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EX(119.22).水の底のとある一日(前編) 〇★△

 育休女神の朝は早い。


 まだ夜も明けきらぬ頃から水底へ座り込み、幼い我が子を腕に抱いて、一挙手一投足を見守る。


 名を呼ばれれば返事をし、手を伸ばされれば握り返し、時には髪を撫で、抱く向きを変える。


 終わりの見えない作業だが、熟練の母親は己に妥協を許さず、丁寧にやり遂げる。


 ――こうして、母親の朝は始まるのである。


 ……などと密着ドキュメンタリーみたいに言ってみたが、朝もクソもねえ。


 だって俺、寝てねえもん。


『……ははうえ?』


「おう。どうした」


 腕の中から呼ばれ、覗き込むと青い目がジッとこちらを見上げてきた。

 何かしてほしいのかと思って待ったが、ミュカレはしばらく顔を見つめた後、黙って胸元へ頬を寄せてきた。


「何もねえのかよ」


『ははうえ……』


「はいはい。母上、営業中だぞ」


 また呼ばれたので返事をするが、今度も用件なし。

 手を握り直したら、それでいいらしい。チョロ可愛いやつめ。


 生まれてから何日か経ったが、こいつはよく俺を呼ぶ。

 何か欲しいわけでも、困ったことがあるわけでもなく、ただ呼んで、俺が返事をするのを待っている。


 問い合わせ内容――母上はいますか。


 回答――そこにいればいるんじゃないですかね。


 以上。


 そんな確認を夜中から何度繰り返したか分からないが、不思議と腹は立たない。


 これが産後ハイってやつか? 炭酸をキメすぎておかしくなっちまったんだろうか。


 ちびどもは俺をアスレチック兼ドリンクバーみたいにしてたもんだが、こいつはえらく大人しい。


 そもそも、水の精霊には睡眠も食事も排泄も必要ない。

 夜泣き対応と授乳とおむつ交換で徹夜する、人間の親御さんたちの苦労とは無縁なのだ。


 まあ、精神的に疲れないかと言われれば別の話だが、少なくとも今のところ、うちの子は非常に手がかからない。


 まったく、水精霊の育児はベリーイージーモードだぜ。


 これなら何人だっていけ――いやいやいや、その理屈はおかしい。


 今のは俺じゃない。

 “わたし”の差し金だ。そうに決めた。


 そんな馬鹿なことを考えている間にも、湖面から差し込む光は少しずつ明るさを増していた。

 夜の青黒い水が淡く色づき、浅いところを泳ぐ魚の影が頭上を横切っていく。


 新しい朝が来たらしい。


 とは言え、俺やミュカレのすることに変わりはない。


 だが、人の世はそうもいかないのだ。


※※※※※


『ママー! オベントー!』


 我が家に朝という概念を持ち込んできたのは、元気いっぱいのミューズだった。


 水中をすっ飛んできて、俺にガラスの小瓶を差し出してきた。


 ミュカレが顔を上げた。


『あねうえ』


『ミュカレ、おはよー!』


『……おはよう』


 姉に向かって小さく頷く。

 寝てたわけでもないのに朝の挨拶がすっかり習慣づいている。


「……今日も持ってくのか、それ」


 その瓶はちょっと馴染みのある形をしていた。

 昔、俺と木こり野郎を繋いでいた“あの瓶”に似ているやつをわざわざ探してきたらしい。 


『うん!』


 元気よく頷かれてしまった。


 事の発端はミツバだ。


 あいつが泥団子を「オベントー」と呼んでいたのを聞いて、ミューズが意味を尋ねてきた。

 出先に持っていく飯だと説明したら、じゃあ自分も欲しいと言い出したわけだ。


 俺たちは人間みたいに飯を食う必要がないし、浄化はできても消化はできない。


 ただ、水は飲めるので、とりあえず水でも持たせればいいかという雑な結論へ至った。

 結果、瓶詰めした水を神殿へ持参するという謎の習慣が爆誕した。


 おい、イルミンスール。てめえのせいでまた変な文化が生えちまったじゃねえか。


「つーか、毎度思うんだけどさ」


 ミュカレを片腕へ抱き直し、差し出された瓶を受け取る。


 中身は空。


 栓を抜けば周りの水が流れ込んで、あっという間に充填完了。


 ……いや、本当にいいのかこれで?


「神殿だって湖の上にあるんだし、水なんかそこら辺から飲めばよくね?」


 ミューズは不思議そうに瞬いてから、当然のことみたいに答えた。


『ママが、ミューズのために入れてくれたのがいい』


「…………」


 そういうこと言うの、ずるくね? この陽キャの親孝行者め。


「……同じ水だぞ?」


『ぜんぜん違うよ? ママが入れてくれた水、一番おいしい』


 違わねーよとは思ったけれど、そう言われると悪い気はしない。


 俺は瓶の口へ指を添え、中の水を一度外へ流し、改めて周りの水を導き入れる。

 何を変えたわけでもない、ただの詰め直しだ。


 けど、このままっていうのも、なんだか冷食だけの手抜き弁当っぽいよな……。


 やるか。


 ――うおおぉぉ! 浄浄浄浄浄浄浄浄JOJO浄化浄化浄化浄化浄化浄化ぁッ!


 栓をしてから、瓶越しに秒間十六連射の浄化を叩き込む。


 ……しまった。勢い余って黄金化までかけちまった。


 まあ、ミューズなら自分で解けるからヨシ!

 黄金密封で鮮度抜群、いつでも汲みたての美味しさ。東京特許許可局に許可出願中!


「……ほらよ。飲む前にはちゃんと戻せよ」


『うん! ママ、だいすき!』


 両手で受け取って、嬉しそうに胸へ抱える。


 最近は普通に女神らしくなってきたと思ってたけど、こういうところは、ちびの時と変わんねえな。


「で、これから神殿だろ? 今日は何すんだ?」


『朝はみんなのお祈りを聞くよ。お昼の後、リディアと一緒に、おししょーたちとお話!

 としこっかれんごーの人も来るんだって。ミューズのおうち、また増やすみたい』


 それ、単なる参拝客の相手じゃなくて、もう外交の類なんじゃねえの?


 神殿は、俺やミューズにとって、ファストトラベル先みたいなもんだ。

 通訳になるアイオリスやリディアは一緒に飛べないが、あるかないかは大違いだ。

 俺たちにとっても、参拝に来る人間どもにとっても。


「おー。ちゃんと仕事してるじゃん」


『うん!』


 もう、ミューズにはミューズだけの仕事がある。


 最初のうちは、言い方は悪いが文字通りただの神輿だったのに、俺が巡行へ出ている間にも、リディアと相談しながら神殿の仕事をこなしてきた。


 今や、各都市国家のお偉方を相手にする救世の女神様である。

 あのちびどもがこんなに立派になるなんてな。俺も鼻が高いよ。


「けど、あんまり何でも引き受けんなよ。分かんねえことは、分かんねえって言っとけ」


『分かんないとき、リディアに聞く』


「リディアだって分かんねえことがあんだろうが。昼はちゃんと休めよ。リディアも一緒にだ」


『うん。だから、リディアがお昼ごはん食べるとき、ミューズもオベントーするの』



 リディアが飯を食っている横で、自分だけ何もしないのが嫌らしい。


 一緒の時間に、自分も瓶から水を飲む。


 なるほど、腹を満たすためじゃなく、一緒に飯を食うための弁当ってわけだ。


 それなら、まあ分からんでも――


『それで、ミューズ、ゴゾーロップにしみわたるぅ~ってする!』


 前言撤回。


「お前に五臓六腑ねえだろ」


『ママもないよ?』


「俺の話はしてねえ」


『ミツバ、飲んだら言うよ。おいしいと、ゴゾーロップにしみわたるぅ』


「完全にミツバ語録に汚染されてんじゃねえか」


『ミツバ、なかよし。よぶ、こたえる、いいね!』


 ミューズがミツバの口真似をして、けらけらと笑った。

 まったく、誰に似たんだこいつ。あのジジババどもか?


『……おべんと?』


「ん?」


 ミュカレが瓶を見ていた。


 姉が大事そうに抱えているのが気になるらしい。


 ミューズは少し屈み、瓶を見やすいように差し出してやった。


『そう! ママが、ミューズのために入れてくれたお水だよ』


『ははうえの、おみず……』


『うん。リディアと一緒するの』


 ミュカレは瓶をじっと見て、それから俺の顔を見上げた。


 水の精霊が水の中で水を持ち運んでいるという壮大な無駄に気づいてほしいところだが、姉が嬉しそうなので何かよいものなのだと受け取ったらしい。目がキラッキラしてる。


 それでいて、「ぼくも」とは言い出さず、スッと俺の腕に収まり直した。

 お前は本当にインドア派だな……うちには、ドアも部屋もねえんだけど。


『じゃあ、ミューズ、行ってくる! ミュカレ、帰ったら遊ぼうね!』


「おう、行ってこい。リディアにもよろしくな」


『……ん』


 ミュカレが小さく手を上げると、ミューズも片手を振り返した。

 もう片方の腕ではしっかり瓶を掴んで水面に向かって浮上していった。途中で無駄に四回転半。


 あんなに嬉しそうに出かけられるなら、瓶一本くらい、明日も用意してやるか。


 そんなことを思っていたら、


「イズミール」


「あん?」


 振り返ると、今度はアイオリスがいた。


 我が家の出勤第二陣である。


※※※※※


 そう。実はこの野郎、さっきからすぐ傍にいやがったのだ。


 ずっと小さな泡に包んだ書類へ目を通しているもんだから、ミューズも邪魔しねえようにしてたらしい。

 すごいぞうちの子、気遣い力まで上がってる。リディア大明神の御利益か?


 ミュカレがやたらと俺の胸にべったりなのは、こいつが傍にいたからもあると思う。

 相変わらず父親と顔を合わせるのが苦手で、ほとんど喋らない。


 まぁ、単にマザコンでコミュ障なだけか、おっぱいが好き過ぎるだけかもしれんが……。


 アイオリスは読んでいた書類をまとめながら、立ち上がり、俺の肩に触れてきた。

 ミュカレがその手をじっと見たが、払いのけようとしたりはしない。


「私も、そろそろ行ってくる」


「お前には弁当とかねえからな」


(今日は爺さんと何の話だっけ。例の文書をどうこうするってやつ?)


(ああ。各地へ出す指示の文面と、既存の記録の改訂について、詰めておきたいところがまだある)


 言葉での会話と並行して、お肌の触れ合い通信でも会話。

 小難しい仕事の話を子どもに聞かせてもしょうがないし、ミュカレ絡みの案件でもあるからだ。


 黒禍の名や、黒い色を穢れの徴とする記述を、神殿の記録や教えから少しずつ取り除いていく。

 そのために、何をどこまで、どう変えるのかを詰めているところだと聞いていた。


 要するに、ミュカレがいつか外へ出た時、髪が黒いってだけで怖がられたり、変な神話を背負わされたりしないようにするための措置だ。


 職権濫用もいいところだが、俺も反対はしなかった。


 俺にとって黒い髪は、前世の懐かしさを感じられる色だが、この辺の感覚は、この世界の連中とは随分違う。

 黒禍に苦しめられた連中の記憶まで、なかったことにするわけにもいかないだろう。

 アイオリスにとっても、家族や故郷を奪った相手のはずだが、あいつはそれ込みでミュカレの将来を選んだ。


 だから、何を残して、何を変えるのかは、実際に黒禍を経験してきた爺さんやリディアの話も聞きながら決めてほしかった。


 俺たちの子供のために何かしてやりたいのは本音だが、それで何もかも解決するほど、簡単な話じゃねえんだろうしな。


「夕方までには戻るつもりだ」


「だってよ、良かったなミュカレ」


『……』


 ノーコメントで胸元にぎゅっ。うん、知ってた。

 アイオリスの奴は顔には出さないが、立ち姿が煤けてる。あとでプランBだな……。


(通達を出した後は、私も実際に見て回るつもりだ。指示が継続して守られねば意味が無い)


(社内監査ってことか? 嫌われ部署じゃねえか……お前が直々にやんのか?)


(できる範囲ではあるが、まずはそのつもりだ。

 いずれは人に任せるが、後々も機能するよう、制度の枠組みを作っておきたい)


 戦斧振り上げて突撃するだけの脳筋に見えて、こいつは意外とこういう仕事もできる。


 社外秘の通達。旧制度をぶっ壊す新制度。社内監査。

 聞いてるだけでゾワゾワくるキーワードだ。


 上の人間が気軽に口にする「やってみよう」で、現場の仕事が無闇に増えていくあの現象を思い出す。


(あんまり爺さんをいじめんなよ? 他にも仕事があんだろ)


(負担をかけていることは、承知している)


(分かってんなら、まとめてから相談しろよ。

 これも確認、あれも追加、やっぱりこっちも、って毎日やられる方はたまんねえんだからな)


 ただでさえ復世だ何だで仕事が山積みなのに、世界で一番しつこい男が監査までやるとか言い出したら、俺が部下なら転職サイトを開く。


「戻って来んのはいいけど、今度は仕事を持って帰ってくんなよ」


 アイオリスは少し考えてから頷いた。


「気をつけよう」


(……ただ、後になって残っていたものが見つかる前に、今できることはしておきたい)


 そう言って、俺の腕の中へ目を向ける。


 釣られて見下ろすと、ミュカレが自分に向いた父の視線をじっと見返していた。

 水の中で柔らかく揺れる黒い髪を、俺は掌でそっと撫でた。


 ここにいる限り、俺がいくらでも守ってやれる。

 それで当分は問題ねえだろうと思っている俺に対し、こいつは、この子が外へ行きたくなった時のことまで考えているのだろう。


 その時になって、何もしていなかったと悔やむのが嫌なのだ。

 こいつが何十年先まで見越して心配しているのかは知らんが、本当にクソ面倒臭ぇ旦那を持ったもんだ。


 けど、それだけ俺たちを大事にしていると分かっているので、あまり強くも言えなかった。


「……まあ、ほどほどにな」


「ああ」


「その『ああ』、信用度三割くらいだからな」


「心に留めておく」


「二割に下がったわ」


 そんなやり取りをしていると、腕の中のミュカレが身体を起こした。


『ちちうえ……そと、いく?』


 ミュカレの声に、アイオリスが動きを止めた。

 小さな手が俺の衣を握り締め、眉間に皺が寄った。


『ははうえ、ここ……』


「そうだな。私は神殿に用事がある」


『ちちうえ、ははうえと、いない?』


 四六時中、俺にべったりの同類である父親が、俺から離れることを不審に思ったらしい。

 赤ちゃんでもねえのに、四六時中、嫁にべったりな旦那の方がよっぽど不審なんだからな?


 アイオリスは俺たちの前へ膝をつき、ミュカレの顔を見た。


「会って話さねばならない人がいるんだ。用を済ませたら戻ってくる」


 ミュカレは黙っている。拒んではいないが、納得しましたという顔でもない。

 その目を見つめたまま、アイオリスは少し声を和らげた。


「私が留守の間、母上のことを頼めるか」


『……ぼく?』


 ミュカレが目を瞬いた。

 俺の顔を見上げ、またアイオリスを見る。


「ああ。君が一緒にいてくれるなら、安心して出かけられる」


 こいつめ、うまいこと言うじゃねえか。


 俺がミュカレに守ってもらう必要なんかどこにもない。

 けど、こう言われたらその気になる奴だと分かってやがるな。


 やりがい搾取という言葉が脳裏を横切った。


 ……ちょっと、違ったかもしんねえ。


 しかし、ミュカレのヒレがぴんと立っていた。


『ははうえ、ぼく、まもる』


 アイオリスを見て、はっきりと言った。


 完全にやる気勢だ。「のるなミュカレ! 戻れ!」とか止める暇もなし。


 さっきまで寄っていた眉も戻り、妙に真剣な顔で、俺に抱きつく腕に力を込めている。


 前みたいにアイオリスに反発する様子もない。


 ……まあ、いっか。


 本人が満足してるなら、水を差すほどでもねえ。


「ありがとう、ミュカレ。では、また後で」


 アイオリスはそれだけ言って立ち上がった。

 ミュカレへ無理に触れようとはせず、俺と目を合わせる。


「行ってくる、イズミール」


「おう。話し込んで遅くなんなよ」


(……あと、よその水なんか飲んで来るんじゃねえぞ)


(私が口にしたい水は君だけだ)


(うるせえ、黙れ)


 肩に触れる手を払いのけて、しっしっ。


 アイオリスは頷き、俺とミュカレを一度見てから、水面へ向かって泳ぎ始めた。


 ミュカレはその後ろ姿をじっと目で追っている。

 うまいこと乗せられている気はするが、親父を追っ払うために張り切るよりは、頼まれて張り切る方がいいだろう。


 本人もやる気だし、今はそれでよしとしておく。


 やがてアイオリスの姿が水の向こうへ消えると、ミュカレが小さく呟いた。


『……ちちうえ、いった』


「行ったな」


 ミュカレが俺の腕から身を起こす。


 周囲を見る。


 右。


 左。


 上。


「……何してんのお前」


『ははうえ、まもる』


 上を見回そうとするので、角がめちゃくちゃ顔に刺さる。

 お互い水だから痛くも痒くもないんだけど、絵面がよくない。


 ちょっと仰け反りながら、腰へ腕を回して抱え直す。


「どこ行く気だよ。ほら、ここにいろ」


 ミュカレは素直に俺の胸へ収まったけど、その状態でも胸を張る。


『ぼく、まもる』


「はいはい。頼もしい頼もしい」


 守る気満々の護衛が、母親に抱っこされたまま離れない。


 こいつ、自分で何かおかしいと思わねえのかな。


 本人は真剣なので笑わないようにしていたが、得意げに見上げてくる顔を見て、結局ちょっと笑ってしまった。


 うちのこが引きこもりから、自宅警備員にクラスチェンジした。


 ……まあ。


 可愛いからいいか。


※※※※※


 水面を透かして届く光が、朝よりも高いところから差している。

 湖底の石に映る淡い明暗を眺めながら、俺はミュカレを膝に乗せていた。


 定位置は水没した社の屋根の上――俺の社長席だ。

 昔、ガチムチ大工どもが建てたものを、傷まないように黄金のままにしてある。


 ミュカレは俺の腕に片肘を預け、通り過ぎる魚を目で追っている。


 さっきまでは俺の髪の先を弄っていたが、魚が群れで横切った途端にそちらへ気が移った。

 途中まで手を伸ばし、届かないと分かると俺の顔を見る。


「そいつらは追い払わなくていいんだからな。うちの社員どもだ」


『……ははうえ、いじめない?』


「母上、小魚にも負けちゃう感じなのか?」


 戻ってきた手を握ってやると、指の間へ小さな指が入り込んだ。


 魚を見失ったことはもう気にしていないらしく、今度は俺の手をしきりに眺めている。

 さっきから見て、触って、また別のものを見て、と忙しい。


 俺にとっては見慣れたものでも、こいつには調べるところがいくらでもあるようだ。


 生まれた途端に父親を悪者扱いしたり、俺を守ると言い出したり、子どもっぽくないガキだと思ったこともある。

 けど、こうして一緒に過ごしてみれば、何のことはない、会ったばかりの頃のミツバと大差ないおガキ様だ。


「……暇だな」


『ひま?』


「何にもやることがねえってこと」


『……ヤー?』


「別に悪い意味じゃねえよ」 


 前世の俺なら、休日にネット回線が死んだだけで発狂していたと思う。


 この世界へ来たばかりの頃だって、泉になって何もすることがなく、ずっと一人で退屈に耐えていた。


 気が狂いそうだから、必死こいて美少女フィギュアを作り始めたんだった。

 今は造形したっていいし、どこかへ出かけても、誰かへ連絡してもいい。


 けれど、腕の中のミュカレが、目の前を横切った小さな魚へ顔を向けたので、俺もそっちを見る。

 水で何か作って見せてやろうかとも思ったが、ミュカレは俺といるだけで十分に楽しんでいる。


 ……まあ、こういうのも悪くはねえか。


『ははうえ、こまった?』


「ん? 別に困ってねえよ。何で?」


 問い返すと、ミュカレは俺の顔をじっと見た。

 返事を探しているようなので待ったが、説明する代わりに、小さな掌が俺の頬へ伸びてきた。


『ははうえ、ひま』


「お前抱いて、ぼーっとしてんだよ。今はこれでいいの」


『ひま、いい?』


「いいよ。ほら、楽だし」


 屋根の上で座る向きを変えながら、ミュカレを抱き寄せる。

 頬へ触れていた手が肩へ回り、小さな身体が俺の胸元へ落ち着いた。


挿絵(By みてみん)


 その頭を撫でていると、揺れる黒い髪の向こうに、昔見た別の顔が浮かんだ。


 最初に木こり野郎が兜を脱いだ時も、黒髪だった。

 髪も目も黒、傷だらけの浅黒い顔。


 化け物が出てくると思って身構えていたところへ、何でそんな無駄にイケメンなんだよと理不尽に腹を立てた記憶まである。


 あの頃の俺へ、そいつとの間に子どもができるぞと言ってやったら、どんな顔をするだろう。


 言ってる事がわからない、イカレてるのか? って、水ぶっかけて追い払うわ。


「そういや、お前。父上が昔どんなだったか、知ってんのか?」


『ちちうえ?』


「今みたいになる前だよ。昔はお前みたいに、髪が黒かったんだぞ」


 ミュカレは自分の髪へ手をやった。

 ひと房つまんで前へ引き、しばらく眺めてから俺を見る。


『……しらない』


「そっか。じゃ、その服は? どうしてそういう格好にしたんだ?」


 あいつが壊れた鎧から着替えてきた時の服装にどことなく似ている。

 これも、もちろん水で出来ているから、実際は身体の一部と変わらない。


 ミュカレは何かを確かめるように自分の服を見下ろしたが、やがて首を傾げた。

 俺が何を聞いているのかは分かっても、答えが見つからないらしい。


『……わかんない』


「分かんねえなら、それでいいよ。俺もずっと自分が何でこんなことになってんのか分かんなかったしな」


 今でも全部分かったとは言い難いが、その辺は置いておこう。


 生まれた時にも、何を受け継いだのかという話にはなったが、親子喧嘩の方が先だった。

 今なら、誰かが横から勝手に自分の責任にすることもなく、本人に聞ける。


「腹ん中にいた時、俺たちの声は聞こえてたんだよな。それより前のことって、何か覚えてるか?」


『まえ?』


「ここじゃねえ場所とか、会ったことのねえ奴とかさ」


 ミュカレはしばらく考えたが、首を振った。


『ははうえ、こえ、しってる』


「それは知ってる。……じゃあ、何かやらなきゃいけねえって思うことは?」


『ははうえと、いる』


 今度の返事は早かった。

 しかし、朝に父親から頼まれたばかりだ。俺の聞き方が悪かったかもしれない。


「それ、父上に頼まれたから?」


 ミュカレは首を振った。


『ちがう』


「じゃあ、前からずっとそう思ってたのか?」


『うん』


「誰かにそうしろって言われたみたいに、どうしてもしなきゃいけねえとか?」


『……ちがう』


「じゃあ、何で?」


『ははうえ、すき。ここ、いい』


 即答だった。


 小さな腕が俺の首へ回り、頬が胸元へ寄せられた。

 これ以上どう説明すればいいのか分からない、というように身体ごとくっついてくるので、俺もその背へ手を回す。


「……そーですか」


 また、あっさり顔が緩んでしまった。


 少なくとも今のところ、知らない誰かの人生を覚えていたり、やり残した仕事に追い立てられたりしている様子はない。

 こいつがまだうまく話せないだけという可能性もあるが、一度に全部聞き出すこともないだろう。


「姉ちゃんたちはどうだ? 一緒にいて楽しいか」


『あねうえ、すき。ははうえ、おなじ、おみず』


「ああ」


『おねえさん。やさしい。あそぶ。うたう』


「そっか、そっちもちゃんとあるのな」


 俺と同じ水で出来ているから好きってだけじゃない。


 話しかけてくれ、歌って、踊って、遊んでくれる。

 生まれてから知った、あいつらのことも、ちゃんと好きになっている。


「そりゃよかった。じゃあ、父上は?」


『…………』


 露骨に止まった。


「おい、そこだけ処理時間長くない?」


『ちちうえ……ははうえ、いじめない?』


「いじめねえよ。朝だって、普通に話してただろ」


 ミュカレは眉を寄せたまま、俺の返事を聞いている。


 生まれた時から持っていた誤解が全部消えてしまったわけではないらしい。

 あの時みたいに、やたらと反発したりせずに、まず俺に聞いてくるようにはなった。


 それなら面倒でも、その都度答えてやるしかない。


「さっき、俺があいつに行くなって言ってたか?」


『……いわない』


「だろ。用事があるから行って、終わったらここに帰ってくんだよ。

 俺もそれでいいから、行ってこいって言ったの」


『ははうえ、いや、ない?』


「ない。嫌だったら俺が言うって、前にも話したろ」


 頷きはしたものの、まだ気になることがあるらしい。

 衣を掴む指が少し動き、ミュカレは一度下を向いてから、改めて俺を見上げた。


『ちちうえ、ははうえ、まもる?』


 ああ、そっちもあるのか。

 俺を困らせないかという心配だけではなく、何か起きた時に頼りになるのかまで疑っている。


 父親相手だと途端に審査の基準が跳ね上がるのな。


「守ってくれるよ。たぶんな」


『たぶん?』


「絶対とか言ったら嘘になるだろ。あいつだって失敗するし、俺だってする」


 ミュカレの眉が寄ったので、俺はその頭へ手を置いた。


「でも、あいつが困ったら俺に言えばいいし、俺も困ったらあいつに言う。そうやって一緒にいるんだよ」


『……いっしょ』


「おう。だから、お前も分かんねえことがあったら聞け」


 何か一つ引っかかると、悪い可能性を探し始めるところは俺に似ている。


 そのくせ、気にしているのは母親を傷つけないか、ちゃんと守れるかということだ。


 あいつが自分へ向けてきた疑いを、この子はそのままあいつに向けているようにも見える。


 ……俺の疑い深さと、あいつの自罰的一人反省会を悪魔合体させたら、こうなるのか?

 親の駄目なところだけブレンドしてエスプレッソにするな。


『ははうえ?』


 黙っていた俺の顔を、ミュカレが覗き込んでいる。


 心配そうに眉を寄せて。


「何でもねえよ。ほら、そんな顔すんな」


 頬を両手で挟む。


『むゅ』


 はい、可愛い罪で有罪判決。

 むにむに刑を即時執行、弁護士を呼ぶ権利はありませーん。


 水で出来た頬の感触をしばらく堪能してから解放してやって、また抱え直す。


「なあ、父上が帰ってきたら、今日何してたか教えてやれよ」


『なに、した?』


「今やってることだよ。何してる?」


 ミュカレは自分の手を見た。その手が触れている俺の腕を見てから、顔を上げる。


『ははうえと、いた』


「おう。それでいい」


 あいつなら、その一言を聞くだけでも嬉しそうにするだろう。

 大切な役目を果たしてくれてありがとう、くらいのことを真顔で言うかもしれない。

 そうすると、こいつもまた張り切って俺から離れなくなりそうで、その辺はほどほどにしてほしいところだが。


『ははうえ、ちちうえ、かえると、うれしい?』


 ぼんやり想像していたところへ聞かれ、俺はミュカレを見た。


 何かを試したり疑ったりするような目じゃない。

 俺がどう思うのかを、ただ素直に知りたがっている。


 ここで変に照れて否定したら、また話が拗れる。


「そりゃ、帰ってくりゃ嬉しいよ。今日はどうだったとか話もしたいし」


『……うれしい』


「うん」


『ははうえ、ちちうえ、すき』


「……まあ、そういうこと」


 どうして育児中に何度も旦那への愛情確認を強要されなきゃならんのだ。


 羞恥プレイか?


 ミュカレは少し考え、それから水面の方を見上げた。


『……ゆうがた、まだ?』


「まだ昼だよ」


 今の話でアイオリスに会いたくなったのか。頼まれた留守番がいつまでなのか確かめたいだけなのか。俺が嬉しくなる時間を待っているのか。


 どれなのか分からないし、本人もよく分かってないのかもしれない。


 そんなことを考えていると、魚の群れが俺たちの近くを通りがかった。


『さかな』


「おう。さっきのよりちょっとデカいな」


 ミュカレが指差した魚を、俺も一緒に目で追う。

 群れは俺たちに見向きもせず、社の屋根を越えて泳いでいった。


『ははうえ』


「おう」


 また呼ばれたが、今度も特に用事はなかった。

 代わりに、小さな手が俺の指を握り、にぎにぎと動かしてくる。


「はいはい。いるっての」


 抱き寄せると、ミュカレは満足したように俺の胸元へ頬を寄せた。


 俺もその頭へ顎を乗せ、頭上を泳ぐ魚の群れを眺める。


 水面の光は少しずつ傾き、いつの間にか、夕方が近づいていた。


 ……今日は、結局なーんもしてねえなぁ。


 まあ、こういう一日も悪くないか。

       挿絵(By みてみん)

〈TIPS〉

「オーヴェント」

 女神ミューズが携える九つの神器の一つ、黄金の小瓶。

 瓶を満たすのは太母神の乳であり、尽き果てぬ神力の源。


 その一滴は五臓を潤し、六腑を癒し、あらゆる病魔を退ける。

 いかなる蜜も及ばぬ甘露にして、いかなる糧も及ばぬ滋養を秘める。

 女神が口にするたび見せる微笑みは、それを何よりも雄弁に物語った。


 人の身にあってこれを飲めば、老いと死を免れ、不滅となると伝えられる。

 されど、至らぬ者が口をつければ、裁定により、たちまち黄金に変わるとも。

 敬虔なる者も、永遠を望む者も、この試練の場に立つことを求め、また、畏れた。


 歴史上、幾たびか現れた女神の御使いたちは、この試しを乗り越えた者とも言われる。

 また、初代聖女こそ最初に授かったのだとする説もあるが、その実在ともども疑わしい。

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