61.水面から覗き込むものたち(中編) ◇★
それから数日、私とリディアは神域へ通い続けた。
リディアの指示もあり、一度も祈りは捧げていない。
祈り以外の方法を学ぶためだと言われれば、納得するしかなかった。
ただ舟を寄せ、座り、呼吸を整え、水面の揺れと気配に耳を澄ませる。
リディアが短く言葉を置き、私が頷く。
その繰り返しだった。
何日かすると、御子様方が姿を現すようになった。浄化のためではない。
舟の周囲を興味深そうに飛び回り、先日のリディアを真似るように手を振ってくる。
私は瞑想に集中していたが、弾んだ声のリディアに請われ、御子様へ手を振り返した。
すると途端に全員が水面の中へ引っ込み、少なからず気落ちさせられた。
「えっと、その、驚いちゃったんだと……思います」
何か至らないところがあったのかと肩を落とす私に、少女が慰めの言葉をかけてくる。
それがまた何とも情けない心持ちを誘い、その日は瞑想にも集中しきれなかった。
翌日、御子様は現れるや否や、以前と同じように私へ勢いよくぶつかってきた。
水の身体を弾けさせ、舟の上へ飛沫を散らし、くるくると周囲を回る。
以前と同じようでいて、以前よりも感情が見えやすくなっているのだと、リディアは言った。
「……今日は、機嫌がいいです」
「分かるのか」
「はい。揺れが軽いです。弾む感じで……たぶん、歓迎に近いです」
その言葉を聞くたび、胸の奥が熱を持つ。
彼女が――イズミールが、完全に背を向けているわけではない。
それだけで、櫂を握る手に力が入った。
やがて御子様方の現れ方は、少しずつ変わっていった。
最初のように五人まとめて飛び出してくることは減り、現れても数は少なく、留まる時間も短い。
その代わり、凪いだ水面の向こう側に、もっと大きな何かがいるのだと感じる瞬間が増えていった。
リディアは言った。
「……見てる、だけじゃないです。たぶん、聞いてます」
その言葉の意味を、私は考え続けた。
聞いている。
こちらの呼吸を。こちらの動揺を。こちらの躊躇いを。
そして、私が何を望んでいるかさえ。
私たちは毎日、神域に向けて舟を漕ぎ出したが、三日目以降は中心――水底の深い穴――の真上を避けるようにした。
一度、あの場所で水面を叩いた時に、リディアに注意されたからだ。
あれはただの深みではなく、この湖の“核”のようなもので、過敏な反応を招きかねないのだという。
それでも、水面に触れる訓練は続けた。
雨を真似た波紋。
指先を細かく、軽く、規則的に落とす。
散らし、重ね、間を置き、また落とす。
私がそうするたび、リディアが目を閉じて気配を読む。
「今のは、たぶん好きです」
「たぶん、というのが多いな」
「この湖に集まっている水の元素が大きすぎるんです。
大きくて近すぎると……輪郭が、かえって分かりづらくて……」
そう言って、リディアは舟の上で身を乗り出し、手を伸ばしてきた。
私の目の前へ掌が突きつけられる。まつ毛に触れるほどの距離だ。触れていないのに体温を感じる。
視界を塞ぐ掌は、確かに近すぎてぼやけて見えなかった。
リディアは手を引いて、「わかりましたか」と言って笑った。
それから、どうしてか少し頬を赤らめて付け加える。
「……で、でも、その、近づいてきてる感じは、あります」
近づいてきている。
その言葉が、私の内で何度も反芻された。
私はそれ以上を望むようになっていた。
ただ気配を読むだけでは足りない。
ただ拒絶されていないと知るだけでは足りない。
姿を見たい。言葉を聞きたい。彼女が何を思っているのかを知りたい。
――その欲が、どこまで彼女を揺らすのかも知らずに。
木のきしむ舟の上で、私は目を閉じていた。
呼吸を整える。
吸って、吐く。吸って、吐く。
水面の揺れが、それに合わせて小さく返る気がする。
錯覚かもしれない。
だが何度も繰り返すうち、錯覚だけでは済まされない確信が芽生え始めていた。
波が呼吸を合わせてきているのか。
それとも、私の方が引かれているのか。
理屈は分からない。
ただ、目を閉じている間、胸の奥の騒ぎが少しだけ静まる。
凪いでいるわけではない。むしろ微かに揺れている。
だが、その揺れが不思議と心地よかった。
懐かしい、とも思った。
故郷の城の中庭。
あの泉の前に座り、掌に掬った水を見ていた幼い頃の感覚に、どこか似ていた。
リディアが小さく息を呑む。
「……来てます」
私は目を閉じたまま尋ねる。
「御子様か?」
「ちがいます。もっと……ずっと、大きいです。
あの子たちみたいに、はっきりした姿を見せてはいませんけど……湖そのものが、少しだけ寄ってくるみたいに……」
「私は近付けているのだろうか……」
「呼吸が合ってきています。私も試していますが……アイオリスさんの方に寄っています」
私自身には、何かを掴めている実感はまだ薄い。
それでも、こうして言葉にして示されると、ひどく心強かった。
何より、あの触れ合う感覚が私の思い込みや錯覚だけではないのだと知れて、嬉しかった。
その日、舟を返すまでの間、水面は静かなままだった。
だが、完全に閉ざされた静けさではなかった。
どこか熱を含んだ沈黙だった。
私はその沈黙と、呼吸が合った瞬間のことを何度も反芻した。
※※※※※
翌日も、私たちは神域へ漕ぎ出した。
舟を寄せる。
呼吸を整える。
指先で雨を作る。
リディアは目を閉じ、水の霊子の揺れを読む。
私はその声を頼りに、触れすぎず、届かなさすぎずの距離を探った。
だが、距離とは、探ろうとするほど狂うものでもある。
その日も――いや、その日だからこそ、私は彼女の気配を近く感じすぎていた。
見えないのに近い。
近いのに届かない。
目を閉じていても、そこに誰かがいると分かる。
その誰かが、こちらを見ていると分かる。
それは戦場の感覚にも似ていたが、戦場と決定的に違うのは、胸の奥に立つ熱だった。
私は目を開けた。
水面は凪いでいる。
だが、ただの水ではない。
彼女がそこにいると、はっきり感じる。
もう、呼吸だけでは足りなかった。
指先の波紋だけでは足りなかった。
私は、声をかけたくなった。
あるいはこちらから、名を呼びたくなった。
「イズミール」
その名を呼んだ瞬間、湖面がほんのわずかに震えた。
リディアが顔を上げる。
「……今、すごく、大きく動きました」
「……本当か?」
「はい。たぶん、こっちへ来ようとしてます」
その言葉と、ほとんど同時だった。
湖面が、盛り上がった。
最初は、ただ光の反射が歪んだように見えた。
次いで、水が人の輪郭を取り始める。
腰までを水面から出した、ひとりの女の姿がそこに現れた。
朝の光を透かすような髪。
枝分かれした角と、水を思わせる衣。
見慣れているはずなのに、直に対面すると息が詰まるほど美しい顔。
神々しさと生々しさを同時に宿した肉体。
そこにいるのは確かに“ひとりの女”だった。
イズミール。
私は目を見開いたまま、身動きできなかった。
リディアは初めて目にする彼女の姿に息を呑み、
「……大きい……」
と、存在感そのものに圧されたように呟いていた。
視線は何故か顔より下に向けられていたが。
イズミールは慈母のような微笑を浮かべたまま、こちらを見つめている。
だが私は、その肩が小さく震えていることを見逃さなかった。
そして彼女は、両腕を振り上げて、ばしゃりと水面に叩きつけた。
そして、こちらの反応を待つことなく、歌うように――いや、これは明らかに捲し立てている。
『―~~~~~――~~―~~―~~―~』
声は聞こえるのに意味は分からない。
彼女が声を発する時、唇も喉も動かない。
表情だけ見れば穏やかな微笑にしか見えないのに、怒っているのは明らかだった。
実に分かりやすく、人間そのものの仕草で。
彼女は舟を指し、私を指し、自分を指し、また水面を叩いた。
『~―~――~―~~――~~――~――~~~――~~~――~~――~――~~――~~~――~~―』
呆気に取られる私とリディアを前に、彼女は止まらない。
今度はリディアを指差してから、その指で自分の額に触れた。
それに呼応するように、水面がぷくりと膨れて御子様がひとり現れた。
水の幼子は舟の周りをくるりと回りながら、リディアに手を振る。
リディアを浄化したこと。
私が毎日ここへ来ていること。
その両方について、何かを強く訴えている。
だが、そこまでだった。
肝心の中身が分からない。
イズミールはもう一度両手で水面を叩いて、再び声を発した。
『~――~~――~~―~―――~~―~~――
~~~~――~―~~―~――~~――~~――~』
訴えかけながら、彼女は徐々に胸まで水面に沈んでいく。
そのまま潜って消えるのかと思えば、こちらをじっと見上げる位置で留まった。
『~――~―~~―~―~―~――~~――
―~―~~――~――~~――~~~~―~』
彼女がこれほど長く言葉を重ね、仕草で伝えようとしてきたのは初めてのことだった。
意味はまったく分からない。
だが、胸の内へ流れ込んでくるような感覚があった。
羞恥にも似た熱。戸惑い。落ち着かなさ。
それが私のものなのか、彼女のものなのか、判別はつかない。
それでも私は――初めて、彼女の心に触れかけたのではないかと思ってしまった。
だからこそ、歓喜のあまり叫び出しそうになった。
全身へ込めた力でそれを押し止め、深く息を吸う。
湿った空気が胸を満たすと、身体と口が勝手に動いていた。
舟縁に両手をついて身を乗り出し、彼女に呼びかける。
「教えてくれ……イズミール……君が、何を望んでいるのかを……
私が君のために出来ることを、教えてくれ!」
隣で、リディアが息を呑む気配がした。
私と彼女を交互に見てから、口を開く。
「……あ、あの、アイオリスさん」
「……何だ」
リディアは頬を赤くしながらも、真面目な顔で言った。
「たぶん……ですけど、その……怒ってるだけじゃ、ないです。
えっと……毎日来ることとか、私を連れてくることとか……それで、落ち着かない、というか……」
それ自体は、仕草だけでも何となく分かる。
私が知りたいのは、その先――もっと深くにある感情だった。
リディアは言葉を探し、目を泳がせた。
イズミールを見て、また私を見る。
ひどく申し訳なさそうな口調で、ぼそぼそと続ける。
「そ、それと……えっと……触り方、です」
「……触り、方?」
「……は、はい。あの……その……近すぎる、みたいな」
リディアの言葉に、私は勢いよくイズミールを見た。
彼女はびくりと肩を震わせ、首まで水に沈んだ。
臆病な小動物めいたその仕草に、理性を試されるような気分になる。
それにしても、“近すぎる”とはどういう意味なのだ。
魔術師の観点からくる抽象的な表現なのか。
私は混乱したまま、リディアへ向き直る。
彼女は頬を染め、何かを言いかけて詰まり、息を整えてから言った。
「その……近いっていうのは、えっと……すごく大事なところの、近く、みたいな……。
それで、あの……落ち着かない、とか、弄ばれてるっていうか……からかわれてる、みたいな……そういう感じです」
私は凍りついた。
そこでようやく、ここ数日のこちらの行いが、彼女にどう映っていたのかを悟った。
修行のため。対話のため。そう思っていた。
だが彼女には、毎日押しかけ、触れて、反応を確かめているように見えていたのだ。
リディアの様子からして、それが彼女の意図したものではないことは明らかだった。
私に対し、強い罪悪感すら抱いているように見える。
私は首を振り、気にしなくていいと伝えた。
表情だけでも、大丈夫だと。
自分が不埒者だと思われていたことには衝撃を受けた。
だが、不埒な想いを抱いていること自体は否定しようがない。
私のそうした気持ちまで、彼女へ伝わってしまっていたのかもしれない。
私は胸に手を当てた。
自分でも、心臓の位置を確かめるような仕草だと思う。
どう言えばいい。
何を伝えればいい。
言葉は通じない。
仕草だけで伝えきれるか分からない。
心の動きを感じ取ることも、まだ思うようにはならない。
それでも、諦めきれない。
「私は」
自分の胸を指し示し、それからその指を彼女へ向けた。
「君を――」
だがその先は、声にならなかった。
助けたい。
愛している。
好いている。
会いたかった。
知りたかった。
怖がらせたかったわけではない。
どれも嘘ではない。
だが、どれも今ここでぶつけていい言葉ではない気がした。
私が僅かに迷った、その瞬間だった。
彼女は再び胸まで浮かび上がり、強く水面を叩いた。
『~―~~―~~―~――~~―~~――』
舟が揺れる。
リディアがびくりと肩を震わせた。
私は咄嗟にその肩を掴み、支える。
その一瞬だった。
イズミールの肩が、びくりと大きく震えた。
視線が、少女を支える私の手へ向けられている。
胸の奥に、私自身のものとは思えない情動が流れ込んできた。
羞恥。苛立ち。焦り。
そして、何かを奪われるような感覚。
あまりにも人間的で、覚えのある感情たち。
これを、今、彼女が感じているのか。
私と対峙していることで。
「イズミール、君は――」
※※※※※
次いで、湖面の端の方で何かが走ったような気配を、私も確かに感じた。
水面そのものが、ざらりと粟立つ。
同時に、水面にいた彼女が、ぐらりと揺れた。
「イズミール!?」
呼びかける。
返事はない。
揺れているのは姿勢ではなかった。
彼女の輪郭そのものが揺れ動いていた。
髪も衣も、水がほどけるように崩れていく。
リディアが顔色を変えた。
「……これ、痛み……?」
その言葉に、血の気が引いた。
イズミールが自分の両手を確かめるように見下ろす。
その指先が、溶け崩れ始めていた。
慄いたように首を小さく振るのが見えて、私は考えるより先に立ち上がっていた。
舟から身を乗り出し、彼女に呼びかける。
「イズミール、どうしたんだ!」
彼女の顔は穏やかな微笑を浮かべたままだ。
だが、僅かな所作と、あの奇妙な感覚が伝わってくる。
苦痛、恐怖、焦燥。
そして、意味ではなく衝迫として――助けを求めている、と私は感じた。
「イズミール! イズミール!」
舟から身を乗り出して手を伸ばす。
水面から彼女も手を伸ばしてきていた。
どちらが先だったのか、分からない。
だが、その次の瞬間には、指先が触れることもなく、イズミールの全身が崩れて水に還った。
ざあ、と。
ひとりの女だった輪郭が水になって、湖面へ散る。
飛沫が上がり、舟の上に細かな滴となって降りかかった。
「イズミール!」
私は叫んだ。
返事はない。
ただ湖面だけが、彼女のいた場所を中心に、大きく波紋を広げていた。
私は迷わなかった。
舟縁を蹴るようにして、湖へ飛び込んだ。
冷たい。
だが、この湖の冷たさは知っている。
恐れるべきものではないはずだった。
水を掻き分けて潜る。
湖面のすぐ下には、もう彼女の姿はない。
光の届く浅い層を抜け、もっと深い方へ潜る。
沈んだ社の青い屋根が見える。揺れる水草、小魚の群れ。
かつての泉の畔の先の深み。
どこだ。
どこへ消えた。
私は息の続く限り潜った。
いや、息のことすら忘れていた。
視線を巡らせる。
水底の窪地。湧き口の暗い裂け目。そこへ向かうほど、水は冷たく、重くなる。
だが彼女の姿はどこにもない。
あの、呼吸が合い、心が近付いてくる感覚もない。
あるのは広すぎる湖そのものの気配だけだった。
見つからない。
私は浮上し、荒く息を継ぎ、もう一度潜った。
リディアが舟の上から何か叫んでいる。
だが聞こえない。
いや、聞こえても、意味として受け取る余裕がない。
もう一度、深く。
今度は横へ。
社の影の裏。柱の隙間。沈んだ石の下。
いない。
水のどこにも、先ほどまであれほどはっきりと存在していた輪郭がない。
御子様もいつの間にか姿を消していた。
私は浮上して、舟縁に片手をかけた。
リディアが蒼白な顔でこちらを見る。
「アイオリスさん、無茶です!」
「いない、どこにも……」
自分でも驚くほど掠れた声が出た。
「見つからない」
リディアは唇を噛み、湖面を見た。
ただの水ではないと知っている目で、水を見ていた。
「……まだ、います」
「何?」
「消えたわけじゃないです……ここにいる。けど、もっと大きくて、広がってて……」
消えたわけではない。
死んだわけでもない。
その答えに、私はようやく息をした。
濡れた髪をかき上げ、もう一度湖面を見る。
彼女がいた場所は、何事もなかったかのように凪いでいる。
さっきまでそこにいたはずなのに。
怒って、戸惑って、こちらを見て、確かにそこにいたのに。
私は拳を握りしめた。
今ここで、私にできることは何もない。
あの消え方は、水域が広がった直後に、彼女が私から逃げ出した時と似ている。
だが、あの時とは明確に違うことがある。
――彼女は、私に手を伸ばしてきた。
彼女は助けを求めていた。
言葉は分からなかった。
だが、最後に伸ばされたあの手だけは、見間違えようがない。
「アイオリスさん……その……」
「……サルディスのところへ戻ろう」
「は、はい」
私は舟へ身体を引き上げながら、濡れた指先で舟縁を強く掴んだ。
このままでは終われない。
終わらせるものか。




