EX(119.8).『復世巡行記・火の眠る山』⑧ ◆★△
朝の火は、今日も機嫌が悪かった。
「……もう少し炭を入れろ」
「親方ぁ、こないだもそれで急に吹いたじゃないッスか」
「馬鹿野郎。だから目を離すなって言ってんだよ!」
右腕に包帯を巻いた若い職人が、不満そうに口を尖らせながら炉へ炭を足した。
先月、いつまで経っても温度の上がらない炉へ炭を足し、風を送り続けた挙句、前触れもなく火が白く膨れ上がり、その腕を焼かれたのだ。
大事には至らなかったが、軽い火傷では済まなかった。
あれ以来、以前のように炉へ顔を近づけて火を見ることをしなくなった。
「おい、風」
「分かってるッスよ」
ふいごが動くたび、ごう、ごう、と空気を呑み込んだ炉の中で赤い火が揺らめく。
昨日よりはいくらかましに見えるものの、炭を足した割には弱く、かと思えば何かの拍子に突然強まるのだから、やはりいつもの火とは違っていた。
鍛冶師は腕を組み、炉を睨んだ。
火なんてものは、昔から人間の言うことなど聞かない。
弱ければ風を送り、強ければ風を止め、炭を足し、灰を除きながら、その日の具合に合わせて扱うしかなく、何十年もそうして付き合ってきた。
だが最近の火は、そういう昔からの気難しさとは少し違う。
山も同じだった。
昨夜も地面が鳴り、寝台の下から腹の底へ響くような低い音とともに家の壁が軋み、吊るしてあった道具がかすかに触れ合った。
それでも夜が明ければ、鉱夫たちは籠と道具を背負って山へ向かい、荷車には昨日掘り出した鉱石が積まれ、町のあちこちの工房から朝の槌音が響き始める。
スタビアエとは、そういう町だ。
山が鳴るからといって仕事を止めていたら、飯が食えない。
「親方ぁ」
「何だ」
「なんか外、騒がしくないッスか」
言われて耳を澄ませると、確かに槌音の隙間からいつもより多くの人声が聞こえていた。
鍛冶師は炉を若い職人へ任せて工房の外へ出ると、朝の通りに人だかりができているのを見つけた。
その中心にいたのは、昨日から町の噂になっている三人だった。
一人は、町の火や湯を聞いて回っていた金髪の旅人アルトリウス。
連れは、この煤けた町には場違いなほど美しい、亜麻色の髪の女イズミ。
異国の出で言葉が通じないらしいということまで一日で町中に広まっていた。
夫婦なのか、どこぞの姫君とその護衛なのか、それとも駆け落ちなのかも酒の席の話題にのぼった。
そしてもう一人が、白ずくめに嘴型の仮面、腰には鳥籠という、山をうろつく変人魔術師エオリパイルである。
この三人が揃えば、人が集まるには十分だった。
「スタビアエの皆よ、聞きたまえ!」
エオリパイルが人垣へ向かって大きく両腕を広げた。鳥籠の中で小鳥がばたつく。
「このアイオロス殿より、重大な話がある!」
「……アイオロス?」
鍛冶師が隣の男と顔を見合わせると、金髪の旅人がすぐに訂正した。
「アルトリウスだ」
「うむ、アイオロス殿の話をとくと聞くがいい!」
まるで直っていない。
人だかりの中から小さな笑いが漏れ、何やら芸でも始まるのかと肩の力を抜く者までいた。
金髪の男は諦めたように一度だけ目を閉じると、改めて町の者たちへ向き直った。
「――聞いてくれ。ヘルクラネウム山は、近く大きく火を噴く」
その一言で、笑いが消えた。
「何だ、他所から来た奴が何を言ってる?」
「火を落とした後の炉みたいな有様だってのにか?」
「山が火を噴くなんて大昔の話だろ」
「いつ噴くっていうんだ」
「今日か? 明日か?」
いくつもの声が重なったが、金髪の男――アルトリウスだかアイオロスだかは怒鳴り返さず、質問がひと通り出るのを待ってから答えた。
「正確な時は分からない。噴火がどれほどの規模になるかもだ。だが、この山に属する火の精霊から警告を受けた」
山に属する火の精霊。
その存在自体を疑う者は、このスタビアエにはほとんどいない。
だが、それとまともに意思を交わせると思っているのは、エオリパイルのような変わり者くらいだ。
「今、ヘルクラネウム山の火は正常な状態にはない。一時、この町を離れてほしい。山にも近づかないでくれ」
その言葉に、鍛冶師の脳裏を裁定の日の洪水がよぎった。
「……また、あんなことになるってのか」
人混みのどこかで老人が呟いた。
アルトリウスは安易に肯定も否定もせず、「少なくとも、悠長に構えていられる状況ではない」とだけ答える。
「だからって、町を捨てろってのか」
「家も工房も置いて?」
「山の火の精霊が言ったって? あんた、本当に精霊と話せるのかよ」
疑う声は消えなかった。
だが妄言だと笑い飛ばすには、男の表情は真に迫っていたし、災厄の記憶はまだ誰の中にも生々しく残っている。
鍛冶師自身も、ここ最近の山がおかしいことなら知っている。
炉の火も、湯も、地鳴りも、どれも以前とは違う。
しかし、それと目の前の余所者を信じて家も仕事場も放り出すことは、まったく別の話だった。
アルトリウスは人垣の後ろへ一度だけ目を向けた。
そこで鍛冶師は、さっきまで男の隣にいたはずの亜麻色の髪の女が、いつの間にか姿を消していることに気づいた。
男はわずかに間を置いてから、再び人々へ向き直る。
「これは、救世の女神ミューズからの警告でもある」
その御名を口にした瞬間、空気が変わった。
「――おい」
鍛冶師より先に、誰かが低い声を出した。
「それ以上、その御方の名前を軽々しく口にするんじゃない」
「御子女神様の名を騙るんじゃねえ!」
今度は明らかな怒声が飛び、鍛冶師も眉を寄せた。
黄金から戻っても、すぐに元の暮らしへ戻れたわけではない。
怪我人もいれば、離れ離れになった家族もおり、食料も道具も人手も足りなかった。
そんなスタビアエへ、最初にまとまった食料や薬、道具を運び込んできたのが、聖地ゴルディウムから来たミューズ神殿の者たちだった。
この工房も、再びまともに火を入れられるようになるまで、彼らからどれだけ世話になったか分からない。
女神ミューズは、遠い国の御伽噺に出てくる名前ではない。
終わった世界で、もう一度生活を取り戻すまで手を差し伸べてくれた御方なのだ。
「疑うのは当然だ」
怒声を受けても、アルトリウスは声を荒らげなかった。
「私の言葉だけを信じろとは言わない。だから、先にこれを確かめてほしい」
男が腰元から取り出したのは、手のひらに収まるほどの小さな品だった。
「……お守り?」
黄金細工のように見えたが、形そのものには見覚えがあった。
幼龍のお守り。
太母神の御子様を模した、子供の成長や安産を願うありふれた護符で、スタビアエの露店にも木彫りや素焼きの品が並んでいる。
黄金のものなど見たことはなかったが。
「なんだ、それがどうしたってんだ」
「これを見てほしい」
男がひっくり返したお守りの裏面には、短い二行の文字が刻まれていた。
――ヘルクラネウム山が火を噴く。
――スタビアエの民を支え助けよ。
「どこの都市でもいい。ミューズ神殿へこれを示せば、スタビアエの民を受け入れてもらえる」
「……それだけでか?」
鍛冶師は思わず聞き返した。
「町一つ分の人間を、金細工一つ見せて面倒を見てくれるって?」
「これは金細工ではない」
「そう言われたってな」
アルトリウスが真っ直ぐこちらを見る。
「あなたは鍛冶師だったな」
「……ああ」
「ならば、火が証を立ててくれるだろう」
差し出された幼龍のお守りを受け取ると、鍛冶師は工房へ戻った。アルトリウスと住民たちも後に続く。
手に取った瞬間、鍛冶師は妙な違和感を覚えていた。
見た目は金そのものだが、金塊にしては軽い。金箔を貼ったものにしては妙に硬い。
何より、異様なほど精緻な仕事だった。わざわざ木目の荒れまで金で作る理由が分からない。
「……本当にいいんだな」
普通の黄金なら、炉へ放り込めば当然熱を持つ。
「構わない」
鍛冶師はお守りを火箸で挟み、比較のために傍にあった鉄片も掴んだ。
「親方、それ……」
「やってみりゃ分かる」
二つを炉へ入れ、若い職人へ顎をしゃくる。
「風」
ふいごが動くと火勢が増し、鉄片はやがて赤みを帯びていった。
ところが、黄金の幼龍は色一つ変わらない。
しばらく待ってから二つを取り出すと、鉄片からは近づくだけで皮膚を刺す熱気が来るのに、黄金のお守りからは何も感じられなかった。
アルトリウスが手を伸ばす。
「お、おい!」
止める間もなく、炉から出したばかりのお守りを素手で握った。
「触れてみてほしい」
「……正気か」
鍛冶師は恐る恐る指先で触れる。
「……冷たい」
熱くない。
鍛冶師は改めて裏面の文字に目を凝らした。
文字を彫った溝の底まで黄金で、その縁には、木を削った時に生じた細かな毛羽立ちまで残っている。
表面を覆ったのでも、金で同じ形を作り直したのでもない。
「……違う」
「親方?」
「こいつは鋳造でも彫金でもねえ。木だったものが、そのまま金になったもんだ」
背後から、老人の掠れた声がした。
「……太母神様の黄金だ」
その言葉を聞いた途端、鍛冶師は無意識にお守りを両手で持ち直していた。
裁定の日。自分の足も、腕も、町も、触れたその時の形のまま黄金となった。
あの黄金だと理解した瞬間、裏面に刻まれた二行の意味が変わった。
「その御言葉は……女神様が書かれたのですか?」
誰かがおそるおそる聞いた。
アルトリウスは首を横に振った。
「いや、文字を刻んだのは私だ」
ざわめきが起こる。
「この警告を刻み、そのまま黄金に変えていただいた」
鍛冶師は手の中のお守りを見る。
確かに、それだけは自分が証明した。
老人が黄金の幼龍を見つめたまま、震える声で尋ねた。
「では……本当に、ミューズ様からの警告なのですか」
その問いには、アルトリウスはすぐ答えなかった。
あれは紛れもなく女神の黄金だ。
少なくとも、この文字が刻まれた木彫りそのものに女神の力が及んだことだけは疑いようがない。
だが、それだけでは、目の前の男が本当に救世の女神から言葉を託されたのかまでは分からない。
鍛冶師自身も、そこだけは引っかかっていた。
その時だった。
町外れから、腹の底まで響くような大きな水音がした。
「な、なんだ!?」
人々がいっせいに振り返る。
使えなくなった湯治場の方角から、巨大な水柱が空へ向かって立ち上がっていた。
以前は傷や身体の痛みを癒やすために使われていた温泉だが、近頃は人が触れられる温度ではなくなり、今では立入禁止になっている。
根元では白い湯気が激しく膨れ上がっている。
「湯が噴いたぞ!」
「離れろ!」
人々が反射的に距離を取り、鍛冶師も腕で顔を庇ったが、煮えた湯は一滴も飛んでこなかった。
大量の水が飛沫となって弾けることも、風に崩されることもなく、一本の巨大な柱として天へ伸びたまま留まっている。
その光景を見た瞬間、鍛冶師の腹の奥が冷たくなった。
手には、つい今しがた「裁定の日と同じ黄金」だと確かめたばかりのお守りがある。
そして目の前には、水。
「……また」
誰かが呟いた。
「また、裁定の日が……」
その一言で、忘れたふりをしていた光景が一気に蘇った。
あの日も、最初に水が来た。
低い土地から押し寄せる水を見て、誰かが山へ逃げろと叫んだ。
鍛冶師も家族を連れてヘルクラネウムを登り、高いところまで行けば助かるのだと、その時は信じていた。
だが、違った。
高い場所へ登ったからこそ、世界に何が起きているのかを最後まで見てしまった。
スタビアエの屋根が沈み、街道が消え、遠くの平地まで水に呑まれていく。
逃げ惑う人も、荷車も、家畜も、森も大地も、水に触れたものから黄金へ変わった。
やがて水はヘルクラネウム山の頂にまで迫り、鍛冶師自身も黄金になっていく自分の足を確かに見た。
「イズミール様……」
老人が震えながら両手を組んだ。
「どうか、お赦しを……」
あの時とは違うと頭では分かっている。
それでも身体は忘れていない。
動けなくなっていく感覚も、世界が水の底へ消えていった光景も。
その時、水柱の内部で何かが動いた。
最初はぼんやりとした影だったものが、やがて細い腕と長い髪を持つ人の形へ変わり、その身体に沿って水が左右へ流れ落ちる。
現れたのは、見上げるほど大きな少女だった。
鍛冶師は、その姿を知っていた。
神殿の聖画で見たことがある。
その装束に描かれた三つ葉の聖印も、復興物資を運んできた神官たちの胸元で幾度となく見てきた。
「……ミューズ、様」
誰かが呟いた。
その名は、すぐに群衆へ広がった。
「ああ……ミューズ様だ」
「御子女神様……」
「偉大なる御方……」
「本当に……」
一人が膝をつき、二人、三人と続いていく。
鍛冶師は毎朝祈るような信心深い人間ではなかったが、それでも目の前の光景を前に、立ち続けていることが難しかった。
人が近づくだけでも危険なほど熱くなった温泉から、見上げるほど巨大な女神が現れ、しかも周囲には一滴の熱湯さえ飛ばしていない。
この神秘を前に、真贋を論じる気になどなれるはずもない。
「アイオロス殿!」
場違いなほど大きな声を上げたのはエオリパイルだった。
白い仮面の男に呼ばれ、金髪の旅人が顔を上げる。
女神ミューズもまた、眼下の男へ視線を向けたように見えた。
アルトリウスという名ではなかったのか。
いや。そういえば、噂に聞いた聖者の名も、よく似た響きだった。
アイオリスだったか、アイオロスだったか――。
名を隠しているのか、自分が聖者の名を覚え違いしていたのか、分からなくなってきた。
女神が口を開く。
『――~――――~~』
聞こえてきたのは、人の言葉ではなかった。
清流が岩の隙間を流れる音を幾筋も重ね、それを一つの歌にしたような声。
耳に優しく美しい声だが、鍛冶師には一言たりとも意味が分からない。
女神はヘルクラネウム山を指し、次に町と人々へ視線を巡らせ、最後にアイオロスと呼ばれた男を見る。
その男が、一歩前へ出た。
「――女神ミューズの御言葉を伝える」
もう、疑う声は上がらなかった。
「ヘルクラネウム山は、近く大きく火を噴く。その時は定かではない。山へ近づいてはならない」
人々を見渡す。
「持てる物だけを持ち、まず、その命をこの地から運び出せ」
ほとんどの者が跪いたまま聞いていたが、アイオロスはそれを見て言った。
「立ってほしい。女神が求めているのは、跪いて祈ることではない。その命を守ることだ」
戸惑いながら人々が立ち始めるのを待つと、彼は背後の女神へ一度だけ目を向けた。
「女神の御言葉はここまでだ。ここからは、私自身の知る限りを答える」
※※※※※
「だったら!」
最初に声を上げたのは鉱夫だった。
「ミューズ様に山を鎮めてもらえばいい!」
「そうだ!」
「世界を元に戻してくださった女神様だぞ!」
別の男がヘルクラネウムを指す。
「太母神様は世界そのものを水に沈めたんだ。その御子様なら、山の一つくらい――」
「それは違う」
アイオロスがはっきりと遮った。
「今、女神が動かそうとしている相手は山ではない。あなた方だ」
「それは、どういう意味で……?」
「ヘルクラネウム山の火は生きている。山は、人を憎んで火を噴くのではない」
「憎んでなきゃ焼いていいってのか!」
鍛冶師の視線が若い職人の包帯へ落ちた。炉の火も、あいつを憎んで焼いたわけではない。
「人を害する意志がなくとも、火は人を焼く。
この山の火は長い間、本来の働きを果たせない状態にあった。
それをさらに水で押さえ続ければいいというものでもない」
「でも、ミューズ様なら――」
「火には火の、水には水の理がある。女神は山を人に従わせるために来られたのではない。
今は、人が火の山から退くべき時だ」
鍛冶師には、火や水の理だのという理屈はよく分からない。
それでも、炉へ手を突っ込んだまま火に焼くなと命じる鍛冶師はいない。
火が強すぎるなら手を退き、扱えないなら一度火を落とす。
そういうことなのかもしれなかった。
「そ、それなら!」
今度は別の男が声を張った。
「また黄金にしてくれ!」
「あの日みたいに俺たちを黄金にして、町ごと守っていただけばいい!
噴火が終わってから、また戻していただければ――」
アイオロスはすぐには否定しなかった。
「黄金で人や町を守ることはできる」
「なら――」
「だが、町が灰や岩に埋もれ、井戸が失われればどうする。
人や家だけを戻しても、そこが再び暮らせる町であるとは限らない」
先ほどまで勢い込んでいた者たちが黙る。
鍛冶師は自分の工房を見た。
炉も、金床も、槌も、黄金にすれば形だけは残るのかもしれない。
だが、山ごと灰や岩に埋まったなら、それは残ったことになるのだろうか。
「じゃあ、逃げた後はどうする! 飯と寝床は?」
また別の者から声が上がった。
「子供や年寄りまで含めて、他所の町が俺たち全員を受け入れてくれるのか!」
周囲からも同じ不安が噴き出した。
アイオロスは鍛冶師の手元を見た。
「どこの都市でも構わない。ミューズ神殿へその証を示してほしい。
神殿はその証の意味することを知っている。これまでもその証を授かった人々を受け入れてきた」
「……本当に、皆助けていただけるんで?」
「そのために、『スタビアエの民を支え助けよ』と刻んだ」
それ以上の保証を求める気にはなれなかった。
何しろ、その言葉を刻んだ木彫りが、女神の黄金として今、ここにある。
それでも、鍛冶師には最後に一つだけ聞かずにはいられないことがあった。
「……いつ戻れるのですか」
炉も、槌も、金床も、煤けた壁も、何十年もそこにある。
祖父の代から使い続けている道具さえあった。
「スタビアエは、残るのでしょうか」
アイオロスは誤魔化さなかった。
「分からない。噴火がどれほど大きくなるのかも、この町に何が残るのかも、今は約束できない」
「だったら……」
腹の奥から込み上げてくるものが、怒りなのか恐怖なのか、自分でも分からなかった。
「だったら、何を頼りに、ここを離れて生きていけばいいんだ……」
神殿が助けてくれることは分かった。
女神ご自身からの警告というのも本当だった。
山が危ないことも、もう疑ってはいない。
だからこそ、残ったのはもっと単純な恐怖だった。
ここを離れた後、自分たちは本当に帰ってこられるのか。
アイオロスはすぐには答えず、町と山を見たあと、人々へ向き直った。
「いつか、必ず、取り戻す日が来る」
静かな声だった。
「その日まで生きよ」
鍛冶師は何も言えなかった。
「故郷を捨てろとは言わない。だが、取り戻すためには、今は離れて生き残ってほしい」
それは取り戻せるという保証の言葉ではなかった。
何が残るかさえ分からないのだから、約束とも違うのだろう。
それでも、死んでしまえば取り戻すことなどできない。
その一点だけは、誰にも否定できなかった。
鍛冶師は黄金の幼龍を握ったまま工房へ向き直り、若い職人を呼んだ。
「おい」
「はい」
「火を落とせ」
「……親方?」
「炉だ。落とせ。持てる工具だけ包んで、水と食い物も集めろ。
動けねえ爺婆を乗せる荷車も要る。鉱山へ行った連中にも知らせろ」
若い職人は工房を見回した。
「でも、工房は」
鍛冶師も同じものを見る。
朝、自分で入れた火は、弱くなったり突然強くなったりしながら、それでも毎日の仕事を支えてきた。
火掻き棒で炭を広げ、ふいごを止めると、炉の唸りは少しずつ弱まっていく。
「生きて帰ってきたら、また火を入れりゃいい。機嫌を取りながらな」
若い職人はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……ッス」
※※※※※
一人が動き始めると、町は早かった。
「鉱山へ報せに行け!」
「荷車だ!全部空けろ、鉱石なんざ置いていけ!」
「水を樽へ詰めろ!」
「女子供だけでも先に向かわせるぞ!」
「年寄りと病人のいる家を回れ!」
町外れでは巨大な女神ミューズが静かに佇んでいる。
その足元で、さっきまで逃げるかどうかを言い争っていた者たちが、今度はどう逃げるかで怒鳴り合い、家財を何もかも荷車へ積もうとする者は隣人に止められ、泣く子供の手を大人が引き、戸口で立ち尽くす老人のもとへ別の誰かが駆け寄っていく。
女神に向かって跪き、赦しを乞い続ける者もいた。
それでも、避難へ動き始めた人々に促されるように、一人、また一人と立ち上がっていく。
やがて、女神がもう一度、短く声を発した。
『―~―~』
先ほどの神託とは違い、歌の結びのような短い水音だった。アイオロスも、今度は何も伝えなかった。
意味は分からない。
そして、何も起こらなかった。
町が黄金になることも、ヘルクラネウム山の煙が止まることもない。
「……お励ましくださった」
誰かが言えば、
「いや、急げと仰ったんだ」
「きっと、無事でいろと――」
別の者たちが好き勝手に意味をつけていく。
鍛冶師には、どれが正しいのか分からなかった。
やがて巨大な女神が片手を上げると、身体を形作っていた水が静かにほどけ始め、髪も衣も腕も透明な流れへ戻りながら、湯の沸き出し口へと吸い込まれていった。
濁流も水飛沫も地響きもない。
ただ、薄っすらと漂う霧だけが、女神がそこにいた名残りだった。
女神ミューズが去った。
だが、もう立ち止まる者はいなかった。
朝から町を刻み続けていた槌の音が一つ止まり、少し離れた工房でも、また一つ止まった。
そうしてスタビアエから立ち上る煙が、一つ、また一つと消えていく。
代わりに、町じゅうへ避難を告げる鐘が鳴り始めた。
炉の火は落ちていく。
それでも、人の動きは止まらなかった。
<ちっぷす>
「ご当地限定ちびグッズ」
何故かあちこちで売ってる、うちの子グッズ。アクスタみたいなもん。
なんか知らん間に、ちびどもが多産だの安産だの子供の成長だのを司る縁起物になってた。
どういうことだよ。うちの子で子宝祈願すんな。業務範囲外だろうが。
しかも、やたらと種類が多い。
木彫り、素焼き、石彫り、貝殻に絵付けしたやつ。
でかいの、小さいの、妙に丸いの、角だけやたら立派なの。
地域ごとに顔も形も違うし、たまにもう龍なのか何なのか分からんやつまである。
造形的にはショボいのも多いが、味があるやつとか、妙に出来のいいレアモノは即買いだ。
別に親馬鹿とかそういうんじゃない。
現地文化の調査。資料収集。旅の記念品。民俗造形の研究。リディアへの土産。
つまり必要経費みたいなもんだ。
出張を始めてからは、たまに実用品にもしている。
助けが必要な村や人を見つけたら、手持ちのちびグッズの裏に用件を刻んで、そのまま黄金化。
これで偽造も改ざんもできない、女神謹製の名刺兼紹介状のできあがりってわけだ。
神殿の連中には、これを持ってきた奴がいたら面倒見てやれって通達済み。
食う寝るところに住むところ。必要なら復旧の手配までいろいろやっとけって。
社長の俺が世界中飛び回って案件拾ってんだ。
社員ども、あとはいい感じに何とかしろ。役目だろ。




