EX(119.20).御使いは水面を見つめる(前編) ◆★
ズミュルナ湖を渡る風が、祈りの場を吹き抜ける。
それでも湖面に映る柱の影は少しも揺らがず、水面は鏡のように凪いでいる。
背後から跪く人々の呼吸と、微かな衣擦れだけが聞こえる。
私は一人、水際へ歩み寄り、胸元で両手を組んだ。
今朝、短い知らせを受け取った。
――イズミール様の御子が、無事に生まれた。
それ以上のことは、まだほとんど聞いていない。
イズミール様はお元気なのか、ミューズはもう会ったのか。
聞きたいことはいくらでもあったが、今ここに集まった人たちにも、今日まで抱えてきた願いがある。
私は一度息を整え、湖面へ声を響かせた。
「清き水をもって人の営みを守り、行くべき場所、帰る地へと導かれる救世の女神ミューズよ。
今日もまた、御許へ祈りを携えた人々が集いました。
どうか、お聞き届けくださいますよう、願い奉ります――」
呼びかけに応じて、湖面に円い波紋が広がった。
一つ、二つ、三つ。
重なり合う波紋の中心から透き通った水がせり上がり、人の輪郭を取り、髪となり、衣となり、少女の姿を形作っていく。
湖面へ足を置くようにして現れたミューズが、静かに祈りの場を見渡し、両手を胸元へ重ねた。
『―~――~~―』
水の流れと歌の間にあるような声が、静かな祈りの場を渡った。
その響きには確かな意味があるのだが、背後に跪く人々は、それを言葉として受け取ることができない。
私は最後の音の余韻が消えるのを待って口を開いた。
「皆の祈りは、水面を広く震わせ、水底にまで深く届いております。
手を取り合い、遠き道を越え、無事この地に辿り着いたことを、女神は喜んでおられます」
背後で、誰かが小さく息を呑んだ。
スタビアエから避難して来た人もいるのだろう。
『~~―~――~』
「帰る地を得た者は、その喜びを隣人と分かち合いなさい。
未だ帰れぬ者へ手を差し伸べ、共に暮らしを築く者を労いなさいと、仰せです」
私はそこで言葉を切った。
ミューズも、続きを急かさず待っている。
以前なら、この沈黙が怖かった。
次に何を言えばいいのか。間違えてはいけない。
女神の言葉を正しく伝えなければならない。
そんなことばかり考えて、何かを付け足さなければと焦っていた。
今は、人々が受け取るための時間も必要なのだと知っている。
しばらくして、ミューズが微笑んだ。
『―~~――~―』
「人々の営みに、水の恵みを。分け合い、支え合い、明日へつなぎなさい。
女神は、皆がそうして生きてゆくことを願っておられます」
『――~』
「今日、ここに捧げられた清き祈りに、感謝を」
私はゆっくりと頭を下げた。
「救世の女神ミューズの御言葉を、ここにお伝えいたしました」
背後で、人々が一斉に平伏する気配がした。
ミューズは湖面の上で静かに佇み、その祈りを受け取っている。
目の前にいるのは、私の知っているミューズだ。
けれど、この子がこうして救世の女神として振舞うことで安心する人がいて、私が言葉を届けることで、今日を生きる支えを得る人がいる。
それなら、この役目を選んだことは間違っていなかったと思える。
※※※※※
最後の参拝者を見送り、残った用事を神殿の人たちへ引き継いでから、私は湖沿いの小部屋へ入った。
外の祈りの場からは壁一枚隔てただけだが、湖側の一面だけが大きく開き、水面に向かって降りる石段で繋がっている。
「残りのお取り次ぎは、午後に伺います。急ぎのことがあれば、知らせてください」
神官が一礼して去り、その足音が遠ざかってから、私は肩の力を抜いた。
私が椅子に腰かけるより早く、水面からミューズが顔を出した。
石段の縁へ頬杖をついて、待っていたと言いたげにこちらを見上げるので、思わず笑ってしまう。
『おわった?』
さっきまでの神々しさはどこへ行ったのか、足をバタつかせながら無邪気な表情で言う。
「うん。今日もありがとうね、ミューズ」
『リディアも、いつもありがとう』
私は椅子に座るのをやめ、石段を降りてミューズのそばへ腰を下ろした。
「それで」
『うん』
「ミュカレ、生まれたんだよね?」
口にすると、朝から胸の奥へ押し込めていた心配や好奇心が、一気に戻ってきた。
「おめでとう、ミューズ。イズミール様は、大丈夫なの……?
アイオリスさんから無事に生まれたってことだけは聞いたんだけど、礼拝の準備もあって詳しいことはまだ何も聞けていなくて」
『うん。ママ、びっくりしてたけど、元気。ミュカレのこと、いっぱい撫でてたよ』
「そっかぁ……」
胸の奥から息が抜けた。
イズミール様の御懐妊の話を、アイオリスさんから聞かされた時には、思わず、同じことを二度も聞き返してしまった。
「良かった……本当に」
『ママ、さいしょ、いっぱい困ってたよ』
「やっぱり?」
『うん、いつ出てくるか、どうなるかも分からないって』
「そうだよね……」
『でもね、ミューズ、そんなに心配してなかった。早く、抱っこはしたかったけど』
意外な言葉に、私はミューズを見た。
「どうして?」
ミューズは少し考えるように視線を上げた。
『ママ、ずっと前からママだったから』
当然のことを話すような口調だった。
私もその言葉に、泡の丘で三人の子どもたちを抱いてあやす姿を思い出した。
「そうだね。イズミール様は、ずっとあなたたちのお母さんだったものね」
『そう、うちのママはずっとママ』
ミューズは胸を張って笑った。
以前なら、ミューズが母親のことを嬉しそうに話すたび、胸の奥に少しだけ寂しさが残った。今は、それもほとんどない。
イズミール様が復世のための巡行に出られるようになって、お会いする機会は減った。
そもそも、私はイズミール様と直接言葉を交わすことができない。
それでも、アイオリスさんとミューズを介して、何度も触れ合ってきた。
イズミと名乗っている時の姿で、一緒に聖地を散策したこともある。
今ではあの人が、私をとても気にかけてくれていることはよく知っているし、私がミューズを大事にしていることを、あの人もよく知ってくれている。
私にとっても、イズミール様は母のような方だ。勝手ながら、そんなことさえ思っている。
『ミュカレね、ママにぎゅってしてた。
ミュルナも抱っこしたかったから、そばに行ったの。ミュリナも、ミュシアも』
「……また、突撃したんでしょ」
『ママに順番だって怒られちゃった』
ミューズが楽しそうに笑うので、私もつられて笑った。
三人が待ちきれずに群がって、イズミール様が子どもたちを抱え直している姿が、話を聞くだけでも目に浮かぶ。
※※※※※
「しばらくは、手が何本あっても足りなくなりそうだね」
『きこりやろうが手伝うから、大丈夫だよ』
「それなら安心かな。ずっと旅続きだったんだもの。
しばらくは、ゆっくりしていてほしいね」
『ママ、いっぱいやった』
「いっぱい、なんてもんじゃないよ」
思わず笑った。
「スタビアエからも、また報告が来てるよ。
工房に火が戻って、少しずつ仕事を再開してるって。外から荷も入るようになったみたい」
『おうちに帰って、もう、お仕事してる?』
「うん。まだ直さないといけない場所はあるけれど、戻った人たちが中心に働いているの。
もうしばらくは、神殿から援助を続けないとだけど、じきに持ち直してくれると思う」
ミューズの顔が明るくなる。
『よかった』
「うん。本当に」
『ママが、皆のおうちを守ったからだね』
「住民を全員、逃がしたうえで、帰る場所まで残したんだもの。本当に、すごいことだと思う」
アイオリスさんからは、火の山で何が起きていたのかも聞いていた。
黒禍の影響で火の精霊たちの働きが弱り、さらにイズミール様たちの水が、その顕現を圧迫していたこと。
行き場を失った火が山の内へ溜まり、ただ水を退かせれば済む状況でもなかったこと。
人も町も火も、なるべく損なわれない道を探して、最後まで調整を続けたこと。
そこまでして、人々の暮らしを守ってくださった。
話を聞くほどに、イズミール様への感謝と尊敬は深くなった。
「あなたの姿をお借りすること、先に少しでも知らせてくださったら、私も慌てずに済んだのだけれど」
『ママ、ごめんって言ってたよ。ミューズも怒ってないよって言った』
「うん、それは聞いているよ。
あの時、ほかにもっとよい方法があったとは、私にも思えないし」
目の前に巨大な女神が降臨するのと、遠い聖地の女神から警告があったと聞くだけとでは、人々の受け取り方はまるで違うだろうし、それが全員の避難に繋がったことも、疑いようがない。
ただ、直接の報せが届く前に「巨大なミューズ様が町をお救いになった」という話を突然聞かされ、その後は聖地でも大きな姿をお見せにならないのかと、それとなく期待されるようになった立場としては、少しくらい言いたいこともある。
「スタビアエのことを聞いて、遠くから来る方もすごく増えたでしょ?
ほかの土地の神殿にも、前よりたくさんお願いが届いているみたい」
『うん。リディアが読んでくれるお手紙も増えた』
「噴火から町を守ってくださったなら、自分たちの土地も守ってほしいって。
水や浄化のことに限らず、いろいろな相談が来るようになったの」
困っている人の話は、できるだけ聞いてあげたい。
ただ、そのすべてをミューズへ頼むことも、神殿で引き受けることもできない。
「ミューズ、大変じゃない? 困っていることがあったら、私にも話してね」
ミューズは水面へ落としていた指を止め、私の顔を見た。
『ママがしたみたいなこと、全部はできないよ。でも、ミューズにできることならしたい。
ママ、ミューズにできないことも、すぐやっちゃうから、ミューズもできるようになりたいなって思う』
「すぐにできなくても仕方ないよ。そんなに急がなくてもいいと思う」
『うん。でもね、ミューズも、おっきくなるの、できるようにした』
ミューズが両腕を大きく広げて、満面の笑みを浮かべて言った。
「えっ?」
『できるよ』
「ちょ、ちょっと待って。いつの間に?」
『ミツバのおうちに遊びに行ったとき、やってみたの』
「ああ……前に言ってた、カンケリの時の話……?」
『そう! おっきくなってびっくりさせた!』
ぱっとミューズの表情が明るくなる。
『あとでね、ミューズでもやってみたらできた。いっぱいお水あつめて、おっきくなる』
「そうなんだ……」
『うん。歩こうとすると転んじゃうから、立ってるだけだけど』
「えぇー……」
『でも、みんな、おっきいミューズ見たら安心する?』
「うーん……たぶん、そういう人はいると思う」
『だったら、やってほしい時は言ってね』
迷いなく差し出された申し出に、私は少し考えてから頷いた。
「ありがとう。必要な時には、相談するね。
でも、大きくなったら何でもできるようになったって、思う人もいるかもしれない」
『お水を増やしただけだよ? できないことは、できない』
「そうだね。でも、あなたをよく知らない人には、分からないから」
ミューズは自分の身体を見下ろしてから、私へ目を戻した。
『ミューズができないこと、リディアが言ってくれる?』
「もちろん。そのために私がいるんだから」
『じゃあ、だいじょうぶ』
あっさり私へ任されて、今度は私の方が少し困ってしまった。
「私に全部任せていいって意味じゃないよ。
ミューズも、嫌な時とか、困った時にはちゃんと言ってね」
『リディアも、そういう時はミューズに言ってね』
そう返されて、私は笑った。
「うん。分からないことは御師匠様や、詳しい人にも相談して、一緒に考えよう」
『ホウレンソウ!』
ミューズがよく分からない返事をしながら手を伸ばしてくる。
人の手とは違う感触のその手を握り返して、私たちは笑い合った。
「そういえば、ミツバは元気?」
『うん。元気。また遊ぼうって約束した』
世界樹の森については、聖地から森番を派遣するようになって、話を聞く機会が増えた。
広大な森に残された精霊の子ミツバに、イズミール様は随分と心を配っている。
なんと、この湖から地下水路を通して会いに行けるようにまでしてしまった。
その水路について知っている者は、聖地でも御師匠様や私たちなど、ごく僅かな者に限られる。
ミューズが時々森へ遊びに行くことも、秘密にしてある。
私はまだ世界樹の森へ行ったことがなく、ミツバ本人にも会っていない。
ミューズが楽しそうに話すたび、その輪に自分がいないことを少し寂しく思う。
それでも、この子に初めてできた精霊の友達の話は、もっと聞きたかった。
私の知らない場所でも、気兼ねなく笑って過ごせる相手がいることが嬉しい。
「今度、私もミツバにお手紙を書いてみようかな。
まだ読めないところは、ミューズが手伝ってくれる?」
『うん! ミューズ、もっていく。お返事も聞いてくる!』
「じゃあ、まずはご挨拶からだね」
※※※※※
「それで、ミュカレってどんな子?」
聞くと、ミューズは少し考えてから指を折り始めた。
『ママが大好き』
「うん」
『おりこうで、ちゃんとしてる。でも、ちょっと怖がり』
「ちゃんとしてるって、どんなふうに?」
『ミュリナが貝殻をあげた時もね、触っていいか、ミュリナとママに確かめてた。
ミュリナにちょっと似てるかも』
「ああ、慎重なんだね」
『そう! あと、ミュシアの歌も好き。ミュルナが抱っこしたら喜んだ!』
「もうお姉ちゃんたちとは仲良くしてるんだね」
『うん』
「そういえば、ミュカレは妹なの? 弟なの?」
『ミュルナは妹だと思う。ミュリナは弟かもって。ミュシアはどっちでもいいやって』
「そこは分からないんだ」
『どっちでも、ミューズがお姉さんだよ。ミツバの次で、二人目!』
その点だけは確かだと、ミューズはミュルナの時みたいに胸を張る。
それで終わりかと思ったけれど、少ししてから、表情がわずかに曇った。
『でもね。きこりやろうが来ると、ママにぎゅってする』
「アイオリスさんのこと、怖がってるの……?」
思いがけない話に顔を上げると、ミューズは少し困ったように眉を寄せていた。
アイオリスさんが、どれほどこの子に会いたがっていたかを思い出す。
あれほど待ち望んだ相手に身構えられたのでは、戸惑っただろうし、あの人のことだから、深く考え込んでもいそうだった。
「アイオリスさん、ずっと会いたがってたのにね。どうして……」
ミューズは、覚えていることを一つずつ並べるように話した。
ミュカレは、父が母を困らせると思っていて、母を守ろうとした。
話だけでは詳しいところまでは分からなかったが、どうやら生まれてすぐ、少し揉めたらしい。
「今も怖がってるの?」
『ちょっとだけ』
「そっか……」
『でも、ミューズ、仲良くなれると思う』
「どうして?」
『きこりやろうも、ミュカレも、ママが大好きだから』
そう言ってから、ミューズは私の顔を窺った。
自分ではそう思っているけれど、私にも聞いてみたいらしい。
「それだけで全部うまくいくかは分からないけど……。
同じ人を大事にしてるなら、一緒にできることはありそうだね」
『うん。さいごは、きこりやろうも一緒に皆でぎゅってしたの。
ミュカレ、メーってしなかったよ』
「会ってみたいな……。ねえ、顔は、どっちに似ているの?」
『ママに似てる。目は青くて、角はミューズより短いの。
あと、お水だけどお水っぽくないの』
「それって、イズミール様やミューズみたいに、透明な水じゃないってこと?」
『うん、そう! あとね、髪は黒くて……』
黒い髪。
私は、返事をし損ねた。
『リディア?』
「……髪が、黒いの?」
『うん。まっくろ』
「そう……黒い髪なのね」
聞き返す声が少し低くなったのを、彼女は不思議そうに見上げた。
※※※※※
黒禍が世界に蔓延っていた頃、黒はただの色ではなかった。
生まれつき髪や瞳が黒い人はいない。
ただの汚れであっても、黒い染みがあるだけで浸蝕を疑われ、人に距離を取られることさえあった。浸蝕の痣だと知られれば、なお避けられる。
黒禍に抗うため必要とされた深淵殺しでさえ、その姿ゆえに忌避されていた。
私にとっても他人事ではなかった。
家族と故郷を失った時、私自身も浸蝕を受けた。
自分の身体が自分ではなくなっていく感覚を、今も忘れられずにいる。
額へ触れかけた手を膝に戻し、私はミューズを見た。
イズミール様の懐妊も、ミュカレが生まれたことも、今は公にはしていない。
だからすぐに何かが起きるわけではない。
けれど、いつか人前へ出るのなら。
女神の御子が、生まれながらに真っ黒な髪を持って現れたら、人々は何を見るのだろう。
「ミュカレのことは、まだ皆には話さない約束だったよね。
人前へ連れてくるのは、今は待った方がいいと思う」
『どうして?』
「黒い髪を見て、黒禍や浸蝕と結びつけてしまう人がいると思うから」
ミューズの眉が寄った。
『ミュカレ、黒いの、ついてないよ。髪が黒いだけ』
「うん。私は信じてるけど、ほかの人には、それが分からないかもしれない。
見たことのない子が黒い髪で現れたら、怖くなる人もいると思う」
彼女はしばらく考え、自分の手を見下ろした。
『リディアから名前を貰ったのよりも前、黒い髪の人、いっぱいいたよ。
黒いのがついてたから、ミュルナたち、きれいにしたの』
小さな水の身体で、私や人々を浄化していた頃のことを話しているのだろう。
私は頷いて続きを待った。
『ママもミューズも、あの黒いの、嫌い。でも、ミュカレの髪、違うよ?
人間は、黒いのがくっついてなくても、黒い色、嫌なの?』
私はすぐには答えられなかった。
ミューズは水面へ視線を落とし、続ける。
『黒いもの、ほかにもいっぱいあるよ』
「……うん。そうだね。黒い色そのものが悪いわけじゃないよ」
『じゃあ』
「でもね。人って、一度すごく怖い思いをすると、それに似たものを見ただけで、怖かった時のことを思い出すことがあるの」
私自身、鏡や水面に顔が映るたび、額へ目が行った時期があった。
もう消えたと分かっているのに、光の加減で影が落ちれば触って確かめ、指に何もつかないことに安堵していた。
今はほとんどしなくなったその仕草も、こうして話すと、身体の方が先に思い出す。
「頭では違うって分かっても、すぐには安心できない人もいるの。
ミュカレが何もしてなくても、黒い髪を見ただけで、黒禍を思い出す人はいると思う」
『……ミュカレ、何もしなくても怖がられる? 髪、黒いだけで?』
「そういうことが、あるかもしれない」
『リディアも、こわい?』
「私は怖くないよ。会ってみたいし、私も抱っこしたい」
ミューズの表情が少しだけ和らぐ。
「でも、みんなが私と同じとは限らないし、それに……怖がる人だけとも限らないの」
『ミュ?』
「イズミール様の御子が黒い髪を持って生まれたって聞いたら、特別な意味があると思う人もいるかもしれない。
黒禍を退ける力があるとか、自分たちを守るために生まれたとか……何を願われるか、今は分からない」
『ミュカレ、出てきたばっかりだよ。ミューズより、ちっちゃい』
「うん。だから、先にあなたたちからお話を聞けてよかった」
先ほどまで話していたことが、そのまま別の形で戻ってきた。
巨大なミューズを一度見ただけで、何でも救ってくれる女神だと期待する人がいる。
ならば、まだ誰も知らない子の姿に、勝手な意味を見いだす人が現れても不思議ではない。
アイオリスさんが、まず自分たちで子のことを知りたいと話していた理由が、いっそう切実に思えた。
『ミュカレは、ママが好きなだけだよ』
「うん。だから今は、ママが好きで、お姉ちゃんたちと遊んで、それでいいと思うの。
その子に何をしてほしいかなんて、周りから勝手に決められることじゃないよ」
ミューズの指が動き、私の手を握り締めた。
ひんやりした水が指の間に入り、包むように留まる。
『じゃあ、ミュカレ、ずっとおうちにいるの? お外、メー?』
「ずっと、そうしてほしいわけじゃないよ」
『でも、人に見せるのはメー?』
「……今はね」
ここで「きっと大丈夫」と言ってしまうのは簡単だけど、人の噂は勝手に広まって、大きくなって、中身まで変わってしまう。
黒という色への忌避感は、黒禍が消えたからといって無くなったわけではない。
人々の信仰も噂も、私一人の思い通りにはできない。
「ミュカレが人と会う時、どうすれば嫌な思いをせずに済むか。
私たちの方で何をしておけばいいか、御師匠様に相談してみるね」
『おししょー、聞く? じゃあ、ミューズもママとか、せんせーに聞く』
「うん。それから、ミュカレにもね」
『ミュカレ、まだ分かんないと思う』
「そうだね。でも、そもそも水の外へ出たいと思っているかも、まだ聞いていないんじゃない?」
『あっ』
「だから、その子にも何をしたいか、聞いておいて?」
『うん! リディアが会いたいって、ママとミュカレにも話すね』
「お願い。イズミール様にも、会ってお祝いを言いたいから。
その時は、ミューズが私の言葉を伝えてね?」
『いいよ。ミューズ、ちゃんと伝える!
いだいなめがみいずみーるさまにおんたてまつりそうろうー』
「そんなこと言わないってば、もう」
儀式の時の格式ばった口調をミューズが茶化してきて、二人で笑った。
少し重くなっていた空気が、ようやくほどける。
「まずは、ちゃんと挨拶したいな」
『ミュカレ、ちょっと怖がりだから、急に抱っこしない方がいい』
「いきなりはしないよ。ミュルナじゃあるまいし」
『ミュルナ、ちょっとだけ待ったもん!』
「ちょっとなんでしょ?」
こつ、こつ、と扉の向こうから足音が近付いてきた。
顔を見合わせると、ミューズが僅かに唇を尖らせたので、私も苦笑した。
ミューズは石の縁から手を離し、少しだけ水の方へ身を引いた。
それから思い出したように、もう一度こちらを向く。
『今度、リディアにも、おっきいミューズ、見せるね』
「うん。楽しみにしてる」
『約束だよ』
差し出された指へ自分の指を絡めると、ミューズは満足そうに笑って、そのまま水面へほどけていった。
小さな波が石の縁を濡らし、私の指先にも透明な雫が残った。
石段を上がって椅子へ戻ると、ほどなく扉が叩かれた。
用件を伝えに来た神官に、御師匠様――神官長がどこにいるかを尋ねた。
少し前まで、人々は湖面に立つ救世の女神へ頭を垂れていた。
その水底では今、母親にしがみつき、姉から貝殻をもらい、父親にはまだ少し身構える子が、家族に囲まれて過ごしている。
その子のことを、黒い髪という特徴だけで語らせたくなかった。
人々へどう伝えるかを考えるだけでなく、私自身も会って、どんな子なのかを知りたい。
私は立ち上がり、衣の裾を整えた。御師匠様に相談したいことは、いくつもある。
部屋を出る前に、一度だけ湖面を振り返った。
まだ会ったこともないその子を、もう他人だとは思えなかった。




