EX(118.18).『復世巡行記・世界樹の枯れ森』⑦ ◇★
ミツバが墓標に向けて合わせていた両手を下ろすころ、最後の夕陽が枯れた森の向こうへ沈んだ。
墓標の傍で顔を出した若芽から、橙色の光が静かに退いていく。
同時に、ミツバの頭上にある三枚葉が、急に力を失ったように伏せた。
「ミツバ? どうした」
返事はすぐにはなかった。
花模様の瞳がゆっくりと瞬き、閉じかける。
『おひさま、ねんね』
「ああ。じきに夜になる。ひとまずあの遺跡へ――」
『よる、はっぱ、おやすみ。ミツバも、ねんね』
根でできた足が、土の中へ沈み始めた。
『お、おい、待て待て! ここで寝る気か?』
イズミールが慌てて宙へ浮く。
ミツバの根が地中へ広がっていく。
寄り集まって脚を形作っていた根の境が消え、太い一本の幹へ変わっていった。
褐色の肌に浮かんだ樹皮の筋が、胴から肩へ這い上がる。
枝の腕は持ち上がって梢となり、緑の髪も大小の葉へほどけていく。
『おひさま、おきる。ミツバも、おきる』
ミツバの幼い顔が木肌に変わっていく。
花模様の浮かぶ瞳をゆっくりと閉じながら、ミツバが私たちを呼んだ。
『イズミ、キコリ。おきたら、いる?』
昼間に知ったばかりの、「呼んでも答えない」寂しさが、その問いの奥にあるように聞こえた。
『……いるよ』
「私もだ。おやすみ、ミツバ」
『おやすみ……』
安堵したように声が途絶える。
枝葉の揺れが収まり、地中へ伸びていた根の動きも緩やかになった。
梢に残った色違いの三枚葉だけが、先ほどまでのミツバの面影を留めていた。
苦しむ様子などなかったが、つい先ほどまで話していた者の顔が樹皮へ消える光景に、平静ではいられなかった。
『いきなりすぎるだろ……』
イズミールは若木の根元へ降り、幹へ両手を当てた。
指先から水が染み込み、幹を伝って根へ流れていく。
『……水は吸ってるな。マジで寝ただけっぽい』
「本当に、眠っているだけなのか」
私もイズミールも、眠りを必要としない。
だが、葉で陽を受けるミツバにとって、夜は人の姿を解き、若木へ戻って休む時間らしい。
『木の精霊の生態なんて、俺が知るわけねえだろ。
急にただの木になるなよ。心臓に悪いだろうが……』
「君に心臓はない」
『そういう話してんじゃねえよ、ボケ』
悪態をつきつつ、彼女は若木の前にしゃがみ込んだ。
水はもう根へ届いているはずなのに、彼女は乾きの残る土へ、流れが偏らないよう細い根の間へ水を導いている。
『ここ、ちょっと乾いてんな……ったく、食うだけ食って、暗くなったら寝るとか、ガチでガキじゃねえか』
口は悪いが、その目が子どもたちへ向けるものと同じだった。
彼女がミツバを放っておけないことは、遺言を読む前から分かっていた。
そして、放っておけないものを、自分一人の責任へ変えてしまうことも。
私も、その性分に救われた一人だ。
だから否定するのではなく、一人で抱えさせない。
私は若木の根元に腰を下ろし、イズミールに手を差し出した。
彼女は私の手と顔を交互に見た後、少し迷ってから指を重ねた。
私たちは若木の幹の両側へ背を預け、樹皮の陰で手だけを繋いだ。
二つの月が昇り始めた森で、眠る若木を背に、私たちは互いの姿が見えないまま座った。
(ミツバを、聖地へ連れて帰ることはできないのだろうか)
(……無理だろうな)
イズミールの水が再び根元へ染みた。
地中へ入った水は、目の前の若木だけに留まらない。
幾筋にも分かれ、枯れた巨木の根を伝い、私の感覚では捉えきれない遠くへ広がっていく。
触れた手を通して、その広がりが曖昧ながらも私に伝わってきた。
(この木だけが、こいつじゃない。
あの種から伸びた生きた根も、この森も、全部こいつへ繋がってる)
(森の外まで連れ出せば、どうなる)
(俺と同じなら、身体だけ運ぼうとしたって、途中でただの木に戻るだろうな)
(そうか)
イズミールも元々は水場から離れられない身だったという。
私との結魂を介して、ズミュルナ湖を離れて動ける今のイズミールの方が、むしろ例外なのだ。
(だが、だからと言って、君がここへ留まり続けることもできない)
重ねた指が強張った。
(……分かってる)
(私たちは、この先も各地を巡らねばならない。聖地ではミューズも待っている)
(分かってるって言ってんだろうが)
イズミールの中で、遠い湖の水が揺れた。
(だからって、起きたばっかで、何も知らねえガキを、ここへ置いて帰れってのか)
(そうは言っていない)
(だったら、どうすんだよ)
私が残ればよい。
その答えは、考えるより早く浮かんだ。
イズミールを聖地へ帰し、私がこの森に残る。
そうすればミツバは一人にならず、ミューズが母を待ち続けることもない。
いずれ父がもう起きないと知った時、この子が呼びかける相手まで失わせてはならなかった。
だが、口にする前に気づいた。
あまりにも、私らしい答えだった。
誰かが残らなければならないなら、自分が残る。
誰かが役目を負わなければならないなら、自分が負う。
私はそうして、父の言葉へ、父が口にしなかった役目まで継ぎ足した。
今度はミツバを理由に、新しい役目へ自分を縛ろうとしているだけではないのか。
(今、自分が残ればいいって考えただろ)
触れた手を通して、感情の揺れまで伝わっていたらしい。
(選択肢の一つではある)
(却下だ)
(君が留まり続けるよりはいい)
(それをお前が勝手に決めるなっつってんだよ)
(……すまない)
(簡単に謝って終わらせんな。お前が残れば、俺が平気で帰れると思うなよ)
(私も、君と離れたままではいたくない)
(……俺は、そんな話してねえ)
(私は、そういう話をしている)
(そういうとこだぞ、お前)
樹皮の陰で、イズミールの指から僅かに力が抜けた。
しばらく、言葉は流れなかった。
森の夜は静かだった。
逃げ出した鳥や獣は未だ戻らず、あるいは息を潜めているのだろう。
風が枯れた枝を揺らし、遠くで朽木の一部が崩れる音がした。
(君は、イルミンスールに会いたかったのだな)
(……何で今、その話になる)
(君と同じ言葉で、同じ世界の話ができた者だ)
イズミールが自分の過去を、説明なしに分かち合えたかもしれない相手だ。
その一点においては、私はイルミンスールに妬みさえ覚えた。
(よせ、そんなじゃねえ。俺はただ文句を言いたいだけだ。
趣味の悪さを突きつけて、性癖終わってんなって笑ってやりたかったんだよ)
(それだけか)
(……お前、最近本当に遠慮なくなったよな)
返事をせずに待つ。
しばらくして、ひんやりとした指が握り返してきた。
(……漫画とか、アニメとか、ゲームとか。
あいつなら、俺がいた場所の話を、いちいち説明しなくても分かったかもしれねえ)
(ああ)
(異世界に放り込まれて、人間じゃなくなった愚痴だって、通じたかもしれねえ)
暗い森で、閉じた三枚葉が小さく揺れた。
イズミールは若木の梢を見上げて続けた。
(ガキがいるとこまで似てるじゃん? そんなの普通、被るかよ。ありえねえだろ)
(そうだな。奇妙な巡り合わせだ)
(……会えると思ったんだよ。ほんの少しだけ)
私は返事の代わりに、重なっている指を握り直した。
若木の根を満たした水が、僅かに揺れた。
会えなかった者の代わりになる言葉などない。
私が何かを言えば、彼女の喪失を軽くしてしまう気がした。
(なのに、勝手に死んでて、遺言とガキだけ押しつけやがった)
腹を立てながら、見捨てることもできない。
イズミール自身、追い詰められれば同じことをしかねないと知っているからだ。
(俺がこいつを放っておけないのは、ちびどもに悪いと思うか)
不意に問われた。
彼女らしい懸念だと思った。
(思わない)
(即答かよ)
(君がミツバを案じることと、ミューズを大切に思うことは、同時に成り立つ)
(そうじゃねえ。どっちかのために、どっちかを置いてく形にしたくねえんだ)
イズミールは、眠る若木へ視線を戻した。
(家には俺を待ってるちびどもがいる。こっちにも、危なっかしすぎるガキがいる)
触れた肌から、さざ波の気配が伝わってくる。
(どっちか選べって仕様がクソすぎんだろうが……)
どちらも捨てない方法が、まだ見つからないだけだ。
だが、彼女はもう、片方だけを選ぶつもりなどない。
本当に、度し難い人だ。
だから私は、重ねた手を離せなかった。
(私は、ミツバ自身が生き方を選ぶべきだと思っていた)
(あぁ?)
(だが、選ぶためには、まず知らなければならない。私は、そこを飛ばしていた)
(こいつ、まだパパと水と土と、俺たちくらいしか知らねえぞ。
そんなガキに好きな道を選べって言って、自由もクソねえよ)
イズミールの指が、私の手を強く掴んだ。
(好きに生きろってのは、勝手にしろって意味じゃねえだろ)
(ああ)
私は、父の言葉を自分だけの使命にし、誰にも問い直させなかった。
ミツバに必要なのは、父の願いの正解ではない。迷った時、問いかけに答える相手だ。
(今すぐ、ミツバの生き方を決める必要はない)
(今さら気づいたか、このボケナス)
(ああ。今さらだ)
私は言葉を選びつつ、続ける。
(なら、明日、ミツバが起きたら、三人で話そう)
(何をだ)
(私たちが、いつまでもここにいられるわけではないこと。
君は湖へ戻れること。
その間、私がここへ残る案もあることだ)
(こいつに、お前が残るか決めさせんのか?)
(違う。生き方を決めさせるのではない)
私は、背にした若木を見上げた。
(本人に黙って、目を覚ました時に誰がいるのかを決めたくない)
イズミールは、すぐには反論しなかった。
(夜はどこで眠れば安全なのか。水は足りているのか。
私たちが離れる間、何が不安なのか。今のミツバに分かることから聞こう)
(……そこまでならな)
(君だけなら、聖地へはすぐ戻れるのだろう?)
イズミールの核は、ズミュルナ湖の神域にある。
この精霊体を崩して湖へ意識を戻せば、彼女だけならいつでも帰れる。
(帰るだけならな。けど、お前が聖地へ帰ってこないと、俺は湖から先へ動けねえ)
私には同じことはできない。
私が森へ残れば、イズミールが再びここへ来るには、私が聖地まで戻って共に同じ道を引き返すほかない。
(それでも、私たちだけでできることには限りがある。どこかで助けを求める必要がある)
(何が足りないのかすら、まだ分かってねえだろうが)
(そうだな……そうだった)
いつからか私は、夜が明けるまで考え続けることを苦にしなくなっていた。
疲れもしない。
眠気に思考を断ち切られることもない。
だから、答えの出ない問いの周りを、いつまでも歩き続けていたのかもしれない。
(……眠る必要がないというのも、考えものなのだな)
触れた手の向こうで、イズミールが笑った。
(やっと分かったか。考え続けりゃ、いつか正解に辿り着くってもんじゃねえんだよ、ばーか)
(そうだな)
(帰りが遅くなるかもしれねえって、ミューズには伝えてある。
リディアもついてる。俺たちだけで、今夜中に片づける必要はねえ)
イルミンスールは、誰にも助けを求められない場所で、一人で選ぶしかなかった。
だが、私たちには帰る場所がある。
助けを求められる者たちもいる。
聖地とこの森の間に、今はまだ道がないだけだ。
(つーか、出張先で育児までするとか、完全に業務範囲外だろ。特別手当もんだぞ。
のじゃ様たちもガッツリ巻き込んでやろうぜ。なんだかんだ、ガキの相手好きだしな、あいつら)
(君には言われたくないと思うが)
(なんで、そう一言多いんだよ、お前は!)
文句を言いながら、イズミールの手が、私の手を握り返した。
まだ、何も解決してはいない。
今夜決めたのは、朝になったらミツバの話を聞くことだけだ。
イズミールが湖へ帰れば、次にこの森へ来られるのがいつになるかは分からない。
誰へ助けを求め、ミツバに何を用意すべきかも、まだ知らなかった。
二つの月が、枯れた枝の間をゆっくりと渡っていく。
やがて、月が離れていくと共に、遠い峰の向こうが白み始めた。
巨樹の隙間から、最初の朝陽が若木へ差した。
梢で閉じていた三枚葉が、光を受けて開いた。
枝葉がざわめき、緑の髪へまとまっていく。
幹の表面が滑らかな褐色の肌へ変わり、左右へ分かれた根が二本の足になった。
木肌の中から幼い顔が現れ、花模様の瞳がゆっくりと開く。
ミツバは大きく両腕を伸ばした。
枝の節が鳴り、乾いた音が森へ響いた。
『おひさま、おきた。ミツバ、おきた』
その目が、まずイズミールを捉えた。
『イズミ』
『おう、起きたか』
次に、私を見る。
『キコリ』
「ああ、おはよう」
三枚葉が、いっぱいに開いた。
『よぶ。こたえる。いいね』
微笑むミツバの目が、私たちの間へ下がった。
私とイズミールは、ミツバの目覚めに合わせて立ち上がっていたが、手をつないだままだった。
『なかよし!』
『いや、これは会議に必要だっただけで――』
「ミツバの言う通りだ。私たちは仲良しだ」
『即答すんな!』
私は、その手を離さなかった。
『テェテェ』
頭の若枝が、朝日の中で楽しそうに揺れた。
『だから、それは忘れろ!』




