EX(119.3).『復世巡行記・火の眠る山』③ ◇★
翌朝、まだ町が本格的に動き出す前に、私たちはスタビアエを出た。
昨夜の地鳴りで目立った被害が出た様子はなかった。
通りでは早くも鍛冶場の煙が上がり始めていた。
町にとっては、騒ぎ立てるほどのことではないのだろう。
宿を出るときに、宿の主人に「昨夜はお盛んだったな」などと、下世話な冗談を言われたほどだ。
だからこそ、私たちは確かめる必要があった。
町の者が「山が戻っている」と呼ぶ変化が、本当に元へ戻る途中なのか。それとも、別の何かなのか。
『昨日より煙減ってねえ?』
町が見えなくなる頃には周囲に人影もなくなり、イズミールは声に出して言った。
彼女の視線は山頂へ向いている。
白灰色の噴煙は、昨日より細く見えた。
「風向きのせいかもしれない」
『だといいけどな』
イズミールはそう言って、道端へ目を移した。
山へ向かう道は、麓のうちは人の手が入っている。
坑道へ向かう荷車の轍、鉱夫の足跡、道端の杭。
杭は道標ではなく、危険な場所を見分けるためのものらしい。
中には折れた杭を少し離れた場所へ打ち直した跡もある。
杭の内側だけ草が枯れている場所もあれば、逆に古い印の中へ新しい草が戻っている場所もあった。
『これ、入るな危険ってことだよな? 文盲にも優しいユニバーサルデザインってやつだ』
何を言っているのかは分からなかったが、意味はおおよそ分かった。
危険が消えた場所と、新しく危険になった場所。
人はそれを一つずつ覚え、印を付け替えながら、この山へ入り続けてきたのだろう。
岩肌が黄色や白に変色した場所には、古い杭と新しい杭が入り混じって立っている。
縄まで張られている場所もあった。
「スタビアエの者たちは、山との距離を測りながら暮らしてきたようだな」
イズミールは杭の向こうを覗き込んだ。
岩の裂け目から白い噴気が上がっている。
少し離れた場所には、同じように変色しているのに何も出ていない孔があった。
イズミールはまず、噴気の出ている方へ手を近づけた。
「近づきすぎるな」
『俺は水だぞ』
「知っている」
『水に熱いから気をつけろって言ってどうすんだよ』
「君だから言っている」
『……こんなのどうってことねえよ、ばか』
文句を言いながらも、彼女は直接手を突っ込まず、噴気の端へ指先だけを差し入れた。
『んー、熱はあるっぽいな』
「火精霊は?」
『俺が知るか。今から聞く』
彼女は白い噴気へ向かって声を張った。
『おーい。火の精霊、いるなら返事しろー』
返ってきたのは、噴気の音だけだった。
『……シカトかよ』
「すべての火に精霊が現れるわけではないのだったな」
『分かってる。どこなら返事すんのか試してんだよ』
彼女は頬を膨らませ、次へ向かった。
少し登った場所には、同じように黄色く変色しながら、まったく煙を吐いていない穴があった。
イズミールはその縁へしゃがみ込んで、指先から、糸ほどの細い水を流した。
水は岩の亀裂を伝い、暗い穴へ消えていく。
しばらくして彼女が眉を寄せた。
『……お、下で沸いた』
「ここは熱くないように見えるが」
『ここの表面は、そんな熱くねえ。でも、もっと下まで入ったら一気にブクブクいった』
「下には熱があるのか」
『ある。なのに、ここから何も出てねえ』
イズミールは穴の奥へ向かって、
『おーい』
もう一度呼びかける。
やはり返事はない。
『おいこら、火きこもり。出勤拒否かこの野郎』
段々、腹が立ってきたのか、訳の分からない呼びかけをはじめ、しまいには私に松明を灯すよう言ってきた。
私は荷から松明を取り出し、火をつける。
炎はついたが、細く、不安定に揺れている。
イズミールが顔をしかめながら、炎に向かって呼びかけた。
だが、結果は同じだった。
『ただの火じゃ呼び出せねえのか。マグマの底にでも引きこもってんのかよ』
不機嫌そうに言いながらも、彼女は炎から目を離さなかった。
出てこないこと自体が、少しずつ気になり始めているのだろう。
「このまま消さずに持って行こう」
『だな。観察対象だ。いきなり早口で喋り出すかもしんねえ』
「何故、早口だと?」
『陰キャってのはそういうもんだからだ』
私は松明を手に、さらに山を登った。
※※※※※
中腹を越える頃には、人の痕跡は目に見えて減っていった。
鉱夫の足跡も、危険を知らせる杭もない。
足元には赤茶けた礫と黒い岩だけが続いている。
イズミールが周囲を見回した。
『もう誰もいねえよな』
「おそらく」
『じゃ、飛ぶわ。歩くのめんど――』
彼女の踵が浮きかけた瞬間、私は腰へ腕を回して彼女を抱き寄せた。
『ぶっ――』
イズミールの顔が私の胸へぶつかった。
『何すんだよ!』
(人がいる)
身体を接触させたまま伝える。
イズミールの動きが止まった。
(げっ……どこだ)
(風下だ、まだ姿は見えない)
かつかつ、と石を突く音。
風にはためく布の音。
小さな金属音。
そして、小鳥のさえずり。
やがて岩陰から、白い人影が現れた。
(……何だあれ)
最初に目に入ったのは、頭部だった。
顔全体を覆う白い仮面。
鼻先が異様に長い。
鳥の嘴のように前方へ突き出している。
その下には、頭から足元近くまで覆う分厚い白い外套。
裾だけは泥や煤で黒ずんでいた。
両手には長い木の棒を一本ずつ。
腰からは、小さな鳥籠を提げている。
籠の中では、小鳥が止まり木の上で身体を揺らしていた。
(何だよこいつ。火の山限定ご当地キャラか?)
(人だ)
(見りゃ分かるわ! なんなんだよあの格好!)
異様な風体なのは間違いない。
だが、二本の棒は武器として構えているのではない。
一歩ごとに地面を突き、岩を叩き、足場を選びながら歩いている。
少なくとも、身のこなしも武芸者のそれとは違う。
「――そこの二人!」
仮面越しの声は、ひどくくぐもっていたが、男のものだった。
「そこに留まらぬ方がよい。先日の雨で、山肌が緩んでおる。こちらへ来たまえ!」
男は岩盤が露出した場所を示した。
足元は乾いているように見える。
だがよく見れば、細い亀裂の奥だけ色が濃い。
砕けた小石の下には、まだ湿りが残っているようだった。
男は棒を突き刺した。
先端が予想より深く沈む。
「見た目ほど固くない。上だけ乾いておる」
そう言って自分から先に、安全だと言った岩盤へ移った。
私はイズミールの背へ手を添え、その後を追う。
だが、三人が場所を移しても、斜面が崩れることはなかった。
(何も起きねえじゃん)
イズミールがそう伝えてきた直後だった。
上の方から、硬い音がした。
人の頭ほどある黒い岩が一つ、斜面を跳ねながら転がり落ちてきた。
落ちてくる途中で別の岩へぶつかり、大きく跳ね、軌道が変わった。
先ほどまで私たちが立っていた場所へ落ち、砕けた石を巻き込みながら、さらに下へ転がっていく。
斜面そのものは崩れなかったが、あそこに残っていれば砕くか避ける必要があった。
男は得意げにするでもなく、上を見て次の落石がないことを確かめた。
落石まで予知したわけではないのだろう。
だが、何か起きても被害を受けにくい場所を選んだのだ。
「助かった。礼を言う」
「何、構わんとも!」
男は胸を張った。
「山は昨日と今日で道が違う! 昨日通れた場所が、今日も安全とは限らんからな!」
それから、私たちを見た。
「しかし珍しいものだな。若い夫婦連れがこんなところまで来るとは」
「アルトリウスだ。こちらは妻のイズミ」
「ほう! アイオロス殿とシズメル殿か!」
違う。
「アルトリウスとイズミだ」
「しかし、シズメル殿のその恰好は、山歩きには不向きであるぞ!」
聞き違えたうえに、訂正も聞いていないらしい。
人の話を聞かない手合いのようだ。
「私もそう思う」
だが、呼び名の誤りを訂正するよりも、思わずその言葉に同意してしまった。
だから、人目を惹き過ぎると言ったのだ。
(おい、何の話だ)
(名前が聞き取りづらいらしい)
(なら、あのヘンテコマスクを取れよ、何なんだこいつ)
「我輩はエオリパイル! 火と、その働きを研究する者である!」
私は改めて、彼の姿を見る。
怪しさは増した。
※※※※※
「貴殿らは物見遊山にしては、実に目の付け所がよい!」
エオリパイルは、こちらが頼んでもいないのに話し続けた。
「この山の見どころは頂の噴煙だけではない! 遠くから眺めるだけでは、その良さは分からんのだ。
岩の色、噴気の出方、熱の通り道! どれも面白い! 山というものは、見れば見るほど昨日までと違う顔を出す!
今はまさに大きな節目を迎えようとしているのに、町の者は煙の多寡や、湯の温度にばかり気を取られておる!」
イズミールが私の腕へ触れた。
(何言ってんのかわかんねえけど、今の絶対早口だろ。なんかのうんちく並べ立ててんだろ、なあ)
(概ねその通りだ……)
(全部は訳さなくていい、要点だけ教えろ)
(わかった)
イズミールが一言も話さないことについても、エオリパイルは大して気にしなかった。
興味の赴くままに喋り、行動し、他人に対しては良くも悪くも雑に対応する。
「あなたは、この山へよく来るのか」
「無論! 何度登ったか分からん。黒禍が蔓延る前から来ておる!」
「火の精霊を探しているのか?」
嘴がこちらを向いた。
「ほう。アイオロス殿も興味がおありか!」
「妻が会いたがっている」
イズミールの指が、私の腕を強く抓った。
(何で俺をダシにすんだよ)
(事実だ)
(そうだけどよ)
「結構!」
エオリパイルは勢いよく頷く。
「我輩も今日は、古い共同研究者との研究再開のために来た!」
「共同研究者とは?」
「我輩と契約を交わした火の精霊だ!」
昨日、鍛冶場で聞いた話を思い出す。
黒禍が広がっていた頃、この山へ火の精霊を求めて登った魔術師たちがいたという。
「あなたも、黒禍と戦うために火の力を?」
「軍の雇われだった頃は、それを求められた!」
黒禍との戦いにおいて、魔術師は切り札と言っていい。
軍属だったこと自体は驚くべきことではない。
だが、この人物は少々事情が異なりそうだ。
エオリパイルは片方の棒を肩に乗せる。
「火球、火炎、爆破。焼いた、吹き飛ばした、何体倒した。皆そこばかりを見る」
仮面の奥から、鼻を鳴らすような音がした。
「発想が貧しい!」
声が大きくなり、もう片方の棒を振り上げた。
「火を加えれば、水は沸き、金属は形を変え、土は器となり、木は炭となる!」
彼の言葉を伝えるうちに、イズミールの表情が少し変わった。
(……こいつ、言ってること自体は面白いぞ)
(そうなのか)
(本人はめちゃくちゃ怪しいけどな)
「火は自らの仕事をするだけではない! 他のものへ、それまで出来なかった別の仕事をさせる。それが面白いのだ!」
よくよく言葉を聞けば、突飛なだけではなく、筋が通っていた。
だが、黒禍の時代、火を扱う者がまず考えたのは、敵を焼くことだったはずだ。
私自身、黒禍との戦いで、火が使われるのを何度も見てきた。
一歩間違えば、それは敵だけでなく森や町まで焼く。
だがこの男は、同じ火を見て別のものを考えたらしい。
「その研究を、軍で?」
「しておった!」
「許可は?」
「結果を出せば許可など後からついてくる!」
なるほど。
軍を辞めた理由も、少しだけ見えた気がした。
「……ついてこなかったのか」
「うむ!」
そこを誇らしげに肯定する意味は分からない。
(こいつ、絶対命令無視して変なもん作ってたぞ)
イズミールの判断に、私も反論できなかった。
「契約していた精霊は、今も協力しているのか」
「そこが問題でな!」
まったく問題だと思っていない声で言う。
「研究方針の相違から、しばらく応答を控えておる!」
「方針の相違とは……?」
「我輩は継続試験を望んだ。向こうは途中から応答を減らした。よって条件の再検討に入ったと判断した!」
(それ、逃げられただけじゃねえの?)
イズミールの疑念はもっともだった。
「どれほど応答がない?」
「さて、何年になるか」
「……」
「向こうにも考える時間が必要だったのであろう!」
火精霊にとって顕現していない時間が、人と同じように感じられるのかは分からない。
いずれにしても、エオリパイル側から関係を終えたつもりはないらしい。
「今日は話をしに?」
「話だけではない。条件を変えて試す!」
エオリパイルは山頂を指した。
「火の働きについて、まだ試していないことが山ほどある。相手も火なのだ。条件が整えば、また応じる!」
その言い方には、恨みがましさも、拒まれているという自覚も感じられない。
ただ本気で、まだ研究の続きがあると思っているらしい。
「これから火口で顕在化試験を行う!」
言うなり先へ行こうとする。
私とイズミールは顔を見合わせた。
(行くぞ)
(ああ)
「エオリパイル殿」
「何だね!」
「同行してもよいだろうか」
「無論! 観測者は多い方がよい!」
許可は驚くほどあっさり得られた。
こちらの目的を詳しく聞こうともしない。観測者が増える、という一点だけで十分らしい。
警戒心が薄いというより、夢中になると興味の向く先が徹底してぶれない。
そういうところは、隣にいる妻と少し似ていると思った。
※※※※※
山頂へ近づくにつれ、エオリパイルの奇妙な装いには、一つとして飾りがないことが分かってきた。
二本の棒で地面と岩を確かめる。
噴気の濃い場所へ入る前には、嘴型の面の詰め物を交換する。
白い外套は、強い日差しだけでなく、焼けた岩肌から返る熱を防ぐためのものらしい。
谷状の窪地へ入りかけた時には、腰の鳥籠の小鳥が急に羽をばたつかせた。
エオリパイルは即座に足を止めた。
「戻る」
迷いはなかった。
少し高い場所まで引き返し、別の斜面を選ぶ。
鳥が再び鳴き始めてから先へ進んだ。
奇人ではある。
だが、山で何を恐れるべきかは知っている。
その後も、彼は何度か道を変えた。
岩の色を見て足を止め、風を待ち、噴気の匂いが濃くなるとこちらを手で制する。
嘴の仮面も、白い外套も、鳥籠も、最初に遠目で見た時ほど不気味には思えなくなっていた。
奇妙なのは装備ではない。
それを身につけた本人の方だ。
やがて斜面が途切れ、巨大な窪みが眼下に現れた。
火口だった。
大地を椀で抉ったようなすり鉢状の地形。
底の大半は黒い岩に覆われ、亀裂の奥だけが暗く赤く光っている。
もっと炉のような場所だと想像していた。
イズミールも同じように感じたらしい。
(なんか……思ったよりショボくね?)
火口から吹き上がる風は熱い。
だが、近づくだけで焼けるほどではない。
煙も少ない。
ところどころで細い白煙が立つものの、火口全体が煮え立っているような景色ではない。
むしろ、黒く固まった岩の面積の方が圧倒的に広い。
足元からは、ごく小さな震えが絶えず伝わってくる。
遠くで何かが割れるような低い音もした。
見た目だけなら、昨日町で聞いた話ほど活発な山には思えない。
だが、その下では何かが動いている。
エオリパイルがこちらへ背を向けて先の足場を確かめている。
私はその視線を遮るように位置を変えた。
その陰で、イズミールは指先から細い水を岩の亀裂へ流した。
すぐに私の手へ触れる。
(下の方はかなり熱くなってんな。なのに、上へ全然抜けてねえ)
(塞がっているのか)
(分かんねえ。蓋になるようなデカい岩があるとかじゃなさそうだが)
まだ断定はできない。
私たちはまだ、この山が本来どうあるべきなのかを知らない。
「こちらだ!」
私たちはエオリパイルの案内で火口内部へ下りた。
やがて、彼は岩場に出来た亀裂の手前で止まった。
周囲の岩は白と黄色に変色している。
古くから噴気を吐いていた痕跡だろう。
だが、今は何も出ていない。
「あれだ」
エオリパイルが満足そうに言った。
「昔は、あの孔もよく煙を吐いておった」
「今は止まっているようだが」
「うむ! そこに我輩が一石を投じようと言うのだ!」
それから風向きを確認し、鳥籠を風上の岩陰へ移した。
「二人とも、あの白い石より前へ出るな。シズメル殿は何かを羽織った方が良い」
「わかった。イズミ、こちらへ」
彼女の衣服は、身体同様に水で出来ている。
予備の服などないので、抱き寄せて私の外套で包んだ。
(おい、なんだよ。何する気だ。まだ真昼間だぞ)
例によってイズミールは嫌がったが、エオリパイルは気にも留めない。
私たちは夫婦なのだから、これでいい。
見ると、岩には古い白線が残っていた。
以前にもここで同じことをしたらしい。
エオリパイルは荷から小さな木樽を取り出した。
中には油を染み込ませた木片と布が詰まっている。
「何をする気だ?」
「この孔から出る噴気は、火をつけると短い間なら強く燃える。昔からそうだ。
以前は常に噴気が上がっていたが、今は止まっておる。だから条件をこちらで作る」
彼は孔の周囲をもう一度調べ、火口縁へ戻る道を確認する。
風向きを確かめ、岩陰に以前から置いてあるらしい分厚い木板を引き出し、私たちの傍へ置いた。
「アイオロス殿、シズメル殿、そこから顔を出さぬようにな」
危険への備えは細やかなようだ。
相変わらず、私たちの名前は間違えたままだが。
「危険ではないのか」
「危険だから離れさせたのだ!」
エオリパイルは木樽を持ち上げた。
「では始めよう!」
イズミールが私の腕を掴んだ。
(なあ、これ本当に見てて平気なやつか? 嫌な予感しかしねえんだけど)
(本人はそう判断している)
(そいつが一番信用ならねえんだよ)
もっともだった。
だが、火精霊を呼べる可能性がある以上、ここで止める理由もなかった。
エオリパイルは樽の蓋をずらし、油を染み込ませた布の端へ火を移すと、亀裂の上へ置いた。
それから、私たちと同じところまで駆け戻ってくると、木板の陰に隠れた。
「目に見える噴気は止まっておるが、燃える気そのものはまだ僅かに出ている。
種火があれば、じきに孔の中にまで火が回る。少し大きな音が出るぞ」
(お、おい、いいのかこれ。マジでここにいて平気なのか?)
(大きく燃え広がるようなら、彼を頼む)
(お、おう)
私はイズミールを抱き締め、岩陰に身を潜めた。
しばらくは何も起こらなかった。
(なんだよ、何にも――)
だが、しゅうしゅうと気の抜けるような音が響いた後。
轟と、腹へ響く低い音。
そして猛烈な火柱が噴き上がり、熱波が押し寄せてきた。
『ぎゃああああ!?』
私の腕の中でイズミールが悲鳴を上げる。
炎はここまでは届かない。
エオリパイルの予想の範囲内なのだろう。
だが、人の身なら、思わず身を竦めるほどの熱と衝撃のはずだ。
だというのに、エオリパイルは叫びながら、板の陰から立ち上がった。
「我輩だ!」
彼は火柱へ向かって、何者かの名らしき音を叫んだが、聞き取れなかった。
続けて、
「さあ、研究を再開しようではないか!」
『な、何してくれてんだ、あのクソボケぇ!?』
私の外套の中から顔を出し、イズミールが涙目で抗議した。
その声が途中で止まった。
火柱の形が変わった。
風で揺れたのではない。
炎の一部が、逆らうように内側へ集まっていく。
白い光が二つ。
目。
そう認識した瞬間、その下に顔らしき輪郭が生まれた。
頭。
肩。
上半身。
炎そのものが、誰かの形を取ろうとしている。
炎の中に、誰かがいた。
「おお!」
エオリパイルが声を上げる。
「久しいな! 我輩だ!」
形の定まらないまま、炎の顔が、確かに彼を見た。
『――また貴様かッ!!』
明瞭な言葉だった。
イズミールの指が私の腕を掴む。彼女も聞いたのだろう。
一方、エオリパイルには、その声が聞き取れてはいないようだった。
「応じた! 我輩を覚えておるのだな!」
『まだ懲りぬのか!』
火精霊が怒鳴って、炎の腕でエオリパイルを指した。
『何故また来た!』
「ほら見ろ! 我輩を認識しておる!」
彼はただ嬉しそうだった。
火精霊の顔が歪んだように見えた。
表情と呼べるものなのかは分からない。
だが、怒っていることだけは分かった。
その視線が動く。
私。
次に、イズミール。
炎の目が彼女で止まった。
『……水?』
火精霊は何かを考えるように一瞬揺れ、それから急に身を乗り出した。
『そこの水!』
腕が彼女を指す。
次に私。
『水もどき!』
そして、再びエオリパイル。
『そやつを連れて帰れ!』
エオリパイルが大きく頷いた。
「素晴らしい! 三人とも認識できておる!」
『ええい! そやつを――』
そこで声が歪んだ。
火柱は燃え続けているが、人の形だけが崩れ始めた。
目が横へ流れ、顔の輪郭が炎へほどける。
こちらを指していた腕も、途中からただの火へ戻る。
『――連れて、失せ……』
まだ、何かを言おうとしていた。
しかし次に聞こえたのは、炎の爆ぜる音だけだった。
そして、誰かの気配が消えた。
後には、亀裂から勢いよく噴き出す火柱だけが残っている。
その火勢が妙に不自然に感じた。
炎が弱まったから姿を保てなくなったのではない。
形が崩れる前と後で、火の勢いはほとんど変わっていない。
炎は炎としてそこにある。
なのに、精霊は現れてすぐに姿を消した。
「やったぞ! 成功だ!」
横でエオリパイルが記録板を取り出す。
「応答した! 顕在化した! やはり、方法は間違っていなかった!」
嬉々として炭筆を走らせる。
「しかし短いな。以前は、もっと小さな火でも、もう少し長く姿を保ったものだが……。
火勢か? 噴気の質の違いか? 燃料にも好みが……?」
イズミールが私の手を取った。
(火、まだあるよな)
(ああ)
(陽相ってやつだよな。これ)
(そうだろう)
(さっきの奴、一瞬だけちゃんと出てきた。喋ったし、俺らも見えてた)
(ああ)
イズミールの視線が、燃え続ける火柱へ向く。
(でも、火は残ってんのに、あいつだけ消えた)
エオリパイルを見る。
彼は燃え続ける孔と記録板を交互に見ながら、一人で何かを呟いている。
(まぁ、あいつが嫌すぎて帰っただけって可能性もありそうだけど)
(それも否定はできない)
(だよな……俺でも帰るわ)
一拍。
(でも、帰ろうとして消えた感じじゃなかった)
その通りだった。
何かを伝えようとしていた途中で、形だけが先に崩れた。
以前なら、もっと長く姿を保った。
エオリパイル自身もそう言っている。
(……違う)
イズミールの思考がまとまる。
(ただ出てこねえんじゃない)
彼女は燃え続ける火柱を見据えた。
(出ても、出ていられねえんだ)
私も炎を見る。
昨日まで町の証言から推し量るしかなかった違和感を、今はこの目で見ている。
少なくとも、この山に火精霊がいないわけではない。
だが、何かが正常に働いていない。
エオリパイルは、そんな私たちの沈黙にも気づかず、嬉々として記録を続けている。
「次は燃料の量を変えるか……いや、我輩の魔法で火勢を足せば呼応して――」
イズミールが火柱を見る。
次にエオリパイルを見る。
もう一度、火柱を見る。
そして私の手を握り直した。
(なあ。それはそれとして――あいつ、めちゃくちゃ嫌われてねえ?)




