EX(119.4).『復世巡行記・火の眠る山』④ ◇★
(なあ。それはそれとして――あいつ、めちゃくちゃ嫌われてねえ?)
(少なくとも、歓迎されてはいないな)
イズミールの問いに、私はそう返した。
(だよな。火の奴が水の俺に頼んでくるとか、よっぽどなんじゃないのか?)
燃え続ける火柱の向こうで、エオリパイルは記録板へ炭筆を走らせている。
あれほど明確な拒絶を、彼は炎の音や反応としてしか受け取れなかった。
言葉が通じていたとしても、正確に受け取るかという点には疑問が残るが。
イズミールが私の腕を掴んだまま、火柱を見る。
(……で、これどうすんの。消さなくていいのか?)
確かに、火精霊が消えても炎は衰えていない。
火種は燃え尽きているはずだが、亀裂の奥から噴き出す気が火を養い続けているようだ。
「エオリパイル殿。この火は消さないのか」
「うむ!」
即答だった。
エオリパイルは鳥籠を風上へ移し、火柱へ近づかずに炎の傾きを見る。
次に、地面の窪みと岩の亀裂を二本の棒で示した。
「今は燃える気がどこから出て、どちらへ流れているか目で分かる。
今、火を消せば、見えぬ気は低い場所や岩の隙間へ溜まっていく。
次にどこかで火がつけば、今より厄介だ。より広い範囲で燃えよう!」
地面へいくつか杭を立て、白布を結ぶ。
さらに、そのうち一本の杭の傍で棒を垂直に構え、火柱の頂と重なる位置へ印をつけた。
「何をしている?」
「この位置から見た、今の火の高さだ! 後で戻った時、どこまで弱まったか分かる!」
彼の動きには迷いが見えない。幾度となく繰り返してきたのだろう。
あの精霊に、「まだ懲りぬのか」と言わせるほどに。
「火勢がこの印を下回るまでは近寄らぬ。次に確かめる時刻も定めてある。
今は、出てくる気を燃やしたままにしておく方が安全と言えよう」
その説明をイズミールへ伝えると、彼女は呆れと感心が混ざったような顔をした。
(やってることは無茶苦茶なのに、変なところだけちゃんとしてんな)
(彼が危険だと認識できるものについては、そうらしい)
エオリパイルは火柱の高さを記録すると、炭筆の先を噛みながら首を振った。
「次は燃料の量だけを変えるとしよう。魔法で火勢まで足せば、何が結果を変えたのか分からんからな。
一度に変える条件は一つ。それが実験の基本だ!」
言うなり、彼は荷を背負った。
「以前の記録と比較せねばならんな。二人とも来たまえ! 我輩の研究所へ案内しよう!」
※※※※※
研究所と呼ばれた場所は、火口から少し下った山腹の洞穴だった。
入口だけを見れば、岩の割れ目へ人が住み着いただけに見える。
だが、中へ入ると印象が変わった。
奥へ一本道ではない。
途中で二方向へ分かれ、片方は別の裂け目から外へ続いている。
天井付近にも細い穴がいくつか開いていて、そこを通る風に吊るされた布切れが揺れていた。
「古い試し掘りの坑道だ。今は我輩が使わせてもらっている。
奥の下り道の先には行くな。毒気が溜まっておるからな!」
(なんて言ってんだ?)
(洞穴の奥には毒気があると)
(なんでそんなとこに住んでんだよ。正気か!?)
火を扱う場所と寝床の間には、厚い岩壁まで残されていた。
壁際の棚には、岩石や焦げた木片が整然と並んでいる。
同じ長さで太さだけが違う鉄管。
穴の大きさだけが異なる石板。
ひび割れた鉄の球。
黒く潰れた鍋。
どれも用途は一見して分からない。
奇妙ではあるが、無意味に集められた物は一つもないように見えた。
鳥籠を床の低い位置へ置き、小鳥が普段どおり止まり木を掴んでいることを確認してから、エオリパイルはようやく嘴型の面を外した。
四十か五十ほどの男だった。
仮面の縁が当たっていた頬には、赤い跡が残っている。
彫りの深い顔立ちに鋭い目つき。人を寄せつけない偏屈さを思わせる風貌だ。
だが、
「我輩の研究所へようこそ! 歓迎しよう、盛大にな!」
大仰な仕草で私たちを迎え入れる態度には、確かに歓迎の意思がうかがえる。
何故、ここまで歓迎されるのかは分からないが。
(なるほど。隠れ家的秘密基地で、このテンション……そういうタイプか)
そして、理解できない納得を得ている者がもう一人。
イズミールが私の手を取った。
(こいつは古のオタクだ。俺たちを火山マニア、同好の士だと思って喜んでるんだろ)
(分からない)
(道具いじってるとこはギュゲスに近いけど、やっぱ違うな)
ギュゲスは、イズミールの突飛な思いつきを理解し、形にすることに長けた人物だ。
(どう違う?)
(ギュゲスはさ、困ったことがあって、それをどうにかするために道具を作るだろ。
こいつはたぶん逆だ。先に変なことを試して、何に使えるかを後から探すタイプ)
壁の棚には、同じ形を少しずつ変えた器具がいくつもある。
一度作って終わりではない。
何かが起きるたび、次を作ったのだろう。
(現場担当ってよりは、発明家とか科学者寄りだな)
(それは褒めているのか?)
(まあ、半分くらいはな)
イズミールがエオリパイルを見る。
その目には、先ほどまでとは違う興味があった。
(こいつの話、ちゃんと聞いた方がよさそうだ。たぶん、色々記録してるぞ)
(そうだな)
エオリパイルは、棚から記録板を何枚も引き出していた。
日付と天候、風向きだけでなく、事細かな観測結果まで書き込まれているようだった。
(とりあえず、喋った内容、全部そのまんま寄越せ)
(承知した)
「さて! アイオロス殿とシズメル殿にも、我輩の研究成果を余すところなく見せよう!」
聞いた内容を、そのまま繋いだ手からイズミールへ伝えることにした。
早速、彼女が指を強く握り返してきた。
(……待て)
(どうした)
(俺、シズメルなんて呼ばれてたのか?)
(ああ。私のことはアイオロスと)
(なんで二人とも、微妙に本名の方にニアピンなんだよ! 訂正しろよ、馬鹿!)
(もうした)
(したの!?)
(二度)
(直ってねえじゃねえか!)
「エオリパイル殿」
「何だ、アイオロス殿!」
「アルトリウスだ。こちらはイズミ」
「うむ、分かっておる!」
大きく頷いた。
「ではアイオロス殿、こちらを見たまえ!」
訂正した直後だった。
言葉どおり伝えると、イズミールが頭を抱えた。
(もういい。たぶん、こいつそういう生き物だ)
(諦めるのか)
(興味のないことには、とことん関心がねえ奴だろ、こいつ)
少し考えて、付け足す。
(俺らのことは、まだ言うなよ)
エオリパイルは私たちの返事を待たず、記録板を見えるように並べ始めた。
(俺が精霊だってことも、あの火の奴の声が聞こえたこともだ。
水の精霊だなんて知られたら、次は俺を変な容器に入れようとしてくるかもしんねえ)
(否定しきれない)
(だろ?)
私としても、その方針に異存はない。
何よりも、妻に必要以上の関心を向けられるのは、気分のよい話ではなかった。
「先ほどの火精霊について聞きたい」
私が言うと、エオリパイルの顔が輝いた。
「オプロンティスのことか!」
聞き慣れない名だった。
「それが、あの精霊の名か」
「然り! 我輩の契約精霊であり、共同研究者でもある!」
精霊との関わりにおける名の重要性は、サルディスに聞いていた。
軽々しく教えて構わないのかと思ったが、イズミールは別の懸念を抱いたようだ。
(……なあ。こいつ、俺ら二人の名前すら覚えられねえんだぞ)
言いたいことは分かった。
(精霊の名も間違えていると?)
(そもそも、言葉も通じてなさそうだったじゃねえか)
確かに。
「その名で間違いないのか」
念のため尋ねる。
エオリパイルは、何故そんなことを聞くのか分からないとでも言いたげな顔をした。
「契約相手の名を間違えるはずがあるまい!」
(全っ然、信用ならねえ……)
イズミールの疑念はもっともだった。
「どのように契約した?」
「話せば少々長くなるぞ!」
(しょうがねえ、全部聞く)
「構わない」
「あれは我輩が、とある軍に属していた頃のことだ!」
正式な契約以前にも、炎の揺れや熱を介して、言葉にならない意思だけは伝わってきたらしい。
何度も呼びかけと応答を試すうち、エオリパイルが読み取ったのは、山腹のある場所と、火を焚くべき時刻だった。
夜半から空が白む前まで、同じ場所で篝火を絶やさない。
刻限が過ぎたら呼びかけと薪を足すのをやめ、燃え尽きるまで見届ける。
それを幾日も続けたという。
「我輩は呼び続け、待ち続けた! 雨の日には火を守る覆いまで作った。
ひと月近く続けた最後の夜、呼ぶより先に向こうから姿を現したのだ!」
その時、火精霊は初めて自らの名を明かした。
エオリパイルは、名を教えられたことで繋がりを得て、その精霊の火を借りられるようになったのだという。
「戦う以外の火の使い道を探る我輩へ、向こうも並々ならぬ興味を抱いたのであろう!」
それはエオリパイルの解釈にすぎない。
少なくとも、先ほどの再会からは判断できなかった。
ただ、当初は精霊の側から関係を結んだことだけは確かなようである。
「今は、契約を解かれたのか」
「解かれてはおらん! 共同研究を休止しているだけだ!」
(信用ならねえ……。本人に聞くまで保留だな)
「では、何故今は応じない」
「それは研究方針の相違だ!」
「具体的には?」
「うむ!」
エオリパイルが立ち上がった。
「すべては、これから始まった!」
壁に掛けられていた、黒く歪んだ鍋を両手で持ち上げる。
※※※※※
鍋は底が大きく歪み、縁の一部が外側へめくれていた。
「我輩はある日、この鍋を地面へ、こう伏せたのだ!」
鍋を逆さまに置く。
「そして、その中で小さな爆発を起こした!」
(なんで?)
イズミールの疑問を私も抱いた。
「何故そんなことを?」
「試してみたかったからだ!」
答えになっているようで、なっていない。
「すると――飛んだ!」
エオリパイルが両手を上へ広げる。
「鍋がな! とてつもない速さで天高く飛んだのだ!」
(おいおい、こいつぶっ飛んでるぞ)
(飛んだのは鍋だと言っている)
(飛んでるのはそこだけじゃねえって話だよ)
「そこで我輩は考えた。開けた場所で爆ぜれば、力は四方へ散る。
だが囲えば、その力を物へ渡せる! この鍋はそれを受け取って、飛ぶ力とした!」
(……面白え奴)
イズミールの反応は早かった。
「ならば、囲う物と出口を変えれば、働く向きも変わる。一度に二つ変えれば原因が分からん。
対象を木材に変え、次に形を変え、また次に出口を変える。一つずつ試していった!」
裂けた木材は、内側を刳り抜いて火を起こしたもの。
木目に沿って割れたため、次は同じ長さの鉄管へ変えた。
片側を塞ぎ、もう片側だけを開ければ、炎と熱い気が一方向へ噴き出した。
「こうすれば、火に上昇以外の向きを与えられる!」
今度は、小さな金属容器を取り出す。
底には白いものがこびりつき、蓋が大きく歪んでいた。
「これは?」
「中に水を入れて熱した。熱くなるだけならば当たり前だ。だが、硬く閉じれば――」
エオリパイルは歪んだ蓋を叩いた。
「蓋を歪ませるほど爆ぜた!」
イズミールが急に静かになった。
(どうした)
(いや。続けさせろ)
私は黙って話を聞く。
「火は水を熱する。だが、それだけではない!
火は水から、流れるだけではない働きを引き出したのだ!」
エオリパイルは楽しそうだった。
(……蒸気か。ちゃんと使えりゃ、色々動かせそうだな)
(色々とは?)
(まだ分かんねえ。だから、こいつは試してんだろ)
イズミールの視線は器具から離れない。
研究の発想そのものは、彼女の興味を引いているらしい。
だが、実験はそこで終わらなかった。
「ならば、もっと頑丈な器ならば? もっと狭ければ? もっと強い火ならば? 我輩はそう考えた」
管よりも硬く、出口のない鉄球。
さらに、一抱えもある岩の内部。
「自然ならば、鉄や石の内側に炎など生じぬ。
だが、火種がなくとも、火精霊の力を借りれば、内部へ働きを集めることも可能!
その時、そこに何が起こるのか! 分かるかね!」
(待て待て。それを精霊にやらせたの!?)
(そのようだ)
本来なら陽相の火が生じる余地のない、狭く閉ざされた場所。
そこへ、契約した精霊の働きを何度も呼び込んだらしい。
鉄球は歪み、岩は内側から砕けた。
実験そのものは、無計画ではなかった。
人を遠ざけ、破片が飛ぶ方向へ土壁を築き、失敗すれば記録して対策を練っている。
少なくとも、物理的な危険については。
「では、何故軍を追われた」
「許可を得る前に試し、武具と実験場をいくつか壊し、出動要請や訓練を後回しにしたからであろう!」
十分な理由だった。
(軍からすりゃ、戦力として雇った奴がペットボトルロケット飛ばしてんだもんな……)
「精霊は、何も言わなかったのか」
「途中から反応が変わった!」
エオリパイルが別の木板を取り出した。
「まず、鉄管の中で火勢が乱れるようになった。よって管が狭すぎると判断し、太くした!」
(違う、そうじゃない)
「次に、実験途中で火を消すようになった!」
「それで?」
「燃料が合わぬと考え、種類を変えた!
だが、そのうち器具そのものを焼き切るようになった!」
(なんだこいつ、メンタル無敵か?)
「それでも続けたのか」
「無論だ。強度が不足しておったのだろう!」
(だから違うって! 気づけよ! ストライキだろ、それ!)
「そして最終的に、呼びかけてもほとんど応答しなくなった」
「……それを、どう判断した?」
「条件の再検討だ!」
エオリパイルは胸を張った。
「反応が悪化する以上、こちらの条件に何か不足がある!
ならば一つずつ変えて試すしかあるまい!」
イズミールが、長い間黙った。
(こいつ、火の使い方は分かってるけど、火の奴を分かろうとはしてねえんだな)
その言葉には、先ほどまでの面白がる色がなかった。
私も同感だった。
「一つ聞きたい」
「何だ!」
「実験を変えるたび、その精霊へ内容を説明したのか」
エオリパイルが首を傾げた。
「何故だ?」
本当に、問いの意味が分からないらしい。
「我輩は契約を交わした。火の働きを借りる許可は得ておる」
「契約した時、鍋の実験は考えていたのか」
「いや!」
「鉄球は」
「無論まだだ!」
「岩の中へ火を生じさせることは」
「思いついておれば、もっと早く試しておる!」
迷いなく答える。
「ならば、その精霊は知らない実験まで受け入れたことにはならないのではないか」
エオリパイルが止まった。
初めて、返事までに間があった。
「……用途を変えるたびに、契約を結び直せということか?」
「そこまでは言っていない」
返事のない沈黙へ、自分に都合のよい意味を与える危うさなら、私も知っている。
それが善意や崇敬から生じたものであろうとも、相手の望みにかなうとは限らない。
私とイズミールがそうであったように。
「応じた実験もあったぞ」
「応じたことと、相手がそれを望んで受けたことは同じなのか」
エオリパイルは沈黙した。
(そうだそうだ。定額使い放題サービスじゃねえんだぞ)
(ていがく……?)
(今はいい。けど、そりゃ嫌われるわ、こいつ)
エオリパイルは、やがて別の記録板へ炭筆を走らせた。
「契約成立後に生じた用途については、その都度、許諾の範囲を確かめる必要がある……。
なるほど。以後、条件の一つとして確認しておこう!」
反省したというより、新しい仮説を得た顔だった。
それでも、考える項目にすら入っていなかったものが、一つ増えた。
(こいつ、絶対分かってねえ)
(少しは考え始めたようだ)
(そこからかよ……)
だが、まだ一つ残っている。
「以前は、今日より小さな火でも長く姿を保ったと言っていたな」
「うむ。こちらだ!」
エオリパイルは積み重ねた記録から、古い一枚を迷わず抜き出した。
精霊がほとんど応じなくなりはじめてから、小さな篝火へ姿を現した時の記録だという。
「我輩が器具を持っていくと、火の中から鉄管を放り出された!
木の器具など、その場ですべて燃やされたぞ!」
(ガチで拒否ってんじゃねえか! よくそれで共同研究者とか言ってたな、おい)
だが、今見るべきはそこではなかった。
当時の火は、今日の火柱より遥かに小さなものだった。
精霊は既にエオリパイルへ強い拒絶を示していた。
それでも、自分の意思で器具を投げ、薪が一本燃え尽きるほど姿を保ち、最後には自ら消えることができた。
今日は違う。
まだ拒絶の言葉を伝えようとしている途中で、形を失った。
イズミールの指が、私の手を握り直した。
(あいつがこのマッド野郎を嫌ってんの、だいたいこいつの自業自得だろ)
(だが、それだけではない)
(ああ。今日は、こいつを追い払うこともできなかった)
あれほど激しく燃え盛る火柱の中でさえ、精霊は姿を保てなかった。
(よし、検証だ。まずは一個、条件を外すぞ)
(何をだ)
(エオリパイル。
こいつが言ってたろ。何が原因か分かんなきゃ、条件を一個ずつ変えるって)
なるほど。
(確執の当事者を外すのか)
(合理的だろ。場所も、燃えてる火も同じだ。まずは一番でかい条件から外す)
イズミールが、少しだけ笑った。
(それに、こいつがいたら何を聞いても「帰れ」になる)
返す言葉もないほどの正論だった。
※※※※※
日が傾いてからも、エオリパイルは明日の試験について考え続けていた。
「次は同じ孔で、油の量だけを半分にする。樽も火種も同じ物を使う。
変えるのは一つだけだ。これで火勢と顕在時間の関係が――」
話しながら記録をまとめ、鳥籠を安全な位置へ移し、二つの出口を確かめる。
やがて外は暗くなった。
二つの月が山の向こうへ昇る頃になって、ようやくエオリパイルの動きが鈍くなる。
彼はあくまでも普通の人間だ。
食事を取り、水を飲み、眠らなければ身体が持たない。
明日の器具を確認すると、外套を丸めて頭の下へ置いた。
「では二人とも、夜は冷える! 毛布や場所は好きなように使いたまえ!」
そう言って横になり、間もなく寝息を立て始めた。
イズミールが私の手を握った。
(寝たな?)
(ああ)
私たちに眠りは必要ない。
本来なら夜まで待つ必要もなかった。
待ったのは、エオリパイルに引き留められないようにするためだ。
洞穴の外へ出る。
すぐには山頂へ向かわず、入口の灯りが岩陰へ完全に隠れるところまで斜面を進んだ。
振り返っても、洞穴はもう見えない。
夜の山は冷えていた。
遠く、火口の方角だけが赤く明るい。
先ほど残してきた火柱が、まだ燃えているのだろう。
そこでイズミールが、私の手を離した。
ふわりと身体が宙へ浮く。
茶色に変えていた髪が水色へ戻り、お団子に丸めていた枝角と、編み込みに見せていたヒレがほどけていく。
旅装も、水の羽衣と装束へ戻っていった。
女神の姿へ戻ったイズミールが、山頂を見上げる。
同じ場所。
同じ火。
違うのは、あの男がいないことだけだ。
『飛び込み営業、リベンジだ。覚悟はいいか、木こり野郎』
「ああ、行こう」




