、そっと息を吸う。
「……少し、動いてます」
「何がだ」
「水の気が……待ってるみたいに」
その時だった。
サルディスが、ぴくりと片眉を上げた。
「……む、何か来るな」
「何?」
「小さい……女神ではないな。精霊……もしや、話に聞く“御子”か?」
私は反射的に身を乗り出した。
神域の静かな水面、その向こうから何かがこちらへ流れてくる。
風は吹いていない。波も立っていない。
だが、ただ漂っているわけでもない。意志を持って、こちらへ向かってきている。
それは使い古された木桶だった。
ありふれた品だが、見覚えがある。
かつて、社の建造に携わった大工たちに彼女がもたらした奇跡の一つ。
完成した社に御神体として祀られていた水桶で間違いない。
水域が広がり、社が水に没した際に共に沈んだはずの品が、何故――
その疑問の答えはすぐに現れた。
木桶の後ろから、透けるような小さな影がぴょこりと頭を覗かせた。
透き通った水の身体。頭には二本の角、耳のある場所にはヒレ。
長い髪と顔立ちには、彼女の面影が色濃く出ている。
「……御子様」
思わず、そう呟いていた。
龍の徴を備えた水の幼子は、桶に掴まって半身を水面に沈めたまま、近づいてくる。
御子様が水を蹴っている様子はない。
なのに桶は、意志を持つみたいに水を掻き分けて進んでくる。
近付いてくると、桶の中身が見えた。
――そこには、小瓶が一つ、入っていた。
胸が強く打った。
「……あれは」
これも見間違えるはずがない。
かつて彼女から託され、私が旅の間ずっと持ち歩いていた瓶だ。
蝋で封のされた油瓶。中に入っている液体は、おそらく彼女が浄化した水だ。
瓶に詰まった泉の一部は、呼びかけの器であり、彼女と繋がる縁そのものだった。
彼女と意思の疎通を取るために必要だと、サルディスに言われていた。
だが、行方は分からず、どうやって探したものかと思っていた。
まさか、こんな形で目の前にやって来るとは。
私は櫂を操り、舟をそっと寄せる。
桶は波も立てず、まっすぐ私たちの前で止まった。
御子様が顔を上げた。
そして私を見つけた瞬間、ぱたぱたと短い手を振った。
その仕草に、胸の奥が詰まる。
イズミールがあの瓶を御子様に託したのだと察したからだ。
――彼女が私の呼びかけを待っている。助けを求めている。
御子様が私を覚えてくれていることには、胸が温かくなった。
だがそれ以上に、彼女の身に危機が迫っているのだと痛感させられ、気が急いた。
リディアが舟縁から身を乗り出して桶に手を伸ばした。
櫂を漕ぐ私に代わって、引き寄せようとしてくれている。
「も、もう少し……!」
その瞬間、御子様はふわりと彼女の前へ進み出て、桶を背に両手を広げた。
そして――
『ヤー!』
御子様が声を発した。
私はその事実に、櫂を握る手が止まった。
一方、あまりにはっきりした拒絶の態度に、リディアもびくっと肩を揺らす。
「ご、ごめんなさい……!」
手を引っ込めて頭を下げる少女を、御子様がじっと見ている。
喋った。――御子様が、声を発した。
いや、あれを言葉と呼んでよいのだろうか。
幼児の口にする言葉のようなものに感じられたが、そう聞こえただけかもしれない。
次にサルディスが、興味深げに身を屈めた。
杖の先を桶の取っ手へ伸ばし、触れぬ距離から手繰り寄せようとする。
すると今度は、御子様は桶の縁をばしばしと叩いた。
その仕草は、消える前のイズミールにどこか似ていた。
『メー! メー!』
老人が片眉を上げる。
「……ほう」
その声には驚きが滲んでいた。
彼は御子様から目を離さず、低く呟く。
「これが女神イズミールの“御子”か。
なるほど……あの角とヒレ、確かに龍に似ておる」
老魔術師は杖を引っ込めて、顎鬚に手を伸ばし、面白がるように目を細めた。
「若い。精霊としては生まれたばかりと言ってよいほどだ。
……それでいて、霊子の整い方は並外れておる。
これほどの精霊が何十も居ると? ――ハッ、長生きはするものだ」
そして今度は隠そうともせず、まじまじと観察した。
「形は幼い。だが、紛れもなく水の精霊だ。
おそらく、信仰によって“女神の娘”、“幼子”としての振る舞いが定着しておるな」
リディアが、習ったことを思い出すような口ぶりで師に問いかける。
「……小さな子として、皆に信じられているから、子どものままってこと……ですよね?」
神や精霊が、人の信仰によって心の在り方を変えるのだとは聞いていた。
だが、御子様もそうなのだとすると、空恐ろしさを覚える。
「うむ。器が未熟なのではない。そう在るように、周囲の信仰が器に形を与えておるのだ」
二人の言葉は聞こえていたが、私は目の前の御子様から目を離せなかった。
瓶に水桶。いずれもイズミールに縁深い品々だ。
彼女がそれを御子様に預け、運んできてくれた形に見える。
だが、御子様はリディアとサルディスに拒絶の意思を示した。
「……触れるな、ということなのか」
私がそう呟くと、御子様はすぐこちらを向いた。
ぱっと表情が明るくなったように見える。
水で出来た身体のどこでそう感じるのか、自分でも分からない。だが、そうとしか思えなかった。
御子様は、桶を私の方へぐいと寄せた。
それから、水桶にとぷんと入り込むと、小さな手で瓶をぺちぺちと叩いてみせる。
そして胸を張るようにして、言った。
『マァマ、ママ』
リディアが、はっと息を呑む。
「今の……女神様のことを呼んでいます……よね?」
サルディスは感心したように言った。
「幼児ゆえに語彙は乏しいのだろう。
だが、赤子が母を呼ぶ声というのはな、単純だが名に近い。古い魔法の一つよ。
この幼子の思考は明快だ。伝令としても女神への道標としても、むしろ優秀だぞ」
私はゆっくりと手を伸ばした。
御子様は私には拒絶の意思を示さなかった。
むしろ早く取れと言わんばかりに、桶をさらに近付けてくる。
――イズミールは、この瓶が私の手に渡るように、御子様に言いつけたのか。
瓶を手に取る。
冷たい。
懐かしい冷たさだ。
掌に乗せた瞬間、胸の奥にかすかな水の気配が灯った。
弱い。だが確かだ。彼女のものだと分かる。
御子様が瓶を指差し、また言う。
『ママ!』
それから、くるりと向きを変え、水桶へ半ば潜り込むように収まった。
そのまま桶の縁を叩き、今度は神域の外側――湖の外縁部へ向かう方角を指差した。
『マァマ、マー!』
「……あちらにイズミールが居る、ということか」
私が呟くと、御子様は勢いよくこちらを振り返り、
『マァ!』
と短く鳴いた。
リディアが目を丸くする。
「こ、言葉を理解しているんでしょうか……」
サルディスは小さく笑った。
「幼子ゆえよ。複雑なことは出来ん。だが、母を恋い慕う気持ちが働いているのだろう。
これは私の出る幕は無いかもしれんな。赤子に手をひねられるとは、愉快なものよ」
私は瓶を握りしめた。
彼女は、まだ動けないのだろう。だからこの子に託したのだ。
瓶を私へ届けることを。
そして、おそらくは――向かうべき場所を示すことを。
御子様は桶の中で落ち着きなく揺れながら、何度もこちらを見る。
『ママ! マ!』
急かしているのだ。
早くしろ、と。
私の中で焦燥が別の形へ変わっていく。
見失っていた道筋が、ようやく一本、手の中に通った気がした。
「リディア、サルディス殿。御子様が示した方へ向かおう」
「はい!」
リディアは即座に頷いた。
サルディスも杖を取り直し、静かに言う。
「この幼子が案内するなら、それに従うのが最も早い。
湖の主自らが、最高の案内人を残してくれるとはな……。
アイオリス殿、おぬし、女神から存外、憎からず想われておるのではないかな?」
老魔術師の言葉に胸が跳ねた。
だが、浮かれている場合ではない。
私は瓶を懐に収め、桶ごと御子様を舟へ迎え入れた。
御子様は水桶の中でちゃぷちゃぷと水を叩きながら、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
『ママ! マァマ!』
その声は幼く、単純で、けれど切実だった。
彼女が待っている。
いや、待つ余裕すらないのかもしれない。
ならば急がねばならない。
今度こそ、あの差し伸べられた手を取り落とさぬために。




