EX(119.12+).目覚める水 〇★
EX(119.12)『復世巡行記・火の眠る山』⑫の直後~EX(119.13).『世界樹の森・大缶蹴り大会(前編)』のお話。
しゅわしゅわは、もうすっかり抜けきっていた。
ヘルクラネウム山の麓に湧いた温泉で、俺はアイオリスへ背中を預け、岩の上に伏せた空の器を眺めていた。
さっきまで身体のあちこちで弾けていた泡も静まり、湧き口から流れ込む湯の音がやけにはっきり聞こえる。
ひとしきり、あれやこれやして、何度か身体を創り直して、ようやく落ち着いたところだ。
途中で俺が何を口走ったかについては、弊社は一切のコメントを差し控えさせていただきます。
担当者は寿退社しました。引継ぎはありません。何卒ご了承くださいませ。
風が湯気と噴煙を横へ押し流すと、夜空に浮かんだ二つの月と、その下に黒く横たわる山が見えた。
もう夕日の色はどこにも残っておらず、水面で月明かりが揺れている。
その光をぼんやり目で追いながら、腹の前に回された腕へ手を置いた。
泡が抜けたんだから気分も元に戻ってくれていいはずなのに、くっついていたい気持ちだけが妙にしつこく居座っている。
今の俺は、まるで気の抜けたサイダーだ。
炭酸はすっかり飛んでも、糖分だけは残ってる。
今、煮詰められたらたぶんカラメルになる。あーしにたい。
「おい……何がそんなに楽しいんだよ」
振り返ると目が合ったので睨みつけたが、アイオリスは視線を逸らしもしなかった。
「君といる時はいつでもそうだ」
「はいはい、つよいつよい。がっちりホールドしてご満悦ってことな」
悪態を吐いて身体を起こしかけると、背中を支えていた腕が緩んだ。
抜け出る気があればどうぞご自由にってか。
湯が二人の間へ入り込む。
俺は少し迷ってから、背中を押しつけるように座り直した。
ばちゃりと立った水音がやけに大きく響いたが、聞かなかったことにする。
「出るのではないのか」
「うるせえ、ただのキャリブレーションだっての。
お前だってポジション調整くらいするだろうが。わかれよ、ばか」
自分でもよく分からない言い訳をかましながら身体の向きを変え、さっきより少し横向きに収まる。
こいつの顔が近くなったが、見上げなければ見えないのでヨシとする。ヨシ。
「……もうちょいだけ、このままでいい」
返事はすぐには来なかった。
代わりに湯の中で大きな指がゆっくり曲がり、俺の手を握り返してきた。
「なら、こうしていよう」
「……言っとくけど、続きがどうとかじゃねえからな。勘違いするんじゃねえぞ」
「そうは思っていない」
低い声が頬のすぐ上から響いた。
見なくても分かる。絶対、嬉しそうな顔をしている。
何か言い返そうとして、やめた。
今さら取り繕ったところで、この手を握ったままでいる事実までは消せない。
湯へもう少し深く身体を沈めると、アイオリスも岩へ背を預け直した。
俺が楽に寄りかかれる角度を探っているらしく、肩の位置を二度ほど変えてから落ち着く。
大真面目にやることかよ、と思った。
黒禍絶対ブッ殺すマンで、女神様ガチ勢だった野郎が、そういう大仰なことじゃなく、今は俺を収まりのいい位置へ抱え直すことに専念している。
いや、いくらなんでも平和ボケも色ボケも過ぎねえか?
まあ、いつの間にかこれが平常運転になってた気もする。
山の奥や地の底では、相変わらず何かが低く鳴っている。
それでも俺たちが黙れば、だだっ広い夜闇の中に聞こえるのは、湯の湧く音と風音くらいだった。
今日はもう仕事を切り上げた。
それで何か取り返しのつかないことが起きたかといえば、別に何もない。
火だって四六時中働くもんじゃない。それを見て、俺も今日は休むと決めた。
今の仕事も、面倒だ面倒だと言いながら、なんだかんだ結構楽しんでいる。
知らない土地を見るのは面白かったし、ミツバにも会えた。
火についても少しは分かったし、炭酸水はたまんねぇ。
たぶん、仕事そのものが嫌なんじゃない。
出来るならやれ、まだ出来るならもっとやれと、終わりも境目もなく全部抱え込むのが嫌だったんだ。
俺にしか出来ないことだけやって、人間に出来ることは人間に任せる。
それで少し休んで、また行きたくなったら次へ行く。
神様の仕事なんて、そんなもんでいいのかもしれない。
「静かだな……」
思いついたまま言うと、アイオリスの指が手の甲を軽く撫でた。
「あの子たちの声を聞きたくなったのか」
こいつ、また勝手に察しやがって。
見透かされているみたいで腹が立つけど、まあ図星だった。
「いや。今すぐ帰ろうって話じゃねえよ」
どこかでタイミングを見て聖地へ戻り、話をしなきゃなのは確かだ。
クソデカ偽装ミューズの件を詫びなきゃだし、これからの話もある。
でも、たぶんそれだけじゃ済まない。
旅の土産話をせがまれて、こっちも留守番中にリディアと何をしていたとか、ちび三人で何をして遊んだとか聞いているうちに、また時間が過ぎるんだろう。
昔のミューズは、何かをするたび俺に褒めてほしそうな顔をしていた。
自分で頑張ったんだと胸を張りながら、最後にはこっちの反応を待っているのが丸分かりで、危なっかしくて目を離せなかった。
今だって褒めれば喜ぶし、ちびどもに戻れば相変わらず騒がしい。
けれど、あいつらの話に出てくる相手はずいぶん増えた。
リディアを通して聖地の連中とも話すようになったし、それだけじゃない。
「……ミツバんとこと繋げといて、良かったよな」
森と水で繋がった今は、俺が行かなくても、ちびどもが勝手に遊びに行ける。
「ああ。皆、楽しんでいる」
「聖地の連中は頭抱えてたけどな」
毎日入り浸ってるわけじゃないが、御本尊のミューズが聖地を留守にするのだ。
ミツバは昼型だから、女神業務のスケジュール調整は前よりシビアだろう。
知らん。人間どもでなんとかやれ。
俺が隣で見ていない時間にも、あいつらは勝手に何かを見つけて、喜んだり困ったりしている。
そうなってくれたらいいと思って、あれこれ手を尽くした。
ちゃんと望みどおりになったわけだ。
なのに、俺の知らない話が増えたと思うと、ほんの少しだけ置いていかれたような気分にもなる。
自分が旅へ出る時には、あいつらを置いていくくせにな。
「勝手なもんだよなぁ」
「何がだ」
「いや。あいつらに、ずっと俺にひっついてろなんて思ってねえんだけどさ」
そこで口を閉じても、アイオリスは続きを急かさなかった。
こういう時に先回りして慰めてこないのが、ありがたいような、逃げ道を塞がれているような。
「……たまには、もっと俺とも遊べよって思わないでもないっていうか」
「次に会った時、そう言えばいい」
「言えるか、ばか。ガキの遊びにまーぜーてとか、大人げないじゃん」
「あの子たちは喜ぶだろう。私も、話を聞きたい」
顔を上げると、アイオリスは湯気の向こうを見ていた。
でも、俺の視線に気づいて目を戻した時、わずかに目元が緩んでいた。
こいつもこいつで、再会を楽しみにしているのだと分かる。
だったら次は二人で聞けばいいか。
あいつらが何を見て、何を面白がったのか。
俺の知らない話を聞かせてもらうのも楽しそうだ。
今までママと呼ばれるたびに文句を言って、今日は母親業も休みだなんて宣言までしたくせに、何も考えなくていい時間が出来ればこれだ。
あいつらが今どこで何をしているか気になるし、会えば頭を撫でてやりたくなる。
新しい町で珍しいものを見つければ、誰が喜びそうかまで勝手に考えている。
ミュルナ、ミュリナ、ミュシアに一個ずつ。
ミューズとリディアにはおそろいで。
ミツバにも何か――。
待て待て。
ちびどもとミツバで四人。
ミューズまで別勘定にすれば五人。
リディアは子供枠に入れたら、そろそろ怒られそうだから除外するとして。
(俺、実質四、五人分のガキがいるみたいなもんじゃね?)
世話を焼いて、騒がれて、たまに腹を立てて、それでもまた会うのを楽しみにしている。
そんなことを何年も続けておいて、ママじゃないとか、誰かに勝手に押しつけられた役目だなんて、今さら言えたもんじゃない。
「……ガチでママになってんじゃねえか、俺」
自嘲のつもりで呟いたけど、思ったほど嫌ではなかった。
昔なら、誰がママだ、俺は男だ、信仰のせいだ、金とか銀のせいだと、いくらでも逃げられた。
今はもう無理だ。
“私”も“わたし”も全部ひっくるめて俺だ。
それに、後から出てきたものだからって、誰かを可愛いと思う気持ちまで偽物になるわけじゃない。
世話を焼いて、手を離れ始めればちょっと寂しい。
……それも全部、俺なんだ。
いつからこんな風になったんだろうな。
「イズミール?」
「……何でもねえ」
呼ばれて目を向けると、アイオリスが俺の額にかかった髪を避けた。
この身体は水で、髪の一本まで俺の自由になる。
俺が動かせば済むのに、こいつはこうやって手で触れてこようとする。
濡れた髪を耳の横へ寄せる指は、骨ばってデカい割に妙に慎重だった。
――この手で、小さいのを抱いたらどうなるんだろうか。
ふと、そんなことを考えた。
ちびどもだって、こいつに抱っこをせがむことはある。むしろ勝手によじ登る。
けれど今、頭に浮かんだのは、まだ顔も形もない、別の小さな何かだった。
こいつと、俺の――。
「…………」
そこまで考えて、思考が止まった。
こいつが俺との子供を望んでいることも、その理由も、結魂した時に嫌というほど分かっている。
だからこそ、俺が乗り気じゃないと知ってから、一度もその話を押しつけてこなかった。
のじゃ様には「ありえる」と言われたものの、あれからずいぶん経つのに、それらしい気配もない。
それで困ったこともなかった。
なのに今、こいつの腕の中へ、ちびどもよりさらに小さい何かが収まっている姿を想像しても、前みたいに身体の奥から嫌だという感じが湧いてこなかった。
たぶん、こいつは死ぬほど過保護になる。
生真面目な顔で抱えたまま、いつまでも手を離さなくなるやつだ。
俺が過保護にすんなと怒って、それでもなかなか譲らないから、結局二人して横から覗き込む羽目になる。
そうやって、こいつと一緒に困ったり、あれこれ言い合ったりするのは。
……まあ。
悪くない気がした。
(こいつとなら、一人くらい増えても……まあ、いいか)
――って。
何を当たり前みたいに考えてんだよ。
そこまで思ってから、自分の中に、それを慌てて否定しようとする気持ちが湧いてこないことに気づいた。
炭酸はもう抜けている。
さっきまでのハイな感じだって、とっくに落ち着いている。
つまり今の俺は、どう考えても賢者モードだ。
言い訳がねえじゃん。
炭酸の泡と一緒に、意地までどっかへ抜けちまったのかよ。
昔なら、俺は男だとか、怖いとか、仕事があるとか、もうちびどもがいるとか、いくらでも理由を並べられた。
でも今は、仕事は休んでもいいと自分で決めた。
ちびどもは俺が隣にいなくても勝手に遊びに行く。
ガキの世話を焼くのも、どうやら俺は嫌いじゃない。
残ってるのって、怖いとか恥ずかしいとか、そんな程度じゃねえか。
いや、それはそれで結構デカい問題なんだけど。
でも。
嫌じゃない。
だったらもう、無理に嫌だってことにしなくてもいい気がしてきた。
「……なあ」
「何だ」
「お前さ、自分の子ども相手でも、こんな風に離さなくなりそうだよな」
アイオリスの目が、僅かに見開かれた。
しまった。
いきなり何ぶん投げてんだ俺。
「い、いや、もしもの話! ちびども相手だって十分過保護だろってことだ!」
慌てて足すと、アイオリスはすぐには答えず、俺を抱いている腕へ一度目を落とした。
「……その時は、君が注意してくれ」
「否定はしねえのな。あと、言って聞く気はあるのかよ」
「善処はする」
「まるで信用ならねえなぁ」
ようやくいつもの調子で返せたので、それ以上口が滑らないように顔を背けた。
何か言いたげではあったけれど、アイオリスも問いを重ねてこなかった。
ただ、指が一本ずつ、しっかりと俺の指を握り込んでくる。
俺もその間へ自分の指を入れ、湯の中で握り直した。
この指だって水なのに、水の中でわざわざ手の形にして握り合っている。
だって、しょうがないだろ。
こいつ、俺が水に溶け込んだって掴んで引き上げてくるんだもん。
斧だけじゃなく、女神まで持っていこうとする欲張り木こり野郎が。
「まだ、休みだからな」
「分かっている」
今度の返事は早かった。
俺がまた胸へ寄りかかると、アイオリスは何も言わず受け止め、頬の横へそっと唇を触れさせた。
風が噴煙を押し流し、隠れていたもう一つの月も顔を出す。
二つ揃って水面に映り込んで揺れた。
もう全部がしゅわしゅわのせいだとは言えそうにない。
まあ、それでもいいかと思った。
※※※※※
それから、スタビアエを人へ返すまでには、まだ少し仕事が残っていた。
町の形が残っていることと、そこへ人を戻していいことは別だ。
ゴルディウムから人と物資が届き、住民たちと一緒になって街道の灰や石を片づけ、使える建物や水場を調べていく。
俺も八海のジジババどもへ連絡を入れ、全力出動態勢はもうやめろと念を押した。
縁を切れって意味じゃねえからな、と付け足すのも忘れない。
だって、あいつら湿度たけぇんだもん。
黄金を解くのだけは俺にしか出来ないから、片づけと受け入れの準備が済んだ場所をアイオリスから聞き、人目を避けて二人で回った。
でも、その先は人間の仕事だ。
道をどこから直すのか。
届いた物資をどこへ置くのか。
戻った連中をどこで寝かせるのか。
そこまで俺たちが決める必要はない。
ある日、前の晩に黄金を解いた倉庫の前を通ると、もう戸が大きく開かれ、何台もの荷車が並んでいた。
人が忙しそうに荷を運び込み、元の石へ戻った床には車輪の跡が重なっている。
少し先からは、高い金属音が聞こえた。
煤けた工房の炉にも火が入り、若い職人がふいごを動かしている。
火箸で挟まれた鉄が金床へ置かれ、振り下ろされた槌が町へ音を響かせた。
灰を流し終えて金ぴかだった町が、元へ戻した途端また普通に薄汚れていく。
暮らしが動き出すって、そういうもんなんだろう。
俺がいなくても、神が横から何も言わなくても、火は使われ、水は運ばれ、人は勝手に相談して、自分たちの暮らしを取り戻していく。
俺がやった方が早いからって、俺がやる理由にはならない。
温泉で考えたことが、少しだけ本当になった気がした。
※※※※※
再びスタビアエを離れる時、俺たちとは逆に、町へ向かう荷車が何台も街道を上っていた。
まだ片づいていない場所もあるし、元と同じようには使えないものも残っている。
それでも人は戻り、広場では住民と神殿の連中が、次に必要な物や人手について話し合っていた。
俺たちがいなくなっても、あの相談はそのまま続くだろう。
全部片づけたと胸を張るには、とっ散らかったままだ。
でも、ここでの仕事は、こんなもんでいい。
「次の町は、もうちょい洒落た店があるといいな」
周囲に人影がなくなったところで、隣を歩くアイオリスへ声を掛ける。
「何を探すつもりだ」
「ノープラン。見てから考える」
「また荷が増えそうだな」
「何だよ、無駄遣いすんなってのか」
「いや。君が選んでいる間、私も見て回れる」
意外な返事に顔を上げた。
「……お前、買い物なんかすんの?」
「道具を見ることは多い。使ったことのない品があると気になる」
「へえ。じゃあ今度、俺にも教えろよ」
「興味があるのか」
「造形による。あとは、お前が何を面白がってんのかってのも、ちょっとだけな」
余計なことまで言ったかと思ったが、アイオリスは笑わず、繋いだ手を少しだけ握り直した。
「心得た」
変につっつくと、どっかの宿場に連れ込まれそうなので蒸し返さないでおく。
もう少し先まで行けば、山の陰から出られそうだ。
街道を風が抜け、薄く積もった灰を舞い上げる。
――その時だった。
こぽ。
身体の奥で、何かが動いた。
「……ん?」
炭酸かと思いかけて、さすがにないだろうと考え直す。
あの温泉以来、さすがに控えめにしていたし、何より感触が違う。
泡なら浮いていく。
今のは、同じ場所を小さく巡っている。
「イズミール?」
俺が足を止めると、手を繋いでいたアイオリスも立ち止まった。
「どうした」
「いや、ちょっと待て」
自分の身体の内側へ意識を向ける。
水が動くこと自体は珍しくもない。
歩けば揺れるし、心が動けば勝手に波打ったり泡立ったりする。
いちいち命令しなくても、身体は感情に勝手に従う。
でも、これは違う。
小さな流れは、俺が足を止めても動いていた。
俺が気にしたから動いたんじゃない。
勝手に動いていたから、俺が気づいた。
「んー? なんぞこれ……」
「何があった?」
アイオリスが前へ回り込む。
「別に痛いとか、どっかおかしいとか、そういうのじゃ……たぶん、ねえよ」
全く知らない感覚でもなかった。
アイオリスが俺へ流し込んだ霊子は、ずっと俺の中に残っている。
俺の水へ混ざっても完全には俺にならず、金と銀が大事に抱え込み、消えも壊れもしないよう守ってきたもの。
意識すれば分かる、俺ではないぬくもり。
それが今、周りの水を少しずつ集めながら、小さく巡っていた。
こぽ。
「…………」
この感じ。
ちびどもが俺へくっついて、身体の中まで潜り込んでくる時と少し似ている。
俺の水の中にあるのに、俺じゃない。
勝手に動く、小さな別の流れ。
でも今は、誰も外から入ってきていない。
ずっと俺の内側にあったものが、今になって俺とは別に動き始めている。
「イズミール?」
顔を上げると、心配そうに眉を寄せたアイオリスがいた。
何も分かっていない顔だ。
まあ、俺だってまだ何が起きているのか分からない。
けど、その顔を見た途端、あの夜の温泉で考えたことが蘇った。
――こいつとなら、一人くらい増えても、まあいいか。
繋いでいない方の手が、いつの間にか自分の腹へ触れていた。
こぽ。
掌の奥で、また小さな流れが巡る。
待て。
おい、これ――。
「ちょ、待て。おい、これって――」




