EX(118.21).『復世巡行記・世界樹の枯れ森』⑩ ◆★
『……ああ。パパは死んでる。もう起きねえ』
イズミの答えは、すぐに返ってきた。
ミツバの頭上で、黄色い三枚葉が閉じた。
しんでる。
よんでも、こたえない。
ねんねとは、ちがう。もう、おきない。
昨日、土の下にいるキコリの仲良しを前にして、覚えたばかりの言葉だった。
『おみず、いっぱいでも?』
『それでもだ』
『おいしいつち、いっぱいでも?』
『起きねえ』
イズミは、ミツバから目を逸らさなかった。
さっきまでのイズミは、声がなかった。
どろどろの、ちいさいおみずだった。
それでも、キコリがよんだら動いた。
井戸へつれていって、おみずがふえて、もう一度よんだら、イズミになった。
壁面を這う太い根が、井戸から湧き出した水をゆっくり吸い上げていた。
乾いていた末端まで水が届き、細い根が石の隙間へ伸びていく。
パパにも、おみずがある。
ねっこは、うごいてる。
なのに、パパは起きない。
『イズミ、こたえない。おみず、うごいた』
『ああ』
『パパも、こたえない。ねっこ、うごく』
イズミの水の髪が、僅かに揺れた。
『俺は声が出せなかった。でも、キコリが呼んだら、そっちへ行こうとして、水を動かしたんだ。
でも、パパの根っこは、水が来た方へ伸びてるだけだ。お前が呼んだから動いたんじゃねえ』
「根は生きている」
キコリが、壁から垂れた根へ手を添えた。
「だが、君の呼びかけに応えるパパは、もういない」
ミツバは、根を見た。
イズミを見た。
キコリを見た。
二人は、ミツバがよべば、こっちを見る。
パパの根っこは、ミツバを見ない。
井戸の水が、床の溝を流れていく。
細い水は、石の割れ目を通り、床を這う根を濡らし、遺跡の奥に流れていく。
その先に、パパがいる。
パパのところへ行って、もう一度、たしかめたい。
『ミツバ、パパ、みる』
ミツバは暗い通路へ顔を向け、歩き出した。
水の身体を浮かせたイズミが、後ろからついてきた。
キコリの足音も、一定の間隔を保って続いた。
根でできた足が石床の溝を踏み、井戸から延びる水流を捉える。
触れた先から、冷たい水が自然に吸い上げられた。
おみず、おいしい。
おみずがあれば、げんきになる。
そのはずなのに。
石の壁や床にはたくさんの根があった。
水を吸っている根。
乾ききって、もう水を吸わなくなった根。
白い糸と茸がびっしり生えて、ほどけていく根。
いきているところ。
もう、うごかなくなったところ。
これから、つちになるところ。
一本の根が止まっても、別の根が水を吸う。
倒れた木には茸が生え、ほどけたものを、また別の根が吸う。
森からなくなるのではない。形を変えて、森の中を巡る。
それを見ても、ミツバの根は怖がらなかった。
森なら当たり前のことだと、身体は知っている。
けれど、胸の中には、びゅうびゅうと風が吹いていた。
どこかの枝が、ぎしぎしと軋んでいた。
やがて通路を抜けて、奥の広間についた。
中央には、巨大な種が横たわっていた。
乾いた殻は大きく裂けて、内側には白い菌糸が広がっている。
小さな茸がいくつも生え、湿ったところから、色の濃い土がぱらぱら落ちていた。
あれはおいしいつちだ。
ミツバの根が、水を見つけた時のように、そちらへ向きかける。
けれど、途中で止まった。
あれは、おいしい土だ。
そして、パパだったものだ。
ミツバは種の前に立ち、枝の手で殻に触れた。
乾いた木肌の感触。
種から伸びた根には水が巡っているのに、殻には湿り気がなかった。
『パパ』
呼んで、待つ。
返事はない。
『パパ。こたえて』
ミツバはもう一度呼んだ。
小さな声でも、大きな声でも呼んだ。
石の床を根っこでしっかりと掴んで、両手で種を押した。
みし、みし、と枯れ木を押した時と同じ音がした。
それでも、何も変わらなかった。
ぴちょん、と水が落ちる音がした。
パパの返事ではない。
イズミが、種から伸びた根の右側へ水を流した。
細い根が、そちらへ曲がる。
今度は左へ流す。
根は少し遅れて、水を追った。
『パパ』
ミツバは呼びながら、動いた根に手を伸ばした。
根はこちらには来ない。
ただ、水の方にだけ伸びていく。
ミツバの声には、応えない。
『ねっこ、いきてる』
根の中を、水が流れている。
それは、ミツバにも分かる。
『でも、パパ、ミツバ、みてない。こたえない』
頭の三枚葉が、さらに深く伏せた。
パパは、ミツバをちっちゃくして、種にした。
あとで起こす。
その言葉を、ミツバは覚えている。
『パパ、あとで、おこす、いった』
『ああ』
『ミツバ、おきた。パパ、おきない』
イズミは何も挟まず、次の言葉を待った。
『パパ、うそ?』
イズミは一度だけ目を伏せ、それからミツバを見上げた。
『お前をあとで起こすとは言った。でも、自分も起きるみたいに思わせたまま眠らせた。
あいつ自身も、言わなかっただけの嘘だって書いてた』
イズミの声は、いつもより低かった。
『なんで? パパ、なんで、うそ?』
『……言えなかったんだと思う』
イズミは種を見ないで、ミツバを見ていた。
『お前を眠らせたら、自分はもう会えないって。でも、それをお前に言えなかった』
『なんで?』
『……お前に生きていてほしかったんだと思う。眠るのを怖がらせたくなかったんだろう』
パパは、ミツバにいきてほしかった。
ねんねしたら、パパとあえない。
しってたら、ミツバはねんねしないで、パパといたかった。
だから、パパはいわなかった。
頭の若枝が、何度も左右へ傾いた。
『パパのうそ、ミツバ、いや』
『……そうか』
イズミは、パパは悪くないとは言わなかった。
『嫌なら、嫌でいい。お前を生かすためだったからって、あいつの嘘まで好きになる必要はねえ』
言葉の全部は、まだ分からない。
でも、パパのうそを嫌だと言っても、イズミは怒らない。
それだけは分かった。
『ミツバ、おきるの、おそい? おみず、つち、おそい?』
もっとはやく。
もっといっぱい。
そうしたら、パパは起きた?
『違う』
イズミの声が、強く返った。
水の手が、ミツバの根の足に触れた。
『お前が遅かったんじゃねえ。パパは、お前を眠らせた時から、自分はもう起きられないって知ってた』
『パパ、ミツバ、おこした。おみず、くれた』
『パパが起きて、水を運んだんじゃねえ。お前へ水が届くように、根を残してたんだ』
ミツバがお水と土を見つけるのが遅かったから、パパがしんだのではない。
お水を飲む根っこは、まだ残っている。
でも、パパはもう、お水がほしいとも、土がほしいとも言わない。
イズミの言葉が、根から吸った水のように、ゆっくり中へ入ってきた。
『パパ、ミツバ、たのしく』
ドウジンシのお部屋で、イズミから聞いた言葉だった。
好きなように。
楽しく生きてほしい。
「楽しくない時まで、楽しいと言う必要はない」
キコリが、ミツバの傍に立って言った。
「パパは、君へ命令したのではない」
『メイレイ?』
「必ず、そうしろと言ったのではないということだ」
キコリは一度言葉を切り、ミツバが見返すのを待った。
「君が楽しいと思えるものを見つけてほしい。パパは、そう願っていた」
『ミツバ、たのしい、ない。パパ、いや?』
「いやではない」
返事は迷わなかった。
「パパは、楽しくなければいけないとは言っていない」
キコリは手を上げ、ミツバの枝の手に触れた。
「寂しい時は、寂しいと言っていい。嫌だと思ったなら、嫌だと言っていい。
今、楽しいと思うものが、後で変わってもいい」
『楽しいは宿題じゃねえんだよ』
イズミが、ミツバの枝の手へ水の指を重ねた。
『見つからない日にまで、無理して探すもんじゃねえ。毎日ずっと、楽しくなんかいられるもんか』
水の指が、枝の節に沿って留まった。
イズミとキコリは、よべば、こたえてくれる。
ミツバにさわってくれる。
パパは、もうしてくれない。
胸の内側が、からからに縮んだ。
水は足りているのに、三枚葉が上を向かない。
さびしい。
さびしい。
これが、さびしい。
『ミツバ、さびしい』
「ああ」
キコリが答えた。
イズミは、手を離さなかった。
枝の手に、おいしい水が染みこんでくる。
なのに、胸のからからも、葉のしなしなも、なおらない。
二人とも、パパの代わりになるとは言わない。
さびしいを、ほかの言葉へ直そうともしない。
『俺たちがいても、パパがいないことは変わらねえからな』
イズミの指が、枝の節を一度だけ撫でた。
『でも、寂しい時は俺たちを呼べ。聞こえたら、ちゃんと答える』
「ああ。聞こえない時にも、また会いに来る」
『……いちいち俺より重くすんな。恥ずかしいだろうが』
イズミとキコリが、いつものように言い合いをする。
ミツバには、それが仲良しに見える。
なかよしは、うれしい。
さびしいと、うれしいがいっしょにある。
胸のからからは、まだなおらない。
でも、うれしいが入ると、伏せた葉がほんの少しだけ持ち上がった。
三枚葉は、まだ伏せている。
それでもミツバは、重なった水の指へ、枝の指を少しだけ寄せた。
その時、ぽろり、と種の縁が崩れた。
小さな茸と共に、色濃く湿った土が床に落ちた。
ミツバの細い根が、考えるより先にそちらへ向いた。
茸がいる。
湿り気がある。
土の色が濃い。
触れなくても、分かる。
絶対においしい。
でも、ミツバは根を途中で止めた。
だって、これはパパだったものだ。
茸が、パパを土にしたものだ。
『パパ、つちになった』
『ああ。パパだった身体が、土になってる』
『つちになる。パパ、いたい?』
「死んだものは、もう痛みを感じない」
『パパのつち、たべたら、もっと、しぬ?』
「食べても、パパがもう一度死ぬことはない」
ミツバはキコリの答えを聞き、自分の根と種を見比べた。
『パパ、ミツバ、つち、くれた?』
『……自分の身体を、お前が生きるために残すつもりだったって書いてあった』
『おそとにも、おいしいつち、ある』
『そうだな。だから、無理に食べなくたっていい』
イズミの水の身体が、静かに揺れた。
『俺がパパの代わりに、食えとは言わない』
昨日、土の下にいるキコリの仲良しの前でも聞いた。
しんだ相手が何を言うかは、もう聞けない。
だから、いきている方が、自分の気持ちを言う。
『でも、お前がこの土をおいしいと思うのは間違いじゃない。
キコリの仲間のところで言ったろ。お前が元気な方が俺は嬉しいって』
「私も同じだ。ミツバに生きてほしい」
キコリが続けた。
「だから、私は君に受け取ってほしいと思っている」
ミツバは土を見た。
パパの種を見た。
イズミとキコリを見た。
ミツバは、まだ生きている太い根へ触れた。
水が流れている。
その水が、自分に流れ込んでいることを初めて意識した。
次に、湿った土へ根先を近づけた。
水と、茸と、崩れた木の匂いがする。おいしそうな土。
パパだったもの。
それでも、ミツバの葉と根は、これがほしい。
からからで、しなしなになった森は、これがほしい。
昨日は、キコリへ聞いた。
今日は、パパへ聞いても返事がない。
イズミとキコリは、知っていることを教えてくれた。
二人がどうしてほしいのかも、自分の言葉で言ってくれた。
これからずっとのことではない。
いま、目の前の土をもらうか。
ミツバが決めるのは、それだけ。
『ミツバ、パパのつち、もらう』
枝の両手が、自然に胸の前へ集まった。
掌を合わせる。
食べる前と、食べた後の決まりごと。
パパから教わったような気がする。
けれど、いつ、どこで教わったのかは思い出せない。
どうして、この形を知っているのかも、どうして、この音を言うのかも分からない。
それでも、今、だれに言う言葉なのかは分かった。
『パパ。イタダキマス』
細い根が、ゆっくりと色濃い土へ入った。
生きた太い根へは入らない。
乾いた殻も避ける。
茸と菌糸が柔らかくした、土へ変わったところだけを探っていく。
イズミの指先が、僅かに震えた。
水は、まだ流れてこない。
「イズミ」
キコリが呼んだ。
『分かってる』
イズミはそう答えてから、土へ指を向けた。
水が、土の中へ染み込む。
菌糸と崩れた種の欠片が混じる土を濡らし、溶けた養分をミツバの根まで運んだ。
水。
土。
茸がほどいた養分。
パパだった身体に残ったもの。
根から吸い上げたものが、幹を昇って枝葉へ行き渡る。
萎れていた三枚葉に少しずつ張りが戻り、枝の先に小さな若芽が一つ開いた。
流れ込んできた養分を、ミツバの身体は隅々まで喜んでいた。
それでも、三枚葉の先は伏せたままだった。
パパの声は流れてこない。
知らない言葉も、思い出も増えなかった。
パパは、ミツバの中でも起きなかった。
届いたのは、水と、土と、ミツバが生きるためのものだけだった。
パパは、しんでる。
ミツバは、さびしい。
パパのつちは、おいしい。
どれも、ほんとう。
パパといっしょにいたときのことを、はっきり思い出せるのは、ほんの少しだけ。
それでも、もっと、いっぱい、いーっぱい、いっしょにいたかった。
いつからそう思っていたのか、ミツバには分からない。
でも、それも、ほんとう。
やがて、ミツバは根を土から抜いた。
細い根の間から、土の粒が落ちる。
種は、まだそこにある。
茸も、生きている根も残っている。
ミツバは、返事のない種へ向き直った。
枝の両手を、もう一度合わせる。
『ゴチソウサマ。パパ』




