EX(119.2).『復世巡行記・火の眠る山』② ◇★
町は、遠くから眺めた時よりも煤けていた。
赤茶けた山肌を削る道を下り、ようやく辿り着いた町へ足を踏み入れて、最初にそう思った。
道には黒ずんだ鉱石を山と積んだ荷車が並んでいる。
荷車が通るたび、硬い車輪が乾いた道を削り、石と土の粉を巻き上げた。
通りを歩く者の多くは、槌やつるはしを担いだ男たちだった。
町のあちこちから金属を打つ高い音が絶えず響き、炉から上がる黒煙が、細い筋となって空へ伸びている。
建物の壁も屋根も、長年の煙に燻されたのか、どことなく黒い。
鉱山町スタビアエ。
火の山の麓にあり、山から鉱石を掘り出し、鉄を取り出し、鍛えることを生業とする町だ。
湯治で栄えた町でもなければ、物見遊山の旅人が訪れる場所でもない。
町の向こうには、ここへ来るまでずっと見えていた山が、さらに大きく聳えている。
頂から白灰色の煙が細くたなびいている。
この辺りでは、古くからヘルクラネウム山と呼ばれているらしい。
道中で聞いた話では、この土地の者にとってさえ、あの山の火口は人の立ち入る場所ではない。
溶岩が覗き、毒気を帯びた煙が絶えず噴き出す、神秘に属する領域。
そう聞けば、いかにも火の神や精霊が現れそうな場所ではある。
だが。
私の隣を歩くイズミールの関心は、今のところそちらにはなかった。
何気なく私の指先へ触れた手から、ずいぶんと浮ついた感情が流れ込んでくる。
(炭っ酸、しゅわしゅわ、温っ泉、あわあわ~)
子どもたちに唄ってやっている時のように、奇妙な抑揚までついている。
意識して聞かせているつもりはないのだろう。
普段は、私の前でこういう姿をあまり見せようとはしない。
山道を歩いていた時よりも、明らかに機嫌がいい。
火の精霊を探しに来たはずなのだが、どうやら彼女の中では、そちらと温泉は同程度に重要らしい。
本来なら仕事に集中するよう言うところなのだろう。
だが、可愛らしいので黙っておくことにした。
仕事の合間に楽しみがあって悪いことはない。
彼女にとっても、私にとっても。
私は何も言わず、町の中央に近い宿へ入った。
※※※※※
宿は通りに面した二階建ての石造りで、一階が食堂になっていた。
鉱夫や荷運びの商人が泊まるためか、調度に華やかさはない。 その代わり、壁も床も頑丈そうだった。
「一部屋でいいな?」
「ああ」
宿の主人は、私とイズミールを一度見比べただけで、当然のようにそう言った。
夫婦として旅をしているのだから当然のことだ。
今の私たちは、旅人アルトリウスと、異国生まれの女イズミ。
イズミールは偽装だと言い張るが、結魂を成した魂の番を妻と呼ぶことの何が問題なのか、私には未だによく分からないが、意見すると話が長くなるので、黙っている。
主人は帳面へ何かを書き付けながら、
「最近は客も戻ってきて助かってるよ。鉱山絡みの連中だけじゃなく、商人も増えた」
「鉄が売れているのか?」
「売れる売れる。聖地の方じゃまだまだ足りねえらしい。お陰でどこの工房も大忙しさ」
聖地ゴルディウムから始まった復世。
その恩恵は聖地と周辺都市だけに留まらず、こんな山間の町にまで届き始めているらしい。
「まあ、その辺は酒場にでも行けば誰かが勝手に喋るさ。部屋は二階だ」
主人が鍵を差し出し、ふと思い出したように付け足した。
「ああ。それと、夜中に、山が鳴ることがある」
「山が鳴る?」
「腹の底で石でも転がしてるみてえな音がする。最近は珍しくもねえ。
ま、ちょっと壁や床が揺れるくらいだ」
笑いながら、主人はイズミールを見て、口の端を上げた。
「ま、そんな美人の嫁さん連れてんなら好都合なんじゃねえのか?
夜中に寝台をギシギシ言わせたって、隣の奴は山が鳴ってると思うさ」
男が豪快に笑う。
イズミールは、当然その会話を理解していない。
ただ自分が見られたことだけ察したのか、小さく首を傾げた。
「……そうか」
「ははっ。若いってのはいいねえ」
機嫌よく笑いながら、主人は奥へ引っ込んでいった。
すぐに袖を引かれた。
(おい、今の何だ?)
イズミールが不審そうにこちらを見上げている。
どう伝えたものか少し考えたが、そのまま伝えることにした。
(夜、寝台を揺らしても、周囲には気づかれないそうだ)
数秒、動きが止まった。
意味を理解したらしい。
(くたばれ)
(私が言ったのではない)
やはり、睨まれた。
※※※※※
荷物を部屋へ置いた後、町の酒場へ向かった。
昼を少し過ぎた頃だったが、中には既に何人もの男がいた。
坑道から上がってきた者。 これから入る者。
余所から買い付けに来た商人。
職人らしき者。
店内には酒と汗と煤、それに焼けた油の匂いが混じっていた。
当然のように、イズミールへ視線が集まる。
顔や身体を無遠慮に眺める者もいる。
私はそんな男たちとイズミールの間に立った。
あまり威圧すると、また彼女に叱られてしまうのだが、気分の問題だ。
空いていた席へ座ると、イズミールがすぐにこちらへ手を伸ばした。
(炭酸水)
(忘れてはいない)
店の主人へ簡単な料理を頼み、そのついでとして尋ねた。
「この辺りに、泡の出る泉があると聞いた」
「ああ?」
主人は皿を拭く手を止めた。
「あるにはあるぞ」
「飲めるか?」
隣で、イズミールの指が私の手を少し強く掴んだ。
「あんなもん、飲む気か?」
思わぬ返答だった。
「どういうことだ」
「飲めたもんじゃねえよ。腹壊すくらいならまだ運がいい。獣だって飲まねえ」
私は期待に満ちた顔をしているイズミールを横目に見た。
触れたままの手へ、そのまま伝える。
(飲めないそうだ)
(……は?)
(人には毒らしい)
(はぁ!?)
店の主人は私たちの無言のやり取りには気づかず、続けた。
「今は飲める飲めない以前の話だが」
「何?」
「水じゃなくなってる」
意味が分からず、聞き返す。
「水ではない?」
「ありゃあ泥だよ、泥。煮えたぎった熱い泥」
今度は私も眉を寄せた。
「前は普通に水だった。飲めねえだけでな」
近くで酒を飲んでいた男が口を挟む。
「泡なら昔より派手になったぜ。ボコボコボコボコ、鍋みてえになってる」
念のため、イズミールにも伝える。
(泡は、以前より多いそうだ)
(マジで?!)
(ただし高温の泥水らしい)
(…………)
どうやら毒の熱湯までなら、まだ諦めていなかったらしい。
「少し前から急に熱くなってな。それから泥混じりになった。臭いも前より酷い」
「泥の前には色も変わってたぞ」
「そうそう。茶色いんだか赤いんだか」
別の男が鼻を摘まむ仕草をする。
「去年は白かったろ」
「いや、あそこは赤かった」
「そこは場所が違うっての」
男たちが勝手に言い合い始める。
「危険なのか?」
「目と鼻がついてりゃ分かる。わざわざ近づく馬鹿はいねえよ」
「いつ頃から変わった?」
「あの日の後から少しずつ、かねえ」
あの日。
この町が黄金から戻された日のことだろう。
黄金から戻された時期は土地によって違う。
あの大洪水は、人や土地によって何年前の出来事にも、つい最近の出来事にもなり得る。
「そんなに変わっていて、何か問題はないのか?」
私が尋ねると、主人は笑った。
「火の山の麓だぞ。飲めない水が熱い泥になったくらいで逃げてたら、ここじゃ暮らせねえよ」
「そうそう。山の煙も戻ってきたしな。山が元気になってきてんだろうよ」
「お前が元気になりそうなのは、別んとこだろ」
「しょうがねえだろ、こんな美人見かけちゃあな!」
元に戻っている。
それが、この町の者たちの認識らしい。
隣では、炭酸水を奪われたイズミールが露骨に肩を落としていた。
救世の女神にも、楽しみにしていた飲み物を取り上げられて落ち込むことがある。
私は少しだけ可笑しくなった。
(何笑ってんだ)
(笑っていない)
(絶対笑った)
※※※※※
次に向かった湯治場も、駄目だった。
元々、人を呼び寄せるための場所ではないのだろう。
山肌の岩から湧く湯を石で囲い、その周りへ簡素な小屋をいくつか建てただけの場所だった。
周囲には柵が設けられ、その向こうで盛大に湯気が立ち上っている。
イズミールには期待通りの場所に見えたらしく、歩調が速くなった。
私はその手を掴んで止める。
(なんだよ)
指差した先には、一枚の立て札。
死にたくなければ入るな、という意味の文が乱雑に書き殴られている。
「立ち入り禁止だそうだ」
(ハァ!?)
耳を澄ませば、ぐつぐつと湯の煮立つ音が聞こえる。 立ち上る蒸気の勢いを見る限り、もはや人間が浸かる温度ではあるまい。
(いや、俺なら入れる)
(人間には入れない)
(俺、人間じゃねえもん)
私たち二人だけなら、入ったところで何の問題もない。
彼女は水そのもので、私もその水と結びついた身だ。
この程度の熱で傷つくことはない。
(今は人間ということになっている)
(クソが)
不満げに睨まれたが、今は諦めて貰うしかない。
「入っちゃいかんぞ」
近くで掃除をしていた老人が笑った。
「少し前に試そうとして火傷をした奴がいる」
「昔は入れたのか?」
「ああ。ちょっと熱いくらいだった」
老人は柵へ寄りかかり、目を細める。
「黒禍が酷かった頃は、ここにも大勢押しかけたもんさ」
「浸蝕された者か」
聞くまでもないと思いながら尋ねると、老人は頷いた。
「火の山から出る湯なら、黒いのを焼いてくれるんじゃないか。山の神様の力が混じってるんじゃないか。そんな噂が立ってな」
「効果はあったのか?」
「さあな。湯に入って楽になったって奴はいたよ。
痛みが引いたとか、眠れたとかな。だが痣が消えた奴なんざ見たことねえ」
気休めでも、他に選択肢がなければ人は縋る。
私は、それをよく知っている。
「けど、聖地に女神イズミール様が現れなさってからは、ぱったりよ」
私は隣のイズミールを見る。
彼女は老人の表情を見ているだけで、話の内容までは分からない。
(黒禍に侵された者が、昔はこの湯へ治療を求めて来たそうだ)
(温泉が効くのか?)
(いや)
少し間を置いてから、続ける。
(君が現れてからは、皆ゴルディウムへ向かうようになったそうだ)
イズミールが瞬きをした。
(……そりゃ、まあ。黒いのなら俺の方が消せるし)
照れるでも、喜ぶでもない。
ただ少し、居心地が悪そうだった。
老人は、目の前にいる彼女が、女神当人とは知らずに話し続ける。
「今じゃ病人も来ねえ。町の奴が仕事終わりに浸かるくらいだったんだが、それもこの有様だ」
湯気の向こうを顎で示す。
「まあ、山の腹具合が直ったらそのうち冷めるだろうさ」
「山に腹具合が?」
「黒禍が酷くなるにつれて、ここの湯もだんだん冷めてな。一時は水と変わらんくらいだった」
聞き逃せない話だったので、すぐに彼女にも伝える。
(水に沈む前には、火の山にも黒禍が広がっていたようだ)
(そうか……)
「女神様が連中を消してくださってから、まだ何年だ? 戻るのだって時間がかかるんだろうよ」
彼も、宿の主人と同じだった。
時間が解決するのだと信じている。
私も、それが間違いだとはまだ言えなかった。
※※※※※
再び町中へ戻り、いくつかの鍛冶場を回った。
鉄を打つ音が絶えない。
この町が本来の仕事を取り戻しつつあることは、少し歩くだけでも分かった。
だが。
町を歩くうちに、少しずつ引っかかるものが増えていく。
「今は剣なんぞより、釘の方が売れるよ」
鍛冶場で会った男は、そう言って笑った。
「黒禍がうろついてた頃なんて最悪だ。いくら良い剣作っても、あいつら相手じゃ大して効かねえ」
普通の鉄では、黒禍に侵されたものを完全には止められない。
だからこそ、黒禍を武器として黒禍を殺す、“深淵殺し”などという歪なものが生み出されたのだ。
「あの頃は剣を作れって奴よりも、火口への道を聞いてくる奴らの方が多かったな」
「というと?」
「魔術師だかなんだかさ。火の山の神様だか精霊だかの力を借りに行くってな」
私は思わず男を見る。
「火の精霊?」
「ああ。昔からヘルクラネウムは火の神の山だとか、そんな話はあるからな」
「会えた者は?」
「知らねえ」
即答。
「少なくとも、火の精霊を連れて帰ってきたって奴はいねえよ。
本当にいるってんなら、うちの炉に招きたいくらいだぜ」
「火の精霊の力を必要としていると?」
その言葉に、鍛冶仕事を眺めていたイズミールがこちらを向く。
「最近、どうも炉の調子が悪いんだわ」
男が炉を睨んだ。
「前より火勢が弱えし、妙に炭を食う。空気を送っても、なかなか熱くならねえ」
「地鳴りが増え、温泉も熱くなったとは聞いたが、それとは話が異なるのでは?」
「だから分からねえんだよ」
苛立った様子で火掻き棒を突っ込む。
「炉にヒビが入ってる様子もねえ。炭だって質は悪かねえ。うちだけじゃねえ」
(炉の熱が上がりづらくなったと言っている)
返ってきた違和感は、私のものとほとんど同じだった。
(……おかしくね?)
(ああ)
「ただなぁ」
鍛冶師が言う。
「ずっと弱いならまだいいんだが、急に火が強まることがある。
鈍いと思って炭を足してると、急に白くなるくらい熱くなる時がある。先月は若いのが腕を焼いた」
奥にいた若い職人が、包帯を巻いた腕を見せてきた。
笑ってはいるが、軽い事故ではなさそうだった。
「火まで気分屋になりやがった」
鍛冶師は冗談めかして言った。
だが、笑ってはいなかった。
イズミールに伝えると、今度は返事がなかった。
※※※※※
「昔はもっと、空を埋め尽くすくらいのドデカい煙が出てたもんよ」
その言葉を聞いたのは、夕刻近くになってからだった。
道端で山を見上げていた老人。
片足を少し引きずり、手は鉱夫らしく節くれ立っている。
「今も出ているようだが」
私がヘルクラネウム山の頂を指す。
白灰色の噴煙が、夕方の空へ細く流れている。
「ありゃあ戻ったうちに入らん。あんな小便みたいな煙じゃねえ」
老人は笑った。
「俺が若い頃は、もっとずっと太かった。
山の横っ腹からも、あっちこっち白いのが噴き上がってたもんだ」
山肌を指差す。
今は、目立った噴気は数えるほどしかない。
「危険ではなかったのか?」
「そりゃあもう、命がけさ」
老人は当然のことのように答えた。
「風のねえ日に入っちゃいけねえ谷もあった。毒気が窪地に溜まる。
鳥や小獣が転がってたら、馬鹿でも近づかなかった」
「それほどだったのか」
「子どもでも知ってたよ。どうしようもない大馬鹿は、子どものうちにくたばるからな」
老人は歯抜けの目立つ口を開けて笑った。
「今は?」
「随分大人しくなっちまったもんよ」
その言い方が引っかかった。
「黒禍が広がった頃からか?」
「ああ」
老人が目を細める。
「少しずつだったな。まず山腹の煙が減った。次に頂の煙も細くなってった」
笑みが消える。
「最初の頃は皆、危ねえ場所が減って喜んでたもんさ。山が大人しくなったって」
肩を竦める。
「けど、何年もかけて、最後には煙が消えちまったのを見て、皆思ったんだ」
老人は山を見上げた。
「ああ、俺たちの山が死んじまったんだってな」
火の山から煙が消える。
それは、この町の者たちにとって、どんな光景だったのだろう。
「けど、黒禍が消えて、煙が戻ってきた。あの日は町中で酒を飲んだ」
声に、穏やかな喜びが混じった。
「母女神様が黒禍を洗い流してくださった。
御子女神様が世界を戻されて、火の山の息まで吹き返したんだ」
隣を見るとイズミールは何も知らず、老人の指す山を見ている。
これも、伝えておくべきだろう。
(皆、君が黒禍を滅ぼし、ミューズが世界を戻したことで、山の煙も戻ったと考えている)
(……俺、火山活動まで戻したことになってんの?)
(そうらしい)
(知らねえよ、完全に業務範囲外だ)
彼女らしい答えに、少しだけ口元が緩む。
すると老人が続けた。
「でもなぁ、本当に昔はこんなもんじゃなかったんだ」
細い煙を見上げる。
「これから戻っていく途中だと思うか?」
「皆そう言ってるし、俺も、そうかもしれんと思う」
老人は顎髭を撫でた。
「昔より煙は少ねえ。毒気も少ねえ。それなのに下じゃ湯が煮えて、地面が鳴る」
しばらく考え、
「まあ、俺みたいな年寄りは何でも昔の方が良かったと言うもんだ」
「今の変化をどう思う?」
「分からん」
答えは率直だった。
「山のことなんざ、人間に分かるもんか」
老人は立ち上がる。
「ただ、昔のヘルクラネウムは、もっと人を寄せつけん山だった。それだけは覚えてる」
そう言い残して、老人はゆっくり町へ戻っていった。
私とイズミールは、黙ってその背を見送った。
※※※※※
夜。
窓を閉め切った宿の一室には、私たち二人しかいない。
ここではアルトリウスやイズミと名を偽る必要もない。
壁一枚を隔てれば人がいる以上、イズミールの声を外へ聞かせるわけにはいかないが、少なくとも今だけは、ただのアイオリスとイズミールでいられる。
乱れた寝台の上で、枝角とヒレを露わにしたイズミールが、ほどけた髪をまとめ直していた。
湿った掛布は半分ほど床へ落ちている。 私の上衣も、その近くにあった。
昼間、宿の主人が言っていたことを思い出す。
少なくとも、隣室から苦情は来なかった。
(……何ニヤついてんだよ)
触れた素肌から、苦情が伝わってくる。
(何でもない)
イズミールは床に落ちた掛布を拾い上げ、嫌そうな顔で水気を吸収する。
私が上衣に袖を通している間に、彼女は寝台の上へ胡座をかき、急に真顔になった。
(……で、今日の話だけど)
先ほどまでとは打って変わり、仕事の顔になる。
少なくとも、そうあろうとしている。
それもまた、彼女らしい。
(黒禍が来る前は、火口の煙も山肌の噴気も今よりずっと多かった。毒ガスが溜まって、人が近づけねえ場所まであった)
指を一本立てる。
(それが黒禍の時代に減って、黄金から戻した後に少し戻った。けど、まだ昔ほどじゃない)
そこまでは古老から聞いた通りだ。
(外に出る煙や噴気は少ねえままなのに、下じゃ逆に熱くなってる。温泉は人が入れねえくらい熱い。炭酸泉は煮えた泥。地鳴りも増えてる)
もう一本指を立てる。
(一番意味わかんねえのは炉だな。
人間の使う火までおかしくなるってなんだよ)
イズミールは腕を組み、眉間に皺を寄せた。
(連中は、山が元に戻る途中だと思ってる。黒禍で十何年もかけて壊れたなら、数年で戻らねえってのも分かる)
そこまでは私も同意する。
(でも……本当に、ただ待ってりゃいいのか?)
私も同じことを考えていた。
黒禍によって何が失われ、何がまだ戻っていないのか。
今の私たちには判断できない。
(少なくとも、時間に任せてよい変化とは思えない)
(……だよな)
イズミールが少し考え、それから私を見る。
(明日、山へ行こうぜ。火の連中が本当にいるなら、直接聞いた方が早い)
(会えると思うか?)
(火山まで行って職場にもいませんとかだったら、今度こそニート認定してやる)
その時だった。
地の底から、巨大な岩同士を擦り合わせたような低い音が響いた。
床が微かに震え、卓の水差しに細かな波紋が広がる。
(……これか)
(地鳴りってやつ?)
イズミールは素足のまま床へ手をつき、しばらく動かなかった。
(どうだ?)
(いや。ここじゃ水も少ねえし、地下がどうなってるかまでは分かんねえ)
やがて振動は収まった。
外から騒ぐ声は聞こえない。
この程度なら、本当に町の日常になっているのだろう。
(皆、慣れているのだな)
(慣れちゃ駄目なやつじゃねえの、これ)
イズミールが立ち上がりかけた時、再び地の底が鳴った。
今度は先ほどより強い。
窓枠と床板が震え、寝台の脚が僅かに床を擦る。
イズミールが寝台を見た。
昼間なら、宿の主人の下世話な冗談を思い出して悪態の一つでも吐いただろう。
今は、二人とも笑えなかった。
寝台が、小さく軋んだ。
今度は、私たちのせいではなかった。




