EX(119.21).御使いは水面を見つめる(後編) ◆★△
御師匠様の執務室へ向かう途中、何人かの神官とすれ違った。
皆、抱えた書類や籠を胸の前へ寄せ、私を見ると足を止めて道を譲って頭を下げる。
こちらも軽く会釈を返しながら廊下を進み、まだ新しい扉を叩いた。
「神官長、お話があります」
「お入りください」
返ってきた声は、いつも通りだった。
執務机の向こうで、御師匠様が書類へ目を通していた。
机の上には、物資の記録や各地からの報告、嘆願書に人員配置の帳面まで積まれている。
スタビアエの一件以来、書類の山はさらに高くなっていた。
私を一瞥し、手元の紙へ印をつける。その姿を見て、少し背中が丸くなったと思った。
以前なら立ち上がって迎えてきたのが、今は座ったまま用件を聞くことが増えた。
けれど、人を見る目は相変わらず鋭くて、何を言われるだろうと背筋が伸びた。
「聖女様、少々お待ちいただけますかな」
「はい」
部屋の隅には、まだ二人の神官が残っていた。
御師匠様は最後の確認を終えると、書類をまとめて二人へ渡す。
「こちらは午後までに。こちらは急がんが、先にヘレノスに試算させておけ」
「承知いたしました」
二人が私にも一礼して退出すると、御師匠様が指を動かした。
窓から入っていた風が部屋を巡り、扉の向こうの人声と、外から聞こえていたさざ波の音が消える。
それを終えるなり、御師匠様は椅子へ背を預けた。
「……お前も御子の話か」
「え?」
「聖者殿がお出ましになって、大変念入りにお話しいただいたところだ。
出生のことも、名も、姿も外へは漏らすな。拝謁を求めるな。神殿から余計な者を寄越すな。祭り上げるな。商売をするな」
指折り数えながら言って、一度息をつく。
「同意した後にも、もう一度同じことを言われた。相変わらずしつこい男だ」
「ああ……」
思わず納得する声が出た。やっぱり、アイオリスさんはアイオリスさんだ。
「ミュカレの髪のことは、もう?」
「聞いておる」
御師匠様は書きかけの書類へ目を落とし、諦めたように筆を置いた。
「いっそ、知らずに済めばよかったものを」
「経過を逐一報せてほしいと仰ったのは、御師匠様でしょう?」
「知らされぬまま、どこぞから噂として流れ込んでくるよりはましだからだ。
だが、どう転んでも仕事が増える。まったく神官長とは実に結構な御身分だな」
私が少し笑うと、片方の眉が上がった。
「お前も他人事ではないぞ」
「分かっています。私も、今朝ミューズから詳しく話を聞いて、ご相談に来ました」
私は机の前の椅子へ腰を下ろした。
「それで?」
「……人前へ出すのは、今は待った方がいいと思うって答えました」
「妥当だな。聖者殿も私も同じ判断だ。
神殿としても、今すぐ公表して得るものがあるとは思えん。
下手に扱って失うものならいくらでも思いつくがな」
私は少し身を乗り出した。
「アイオリスさん、かなり心配していましたか?」
「かなり、どころの話ではないわ」
御師匠様は眉間を押さえた。
「御子を入れた桶を持って駆けずり回っていた頃と変わらん顔だ」
「……そこまで」
「だが、笑う気にはなれんよ」
眉間から指を離し、御師匠様は私を見た。
「あの男は、元深淵殺しだ。化け物扱いされ、遠ざけられたことなど数え切れんだろう。
同じ目を妻子へ向けられるくらいなら、誰にも見せずに済ませたいのであろうな」
「イズミール様も、同じように心配しているんでしょうか?」
「隠しておくことに異存はないが、聖者殿ほど思い詰めてはおらんようだな。
女神も、御子が信仰によって変えられることを警戒しておられるのは間違いない。
身をもって知っているのだから、至極当然のことだ」
御師匠様は机の上の書類を一枚ずらした。
「だが、黒髪そのものについては、聖者殿ほど切実ではないようだ。
水底にいれば人の目にも触れんし、何があっても自分で守れる。
それで当面は十分だと思っておるらしい。間違ってはおらん」
「……イズミール様らしいですね」
「そうだな。娘と違って疑い深いくせに、妙なところで大雑把だ」
思わず笑ってしまった。
イズミという人間の姿で、一緒に街を歩いたことがある。
その時の立ち居振る舞いを思い出すと、否定しきれない。
けれど、今朝のミューズの顔が浮かんで、私は膝の上で手を重ねた。
「でも、ミュカレが浸蝕されていないことを、ミューズの言葉として説明できれば……。
それに、イズミール様の御子だって分かれば、怖がる人も少しは――」
「それで、母親まで疑われるとは考えなかったか?」
言葉を遮られた。
「……イズミール様が?」
「黒禍を滅ぼした女神が、その身の内に穢れを残していたから黒い子が生まれた。
事情を知らぬ者にも、その程度の筋書きは作れるということだ」
「……そこまで疑われるんですか。イズミール様は、世界中の黒禍を浄化してくださったのに」
「知っているからこそだ。人は、知らぬところを知っている話で埋めようとする。
黒禍を滅ぼした女神から、黒い髪の子が生まれた。それを結び付ける話など勝手に出来上がる」
御師匠様は肩を竦めた。
「聖者殿が恐れているのは、御子一人に対する悪意だけではないのだろうよ」
アイオリスさんは念には念を入れているのだと思っていた。
けれど、あの人が恐れていたのは、私が考えていたよりもずっと広い範囲に及んでいたらしい。
「……それに、怖がられるだけじゃありませんよね。
イズミール様の御子だからって、逆に祭り上げようとする人もいるんじゃ……」
御師匠様は小さく鼻を鳴らした。
「流石は女神ミューズの覚えめでたき聖女様だ。話が早くて助かるな。
姉に代わる正統な後継者だと担ぎ出す者も出てくるぞ」
「ミューズの代わりに、ですか……?」
「十分あり得る。当人たちに争う気がなくても、周りには都合があり、欲がある。
今の神殿で重きをなせぬ者が、新たな御子を奉じて権勢を得ようと動き出す。
聖地から遠い土地の者には、さぞ担ぎ甲斐があるように見えるだろう」
私は今朝のミューズを思い出した。
二人目のきょうだいが増えたと嬉しそうに胸を張っていた。
どちらが上なのか、どちらが母の力を強く受け継いでいるのかなんて話は、何一つなかった。
「あの子たちは、ただ、きょうだいが増えたって喜んでいるだけなのに……」
「知っておる。だが、対立は何も無いところからでも起こせる。
止めれば止めたで、今度は神殿が自分たちの正統性を恐れて弾圧しているのだと叫び出すだろう」
御師匠様は嫌そうな顔で、自分の机を見回した。
「古い世を裁いた母女神が、新しい世を御子女神に託した。
ようやく、その神話が広まりつつあるというのに、また、問題の種が増えたものだ」
「問題の種にするのは、いつも人間の方じゃないですか。
ミュカレは、家族みんなに望まれて生まれてきたんです。それを――」
「所縁もない者たちからも、望みを押し付けられる立場に生まれついたということだ。
本人が望むと望まざると、な……難儀なものよ、本当に」
「どうすればミュカレを守れるんでしょうか……」
ずっと水の底に閉じ込めておきたいわけじゃないけれど、何を望むのかも分からないうちから、あの子に役目を負わせたくはない。
「恐れて遠ざける者も、ありがたがって拝む者も、その子が何を望むかなど知らぬまま話を進める。
しかも、幼い御子が人の祈りでどれほど変わり得るか、我々にも分からん」
御師匠様は淡々と続けた。
「まして、何もしていない子を家族から奪おうとしたり、傷つけたりしてみろ。
あの女神が今度は何をするのか、私はこの目で確かめたくはない」
世界が水に没した日のことを思い出した。
私はその始まりをこの目で見たから、何も言えなくなった。
「また、同じことが繰り返されるとまでは言わん。
今の女神には、家族も、話を聞く相手もいるからな。
だからといって、余計な心痛を与えることは得策ではないと考える」
「はい」
それには、私も強く頷いた。
「当面は、水底で家族と暮らしていただく。神殿から余計なことは何もしないし、させない。
出生は公表せず、存在を気取られることも避ける。誰にも話すな」
「今、知っている私たちの間だけでお話しするんですね」
「そうだ。あとは、聖地で隠し切れなくなった時の備えが必要だ」
「……世界樹の森、ですか?」
「候補にはなる。例の地下水路とやらを通れば、人目に触れず移れるのだから、一時、身を隠すのには程よい。
もっとも、あちらにも相談は必要だろうがな」
ミューズが楽しそうに話していた遊び場を、今は隠れ家の候補として考えている。
当面、そうするのがよいことは分かるし、アイオリスさんも、避難先がある方が安心できるだろうけれど、そこで話を終えることはできなかった。
「御師匠様。それは……いつまでですか?」
御師匠様が目を上げた。
「そのやり方で、ミュカレを守れるのは分かります。
ですが、いつまでそうしなければいけないんですか?」
今朝、私はミューズへ、ずっと外へ出られないままでいてほしいわけではないと答えた。
「髪が黒いというだけで怖がられなくなるまで、待つしかないのでしょうか」
「ただ待つだけでは、子から孫へ、同じ恐れが伝わる」
御師匠様は、手元の帳面を閉じた。
「今を生きている者の記憶を、消して回るわけにもいかん。
だが、これから生まれる者へ何を教えるかはこちらで変えられる」
「記録を、書き変えるんですか……?」
以前、私やアイオリスさんの名前を記録に残さないと言っていたことを思い出し、姿勢を正した。
「まず、我々の手で作っているものからだ。
教本や、説話、聖画から、黒い髪や痣を穢れの徴として伝えることをやめる。
だからと言って、黒を清い色だなどと教えれば、今度はその色を持つ御子を拝む理由になる。
いずれは、ただの色として見られるようにするしかあるまいよ」
「各地に残っている記録まで、全部、ですか?」
「手の届くところから、少しずつな。
女神が災厄を退け、人の世を救ったことは伝えられる。
だが、災厄が何色だったかまで、何代も先へ教え続ける必要はない」
「……黒禍のことを、無かったことにするんですか」
「いずれ、黒禍という名も、その色も、記録から失わせる方へ持っていく。
後世には女神が退けた名もなき災厄として残ればよい。
あの名は聞くだけで恐れを呼び起こす。実物を知らぬ者にも伝わり、偏見を残し続けるだろう」
胸の奥に、小さな抵抗が生まれた。
「私の家族も、故郷も、黒禍に奪われました」
「知っておるわ」
「あれが何だったのかまで、いつか誰にも分からなくしてしまうんですか?」
御師匠様はすぐには答えず、慰めるような顔もしなかった。
「いずれは、そうなるだろうな」
私が両親を失った理由を、いつか誰も知らなくなる。
あれほど多くの人が苦しんだことも、女神に退けられた災厄という短い言葉に収まってしまうのだろうか。
「お前に、今、忘れろと言っているのではない。
忘れろと言われて忘れられるなら、誰も苦労はせん」
「はい……」
「だが、同じ恐れをそのまま伝え続ければ、あれに似た子はいつまでも恐れられる。
教訓を残すことで守れるものもあれば、禍根だけを引き継がせることもある。
今回は、その両方を考えねばならん」
私は重ねた手へ目を落とした。
恐れを次の世代へ残さないために必要なのだとは分かるけれど、どこまで伝え、何を残さないのかを、今の私には決められなかった。
「……すぐには、うまく考えられません」
「それでよい。簡単に頷かれても、後で困る」
御師匠様は机の上で骨張った手を組んだ。
「それに、黒への忌避を失くせたところで、黒髪の御子を祭り上げる者まで消えるわけではない。
これは危険を一つ減らすための仕事に過ぎん」
「御師匠様のお話は、聞けば聞くほどやることが増えますね」
「私は減らしたいのだがな。お前たちが次々に持ってきよる」
「私が増やしたわけじゃありません」
「では、次に聖者殿に言っておけ。加減をしろとな」
あの人へそんなことを言ったら、真面目に謝られてしまいそうだった。
困った顔を思い浮かべて、私は少しだけ笑った。
「……どのくらい、かかるんでしょう」
聞いた私に、御師匠様は呆れたような目を向けた。
「知るものか。十年やそこらで人の記憶が都合よく消えるなら、苦労せん。
黒禍を実際に見た者が生きている間は消しようがなかろうよ。
その話を聞いて育つ子もいる。神殿から伝えるのをやめたところで、人の間で語り継がれていくだろう」
どこまでかかるか、指折り数えることもしなかった。
「少なくとも、私の生きている間に片がつくとは思っておらん」
御師匠様はいつもどおりの手つきで机の紙を揃えたが、その言葉だけが重く残った。
「それなら……私が引き継ぎます」
考えるより先に口にしていた。
「御師匠様ができるところまで進めて、その後は私が続けます。
御使いとして、人々に何を伝えるかも考えて――」
「そのつもりでいてもらわねば困る。だが、お前とて例外ではないぞ」
静かな声に、私は言葉を止めた。
「お前は私より若いが、それだけだ。
お前の生きている間に片付くとも、決まってはおらん」
御師匠様がいなくなったら、自分が仕事を引き継げばいい。
そこまでは考えていたけれど、それをさらに誰かへ託す日が来ることまでは、思い至らなかった。
私にできることを続けていれば、いつかは解決すると思っていたのに、その「いつか」まで自分が生きているとは限らないのだった。
「そろそろ、お前も身の振り方を考えておけ」
御師匠様は椅子へ深く座り直した。
声は落ち着いていて、こちらを急かすような強さはなかった。
「人として生きるつもりなら、お前の後のことを考えろ。
今の務めを分け、教えられる者へ教えておく必要がある。
お前ひとりがいなくなって何もかも止まるようでは、残された者も困る」
私は膝の上で手を握り直し、続きを待った。
「別の道を望むなら、何を選ぶことになるのか、まず知れ。
聖者殿と同じ道をお前たちが歩めるかは、私にも分からん。
仮にできたとして、望むかどうかはまた別の話だがな」
「……はい」
昔、ミューズと話したことが胸へ戻ってきた。
ミューズと一緒にいたい。
置いていくのも、置いていかれるのも怖い。
けれど、自分が何になるのか分からないことも怖い。
あの時は、それ以上の答えを出せなかった。
「ミューズと一緒にいたい気持ちは、変わりません。
ただ、そのためにどこまでのことを受け入れられるのか……。
あの人は選んだけれど、自分にも同じ覚悟が持てるのか、まだ自信がありません」
「他人の選び終えた姿だけを見て、己と比べようとするな。
お前とあの男では、背負うものも求めるものも違う。それは優劣の問題でもない」
私は顔を上げた。
アイオリスさんにも以前、怖いと思えるなら今はそれでよいと言われた。
あの人が私へそう言った時に、何を思い出していたのか、私は知らない。
「分かっている……つもりです」
「なら、それでよい」
苦しい答えだと思っていたのに、返事はあっさりしたものだった。
「何も、今ここで答えを出せとは言っておらん。
神殿の都合で、お前に人をやめろと命じるつもりもない」
杖の柄を指先で撫でながら、御師匠様は少しだけ目を細めた。
「ただ、私に尋ねたいことがあるなら、私が答えられるうちに尋ねろ」
「……御師匠様」
「またその顔か。私を棺桶へ押し込むつもりならば、もう少し待て」
「御師匠様のそういうところ、やっぱり嫌いです」
「ハッ、嫌いで結構。嫌われ者の方が長生きできると言うからな」
私は思わず息を吐いた。この人は、自分から死ぬ話を持ち出しておきながら、こちらが湿っぽい顔をすると、すぐに茶化してしまう。昔からずっとそうだ。
御師匠様が手を振ると、窓の外の波音が戻ってきた。
廊下から聞こえる足音に合わせるように、その声も改まる。
「では、聖女様。午後の聖務もございますので、こちらの確認済みの文書を、お持ちいただけますかな」
差し出された束を受け取り、私は立ち上がった。
「……ありがとうございます、神官長」
「礼には及びません。いつでもこの老いぼれをお頼りください」
頷いて文書を抱えると、御師匠様はもう次の一枚を手元へ引き寄せていた。
机に向かうその姿へ頭を下げ、私は執務室を後にした。
※※※※※
午後は、いつも通りに過ぎた。
各地から届いた嘆願を確認し、神殿を訪れた人の話を聞き、急ぎの文書へ目を通す。
御師匠様との話が頭から消えたわけではないが、考え込んで仕事を止めれば、結局困るのは待っている人たちだ。
夕刻近くになって、ミューズがまた水面から顔を見せた。
『リディア』
「どうしたの?」
『ママたち、いいって。夜、うち来る?』
「もうミュカレに会いに行っていいの?」
『うん。ママも、きこりやろうも、待ってる』
「……うん。私も会いたい」
返事はすぐに出た。
『じゃあ、夜ね』
ミューズは嬉しそうに水へ戻っていった。
私も残りの仕事へ戻り、今日のうちに済ませるものから順に、机の上の文書を片づけていった。
※※※※※
夜、儀礼用の衣装を着替えるのがもどかしくて、昼間ミューズと話した湖沿いの小部屋へそのまま向かった。
神殿の人影はもう少ない。扉を閉め、灯りを消して水際の石段を降りると、月明かりを映した湖面が静かに揺れていた。
『リディア』
水面からミューズが現れた。
「待たせちゃった?」
『ううん。今来たところ』
「よかった」
差し伸べられた手を取って、水面に踏み出す。
足元の水が持ち上がり、裾を濡らす前に丸く広がった。
私の周囲へ広がった水が頭上で繋がり、透明な泡になる。
ミューズは両腕を回し、私を抱えるようにして水の中へ導いた。
水面に双子の月が揺れた。
水越しの光は形を崩し、細長く伸びながら、少しずつ遠ざかっていく。
陸の音も、すぐに届かなくなった。
暗い湖の中でミューズの身体だけが淡い青白い光を放ち、泡の内側にいる私を柔らかく照らしていた。
遠ざかる月影を見上げているうちに、あの夜のことを思い出した。
小舟ごと透明な泡に包まれ、暗い水の中を沈んでいった。
隣にはアイオリスさんがいて、私は何が待っているかも分からない水底を怖がって、思わず身を寄せた。
泡の外側では、小さな三人が必死に水を押し退け、私たちを深いところへ運んでくれた。
あの三人が、今は一つになって、私を支えてくれている。
青白い光の中で、すっかり慣れ親しんだ顔を見つめた。
『リディア?』
ミューズが私の顔を覗き込む。
「ううん。大丈夫」
笑って頷き、その肩へ添えた手の力を緩めた。
「前にも、こうして連れていってもらったね」
『こわい?』
「今は、もう怖くないよ」
ミューズは一度瞬いてから、嬉しそうに頷いた。
背を支える腕が少し持ち上がり、私の身体が彼女の方へ寄る。
その腕へ身を預けているうちに、闇の底に淡い水色の光が見え始めた。
光のそばに、人影があった。
アイオリスさんが、こちらを見上げている。
あの夜、私の隣に座っていた人が、今は水底で家族と共に私を待っていた。
その傍らで、イズミール様が顔を上げた。
※※※※※
泡がゆっくり水底へ近づいた。湖底に足がつくと、周囲の水が引き、私が立って動けるくらいに泡が広がる。
隣で、ミューズが得意げに胸を張っていた。
「ありがとうね」
『ん! 見て、リディア! あれがミュカレだよ!』
アイオリスさんの隣、低い岩に腰を下ろしたイズミール様の腕の中に、一人の子どもがいた。
イズミール様が私を見て表情を綻ばせ、片手を上げて手招きした。
その動きに合わせて、抱かれた子の黒い髪が水中で柔らかく揺れた。
その下から、大きな青い瞳がこちらをじっと見ていた。
顔立ちはイズミール様に似て優しげだけれど、眉はきりっとしている。
私と目が合うとムッと口を結び、イズミール様の胸元へ身体を寄せた。
ああ、本当にイズミール様とアイオリスさんの子どもなんだ。
イズミール様はそんな子の背を撫で、抱き直した。
その肩に手を添えながら、アイオリスさんが声をかけてきた。
「いきなり呼び立てて、すまなかった。よく来てくれた、リディア」
「こんばんは、アイオリスさん、イズミール様。
会ってお祝いを言いたいって、ずっと思っていたんです。
お二人とも、本当におめでとうございます。無事に生まれて何よりです」
私の声はイズミール様には届いても、意味までは伝わらない。
ミューズがイズミール様の元に駆け寄って、私の言葉を伝えてくれた。
これは私の役割だと言うように、アイオリスさんを軽く睨んでいる。
イズミール様は一度目を丸くしたあと、照れたように頬を掻き、それから笑って頷いた。
ああ、いつものイズミール様だ。何だか、それだけで安心してしまった。
視線を感じて横を見ると、アイオリスさんがこちらを見ていた。
私の表情を確かめるような、少しだけ硬い目付きをしていた。
たぶん、黒い髪を見て、私がどう反応するかを気にしているんだと思う。
笑って小さく頷き、もう一度ミュカレへ視線を戻すと、アイオリスさんの肩がほんの少しだけ下がった。
ミューズが母子の傍へ寄り、ミュカレに私を紹介してくれる。
小さな顔が姉を見上げ、それから私と、母親とを順に見る。
私は泡の中で膝を折り、なるべく目の高さを近づけた。
「はじめまして、私はリディア。あなたのお姉さんたちのお友達なの。よろしくね、ミュカレ」
私の言葉がどこまで分かるかは分からないけれど、会えて嬉しい気持ちも伝わってほしかった。
掌を見せると、ミュカレは母の衣を掴んだまま、私の顔と手を見比べた。
やがて空いている手が上がったものの、途中で止まり、イズミール様を見上げる。
イズミール様が何か言って笑いながら頷くと、ようやく小さな指がこちらへ伸びてきた。
泡の膜をくぐった指先が、掌の端へそっと触れた。
ひんやりした水の感触を受け止めながら待っていると、その指がゆっくり曲がり、私の人差し指を包んだ。
「……ミュカレ」
もう一度、名前を呼んだ。返事はなかったけれど、小さな手は離れなかった。
イズミール様はその様子を見て、嬉しそうに笑っている。
アイオリスさんも近くへ膝をついたが、自分から子へ手を伸ばすことはなく、私とミュカレの触れ合う手を一緒に見ていた。
ミューズは私の隣で、満足そうに笑っていた。
ああ、この子は、これから何を好きになっていくのだろう。
姉からもらった貝殻を見せてくれることもあるだろうか。
父へ自分から手を伸ばす日が来たら、アイオリスさんはどんな顔をするのだろう。
その時にも、また、会いに来たいと思った。
ミューズの話を聞くだけでなく、私も一緒に笑いたかった。
人々が黒い髪を恐れなくなるまでには、長い時間がかかる。
その頃も、この家族のそばにいられるかは分からない。
それでも、この子が家族と安心して過ごせるように、私にできることをしたい。
その日々を、ミューズと一緒に見ていたい。
少しだけ身を寄せると、ミュカレは私を見上げ、小首を傾げた。
それから、小さな指でもう一度、私の指を握り直した。
<TIPS>
「通達:復世後の教導及び史書編纂に関する件」
取扱:機密・部外不開示
伝道室長・史書編纂室長 宛
本通達は、女神ミューズの御神意に基づき、御使い様のご裁可を得て発するものである。
黒禍は裁定の日に滅し、世は女神ミューズの御代を迎え、復世の途上にある。
以後、神殿の公文書、教本、説話及び伝道における「黒禍」の語の使用を禁ずる。
既存資料・文書についても、当該名称及び黒色を穢れの徴とする記述・図像を順次抹消、改訂せよ。
進捗については追って監査を遣わす。
後世には、女神が災厄を退け、人の世を救われた事実のみを伝えるものとする。
本通達の趣旨および改訂の経緯については、口外を禁ずる。
水神宮 神官長サルディス




