EX(119.12).『復世巡行記・火の眠る山』⑫ 〇◆★△
『復世巡行記・火の眠る山』最終回
ぼこ。
ぼこぼこ。
身体の内側から泡が湧き上がってくるたび、俺は湯の中でだらしなく頬を緩めていた。
「ふへへへへ……」
「イズミール」
「しゅわしゅわするぅ……」
最高だった。
先ほどから飲んでいる炭酸水が、身体の中で細かな泡になって好き勝手に浮かび、漂う。
俺は今、猛烈にしゅわしゅわしているーっ!
人間なら、炭酸なんてゲップの元になるだけだが、今の俺は内臓がないぞう!
なので、しゅわしゅわが逃げないのだ。
身体の中ぜーんぶ、炭酸。
俺、ストロング炭酸女。いえー!
「ふへへ……これ、つよぉい……」
「飲み過ぎではないか」
「みずだもん」
「炭酸が入っている」
「でもみずじゃん」
「君は先ほどから同じことしか言っていない」
「みーずーでーすぅー」
そう言って俺がふんぞり返ると、後頭部が背後にある硬い胸板へごつんと当たった。
今いるのはヘルクラネウム山の麓、岩場の隙間から湯が湧き出す天然温泉だ。白い湯気がもうもうと立ちこめ、その向こうには、まだ噴煙を上げ、ときおり山腹の裂け目から赤い火を覗かせているヘルクラネウム山が見える。
風呂タイムなんだから当然裸だ。
後ろにいるアイオリスも裸。
俺は当然のようにあいつの脚の間に収まり、背中を胸板へ預け、腹の前へ回された腕に全身をがっちり抱え込まれている。
なんでこうなったのか。
知らん。
気づいたらこうなってた。
まぁ、いつものやつだ。大丈夫、入ってない。今は。
「なぁーなぁー」
「何だ」
「お前さぁー、なーんでいつまでも俺のことずーっと抱えてるわけ?」
「こうしていたいからだ」
「へー、ふーん、そっかぁー」
「ああ」
「じゃあ、いいやぁ」
いいらしい。
俺がそう決めたので、たぶん今日はそれでいい日なんだろう。
もっとも、楽しみにしていた温泉そのものについて言えば、ぶっちゃけ何も感じない。
虚無オブ虚無。
人間だった頃なら、たぶん今頃、
あ゛~~~~。
とか言ってた。
肩まで浸かって、全身の筋肉が緩んで、熱いのに出たくなくなって、十分くらいすると今度はのぼせてきて――そういう記憶はあるけど、今の俺は水だ。
熱い湯に入ったところで「あったけぇ」で終わるし、サウナを出て水風呂に飛び込んで「整う~!」とか言ってる連中とは、根本から身体の規格が違う。人っぽい身体になってる時でも、やっぱりこの身体は水なのだ。
でも、筋肉が緩む心地よさは分からなくても、岩の裂け目から絶えず流れ込んでくる湯の細い圧や、別の水が自分へ混ざってくる感覚、それに背中へかかるアイオリスの腕の重さなら、はっきり分かる。
それが心地好いってことも。
「……おんせん、わっかんねぇな~」
「期待外れだったのか」
「ん、ん~……」
俺は曖昧に返しながら、湯気の向こうへ目をやった。
赤茶けた大地の先では、ヘルクラネウム山が何食わぬ顔で煙を吐いている。
あの夜の大噴火が嘘みたいだ。
火口を離れる前に、ヘルクラネウムと約束していた山の黄金だけは解いた。新しい仕事っていうよりは、退勤前の後始末みたいなもん。
けど、スタビアエだけは、まだ金ぴかのままにしてある。
人間どもを戻すのは、もう少し山の様子を見てからだ。
黄金を解除する順番とか、灰の片付けとか、井戸とか鉱山とか、考えるべきことはいくらでもある。その気になれば雨を降らせて山肌を冷やしたり、灰を洗い流したり、いくらでも手を出せる。
けれど、今日はそれをする気がなかった。
「……やーめたっと」
「何をだ」
「あめぇ」
そう言って俺は、腹の前に回されたアイオリスの腕へ頬を寄せた。
「ざあざあ降らせてさぁ、じゃばじゃば冷やしたら、ちょっとは静かになるかもしんないじゃん?」
「ああ」
「けど、やってやんねぇー。火は火で働いてんだし、横から水ぶっかけて『消火ヨシ! ご安全に!』とか、なしだなーし」
「そうか」
「えらい? えらくね?」
「ああ」
「もっと褒めろよーぉ」
「よく我慢した」
「我慢とかいうなぁ! 俺が手ぇ出したがりみたいじゃん!」
ぺちぺち叩いて抗議すると、アイオリスは黙り込んだ。避けるでもなく平然としているのがムカついたので、少し姿勢をずらして、もっと深く胸板へ背中を預ける。
うりうり、どうだ。あててんのよ。
男と裸で密着して風呂とか、何年か前の俺なら意識が大爆発していた気がする。
今?
今は、まあ。
「お前は、デカくて便利だなぁ」
「……何がだ」
「俺せんよーのー、背もたれぇ」
「そうか」
「あと腕とか手」
「ああ」
「あと顔」
「顔?」
「かお、すき」
言っちゃった。
背中に触れていた胸板の動きが一瞬だけ止まり、次に返ってきた鼓動が、いつもより少し強く俺の身体へ響いた。
でも、炭酸でしゅわしゅわしているからしょうがない。
俺は誤魔化すように炭酸水をもう一口飲み込んだが、アイオリスは見逃してくれなかった。
「イズミール」
「なんだよぉ」
「今、何と言った」
「しーらなぁい」
「私は聞いた」
「しゅわしゅわが言ったんじゃね」
「君の声だ」
「じゃあ火山とかだ~」
「山は向こうだ」
「じゃあ、俺じゃない誰かぁ」
「私と君しかいない」
「あー、もーうるせぇなぁ! やっぱ、きらい!」
俺は身体の中をしゅわしゅわ泡立たせながら、後頭部をぐりぐりとアイオリスの胸へ押しつけた。
今はヒレも角も生やしていない。くっつくのに邪魔だからだ。
普段なら、こんなこと絶対に言わない。
顔が好きだとか、抱かれるのが気持ち良いとか、隣にいるのが当たり前になってて、たまに視界から消えると何となく探しちまうとか。
そんなの、わざわざ言葉にする必要ないだろ。
結魂してんだから分かれ。俺の気持ちくらい、俺より先に察しろ。
「あ」
ケツの後ろにケダモノ反応あり! 危険! レッドアラート。
異議あり! 被告人をえっち罪で無期懲役!
「……お前さぁ」
「何だ」
「俺のこと、すき?」
「ああ」
「どんくらい?」
「比べるものがない」
「ふへへ」
その答えに満足した俺は、気分よく笑ってから、少しだけ視線を逸らしつつぼそぼそ続けた。
「俺もぉ……まあ、けっこう、だいぶ? すき、だけどさぁ」
途端に腹へ回された腕の力がわずかに強くなった。
「くるし……くはないけど、つぶれるぅ」
「すまない」
「ゆるめんなぁ」
「どちらだ」
「ちょうどよくしろぉ。おっとなんだろぉ」
「難しい要求だな」
「がんばぇー」
「ああ」
俺はご機嫌で、手に持った器をまた傾けた。頭から被っても同じだけど、気分的に口から飲む。
シュワッと混ざって、ぼこぼこ、しゅわしゅわ。
あー。これ、いい。
炭酸には水を陽気にする何かが入ってる。
科学的根拠なんか知らん。俺がそう決めた。
「なあ、アイオリスぅ」
「何だ」
「明日まで休むー」
「ああ」
「スタビアエのことは明日の俺がやる」
「ああ」
「ジジババ会議も明日の俺」
「ああ」
「エオリパイルのことはぁ……」
「どうする」
「明後日の俺」
「そうか」
「灰とか井戸とか鉱山とか、そういうのもぉ……」
「それも、明日の君か」
「んー……いや、にんげん?」
「人間?」
「そー。人間に聞くぅ。だってあいつらの町だもん。自分で決めろよぉ」
口にしてから少しだけ考えたが、やっぱりそれでいい気がした。
俺は黄金を戻せるし、水も出せるし、必要なら浄化もできる。だからって、町の復興計画からインフラ整備まで全部俺が背負う必要はない。
そこに住む人間にはそいつらの都合があり、必要なものがあり、俺の知らない事情がある。その辺は当事者に考えさせた方がずっといいだろ、たぶん。
「……えらくない?」
「何がだ」
「俺、いま、人任せにしたー」
「……そうだな。良いことだと思う」
「……これ、俺ちょっと成長してね?」
「そう思う」
「だろぉ?」
「君は偉い」
「ふへへへ」
ヨシ! 今日はなんでも褒めてもらえるチートデイだ。
そういう祭日なのだと勝手に決める。
ミューズ、ミツバ、八海のジジババども。
今日一日くらい俺が電話にでなくたって、なんとかなるだろ。
たぶん、世界だって俺が一日サボったくらいじゃ終わらない。
「今日の俺はぁ~」
「何だ」
「陰相になるぅ」
「君は水だろう」
「たとえ話だよぉ、ばかぁ」
「そうか」
「今日は女神でも、ママでもありませぇん」
そう言って両腕を上げると、そのまま身体を後ろへ預けて、アイオリスへ完全にもたれかかった。
「今日はぁ、気ままなニートのイズミちゃんなんだよぉ」
「イズミールではないのか」
「今日はイズミちゃん」
「分かった。イズミ」
「ちゃん付けろぉ!」
「イズミチャン」
「ふへへ」
いかにも通じてない感じの馬鹿っぽいイントネーション。
それが思いのほか気に入ってしまい、俺は何度も繰り返させた。
「もう一回」
「イズミチャン」
「ふへへへへ」
「気に入ったのか」
「べっつにぃ。……でも、もっかい」
「イズミチャン」
「えへへ」
何度も呼ばせているうちに、いつの間にか傾き始めた日が湯気を薄い橙色に染め、山から昇る灰色の煙と温泉の白さを同じ空へ溶かし始めていた。
俺は満足して、湯気の向こうへ顔を向ける。
煙を上げ続けるヘルクラネウム山の山肌は大きく抉れ、流れ出た溶岩が冷え固まった跡が裾野に広がっている。
はっきり言って綺麗な景観とは言えない。
でも、温泉の中から眺めてると、妙にそれっぽさがある。
「……富士山」
「フジサン?」
「そーそー、よく銭湯に描いてあるやつ」
「何だ、それは」
「風呂屋の壁にさぁ、でっかい山の絵が描いてあんの。で、だいたい富士山」
「何故だ」
「しーらね。お約束なんじゃねえの」
「そうか」
「でもさぁ」
湯気の向こうに山があって、湯の中には俺がいて、背後には俺の旦那がいる。
身体の中はしゅわしゅわで、仕事は全部明日送り。
そういう状況をひっくるめて、俺はぽつりと呟いた。
「……な~んか、いいよなぁ、こういうの」
「楽しいのか」
「うん」
何も考えずに頷いてから、身体を捩って横向きになり、アイオリスの胸板へ頬と胸を押しつけた。
「たのしい」
「ああ」
「お前といるから、もっとたのしい」
低く吐かれた息の振動が頬へ伝わり、俺を抱く腕がまた少しだけ強くなる。
「だーから、潰すなってぇ」
「すまない」
「すぐゆるめんなってぇ」
「……難しい」
「ばぁかだなぁ」
「そうかもしれない」
「俺のこと好きすぎ」
「そうだ」
「ふへへ」
ばか。
俺もだけど。
まあ、それは言ってやらない。
どうせ、この後もまたいっぱい言わされるし。
さっき言った気もするけど、炭酸が言ったことなのでノーカンだノーカン。
ひとしきり胸板へ頬を擦りつけてから、俺はまた身体を前へ向け、いつものようにアイオリスへ背中を預け直した。
その時、遠くのヘルクラネウム山から新しい噴煙が上がった。
一瞬、意識がそちらへ向く。
噴火。
火砕流。
異常は――
俺が山を気にしたことくらい、背中を抱いているこいつには分かっているはずだ。
それでもアイオリスは何も言わず、止めることも、確かめに行けと促すこともなく、そのまま俺を抱いていた。
「……」
やーめた。
今は見てるだけ。
何もしないでいいや。
今は火の連中の時間だ。本当にまずいことが起きてから考えればいい
「明日の俺ー、がんばぇー」
「明日の君は怒るのではないか」
「知らねーよ。今日の俺には関係ねぇしぃ」
「同じ君だ」
「じゃーお前が明日の俺に謝っとけ!」
俺は笑いながら、残っていた炭酸水を全部流し込んだ。
身体の内側が一気に泡立ち、思わず変な笑い声が漏れる。
「よーし、じゃあ禁止! 今から仕事の話したやつ、罰金~!」
「誰に何を払えばいい」
「俺にちゅー」
「……それは罰になるのか」
「俺が罰っていったら罰なんだよ、サイテーの女神様だぞこらぁ!」
振り向くより先に頬へ口づけられ、俺は思わず声を上げた。
「んひゃっ」
「今、仕事の話をした」
「し、してねぇだろ!」
「裁定の女神だと言った」
「それ仕事じゃ――」
言い終わる前に、もう一度。さっきより長い。
こいつめ。なら俺もやり返してやる。えい、えい。
「ぷは……おいぃ、今のなんだよぉ!」
「したいからした」
「ハチャメチャ言ってんじゃねーよ、ばーか! えへへ」
そうやって俺たちが乱痴気騒ぎしている間も、湯気の向こうでは火の山が勝手に煙を吐き続け、傾いていた日はやがて地平へ沈んだ。
黄金の町は最後の夕日を橙色に返したあと、ゆっくりと夜闇の中へ沈んでいく。
世界には、やることが山ほど残っている。
けど。
今日はいい。
火は火で、勝手に火をやってろ。
人間どもは人間どもで、なんとかやっとけ。
明日の俺も、まあ、たぶん何とかする。
今日の俺は女神もママもお休みだ。
エロかわ人妻イズミちゃんは、愛する馬鹿旦那の腕の中でしゅわしゅわするのが忙しいのだ。
◆◆◆◆◆
『スタビアエ復世縁起』抄
忌まわしき■■■の時代、ヘルクラネウム山は穢れに蝕まれ、その息吹を閉ざした。
山の息吹たる煙は絶え、頂の炎が夜闇を染めることもなくなった。
裁定の日、世界を覆った水によって穢れは祓われ、山は息を吹き返した。
されども火の山が長き眠りにある間にも、地の底を巡る火は絶えることなく、その身の内へ満ちていった。
やがて、古き山は目覚めの時を迎え、その身に蓄えた炎を大地へ返さんとした。
山の火の息吹は、火と共に生きる人の身にも、なお過ぎたるもの。
山麓に住まうスタビアエの民を哀れまれた太母神イズミールは、人々を災禍より守るため、黄金の裁定をもって町と山を眠りにつかせた。
しかし御子女神ミューズは母の前へ進み出て、こう願ったという。
――母よ。人を守り給うたように、どうか火にも、再び巡る道をお与えください。
火は人の敵ではなく、水もまた火の敵ではない。
どちらも同じ源より生まれ、世界を巡る同胞だからである。
ミューズはスタビアエへ一人の遣いを差し向けられた。
名をアイオロス。女神の言葉を預かり、人の世へ伝えし者である。
また、ミューズ御自らも大いなる水の御姿をもって町へ降臨された。
女神の言葉を受けた民は家財を置き、老いた者を助け、幼子を抱き、ヘルクラネウム山の麓を離れた。
民が退いたことを知ると、太母神イズミールは御子の願いを容れ、山を覆っていた黄金の眠りを解かれた。
ヘルクラネウム山の古き火の主もまた、二柱の女神の信義へ応えた。
山は己の息吹を止めることなく、されど人の町を焼き尽くすことも望まず、スタビアエへ背を向けた。
そして、自ら山腹を裂いた。
山は天高く炎を噴き上げ、灰の雪を降らし、荒野へ炎の河を流した。
こうして水は火を滅ぼさず、火は人を滅ぼさず、人は再び山の麓へ帰ることを許された。
月の巡りを経て、火の山の息吹が収まると、スタビアエの民は故郷へ戻った。
彼らは命を守った太母へ感謝し、慈悲をもって水と火を結んだミューズを讃え、そして人を寄せ付けず、さりとて人を拒まなかったヘルクラネウム山を畏れ敬った。
以来スタビアエでは、水の恵みと火の恵み、そのいずれを欠いても人は生きられぬのだと語り継がれている。
大いなるかな、ミューズ。
大いなるかな、イズミール。
大いなるかな、ヘルクラネウム。
我らスタビアエは水と火の民。
各々、負い持つ生業に励み、身健やかに、世のため人のため尽くすものたらんと、偉大なる御方々に畏み畏み申す。
<TIPS>
「オプロンティスの球」
水の時代の発明家エオリパイルが、火の精霊との共同研究によって完成させたと言われる装置。
密閉した器の内部で水を熱し、発生した蒸気を細い管から噴出させることで、球体を連続回転させる。
実用的な動力機関として普及するには至らなかったものの、火・水・金属を組み合わせ、
精霊と人間の協働によって継続的な運動を得る世界最古の「精霊協働式駆動機関」とされる。
後世の蒸気機関研究では、その原型の一つとして知られている。
精霊との意思疎通と相互協調を、機関の安定稼働に不可欠なものとするその開発思想は、
他元素の精霊と協働する機関の研究においても、今なお重視されている。
名称の由来について、エオリパイル本人は何も書き残していない。




