EX(119.7).『復世巡行記・火の眠る山』⑦ ◇★
足元を揺らした地鳴りは、すぐには収まらなかった。
靴底から伝わる細かな震えに合わせ、火柱が左右へ傾く。
私はイズミールの肩へ手を添えたまま、崩れてくる岩がないか火口の縁を見回した。
やがて地鳴りは遠のいたが、地の底で何かが動いたような感触だけが残った。
『あれこれ試してる暇無しか……納期にゆとりがなさ過ぎだろ』
イズミールはぼやきながら、火柱の中に浮かぶ二つの白い火へ向き直った。
『オプロンティス、一つ頼みがある』
『何だ、水』
『山の下に町があるだろ』
『知っておる』
『人間が大勢住んでる。あと、あのマッド野郎もまだ山にいる』
オプロンティスの火が一瞬だけ尖った。
『……あやつの話をするな』
『今から追い出すんだから我慢しろ』
火が少し収まる。
『町の奴らも逃がさなくちゃだ。だから、大精霊に伝えろ』
イズミールが火口の底を見る。
『人間どもを逃がして、俺たちが戻って合図するまで、できるなら陽へ立つのを待ってくれって』
『……水が、火に止まれと命じるのか』
『だから頼むって言ってんだろうが! 俺だって、よその火山の責任者へ業務命令出すほど偉くねえわ!』
『何を申しておるのか分からぬわ!』
言い合いを始めた二人を取りなす。
「オプロンティス。君はエオリパイル殿の死までは望んでいないと言った。
町の者たちについても同じなら、どうか協力してほしい」
『伝えることはできる。されど、あの御方が待つと定められても、山の内にある火のすべてが待てるとは限らぬぞ』
『分かってる。待てると保証しろとまでは言わねえ。少しでも時間が欲しいだけだ』
『ならば、急げ』
イズミールが頷く。
『それと、あのマッド野郎には、お前が嫌がってたことだけ伝えておくぞ』
オプロンティスの身体を作る火が、再び鋭く逆立つ。
『余計なことをするな』
『余計じゃねえよ。あいつ、お前が何で怒ってんのか全然分かってねえだろ』
『名前のことは言わねえ。無闇に呼び出すのもやめさせる。その後、あいつとどうするかは、お前が決めろ』
『汝に言われるまでもない』
『だから、勝手にしろって言ってんだろうが』
互いに言い返し、二人とも黙る。
認めれば両方とも不機嫌になるだろうが、この二人はどこか似ている。
イズミールが火口を離れようとして、ふと足を止める。
『あいつのやってたこと自体は、俺もちょっと面白いと思うけどな』
『……水よ』
『なんだよ』
『やはり汝もおかしい』
『なんでだよ!』
『閉じた器へ押し込められ、火に熱されて煮え立つことの何が楽しい』
『そこから先があんだよ! 俺のいたところじゃ、もっとちゃんと――』
イズミールが止まる。
オプロンティスの火の枝が、こちらへ伸びかけた。
すぐに引っ込む。
『……先とは何だ』
『いや、今はいい』
『ならば最初から言うな』
『お前だって食いついてんじゃねえか!』
『火の新たな仕事へ興味を持つことと、あやつへ応じることは別だ!』
『あー、はいはい。分かった分かった』
火口を背にしても、二人はしばらく言い合っていた。
「……二人とも、その辺にしておくんだ」
※※※※※
空が白み始める頃、私たちは山腹の洞穴へ戻った。
入口から、嘴の長い仮面が飛び出してくる。
白い外套を着込み、背には荷、片手には二本の杖、もう片方には小鳥の籠。
エオリパイルは、すぐにでも山へ出られる姿をしていた。
「アイオロス殿! シズメル殿!」
こちらを見つけるなり、大股で近づいてくる。
「どこへ行っておった! 夜の山を出歩くなら、せめて行き先を残したまえ!」
「我々を探しに行くところだったのか」
「当然であろう! 夜中に姿を消した者が、朝になっても戻らぬのだぞ!」
怒鳴りながらも、エオリパイルは私たちの足元と外套を見た。
転倒した跡や、火山の気を吸った兆候がないか確かめているらしい。
「この山を何だと思っておる! 暗い斜面では亀裂一つ見落とせば足を取られる!
気の溜まる窪みへ入れば、気づいた時には動けんぞ!」
今の私たちは、彼が思うほど無防備ではない。
だが、黙って姿を消した者を捜しに出るのは、人として当然の判断だった。
私は、その当然を自分たちの事情で忘れかけていたらしい。
「心配をかけた。すまない」
私が頭を下げると、隣でイズミールが手を握った。
私は、エオリパイルの言葉を、繋いだ手からその都度イズミールへ渡していた。
(……こいつ、普通に俺らを心配して探しに行こうとしてたのか?)
(そのようだ)
(……人間相手には普通なんだよなぁ)
否定はできなかった。
「まぁ、無事であったならばそれで良い! だが、どこへ行っていたのだ?」
「我々は火口へ行ってきた」
「なんと!?」
エオリパイルの声がさらに大きくなる。
「まず話を聞いてほしい。そこで、あなたが契約していた火の精霊と話した」
嘴の奥から、呼吸の音が消えた。
「……話した?」
「ああ」
「話した、とは、どの程度の意味でだ」
「私は、精霊の言葉を聞くことができる」
「何故だ!? どのようにして? 新たに契約を交わしたのか!?
おお、オプロンティス、我輩以外の者としたのか、契約を!」
「エオリパイル殿、説明は後だ。あの精霊から聞き出したことを伝える」
エオリパイルは嘴型の仮面を外した。
「……何と言っておったのだ」
私はイズミールの手を握ったまま、火口で聞いた言葉を伝えた。
初めは、戦い以外の火の使い道を考えるエオリパイルを面白いと思っていたこと。
だが、閉じた器の内側や、広がることも上へ昇ることもできない場所へ呼ばれることを嫌がっていたこと。
何度拒んでも条件だけを変えて呼ばれ、自分まで道具の一つとして扱われたと感じていること。
エオリパイルがオプロンティスと呼んでいる名が、真の名ではなかったことだけは告げなかった。
それを彼へ明かすかどうかも、あの精霊が決めることだ。
すべて聞き終えても、エオリパイルはしばらく動かなかった。
「……そうか。あれは、純粋に拒絶であったのか」
「少なくとも、あの精霊はそう言った」
「我輩は、実験の環境や条件が合わぬものとばかり――」
「そのように読み違えられ、本意ではないのに呼ばれることを嫌がっていた」
エオリパイルの視線が、洞穴の棚へ向いた。
太さの違う鉄管。
割れた石。
黒く歪んだ容器。
彼にとっては失敗と改良の記録だったものが、今は別の並び方をして見えているのかもしれない。
「あなたが何かを伝えたいと思っても、それを受け入れるかは、あの精霊が決めることだ」
「……うむ」
「少なくとも今は、向こうが応じる意思を示すまで、呼び出さないでほしい」
エオリパイルは、いつものように即答しなかった。
棚を見つめたまま、肩がわずかに落ちる。
「呼ばぬまま、どうやって向こうの意思を知る?」
「今すぐ確かめようとしないことだ。向こうが応じる意思を示すまで待ってほしい」
「……承知した」
声は小さかった。
エオリパイルが棚を見つめる横で、イズミールの指が私の手の甲をつねった。
(おい。今、自分のこと考えただろ)
(否定はしない)
(一生、俺に詫び続けろ。ばーか)
(そのつもりだ)
罵りながらも、イズミールの手は離れなかった。
「エオリパイル殿、もう一つ重要な話がある」
エオリパイルが顔を上げ、こちらを見た。
「この山は、近く噴火する可能性が高い」
エオリパイルの目が大きく開いた。
「……おお、オプロンティス、山を噴かせるほど我輩を追い出したいのか?!」
「違う。そうではない」
(こいつ、どんだけ自意識過剰なんだよ!)
「違うのか」
「噴火は、あの精霊の意思ではないし、貴方との諍いが原因でもない。
この山には、あの精霊より遥かに広く山の火と結びついた大精霊がいる」
「大精霊……!」
声に、明らかな熱が混じる。
「山そのものへ広く繋がった火精霊か……。どの程度の領域を持つ? どれほどの力を――」
「私も、すべてを聞けたわけではない」
大精霊が黒禍の広がった頃から、まともに姿を現せなくなっていたこと。
その間も山の火は絶えず、今は山の内にある火が以前より大きくなっていること。
現在の山で、その大精霊が本来のように顕現すれば、山が大きく火を噴くと警告されたこと。
人間の理解しやすいように、彼の興味を引きすぎないように内容は絞って伝えることにした。
エオリパイルは一度、洞穴の奥を振り返った。
興味に光った目が、すぐに細くなる。
「待て。スタビアエ側の斜面では、火口と同じ黒い岩が多く見られるのだ。
あれらは熱せられ、溶けた岩が冷え固まったものである」
壁に掛けられた山の見取り図へ歩み寄り、指で麓の一点を示した。
「つまり、ヘルクラネウム山が過去にも火を噴き、溶けた岩がこの斜面まで流れた証拠と言える。
だとすれば、噴火の規模によってはスタビアエも無事とは限らんだろう!」
イズミールの指が、私の手の中で動いた。
(こいつ、俺らの話、疑わねえの?)
(そう見える)
(オプロンティスと話したってところから疑ってねえんだろ? 一応、聞いてみろよ)
「私の話を、疑わないのか」
「何をだ?」
「私が精霊の言葉を聞けることや、大精霊と噴火のこともだ」
エオリパイルは、何故そんなことを聞くのか分からないという顔をした。
「アイオロス殿が何者かは、後で確かめればよい」
仮面を被り直し、紐を締める。
「だが、この山に属する火の精霊が、この山は噴くと言ったのであろう?」
「ああ」
「ならば、まず噴くものとして動くべきだ」
迷いのない答えだった。
(なんでそこだけ素直なんだよ!?)
「山のことなど、人間にすべて分かるものか」
町で話を聞いた老人も、似たようなことを言っていた。
だが、こちらはそこで終わらない。
「分からぬから測るのだ。我輩が知っておることなど、山の表へ出てきたものの一部に過ぎん。
この山に属する火がそう言うならば、我輩の見えておらぬ場所で何かが起きておるのだろう」
「警告が誤っている可能性は?」
「誤りならば、荷を背負って山を下り、また引き返すだけのことであろう」
エオリパイルは見取り図を壁から外した。
「正しければ、疑っている間に町と人が失われる」
エオリパイルは一度、山頂の方を見た。
「……火の大精霊が顕現するところを、この目で観測できぬのは、甚だ惜しいがな!」
(惜しいんかい)
その言葉に、イズミールの手から力が抜けた。
(……変なところで潔いな、こいつ)
(そうだな)
「荷をまとめてほしい。山を下りる」
「承知した!」
今度は即答だった。
エオリパイルが洞穴の中を素早く動く。
畳んだ見取り図。
小さな記録板を数枚。
水と乾いた食料。
防毒面と外套、二本の杖。
そして、小鳥の籠。
それだけだった。
「あれらの器具は置いていくのか」
「作り直せる物を抱え、山道で足を取られる方が愚かであろう!」
棚には、何日、何年とかけて作ったか分からない器具が残されている。
「必要な記録は持った。失えば、また作ればよい」
エオリパイルは、あっさりと言った。
「作り直せるものと、作り直せぬものの区別くらいはつく」
そう言って、鳥籠に触れると中の小鳥が、チチ、と鳴いて羽ばたいた。
(もっとゴネるかと思ってた)
私も、多少はそう思っていた。
(彼にとって、優先すべきものは元から決まっていたようだ)
イズミールは答えず、棚の前で足を止めた。
黒く歪んだ鍋。
一端を塞いだ鉄管。
ひび割れた鉄の球。
彼女の目が、一つずつを追う。
(何か気になることが?)
少し間を置いて、手の中へ返事が届いた。
(……いや。行くぞ)
私たちは洞穴を後にした。
※※※※※
山を下り始める頃には、朝日が稜線から顔を出していた。
空の端から差した光が、赤茶けた山肌を少しずつ取り戻していく。
先を行くエオリパイルの白い外套は、その中でよく目立った。
やがて斜面の下に、スタビアエの町が見えた。
鍛冶場から煙が上がっている。
鉱山へ向かう道には、仕事道具を背負った小さな人影が連なっていた。
町外れの、使えなくなった湯場からは、朝の冷えた空気へ白い湯気が立ち上っている。
地面が鳴っても、湯が熱くなっても、火が弱くなっても、町の朝は始まる。
あの者たちは、足元の山がどれほど危ういかをまだ知らない。
「町の者を、一人残らず避難させるつもりか」
エオリパイルが歩きながら尋ねてきた。
「そのつもりだ」
「簡単なことではないぞ」
杖で山道の石を払い、足場を確かめてから続ける。
「坑道に潜る者、工房にいる者、家に残る者。病人や老人、女、子どももいる。
外から鉱石や金物を買い付けに来た出入りの商人らもおる」
「ああ」
「そもそも、あの町の者たちは地鳴りや噴気を、火の山の息吹として生きてきた」
エオリパイルは町を見下ろした。
「余所者から山が噴くと言われただけで、全員が家と仕事を置いて動くとは思えぬ」
「あなたが伝えてもか」
「ははは! 我輩などはただの余所者よりもなお信用が薄かろう!」
(だから、なんで自信満々でそれ言ってんだよこいつは!)
私には説明できなかった。
「火の精霊からの警告だと話すつもりだ」
「信じる者も中にはいよう。
だが、信じぬ者たちに一人ずつ説明している間も、山は待ってはくれぬのだろう?」
「……待つよう申し入れはした。だが、どこまで持つかは保証できない」
人を一人、危険から遠ざけるだけなら難しくはないが、町一つともなれば話が全く違う。
各々に暮らしがあり、仕事があり、守りたい物がある。
同じ言葉を聞いても、捨てて走れる者と、確かめるまで動けない者がいる。
彼らにとって、このスタビアエは生まれた場所であり、帰る場所なのだ。
イズミールが私の手を握った。
(……無理ゲーの気配がすごい)
(町の代表者へ先に伝え、そこから人を動かしてもらうべきだろう)
(それで全員が即座に信じると思うか? 出せる証拠もねえ)
(難しいだろう)
(しかも、猶予がどれだけあるか分かんねえ)
地鳴りを思い出す。
オプロンティスは、悠長にはしていられないと言った。
説得に使えるだけの時間が残されている保証もない。
イズミールが、ひどく嫌そうな顔をした。
(……俺、今からすっげえ嫌なこと言うぞ)
(聞こう)
(神様を使う)
意味を測りかね、イズミールを見た。
(八海へ助力を求めるのか?)
(違う。人間どもが信じてる方の神様だ)
私は足を止めかけた。
彼女が何を考えているのか、少しずつ分かってきた。
(……神託か)
(そう)
イズミールは口を歪める。
(得体の知れねえ旅人が「逃げろ」って言うより、神様が「逃げろ」って言った方が百倍早い)
(しかし、君が姿を現せば)
(それなんだよ)
大きな溜息が、思念越しにまで伝わってきそうだった。
(俺じゃ駄目だ)
答えは早かった。
(考えてみろよ。世界沈めて金ピカにしたヤバい方の女神様が、いきなり町に出てきて「山が噴くぞ」だぞ。
下手したら「また裁定の日だ!」なんて大騒ぎになる。あんな洪水なんか二度と起こすかっての)
(……あり得る話だな)
(だろ)
彼女の名と姿は、今や救済だけを意味するものではない。
黒禍を滅ぼした浄化の女神。
世界を水へ沈め、すべてを黄金へと変えた裁定者。
あの日を知る者にとっては、崇敬と共に大きな畏怖を呼び起こす存在だ。
(では、どうする)
イズミールは答えず、しばらく山道を歩いた。
前ではエオリパイルが、こちらなど気にせず杖で地面を叩いている。
やがてイズミールの指が、私の手の中で僅かに動いた。
(……ミューズ)
思わず、彼女を見る。
(あの子を、ここへ呼ぶのか?)
(呼ぶわけねえだろ。あいつが「この山は噴火するから避難しろ」って言ったことにする)
(あの子は、噴火を予見していない)
(そんなこたぁ分かってる)
(あの子の名で、言っていない言葉を人へ伝えるのか)
イズミールの指が、私の手の中で強く曲がった。
(だから嫌なんだよ! けど、しょうがねえだろ……)
この町の老人は、母女神が黒禍を洗い流し、御子女神が世界を戻したのだと語っていた。
道すがらでも、ミューズの名は広く伝わり、救世の女神として信仰を集めていた。
余所者からの警告より、遥かに早く人を動かすだろう。
イズミールは、それを知った上で、信仰を手段として使おうとしている。
かつて私は、何も語らない泉の沈黙へ自分の願いを重ね、それを神意として人へ語った。
今回は、イズミール本人が何を望んでいるのかを知っている。
だが、これから借りようとしている名の主には、まだ何も聞けていない。
それでも、時間がないから、イズミールは自ら、偽りの神話を引き起こして事態を動かそうとしている。
人を救うために、我が子の名を持ち出してまで。
それが、どれほど心苦しいことかは、想像に難くない。
(きっちり計画を詰めてる時間も、相談の時間もねぇ。成り行き任せのクソ仕事だよ、畜生)
イズミールの言葉が続く。
(避難先と経路は、町の連中に聞きながら詰める。
まず全員に、逃げる必要があるって信じさせねえと話にならねえ)
(私が、ミューズの言葉として伝えるのだな)
(そうだよ。役目だろ、聖者様)
(何と言えばいい)
(それも町に着くまでに考える)
(まだ決めていないのか……)
あえて呆れたような調子で伝える。
私に役目を押しつけることに罪悪感を抱く必要はない。
私は彼女の夫だ。
彼女一人に背負わせず、共に負うと決めている。
(これから詰めんだよ! 企画立案から五分で仕様書まで出せとかブラック企業か!)
いつもの調子が戻ってきた。
だが、すぐに少しだけ弱くなる。
(……あと、ミューズには後で謝る)
(あの子なら、怒らないと思うが)
(怒るかどうかじゃねえよ)
イズミールが歩きながら、小さく肩を竦める。
(勝手に名義を借りるんだから、親子だろうとちゃんと本人に言う)
(嫌なら、やめるか?)
私が尋ねると、イズミールは町を見た。
朝の煙が上がり、人々がいつもの仕事へ向かっている。
(嫌だよ。今でも嫌だ。勝手に人の神話で盛り上がってる奴らなんか大嫌いだ)
手の中で、水の気配が小さく揺れた。
(でも、だからって人を死なせる方がもっと嫌だ)
信仰によって神の在り方が変わることは、私も知っている。
それでも、彼女の中には変わらないものがある。
失うことを恐れるからこそ、失われそうなものを放っておけない。
私も、そうして救われた。
それが彼女の選択なら、一人の責務にはさせたくなかった。
(君一人に負わせはしない。あの子への説明は、私も共に行う。
これは聖者としてではない。君の夫として――あの子の父としてだ)
イズミールは返事をしなかった。
ただ、指から伝わる揺れが少しだけ静まった。
(うるせえよ、ばか……相変わらず重たいんだよ、ほんとさぁ)
(そうかもしれない)
(否定しろよ)
エオリパイルが少し先で振り返った。
私たちは何も話していないようにしか見えないはずだ。
私はイズミールと並び、再び町へ視線を戻した。
(だが、私がミューズからの警告だと言うだけでは、旅人の話と大きく変わらない)
(分かってる)
(あの子を呼ばずに、どうやって人々へ信じさせる?)
イズミールは、いかにも気の進まない顔をした。
(そんなもん、決まってんだろ)
握った手へ、覚悟を決めたような声が届く。
(――俺自身がミューズになることだ)




