EX(119.19).仄明るい水の底で 〇★
腹ん中の子どもがなかなか生まれてこないので、プレゼン大会を開いたら出産してた。
字面だけ見れば何を言ってるのか分からないと思うが、俺だって分からない。
ちびどもが外の楽しさを好き勝手に売り込み、最後にアイオリスが話しかけた途端、腹の奥がぐるぐる回り始めた。
何事かと思っているうちに水が飛び出し、気がつけば小さなガキが一人、湖底に立っていた。
人間みたいな陣痛もなければ、命懸けの大仕事という感じもない。
蛇口をひねったら出てきました、くらいのあっけなさでポンと生まれた。
痛い思いをせずに済んだのはありがたいが、これはこれで怖い。
よく考えたら、ちびどもだってこんな風に知らんうちに生んでたんだった。
で、その生まれたばかりのガキが今、俺の前で両腕をいっぱいに広げ、実の父親を睨みつけていた。
黒い髪に青い瞳。顔立ちは俺に似ていて、頭には角とヒレもある。
ただ、ちびどもみたいに全身が透き通った水そのものという見た目ではなく、妙に人間っぽい。
それどころか、どこで覚えたのか、服装まで昔のアイオリスみたいな格好をしている。
俺似の顔で父親そっくりの格好をして、誕生から最速で父親へ喧嘩を売っている。
何だこいつ。どうしてこうなった?
『ちちうえ、ははうえをいじめる。わたさない!』
しかも俺を「母上」、アイオリスを「父上」と呼んだ。
なんとなく、アイオリスっぽさを感じる堅苦しくてむず痒い語感だ。
ずっと返事もしないし、腹の奥から出てこようともしなかったから、ちゃんと言葉を話せるのかさえ分からなかったのに、いざ出てきたら初手から情報量が多すぎる。
「お、おい……ミュカレ?」
呼んでも振り向かない。
背中を俺の脚へぴたりと寄せ、アイオリス相手にディフェンスの姿勢。
背丈がまるで足りてないので、上はガラ空きだ。
向かい合うアイオリスはといえば、差し出しかけた手を中途半端な位置で止めたまま固まっていた。
最初は、そりゃ驚くよなと思った。
会いたい会いたいと待ち続け、やっと顔を見られたと思ったら、最初にかけられた言葉が「父上は母上をいじめる」である。俺でもフリーズするわ。
けど、見ているうちにだんだん嫌な予感がしてきた。
眉間に皺を寄せ、口元を固く結んだ表情。
何か言おうとしてはやめ、ミュカレを見て、次に俺を見て、また子どもへ戻る。
俺はこの顔を嫌ってほど知っている。
一周回って、好きになっちまったくらいに。
言葉を探しているように見せかけて、過去の失敗まで一緒くたに引っ張り出し、一人反省会を始める時の顔だ。
「……おい。お前、また勝手に深刻なこと考え始めてんだろ」
「いや、私は――」
「いやじゃねえ。顔に書いてあんだよ。何年一緒にいると思ってんだ」
アイオリスはしばらく黙り、それからミュカレへ視線を落とした。
「この子が、私から何を受け継いだのかと……」
「お前だけのじゃねえ。俺たちの子だろうが」
そこで言葉を切る。アイオリスが目を瞠った。
こいつのことだから、自分の面倒臭いところを受け継がせただの、昔俺へ押しつけたものまで子どもに残っただの、その辺りまで一気に掘り返してウダウダしているに違いない。
ミツバみたいな例もあるから、考えるなとは言わない。
俺だって本当はいろいろ気になっている。
でも今は、それより先にやることがある。
「その話は後でもできる。まず本人に聞くぞ」
「……本人に?」
「目の前にいんだろうが」
顎で示すと、アイオリスもミュカレへ目を戻した。
当の本人は相変わらずこちらへ背を向け、父親を監視している。
それでいて、ちびどものことも気になって仕方ないらしい。
少し離れたところではミュルナが身を乗り出し、ミュリナがその服を掴んで止め、ミュシアだけは既に俺たちの周りをぐるぐる回っている。
『ミュカレ!』
『いもうと……おとうと……いもうと……?』
『みゃ、みゅ、みょ! みゅーかれー』
名前を呼ばれるたびに、ミュカレのヒレがぱたぱた動く。
そっちを見たいのに、アイオリスから目を離したくないらしい。
黒い頭が右へ左へ忙しなく揺れている。
健気というか、不器用というか。
そういうところまで誰かに似なくてもいいだろうに。
「おい、ちびども。ちょっと待ってろ。先に話がある」
『ヤ゛ーッ!』
『……メー』
『ンヴェェェェ!』
案の定、三方向から抗議された。
「後で好きなだけ、缶蹴りでもエビごっこでも付き合ってやる。今だけ待ってろって」
頬を水風船みたいに膨らませながら、一応は引いた。
こいつら、最近は駄々を捏ねる真似まで覚えやがったらしい。
俺はミュカレの背中へ手を伸ばし、小さな頭へ掌を置いた。
びくりと肩が跳ねる。
ゆっくり振り向いた顔は、さっきまで父親へ向けていた険しさが嘘みたいに緩んでいた。
撫でるとヒレが大きく広がり、目を細める。
警戒と喜びが同時に出ているせいで、どういう顔をすればいいのか本人にも分かっていないらしい。
何だこの生き物は。
可愛すぎるだろ。
「あー、ミュカレ。ちょっと聞いていいか?」
『……は、ははうえ?』
母上。
改めて聞くと破壊力が高い。
ちびどもからは散々ママと呼ばれてきたが、母上は何か違う。
時代劇かよ、と思ったところで、うちの家柄どころか俺自身が世界宗教の御本尊だったことを思い出した。
まあ、それは後だ。
「お前の言う『いじめる』って、具体的に何のこと言ってんだ?」
ミュカレは俺を見上げ、片手で衣を掴んだ。
もう片方の手を上げ、そのままアイオリスを指差す。
おまわりさんこいつです、みたいな。
『ちちうえ、ははうえ、こまらせる』
「……まあ、それはいろんな意味で否定できねえけど」
アイオリスが何か言いたそうな顔をしたが、無視する。
『ははうえ、いっぱいさけんだ』
「ん?」
『やめろ、むり、ゆるしてって、いう』
「…………」
思考が止まった。何の話だ、いつの話だ――いや待て。心当たりが、多すぎるッ!
『ははうえ、なく。ちちうえ、うれしそう』
「ファッ!?」
思い出したくない類の自分の声が、勝手に頭の中で再生された。
なくって、泣く? 鳴く?
アレやソレやナニまで、聞こえちゃってたのか?
「ちょ、ちょっと待て! お前、い、いつから聞いてた!?
腹ん中にいる間ずっと聞こえてたのか!?」
『ははうえ、こえ、きこえる』
「話しかけたら反応してたもんな! そりゃ聞こえるよな!
でも、ああいうのまで全部拾うとは思わねえじゃん!?」
「イズミール、落ち着くんだ」
「誰のせいだと思ってやがる!」
反射で怒鳴った瞬間、ミュカレがくるりとアイオリスへ向き直り、再び両腕を広げた。
『ちちうえ! メー!』
「…………」
あっ。
「……今のは違う。ごめん。怒鳴った俺が悪い」
「私も不用意だった。すまない」
俺たちが揃って謝ると、ミュカレは父親と母親を交互に見比べ、小さく首を傾げた。
当然だ。
生まれたばかりのこいつからすれば、何がどう違うのかなんて分かるわけがない。
『ママ、いじめられた?』
とうとうミュルナまで心配そうに聞いてきた。
ミュリナも眉を下げ、ミュシアはアイオリスへ顔を向ける。
『きこりやろぉ、メ~?』
「ち、違う! いや、違わなくは……いや違うんだよ!」
何をどう言っても墓穴が深くなる。
頼むから、子ども相手にこの説明をさせないでくれ。
実際、いじめられてるっちゃいじめられてるんだけど……言えるかそんなこと!
しかし、ふとミュカレの顔を見て、俺は口を閉じた。
俺が泣きそうな声でやめろと言うのに、アイオリスは止まらない。
しかも、ミュカレにはあいつの声が嬉しそうに聞こえていた。
ミュカレが知っている材料を並べれば、「いじめている」という結論になるのも無理はない。
言葉を知っているからといって、その意味まで全部分かっているとは限らない。
ミツバだってそうだった。
喋れるし、笑うし、遊びたがる。
けれど、寂しいとか、死ぬとか、そういう言葉の先に何があるのかまでは知らなかった。
ミュカレも同じなんだろう。
腹の中で聞いた言葉を覚え、自分なりに意味を繋ぎ、自分にできることを考えた。
その結果が、これだ。
「……そりゃ、お前からしたら、そう思うよな」
『ははうえ?』
「いや。お前が変なこと言ってるって話じゃねえんだ」
俺はその場へしゃがみ込み、ミュカレと目の高さを合わせた。
「俺を守るって言ってくれたのは、ありがとな」
ミュカレのヒレがぴんと立つ。
『ぼく、まもる』
「うん。聞いた。すげえ頼もしいよ」
頭を撫でて言ってやると、少しだけ胸を張った。
俺に似た顔で得意そうにされると、妙なむず痒さがある。
「でもな、一個だけ覚えとけ。守るつもりなら、その前に俺の話も聞け」
ミュカレの表情が止まった。
『……でも、ははうえ、やめろ、いった』
「うん、まぁ……言った。それは本当のことだ」
否定すると、余計に分からなくなる。
だからそのまま認める。滅茶苦茶、恥ずかしいがしょうがない。
「でもな、父上が嫌いだから言ってたわけじゃねえんだ。喧嘩してたわけでもない」
『いや、ちがう?』
「違う。俺が本当に嫌なら、ちゃんと嫌だって言う。
そしたら、こいつは俺の話を聞いてくれる」
視線を上げる。
アイオリスは迷わず頷いた。
「ミュカレ。イズミールが本当に嫌だと言えば、私は止まる。
彼女がどうしたいかは、私も彼女に聞く。今は、そうすると決めている」
ミュカレはじっと父親を見てから、俺の方を振り向いた。
『ちちうえ、きく、とまる?』
すぐには納得しない。疑い深くて警戒心が強いのは、俺似か?
「本当だよ。だからさ、まず俺に聞け。俺がどう思ってるかまで、お前が勝手に決めんな」
『……ははうえに?』
「そうだ。俺を勝手に可哀想な奴にするな」
そこまで言ったところで、妙な既視感があった。
視線を横へずらす。
アイオリスと目が合った。
「おい……お前もだぞ」
「私も?」
「さっきから何考えてたか、大体分かってんだぞ」
溜息が出る。
「また昔のことまで掘り返して、自分が俺に何しただの、苦しめただの考えてんだろ?
それを全部なかったことにしろとは言ってねえよ」
言葉を止める。
「俺だって、あの頃のこと全部いい思い出でしたなんて言う気はねえし、今さら美談にするつもりもねえ。
でも、お前と一緒にいることも、嫁になったことも、こいつを欲しいと思ったことも、今の俺が選んだことだ」
ミュカレの頭へ手を置き、黒い髪をくしゃりと撫でる。
柔らかな髪に見えても、やっぱり水だ。指の間でほどけ、すぐ元の形へ戻った。
「俺が自分で選んだもんまで、勝手にお前の罪フォルダに入れようとすんな」
アイオリスは黙って俺を見ていた。
何でも自分で引き受け、勝手に重たくなるクソ面倒臭い男だ。
昔の俺は、この顔を向けられるたび逃げ回った。
けれど、今さら急に物分かりのいい陽キャになられても、その方が気持ち悪い。
「俺が好きになったもんを、勝手に悪く言うなって言ってんだよ、わかるか?」
「……ああ。君の選択を、私の後悔に含めるべきではなかった」
「よろしい」
返事を聞いてから、もう一度ミュカレを見る。
「まったく、親子揃って面倒臭ぇな、お前ら」
『……ぼく?』
「お前もだよ」
言われている意味は分かっていないらしい。
だが、アイオリスの方は少しだけ肩の力を抜いた。
こいつの反省会なんて、また始まったらその都度引っ叩いて引きずり戻せばいい。
問題はこっちのちびだ。
『……ははうえ』
「ん?」
『ちちうえ、いやじゃない?』
ミュカレが、俺の衣を握りながら尋ねてきた。
やっぱり、そこが一番気になるらしい。
「嫌じゃねえよ」
『じゃあ、すき?』
「…………」
何で生まれた当日にそんなド直球投げてくるんだよ。
見なくても分かるくらい、アイオリスの意識がこっちに向いてる。
おい、プレッシャーかけんな。お前はとっくに知ってるだろうが。
「……まあ。その、何だ」
『すき?』
「二回聞くな! あー、もう!」
頭をジャブジャブ掻き回す。
逃げ道を探しても、目の前にいるのは生まれたばかりの自分の子だ。
ここで誤魔化して拗れさせたら、木こり野郎二号の完成だ。
親子二代でジメジメされたら、湿度で湖が溢れる。
「嫌ならとっくにぶっ飛ばすか、追い出してるわ。
俺がこいつと一緒にいたいから、好きでそばにいんだよ。それで十分だろ」
『……いっしょ、いたい? ははうえ、ちちうえ、すき?』
「まぁ……そうだな」
「私はイズミールを愛している」
「お、お前は黙ってろ! 今は俺が説明してんだよ!」
即座に怒鳴り返したが、さっきと違ってミュカレは腕を広げなかった。
代わりに俺とアイオリスを交互に見て、困ったように眉を寄せている。
たぶん、全部理解したわけじゃない。
それでいい。
俺だって生まれたその日に、夫婦関係とか説明に困る話を理解しろとは言わない。
ただ、俺が一方的に苦しめられている――そこだけ違うと分かれば、まずは十分だ。
「ほら。話は一旦ここまで」
俺は両腕を広げた。
「抱っこしてやるって言ったろ。来い」
ミュカレの目が見開かれた。
次の瞬間には、ほとんど迷わず俺へ飛び込んでくる。
「おっと」
背中と膝の下へ手を回して抱き上げると、小さな身体が腕の中へすっぽり収まった。
水で出来ているし、俺の水の中にいるのだから重いという感じはない。
人間みたいな体温も、鼓動も、呼吸もない。
それでも、首へ小さな腕が回り、胸元へ頬を押しつけられると、ちゃんと抱いている感じがした。
『ははうえ……ははうえ』
「おう」
さっきまで俺の腹の奥でこぽこぽしていたやつが、今は腕の中にいる。
顔を覗き込めば見返してくるし、髪を撫でれば目を細める。
ああ、こういう顔で笑うんだな。
「……そんな顔も出来るんじゃねえか」
何だその感想、と自分で思った。
でも、ずっと出てきたくないと逃げ回っていたと思ったら、出るなり、親子喧嘩だ。
また、すぐ腹の中へ戻って、引き籠るんじゃないかとも思った。
ところが今は俺の首へしっかりしがみつき、頬を擦り寄せている。
こいつ、俺相手だとだいぶチョロいな……大丈夫か?
そこまで考えたところで、横からものすごい視線を感じた。
『ミュカレ、だっこ!』
ミュルナだ。
周囲の水をゆらゆらさせ、両腕を全開にして待っている。
何なんだその気合の入りっぷりは、姉力の高まりなのか、それは。
その後ろではミュリナもそわそわしていて、ミュシアはもう待つ気がないのか、俺たちの頭上を回っていた。
『ミュルナ、おねえさん! だっこする!』
『……ミュリナも』
『しぁーもー!』
「はいはい。順番な。いっぺんに来んなよ」
言ったそばからミュルナが近づいてきた。
ミュカレは俺の首へ片腕を回したまま、そちらへ顔を向ける。
『ミュカレ!』
『……あねうえ?』
『ちがうの! ミュルナはおねえさん!』
胸を張って名乗る姉へ、ミュカレは目を丸くした。
「いや、違わねえだろ、姉上とお姉さんは同じだって」
『ちがう! おねえさん!』
謎のこだわりを主張しながら、ミュカレの頭をぎゅうぎゅう抱え込んだ。
『ミュルナ、おねえさん……』
『そう!』
ミュルナは得意満面の顔をこっちに向けてきた。
「こっち見んな。ほら、姉ちゃんなんだろ。ちゃんと見ててやれよ」
その横から、ミュリナが掌に乗せていた貝殻を差し出す。
『これ、きれい……ミュカレ、あげる』
真珠色の内側が湖の光を返す。
ミュカレの目がそちらへ移り、ミュリナが傾けるたび、同じ方向へ顔まで傾いた。
「ほら、くれるってよ。気になるなら触ってみろ」
俺が腕を少し緩めると、ミュカレは片手を伸ばした。
だが、貝殻へ届く寸前で止まり、俺とミュリナの顔を交互に見た。
「いいよ、大丈夫だ」
安心したのか、指先が貝殻へ触れた。
『……きらきら、きれい』
ミュリナの口元が僅かに緩む。
『ん……』
たったそれだけで満足したらしい。
『みゅーかれー、みゅーかれー』
その時、ミュシアが歌うように名前を呼びながら、俺の目の前を横切った。
ミュカレの反応は分かりやすかった。
ヒレが立って、顔がすぐそちらへ向く。
ミュシアが一周して戻ってくるまで、その姿をずっと目で追っている。
「お前、やっぱあれ好きなのな」
腹の中にいる頃から、ミュシアの歌には食いつきが良かった。
外へ出ても変わらないらしい。
『しぁー!』
戻ってきたミュシアが手を伸ばす。
ミュカレも恐る恐る手を出した。
小さな指同士が触れ、そのまま握られる。
『おててー!』
『……ミュシア、おねえさん』
『しぁー! おねえさぁん!』
ミュシアが嬉しそうに上下へ振り始めたので、ミュカレの腕まで引っ張られる。
「こら、振り回すな。どっちが年上なんだかな、もう」
『ミュカレ、つぎミュルナ! だっこ!』
『……ミュリナも』
『しぁーも!』
「こらこら、一気に来んなって!」
三人分の腕があちこちから伸びてくる。
俺一人で抱えているには、さすがに狭い。
「おい、アイオリス! 見てねえで手伝え!」
反射で呼んだ。
アイオリスがすぐ傍まで来る。
その気配に、ミュカレの身体が固くなった。
俺にしがみつく腕に力が入り、青い目だけが父親へ向く。
俺は何も言わず、アイオリスへ背中を預けた。
こいつも状況を察したのか、ミュカレへ手を伸ばすことはせず、俺の腰と腕を下から支える。
「これでいいか」
「もうちょいこっち。ミュルナが乗ってくる」
『のる!』
「乗るなって言ってんだよ!」
言ってる途中でもう俺の身体を登り始めた。
アイオリスが空いている腕でミュルナを支える。
『きこりやろう、もっと! ミュカレのそば!』
「少し待ってくれ」
『……まった! はやく!』
「一秒も待ってねえだろ」
ミュカレが、そのやり取りをじっと見ていた。
さっきまでは懸命にアイオリスを俺に近付けまいとしていたし、今も警戒はしている。
俺の首から手を離そうとはしないし、アイオリスを見る目も柔らかくはない。
けれど、俺が自分からそいつへ背を預けているのを見ても、押し退けようとはしなかった。
アイオリスがミュルナを抱えても、何も言わない。
ただ、確かめるように俺の顔を見る。
「大丈夫だっての」
頭を撫でる。
「俺が呼んだの、聞いてたろ」
『……ちちうえ、ははうえ、たすける?』
「ああ。これからも……いや、これからは君と一緒にだ、ミュカレ」
ミュカレは少し考え、もう一度父親を見た。
『ちちうえ、いっしょ……』
それから姉たちへ視線を戻す。
『ミュカレ、こっち!』
ミュルナが、ミュカレの袖を掴んで自分の方へ引っ張る。
『……ミュリナのほうが、いい』
ミュリナが反対側から引く。
『みゃー!』
ミュシアは駆け引きゼロで突進した。
三方向から呼ばれ、ミュカレは俺の腕の中で身体を捩った。
「はいはい。落ちんなよ」
少し向きを変えてやると、片腕だけ俺の首へ残し、もう片方を姉たちへ伸ばす。
三つの手が、一斉にそこへ集まった。
誰が最初に握るかでもう揉め始める。
『ミュルナ!』
『……ミュリナ』
『しぁー!』
『……みゅかれ』
おい、自分まで名乗ってどうする。
けれど、その声に三人とも嬉しそうに反応した。
『『『みゅー!』』』
湖底に響いた三つの声を聞いて、ミュカレは目を丸くする。
少し間を置いて。
『……みゅ』
小さな声が一つ混じった。
『ミュカレもみゅーって言った!』
『……いった』
『みゅー! みゅー!』
「おい、お前ら近い近い! 押すな! 潜るな!」
三人が一斉に寄ってきて、ミュカレが俺の胸に埋もれて沈みそうになる。
そのまま俺まで後ろへ傾きかけたところを、アイオリスの腕が支えた。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃねえよ。ちょっとは躾けろ、全員距離感おかしいぞ」
「君の子だ、よく似ている」
「俺だけのせいにすんな!」
言い返すと、背中の向こうでアイオリスが笑った。
ミュカレがその声に振り向いて、少しだけ眉を寄せる。
それでも、もう俺たちの間へ割って入ったり、アイオリスを押し退けようとはしなかった。
俺の腕にはミュカレがいて、周りには三人のちびどもが群がり、その全部をアイオリスが後ろから支えている。
狭いし、うるさい。
「おい、順番! 順番守れって! 俺はテーマパークじゃねえ!」
誰かが暴れるたびに腕や脚が水へほどけ、別の身体へ混ざって、どれが誰の手だか分からなくなる。
「だから一遍に来んなって言ってんだろ! 水なら周りから飲め!」
『『『みゅー!』』』
『……みゅ』
「だーかーらー! 返事だけ良くても意味ねえんだよ!」
さっきまで、腹の中の一人をどうやって外へ出すかで頭を抱えていたのに、今度は全員が集まりすぎて身動きが取れない。
誰も俺の言うことをまともに聞きやしない。
まあ、よそは知らんけど、うちはこんなもんか。




