EX(118.20).『復世巡行記・世界樹の枯れ森』⑨ 〇◇★
視界をスイーッと横切る小魚。
泥の上をピュンと跳ぶエビ。
黄金に染まった小さな社。
源流に通じる深い縦穴。
アイオリスはいない。
ミツバもいない。
何度見回しても、広がっているのは見慣れた実家の景色だけだった。
「はあああ!? エリアオーバーしたらスタート地点へ強制リスポーン!?」
俺の怒鳴り声が、水底から水面までを震わせ、湖面にいた鳥が飛び立った。
「警告表示も帰還確認もなしとか、なんだこのクソ仕様!」
当然、返事はない。
この世界に俺を転生させた、神だか運営だかが呼びかけに答えたことなんて一度もない。
腹立ちで湖底が渦巻くが泥が巻き上がって濁るだけで余計にムカつく。浄化。
俺は湖面を静め、アイオリスとの繋がりへ意識を向けた。
胸の奥から遠くへ一本の糸が伸びているような感覚がある。
途切れてはいないが、遠い。
空き缶を拾いに行って、うっかり離れすぎてピチュン。
完全に俺のやらかしだ。
ミツバには昨日、死んだものは呼んでも答えないと、教えたばかりだ。
突然、消えて、呼んでも答えない俺を死んだと思うかもしれない。
「アイオリス、ちゃんと説明しろよ。俺は死んでねえって」
言ったところで届かない。
俺は森へ置いてきた自分の水を探ろうとした。
だが、何も掴めない。
俺の身体はたぶん空中分解して、飛んだ経路へ水滴を撒き散らした。
まとまった量が残ってるかはだいぶ怪しいし、そもそも遠すぎる。
「遠隔監視カメラにはならねえ、と。まあ、そりゃそうか……」
自分の水なら、どこにあっても意識を移せるわけではない。
俺の水域内だったら、水たまりでも意識を移せたし、量が足りていれば、身体だって創れた。
けど、あの森の水と今の俺の間には、繋がりがない。
――なら、何があれば繋がる?
俺が自分の水場から離れて動けたのは、アイオリスが、俺の器になっているからだ。
あいつが源流との繋がりを得て、半分ほど人間をやめたことで成り立っている。
より正確には、あいつと俺の魂が結び付いて、俺を経由して繋がりを得たってことらしい。
だが、完全に途切れているなら、あいつの存在だって感じられないはずだ。
なら、まだやりようがあるんじゃないか。
世界が水没していた時、のじゃ様は遠い東の海から俺へ接触してきた。
あの時は世界中の水が一続きになっていたし、身体ごと移動してきたわけでもなかったから、同じ条件じゃないかもしれないが、繋がりがあれば何かしらの働きかけはできるってことだ。
「経路……源流……」
世界樹の森の地下遺跡にあった、あのクソ深い井戸。
底には、源流へ続く細い流れが残っていた。
俺が呼び水を落としたことで、止まっていた水が少しだけ戻った。
あれが俺の水場だったら、意識を移せたんだろうが、今はあの井戸の存在を感じ取れない。
俺と源流は、水で有線接続。
俺とあいつは、魂で無線接続されている。
あの井戸も源流へ繋がっているはずだ。
だが、世界中に伸びる水の先から、たった一つの井戸を探し出すための座標がない。
なら、あいつが井戸の傍で俺を呼べば、それを目印に辿っていけるんじゃないか?
そこに身体を創れるだけの水があれば、向こうの水へ意識を通して戻れないか?
思いつきだ。
できる保証なんかない。
それでも、今は他に手立てがない。
問題は一つ。
「だから、井戸へ行けって、どうやって伝えんだよ……!」
湖底の水が大きく渦巻いて、魚の群れがサッと離れていった。
駄目だ。
ここで無闇に暴れても、聖地の連中を怯えさせるだけだ。
ミューズが仕事を放り出してすっ飛んで来かねない。落ち着け。
俺は湧き口の一番底まで意識を沈め、アイオリスとの繋がりだけに集中した。
(アイオリス、気づけ。俺を呼べ)
念じたところで、向こうへ伝わる保証はない。
それでも、あいつが俺を呼ぶ瞬間を逃さないよう、意識を澄ませ続けた。
どれだけ時間が経ったのかは分からない。
不意に、遠くから俺の名を呼ぶ声がした。
(――イ……ズミー……ル)
はじめは、湖面のさざ波に紛れそうなほど微かだった。
それでも、アイオリスの声を聞き間違えるはずがなかった。
(アイオリス!)
返事をした瞬間、意識の一部が遠くへ引かれた。
広く冷たい湖とは別に、狭く濁った感覚が生まれた。
土。
腐った落葉。
茸や根の欠片。
泥へ染み込んだ、ほんの僅かな湿り。
それが俺だった。
濁りきっていて何も見えない。
だが、泥水に触れている指は紛れもなくあいつのものだ。
(俺はここにいるぞ! ここだ!)
泥水から、なんとかして身体を創ろうとする。
瓶詰サイズでもいい。意識を移せさえすれば、何とでもなる。
けれど、濁りきった遠い水は思うように動かない。
何より、水量が足りなかった。
(くそっ、動けよ! 声出ろ! 俺の水だろうが!)
透明な水だけを集め、指先ほどの輪郭を作ろうとする。
だが、枯葉と泥を巻き込んだまま、重さに負けて崩れた。
ぴちゃん、と小さな音がした。
それだけだった。
(イ……ズミール……そこに……いるん……だな)
アイオリスの声がまた聞こえてきた。
俺は水を揺らしながら叫ぶ。
(だから、いるって言ってんだろ!)
(……君の……声が……聞きた……い)
どうやら、こっちの声までは届いていないらしい。
昔は、水面を跳ねさせるだけでも、そこにいると伝えられれば十分だった。
今は、あいつの言葉も、俺が返したい言葉も分かっている。
だから、声がないことが前よりずっと物足りなかった。
いや、それはそれとして。
(こ、こんな時までメロついてんじゃねえ!)
森に返せたのは、濁った水が跳ねる音だけだった。
◇◇◇◇◇
濁った泥水が、私の手の中で震えた。
言葉にならない何かを、懸命に返そうとしている。
彼女は確かにそこにいる――
彼女が黄金で固めた葉の器を追って飛び去った後、私はミツバと待っていた。
呼べば答えが返り、待っていれば戻ってくる。
ミツバは遊びを通して、それらを楽しいことだと学んだのだろう。
ミツバは初めのうち、イズミールの消えた方角を見ながら、嬉しそうに三枚葉を揺らしていた。
『イズミ、カン、ひろう。もどる』
「ああ」
『また、あそぶ』
「次はもっと弱く蹴ってみよう。君は力が強い」
『ミツバ、つよい?』
「ああ、とても」
私はイズミールほど上手く、子どもと接することができない。
だが、苦手なままでいるわけにもいかない。
ミツバは幼くとも、教わったことを理解し、応用できる。
力の加減や身体の扱いなら、私にも教えられるだろう。
「体の動かし方を教えよう。まずは――」
私もイズミールも不注意だった。
聖地での平穏な日々の中で、いつの間にか油断が育っていた。
世界樹の森を満たしていたイズミールの水の気配が、突然、消えた。
「!? イズミール……?」
常に感じていた彼女との繋がりが、突然遠ざかった。
途絶えたわけではない。間違いなく、彼女は生きている。
おそらく、聖地に戻ったのだろう。
だが、何故――
『イズミ……?』
ミツバは空を見上げた。
彼女もイズミールの不在に気付いたのだろう。
「探しに行こう」
ミツバを連れ、枯れた巨樹の森を進む。
本当はすぐにでも駆け出し、彼女を探したかった。
だが、私が取り乱せばミツバを不安にさせてしまう。
私は逸る気持ちを抑えながら、イズミールの足取りを追った。
『イズミ、どこ?』
(イズミール、どこにいる……?)
ミツバは木々の間を覗き、地面へ根を伸ばして彼女を探す。
私も声に出して名を呼び、同時に結魂の先へ意識を向けた。
だが、返事はない。
三枚葉が伏せ、花模様の瞳が私を見た。
『イズミ、しんだ?』
「違う。死んではいない」
迷う前に答えていた。
遠くへ引き伸ばされていても、結魂は途切れていない。
それが彼女の生存を確信させていた。
『でも、こたえない』
「答えられないだけだ。イズミールは、まだいる」
ミツバは、私の顔と、イズミールが飛んでいった方角を見比べた。
言葉だけで信じろと言っても、ミツバには、死んで答えないことと、生きていても答えられないことの違いが見えない。
私にはイズミールとの繋がりがあるからこそ、その無事が信じられる。
だが、ミツバにはそれがない。あるのは答えが返ってこない事実だけだ。
枯れた森を進むと、朝日を受けて光る小さな水滴が見つかった。
一滴。その先に、もう一滴。
飛んでいったイズミールの身体から零れたものらしい。
上を見れば、巨樹の枝や幹にも微かに濡れた跡が見える。
点々と残る水の痕跡を追っていくと、積もった落ち葉が広く濡れた場所を見つけた。
「イズミール!」
濡れた落ち葉を掻き分けると、小さな窪みがあり、そこに僅かな泥水が残っていた。
間違いない、彼女の水だ。
ミツバが膝をつき、顔を近づける。
『イズミ、いる?』
水は動かない。
私は泥水へ指を浸し、彼女に届かせるつもりで、もう一度名を呼んだ。
「イズミール――」
手の中で、濁った水が震えた。
透明な水だけが私の指先へ寄り、細い指のように持ち上がる。
だが、泥と枯葉を巻き込み、すぐに崩れた。
声はない。
源流から戻った直後、水たまりとなったイズミールが、私の呼びかけへ僅かに反応した時と同じだった。
あの時は、彼女が失われていないと分かるだけで嬉しかった。
だが今は、彼女と声を交わし、共に過ごす幸せを知ってしまった。
一度得たものを失う方が、何も知らなかった頃より、ずっと寂しかった。
「イズミール、そこにいるんだな?」
水面が小さく揺れた。
「……君の声が聞きたい」
濁った水が、私の指へ一滴だけ跳ねた。
私の声は届いているようだった。
だが、身体を創ることも、返事をすることも叶わないのだろう。
水が少なすぎるためか。それとも、別の何かが足りないのか。
『イズミ、いる?』
「ああ。ここにいる」
『ねんね?』
「違う。水が零れて少なくなってしまった」
ミツバは泥水の傍へ屈み込み、花模様の瞳を近づけた。
『イズミ、おみず、すくない』
ミツバの三枚葉が、ふいに森の奥へ向いた。
『カン。おみず、あつめる?』
「場所が分かるのか」
『あっち。おちた。じめん、ドンした』
根を通して、黄金の器が落ちた衝撃を覚えていたらしい。
「私はここにいる。持って来られるか」
『ミツバ、みつける!』
私は窪みの底へ大きな落葉を滑り込ませ、泥と水をまとめて掬えるようにした。
器が戻れば、落葉ごと持ち上げられる。
ミツバは立ち上がり、根の足で地面を揺らしながら走り出した。
しばらくして、森の向こうで枝が折れる音が響く。
やがて、蔓の先に黄金色に輝く葉の器を引っ掛けて戻ってきた。
ミツバの怪力で樹冠より高く飛ばされたにもかかわらず、傷一つない。
『カン、みつけた!』
「よく見つけてくれた」
泥水を黄金の器へ移し、湿った葉からも水を搾り出す。
その底に、濁った水が僅かに溜まった。
水面が、ぴくりと動く。
ミツバは少し考え、首を傾げた。
『イズミ、かくれる。あとで、こたえる?』
「隠れたわけではないが、今はとても見つけにくい場所にいる」
私は黄金の器を持ち上げた。
イズミールは、自分の水が濁ることを何より嫌う。
彼女がこれを見れば、悪態を吐くより先に浄化しているはずだ。
それすらできない。
ということは、水面を揺らし、僅かな反応を返すだけで精いっぱいなのだろう。
水量が足りないのか。それとも、身体を造るためには水とは別の何かが必要なのか。
いずれにしても、このままでは足りない。
『……おみず、ふやす。イズミ、みつかる』
「井戸だ」
『パパのところ、おみず、ある』
私が口にするのと、ミツバが声を上げるのは、ほとんど同時だった。
遺跡の中にある縦井戸は、完全には枯れていない。
イズミールが呼び水を落とした後、源流側から僅かな流れが戻っていた。
あれは彼女の水そのものではない。
だが、あの井戸は源流へ続く流れを保っている。
結魂が私たちを繋いでいるのなら、あの井戸から彼女へ届くかもしれない。
「ああ。そこなら、イズミールが答えられるかもしれない」
断言はできない。
それでも、ミツバは濁った水面に顔を寄せた。
『ミツバ、イズミ、みーつけた、する』
返事は、水面に生じた僅かな波だけだった。
聞こえているとは限らない。
その揺れが肯定なのか、不満なのかも分からない。
「イズミール。今から遺跡の井戸へ向かう」
言葉が交わせなかった頃の私は、彼女の沈黙にまで勝手に御心を見いだした。
今はただ、彼女が答えを返そうとしてくれていることを信じるだけだ。
「聞こえているなら、待っていてくれ」
私は黄金の器を抱え、ミツバと遺跡へ向かった。
道中、ミツバは何度も器の底を覗いた。
『イズミ、まだ、かくれる』
「ああ。今度はこちらが見つける番だ」
※※※※※
石造りの広場の中央に、巨大な井戸が口を開けていた。
深い闇に閉ざされて底は見えないが、耳を澄ませば、遥か下で水の湧く音がする。
井戸から溢れるほどではない。
それでも、広場の床を網目状に走る溝には細い水が流れ、遺跡の中を巡っていた。
私は井戸の縁へ黄金の器を立て、水路を伝う水を掬って器に注ぎ込む。
器の中の水が僅かに澄み、水面へ小さな波紋が生じた。
だが、それだけだった。イズミールの身体らしい輪郭は生まれない。
彼女がこの井戸を蘇らせたときに行ったことを思い出す。
呼び水だ。
この井戸が源流と繋がっているのなら、ズミュルナ湖にいる彼女にも繋がっているはずだ。
理屈が正しいかは分からない。
それでも、源流が彼女へ続いているのなら、どうか私たちを繋いでくれ。
「イズミール、今から水を少し井戸に流す」
水面が、かすかに震えた。
返事なのか、器を動かした揺れなのかは分からない。
私はその意味を決めつけず、続けた。
「ここまで来た。もう少しだけ待っていてくれ」
私は器を僅かに傾けた。
泥水の上澄みが細い筋となり、黄金の縁を伝って、井戸の闇へ落ちていく。
ぴちゃん。
暗闇の向こうで水が跳ねる音がした。
「イズミール、私はここだ……ここにいる。
君の声が聞きたい。君に会いたい。帰ってきてくれ」
枯れた根の間へ広がる湿りが、淡い光を帯びた。
私は彼女の姿と声を思い浮かべながら、もう一度その名を呼んだ。
「イズミール――」
井戸の底から、湿った風が吹き上がった。
井戸の内壁に刻まれた溝を、細い流れが自ら昇っていく。
床に走る網目状の水路から、無数の水滴が浮き上がって集まる。
井戸の上へ集まった水が、一つの球を成す。
そこへ、黄金の器に残った僅かな水が細い筋となって流れ込んだ。
井戸の水が立ち上がり、少しずつ人の輪郭を得ていく。
二本の枝角。
長い髪。
耳の位置に生えたヒレ。
顔、肩、腕、胴、脚。
最後に流水が衣の形を取り、裸身を包んだ。
閉じていた瞼が開き、水色の瞳がこちらを向いた。
『聞こえてるっての! 何度も湿っぽい呼び方するんじゃねえ!』
「イズミール……」
『今、返事しただろうが! 何度呼べば気が済むんだよ!』
その悪態を聞いた途端、胸の奥に張りつめていたものが緩んだ。
私は目を閉じ、短く息を吐いた。
『何笑ってんだよ』
「笑ってはいない」
『口元が緩んでんだよ!』
私は伸ばしかけた手を止め、代わりにもう一度だけ彼女の姿を確かめた。
ミツバが両腕をいっぱいに広げた。
『イズミ!』
『おう。帰ってきたぞ』
イズミールがすぐに答える。
ミツバの三枚葉と、花模様の瞳が大きく開いた。
『イズミ、しんでない』
『死んでねえよ。勝手に殺すな』
イズミールはそう言いながら、ミツバの前まで浮かんだ。
枝の指先が彼女の水の腕へ触れると、今度は形が崩れなかった。
『ミツバ、キコリ、イズミ、みつけた!』
『かくれんぼのつもりでやったわけじゃねえけど……よく見つけたな』
イズミールは黄金の器を見下ろした。
底に残った泥と枯葉を見て、僅かに眉を寄せる。
『うわ、きったねえ、俺、こんな状態だったのかよ』
イズミールが器の泥水を浄化する。
だが、水が澄んでも、泥までは消えず、彼女は嫌そうな顔をした。
「何が起きたか、分かるのか」
『たぶん、だぞ』
イズミールは念を押し、井戸と私を交互に指差した。
『さっきまで聖地にいた。お前から離れすぎて戻っちまったんだと思う。
お前の声は微かに聞こえたけど、こっちの声は全然届いてなかったみたいだな』
「そうか」
私の声が届いていたことには安堵した。
だが、彼女が必死に返していた声を、私は受け取れなかった。
それが、残念でならなかった。
『源流に繋がった井戸。身体を創れるだけの水。
お前が呼び寄せようとしたこと。俺が戻ろうとしてたこと。
この辺の条件が揃って、なんとかってとこだと思う』
「私が呼べば、どこにでも現れられるわけではないのだな」
『おい、俺を都合のいい便利な女みたいに言うんじゃねえ!』
「そんなことは言っていない。
今回のようなことが、再び起こらないとも限らないからだ」
彼女は自分の掌に目を向け、それから井戸の底を見下ろした。
『この身体は、その井戸の水から出来てる。湖から水を引いたわけじゃねえ。
その泥水が目印になったのかどうかもよく分かんねえけどな』
イズミールは黄金の器を指差した。
『どっちにしても、一回成功しただけで仕様を断定すんな。要検証案件だ』
「なんであれ、君が帰ってきてくれて良かった」
『……まあな』
イズミールのヒレが、僅かに伏せた。
ミツバは、黄金の器に残った泥と、イズミールと、井戸を順番に見た。
『イズミ、こたえなかった』
『悪かったって。答えたくても声が出せなかった』
『キコリ、よぶ。ちいさいおみず、うごいた』
「ああ」
『おみずいっぱい。イズミ、おきた』
『まあ、だいたい合ってる』
ミツバは何度か頷いた。
『パパも、おみずいっぱい――』
言葉が止まった。
この井戸から湧き出す水は、すでに遺跡の中を巡っている。
種から伸びた根も、その水を吸い、僅かに色を取り戻していた。
だが、どれほど水や土を与えても、あの種からイルミンスールが目覚めることはない。
イルミンスールの芽になるはずだった胚は、ミルラの若芽を接がれ、ミツバとして発芽した。
彼女の成長とともに、精霊核の主体は父から娘へ移った。
イルミンスールの意志は、もう種の中には残っていない。
ミツバは、種のある暗い通路へ顔を向けた。
『パパ』
井戸の水が、石壁に沿って流れる。
『パパ、こたえて』
壁から垂れた根の一本が、水を吸い上げた。
ミツバは、すぐに次の言葉を重ねず、待った。
かくれんぼで、隠れた相手が答えるのを待った時のように。
それでも、種のある奥から返事はない。
根はただ植物として、水のある方へ伸び、水を吸っている。
それはミツバの声への返事でも、父の意志でもなかった。
『パパ、こたえられない?』
イズミールも、私も、答えを知っていた。
だが、ミツバが初めて自分で辿り着いた問いを、急いで言葉で塞ぐことはできなかった。
ミツバは生きた根と、返事のない遺跡の奥を見比べた。
『ねっこ、いきてる』
『でも、パパ、こたえない。おきない』
花模様の瞳が、私たちを見た。
『パパ、しんでる?』




