60.水面から覗き込むものたち(前編) ◆★
58話「水底から湧き上がるもの(前編)」のアイオリス視点
――女神と対話を試みるため、神域に赴く。
そう告げた私に口を差し挟む者は誰一人いなかった。顔に浸蝕の痕が残るリディアを伴っていてすら、誰も私を咎め立てしなかった。
私に貼られた“聖者”という札が、人々から考える力を奪っているのだと感じた。
彼らは私の一挙手一投足、言葉の端々に意味を見出し、信仰に結び付けようとする。
おそらく、私が実際に行っていないこと、口にしていない言葉まで独り歩きしているだろう。
もう、私は人々にとってアイオリスという個人ではなく、神話の中の聖人でしかない。
神や聖人は間違いを犯さない――そう信じていれば、信じる者たちも正しくあれる。
この恐ろしい立場を、私は彼女に押し付けてしまった。
その償いは、しなければならない。
※※※※※
舟が浅瀬を離れた瞬間、槌音が背後へと遠のいていく。
板を打つ乾いた響きは、水の上では幾度も薄く反射して、最後は霧に吸われた。
代わりに、櫂が水を割る音だけが残る。
朝靄の立ちこめる湖面に櫂を入れるたび、水面が薄い絹のように裂け、すぐ元に戻る。
神域。そう呼ばれる場所へ、私は漕ぎ出していた。
隣で、魔術師見習いの少女――リディアが膝の上に手を揃えた。
顔は真っ直ぐ前を向いているが、指先がわずかにこわばっている。
額の浸蝕痕がどこでどう刻まれたのか、私は問い質さなかった。
年若い少女が原野の魔術師に師事するに至る理由など、おいそれと聞けるものではない。
「……大丈夫だ」
気休めと受け取られないように、声色に気をつけてそう告げる。
ここに少女を連れてきた理由は二つ。
一つは、イズミールと意思の疎通を取る手段を習うため。
そして、もう一つは、リディアの浸蝕を浄化して貰うためだ。
女神イズミールの御子、幼い龍の娘たちは浄化の担い手だ。
言い方は悪いが、黒禍を帯びたリディアを連れて行くことで御子様方を誘い出せる。
まず彼女を御子様と引き合わせ、触れ合わせるのが重要だ――師のサルディスもそう言っていた。
リディアは一度だけ息を吸い、首を横に振った。
「えっと、緊張はしてます。けど、それより……会えるのが、楽しみで」
楽しみという言葉の奥に、不安が見える。だがそれは怯えではない。
未知を前にした心構えだ。怖さを観察に置き換える――これが魔術師の在り方か。
湖面を覗き込むと、澄んだ水の底に沈む小さな社の屋根がうっすら見えた。
もうじき、かつての泉だった場所の上に差し掛かる。
「もう少しだ」
そう言い終えた、その瞬間だった。
水面が、ぴょん、と跳ねた。
雨粒の跳ね返りのような水柱が、雨も風もないのに立ち上がる。
次にもう一つ、さらにもう一つ。
小さな水の幼子――角とヒレ、龍の徴を備えた御子様が、陽に透ける泡のように現れた。
合わせて五人。舟の周りを、ふわり、ふわりと漂う。
子供が嬉しくて走り回るような落ち着きのなさで、近づいては離れ、こちらの顔を覗き込むように揺れた。
「わぁ!」
リディアの顔から不安が抜け、幼子たちを見て表情を綻ばせた。
彼女が手を振ると、御子様が手を振り返す。
……以前にはなかった反応だ。
リディアが魔術師だからか、それとも御子様方の方に変化があったのか。
私は櫂を手放して両手を下ろす。あえて祈りの姿勢を取らない。
ここに来たのは、ただ救いを求めるためでも、崇めるためでもない。
御子様の一人が舟縁へ寄り、リディアの目前に浮かんだ。
リディアが息を呑む。だが逃げない。目を閉じない。
その小さな手が、ゆっくりとリディアの額へ伸び――ぴたり、と浸蝕痕に触れた。
触れた瞬間、空気が澄んだ。黒い痣の輪郭が、薄い霧のようにほどけ、消えていく。
リディアの瞳が大きく見開かれた。
「……っ、あ……」
声にならない息が漏れる。恐怖ではない。驚きと熱が混ざった音だった。
すぐに瞳が潤み、言葉にならないまま頬を伝って落ちる。
彼女は泣きながら笑った。救われた者が、救いを受け取った時の顔だ。
私はその顔に、自分を重ねてしまう。
泉に辿り着き、息も心も黒に絡め取られ、救われたあの日を。
あの冷たさが、どれほど温かかったかを。
胸の奥に熱が灯る。
(ああ、よかった)
誰かの救いを、自分のことのように喜べる自分が、まだ残っていた。
そんな私へ向かって、残りの御子様方が勢いよく飛んできた。
「……っ」
慎重さも躊躇いもない。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
肩へ、胸へ、頬へ、頭へ。水の幼子が一斉にぶつかって弾ける。
痛みはない。だが舟がかすかに揺れ、反射的に舟縁を押さえた。
耐えるというより、笑ってしまいそうな衝動が湧く。
幼子たちからは悪意が感じられない。妙に気安い、馴れ馴れしい。
前に庇い立てして怪我を負った後、御子様が戸惑いや不安を感じていたようにも見えた。
だが今は、以前と変わらぬ元気さだ。それだけで胸がほどける。
だが、御子様の健やかな姿を見て、私が想うのはやはり彼女のことだった。
「君も変わりないだろうか、イズミール……」
思わず、その名が漏れた。
リディアはそっと身を乗り出し、水面に顔を映して額を確かめる。
黒い痣のあった場所を何度も撫で、そしてまた泣いた。
「……消えてる。ほんとに……消えてる……」
「……良かったな」
リディアは頷きながら、ふとこちらを見た。
泣き腫らした目に、驚きと疑問が同時に浮かぶ。
「あの……でも、その……なんだか、私と……違いません……?」
彼女の視線が、ずぶ濡れになった私の髪から足先までを追う。
彼女の方は前髪と頬に湿り気が残る程度だ。
浄化のされ方。距離。仕草。
御子様は彼女を濡らさず、丁寧に触れ、確かめるように癒した。
私には、ぶつけて、弾けて、浴びせてきた。
リディアは救われた直後ですら、状況の違いを見抜き、理由を探ろうとする。
怖さを抱えたまま観察する目だ。
私は敬意を覚えた。サルディスの教えが、ここにも生きている。
「いつものことだ。私には……よく、こうされる」
「どうして?」
「分からない。ただ、畔へ救いを求める者を案内していた頃から、こうだった。
周りは私への親しみだと言う。……私には、そう言い切れないが」
リディアは目を閉じ、息を整えた。
泣いた後の濁りが落ち、感覚が研ぎ澄まされていくのが分かる。
「……さっき、少しだけ……御子様たちの気持ちが読めました」
「分かるのか……?」
「はい。言葉じゃなくて……動きです。水の元素霊子の流れ」
彼女は水面に指先を近づける。触れない距離で、空を撫でるように。
「魔術師は、精霊を構成する霊子の動きから、ある程度の意思や感情を読み取ります。
全部は無理です。私は、まだ……でも……」
リディアは、ぶつかってきた四体の方を見た。
「さっきの子たち、楽しい、とか……嬉しい、とか。そういう感じでした。
いじわるじゃない。たぶん……"構ってほしい"に近い……ような」
私は思わず笑ってしまいそうになった。危うい当てはめだ。
だが、危ういほど、合っている気がする。
「……それを、これから教えてくれるのか」
リディアは頷いた。
「はい。まずは瞑想です。
水の音、匂い、揺れ、温度……そこに集中して、水の元素霊子を感じ取る訓練です」
私は頷いた。剣の鍛錬と同じだ。できないからやる。馴染むまでやる。
その時、宙を舞っていた御子様方が、ふっと距離を取った。
湖面へ降り立ち、溶けるように水へ還っていく。
水面が、さっと凪ぐ。凪いだぶん、逆に"沈黙の存在感"が際立つ。
リディアが息を呑んで呟いた。
「この湖には……あの子たちより、はるかに強い気配が……ずっとあります。
大きすぎて、今まで分かりませんでしたが、あの子たちがいなくなって、はっきり分かりました」
彼女は凪いだ水面を見つめたまま、静かに言う。
「……この湖のどこかに、女神様がいて、私たちを見ていると思います」
私は櫂を止めた。舟が、ゆっくりと惰性で進む。
彼女が私たちを見ている。だが、姿を現してはくれない。
――それを私への不信と決めつけるのは、私の悪い癖だ。
(止そう。私の勝手な思い込みで、彼女の思惑を量ろうとするな)
私は小さく頷き、リディアへ言った。
「頼む。教えてくれ」
リディアは、まだ赤い目で、けれどまっすぐに頷いた。
ここからが本番だ。
言葉の通じない彼女と通じ合うための修行が始まる。
※※※※※
舟は惰性で進み、やがて湖面は完全に凪いだ。
凪いでいるのに、気配は濃い。
水は透き通っている。
水底に沈んだ社を見ていると自分が空を飛んでいるような錯覚すら覚えるほどに。
リディアが小さく息を整えた。
「……アイオリスさん。最初は、目に頼らないようにしてください」
私は頷いた。戦いにも通じることだ。目だけに頼っていては遅れる。
「耳も、鼻も……全部、使います。見えるもの以外に集中します」
彼女は自分の膝の上に手を置き、指を揃えた。
さっきまで泣いていたとは思えないほど落ち着いている。
「じゃあ、目を閉じて、身体の力を抜いてください」
「わかった」
私は、少し遅れて目を閉じる。
水の匂いが感じられる。冷たく、澄んだ匂いだ。
浄められた水にだけある、薄い甘さに似た匂い――それが鼻の奥に残る。
水の音は、ほとんどない。櫂を止めた舟の底が、微かにきしむ音。
遠い工事の槌音は届かない。ここでは世界が音を遠ざけている。
「今、聞こえる音を、ひとつずつ数えてください」
リディアの声が低い。抑えた声だが、湖面にはよく通る。
水が言葉を運ぶのか、それとも、こちらの意識が音を拾いやすくなるのか。
「舟の木の音。水の重さ。自分の呼吸。……身体の中を血が巡って流れてます」
私は目を閉じたまま、胸に手を当てる。
胸に手を当てる。心臓の鼓動が、指の下でやけに大きく聞こえた。
当たり前のようにあり、平静な状態では意識することのないもの。
「……水は、呼吸に似ています」
リディアが続けた。
「吸って、吐いて。揺れて、戻る。押して、返る。
……だから、呼吸が乱れてると、水の気も読みづらいんです」
私は呼吸を落とす。ゆっくり。深く。肩の力を抜く。
凪いでいるはずの水面が、ほんの少しだけ――寄るような気がした。
気のせいだ。
水は風で動く。流れで動く。私の呼吸で動くはずがない。
だが、今、確かに。
水面がこちらへ、薄く寄った。いや、私が近づいたのか?
「……今、来ました」
リディアが目を閉じたまま言った。
「水の霊子が、少しだけ――動きました。たぶん、様子を見てるだけです」
私は喉の奥で息を飲み込み、飲み込んだ。
見ている――彼女が私を見ているのか、この水底のどこかで。
船底を隔てて、彼女と同じ場所にいる。
それだけで心臓が高鳴る。
駄目だ。静まれ。音を感じにくくなる。
気が散り出すと、遠くから響く槌音を拾ってしまう。
瞑想の次は、水の霊子とやらに触れる訓練だ。
私には馴染みのない概念だ。殺気のようなものだろうか。
「……どうすればいい」
「"触れない"で、触れます」
意味が分からない言い回しだが、彼女の口調には迷いがない。
「水面に、指を入れないで。まず、近づけるだけ。水面の湿り気を撫でるみたいに」
私は目を開け、片手をそっと舟縁から出した。
指先を、水面のすぐ上で止める。微かな冷気が指先にまとわりつく。
すると、触れてはいないのに指先の周りだけ、水気が濃くなる。
リディアが囁く。
「今、手の周りの霊子が揺れました。……それを覚えてください」
その日は、日が暮れるまで瞑想を行った。
帰りがけに一度だけ、リディアの指示で水に触れる。
手触りを確かめるように、そっと。
水面に指先を沈める感触が、ほんのわずかに硬く感じられた。
それが錯覚なのか、何らかの反応なのか、私には判断がつかなかった。
拠点へ戻ると、リディアの痣が消えたことを見たサルディスは、珍しく露骨に顔を崩した。
弟子の回復を喜ぶ老人の顔だった。
彼がこの地に来た理由の少なくない部分が、リディアにあるのだと、その時はっきり分かった。
※※※※※
次の日、再び神域に漕ぎ出す。
リディアの指示で、泉だった場所の真上あたりで舟を止める。
水は澄んでいるが、底の見えない大きな暗い穴が見えた。
あの時、巨大な水龍が立ち昇った時のものだろうか。
覗き込むと引き寄せられるようで、恐ろしくもあり、どこか懐かしさを覚える。
その奇妙な感覚から意識を引き剝がして、同乗する症状に目を向けた。
リディアは昨日と異なりすっかり落ち着いた様子で訓練の内容を説明し始める。
「今日は"良い印象"を作ります」
また、奇妙な言い回しだ。
視線を向けるとリディアは頷き、説明を続けた。
「水の精霊は、気分は水面に出やすいです。だから、こちらから、波を作ります」
彼女は小さく指を立て、空中に輪を描いた。
「雨、です」
「雨?」
「水が降る音。雨が落ちて出来る波紋。湿った空気。
水の精霊にとって、雨は世界から優しく触れてくるものなんだって、師匠が言ってました」
なるほど、理屈としては理解できる。
水の精霊にとって雨は、形は違えど同じ水、近しいものなのだろう。
しかし、人の手で波紋を作るのは、雨を装って騙していることにならないのだろうか。
リディアは言う。
「水面を強く叩かないで。指先だけを、細かく、規則的に。波をいくつも作ります」
私は眉を寄せた。
「それは……失礼にはあたらないのか」
「精霊そのものに触れるわけではありませんし、騙すためじゃありません。
“こちらは敵意がありません”って、水に分かる形で伝える合図みたいなものです。」
合図、か。
浸蝕の痕が消えた今、彼女に直に触れるよりは抵抗感が薄いのは確かだ。
「でも、精霊が生まれる場所――元素霊子の集まる"座"にも、"癖"や"機嫌"があるそうなんです。
その"癖"を知るための方法の一つだって教わりました」
"座"の"癖"――なるほど、そういうものもあるのか。
私は頷いた。古くから精霊に触れてきた先達の教えに倣おう。
※※※※※
まず、先に瞑想からと言われ、少なくない時間を、水の気配を感じ取ることに費やした。
それから、次の訓練に移った。
ゆっくりと、両手を水面に近づける。指先だけを入れる。
深く入れない。広げない。水を掻かない。
ほんの表面だけを、確かめるように触れる。
リディアに言われるまま、私は水面の上で指を動かした。
触れるか触れないかの深さで、細く、軽く、規則的に。
剣を握る手とも、斧を振るう手とも違う。力を通すのではなく、抜くための動きだ。
指先からこぼれた小さな波紋が、朝靄の浮いた湖面にいくつも広がって、重なって、ほどけていく。
雨の真似――そうリディアは言った。
最初は、こんなものに意味があるのかと思った。
だが、二度、三度と繰り返すうちに、水面の返し方が変わってきたように感じる。
ただ触れただけなら散って終わるはずの波が、わずかに留まり、寄り添うように揺れる。
「……今のは、たぶん、悪くないです」
リディアが小声で言った。
彼女は目を閉じかけたまま、水面の気配を探っている。風を聞くような顔だった。
「たぶん、と言うと……?」
「大きすぎて、まだ、はっきりとは……でも、拒まれてはいないと思います」
拒まれてはいない。
その言い方だけで、胸の内に熱が灯る。
姿は見えない。言葉もない。
だが、完全に背を向けられているわけではないのだとしたら――それだけで、今は十分だった。
私はもう一度、指先で雨を作る。
ぱた、ぱた、と落ちるように。均等に。細かく。
すると、舟の脇の水面がわずかに盛り上がり、ちゃぷん、と波音が立った。
私は思わず目を見開いた。
彼女が応えてくれた。そう思って私は指先を水面に走らせようと――
だが次の瞬間、リディアが私の手首をそっと掴んで止めてきた。
「ま、待って、アイオリスさん、今は、それ以上、だめです」
「……何故だ」
「よ、喜んではいるんです。でも、その……すごく、近いです。たぶん、その、近すぎて……」
言葉を探し、リディアは耳まで赤くなった。
「恥ずかしい、みたいな……困ってる、みたいな……。
えっと、その、あの……触られ慣れてないところを急に触られた、みたいな感じで……」
私は凍りついた。
「……それを先に言ってくれ」
「わ、私も今、分かったんです!」
リディアは真っ赤なまま言い返した。
それからこほんと咳払いし、必死に師の口調を真似るみたいに整える。
「精霊の機嫌を損ねたわけではないと思います。
たぶん……嬉しいのに、びっくりしてるんです。だ、だから、今日はここまでにした方が」
私は手を引いた。
水面は、しばらく落ち着かないように小さく揺れていたが、やがて何事もなかったように凪いだ。
その凪を前にして、私は言いようのない罪悪感と、奇妙な達成感を同時に覚えた。
拒絶ではなかった。だが、踏み込みすぎたのは確かだ。
「……すまなかった」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
リディアは「いえ……」とだけ答えて、それ以上は何も言わなかった。
(そうか、あれは嬉しいのか……)
私は最後に行った水面の触り方を心に刻んでおくことにした。




