EX(118.17).『復世巡行記・世界樹の枯れ森』⑥ 〇★
刻まれた文字は、あれで終わりだった。
ミツバは、俺たちが何を読んでいたのかも知らず、床に茸らしき歪な丸を描いていた。
「……とりあえず、外に出るか」
これ以上、ここに居てもイルミンスールの言葉が増えるわけでもない。
ミツバへ何を伝えるのか。
どうすれば、いつか、あの種がもう起きないことを、こいつ自身が受け止められるようになるのか。
今すぐ答えは出せない。
だからまず、こいつが見て、触って、分かるものから探すしかない。
少なくとも、死んだ奴の遺言を読んで頭を抱えているだけじゃ何も変わらない。
『ママ、そと、いく?』
「だから、ママじゃねえって」
反射的に訂正してから、今さら気づいた。
俺たちはこいつへ、ミツバという呼び名を渡した。
けれど、こいつに俺たちをどう呼べばいいのかを、まともに教えていなかった。
ミツバと呼ぶことだけは、あれほど慎重に決めたくせに。
自分たちのことは、すっかり抜け落ちていた。
「俺はイズミールだ。まあ、何度か聞いてるだろうけど」
『イズ、ミー……』
ミツバは難しい顔をした。
三枚葉まで、中央へぎゅっと寄っている。
『イ、ズミ』
「最後どこいった」
『イズミ』
頭の若枝が、これで決まりとでも言うように立ち上がった。
なんとも雑な縮め方だ。
けれど、口にされると妙にしっくりきた。
「……まあ、呼びやすいなら、それでいい」
『イズミ』
「おう」
呼べば返事が来るのが面白いのか、ミツバの三枚の葉が、ぱっと開いた。
『イズミ! イズミイズミ!』
「おう、おうおう……って、遊ぶな」
『いいね』
満足そうに三枚葉を揺らすミツバの前へ、アイオリスが一歩進み出た。
「私はアイオリスだ」
『ア、イオ……リ……』
ミツバはさっきよりもっと難しい顔をした。
三枚葉がへなりと倒れた。
駄目だな、これは。
「こいつはキコリでいいぞ」
「君が決めることではない」
「分かりやすいだろうが。斧背負ってんだし」
「木を伐りに来たわけではない」
いちいちうるせえ野郎だな。空気読めや。
俺は木こり野郎の足を踏んづけた。
『キコリ、いや?』
ミツバが首を傾げる。
アイオリスは、責めるような目で俺を見た。
言い出したのは俺だが、決めるのはミツバと本人だ。
「君が呼びやすいなら、それで構わない」
ミツバは、俺とアイオリスを交互に見た。
『キコリ!』
「ああ」
『イズミ!』
「おう」
『よぶ。こたえる』
ミツバは、もう一度、俺たちを順番に指差した。
俺たちが答えるたび、花模様の瞳が柔らかく細められ、三枚葉が嬉しそうに揺れる。
『いいね』
アイオリスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
俺は見なかったことにして、隠し部屋の出口へ向かった。
大精霊の種が鎮座する広間を通り過ぎる時、ミツバは一度だけ足を止めた。
『パパ、ミツバ、イズミ、キコリ、そと、いく』
返事のない種へ、両手を振る。
『ミツバ、おいしいつち、みつける』
俺もアイオリスも、その言葉には答えなかった。
※※※※※
地上へ戻ると、太陽はだいぶ傾いていた。
樹冠のない立ち枯れた木。折り重なって横たわる木。
まばらになった森へ、橙色の光が斜めに差している。
遠くから鳥の声は聞こえるが、枯れた世界樹の森には、まだ生き物の気配が少ない。
ミツバは根の足を土に食い込ませて、崩れた斜面を難なく登っていった。
『イズミ。おいしいつち、どこ?』
「それを今から探すんだよ。
あいつめ、世界樹の森グルメガイドくらい用意しとけってんだ」
『グルメ』
「それは覚えなくていい」
イルミンスールの遺言を読んだ今なら、「おいしい土」が、ただの肥えた泥じゃないことは分かる。
だからといって、あの種が朽ちてできた土を、いきなり吸わせる気にはなれなかった。
まずは別の場所で、ミツバが何を美味いと感じているのか確かめたい。
『おいしいつち。さがす』
ミツバが、大股で歩き出した。
俺たちは、その後を追う。
巨大な身体の割に、やっていることは宝探しだ。
地面へ顔を近づけては首を傾げ、根を伸ばしては引っ込める。
俺たちの歩幅を忘れて先へ行きかけるたび、振り返って待つことも覚えたらしい。
『イズミ。キコリ。あるく、ちいさい?』
「お前がデカすぎんだよ」
『ミツバ、ヨユウ』
「おいこら、あぶねえから勝手に行くな」
手を繋ぐにはデカすぎる。俺はミツバの手から垂れた蔓を掴んだ。
目配せすると、アイオリスが反対側で同じように蔓を手にした。
浮いたまま蔓を掴んでいると、俺が風船みたいなので、仕方なく歩くことにした。
これはこれで、幼女に散歩させられてるみたいでアレだが、しょうがない。
しばらく進んだところで、ミツバの足が止まった。
倒れた巨木が、別の巨木の根元へ寄りかかっている。
幹の半分は白く乾いていたが、地面に接した側は黒く崩れていた。
黄金になる前から、既に倒れて腐り始めていたんだろう。
剥がれた樹皮の下を、白い糸のようなものが這っている。
湿った木屑の間から、小さな茸がいくつも傘を出していた。
その周りだけ土の色が濃い。
緑の苔、灰色の苔が、まだら模様に広がっていた。
ミツバの足元から、細い根が伸びる。
考えて動かしたというより、匂いにつられたみたいな反応だった。
頭の三枚葉も、僅かに持ち上がる。
『おいしい』
「まだ食ってねえだろ」
『きのこ、ある。ここ、おいしいつち』
根の先が、茸の周りを探るように揺れた。
「パパに教わったのか?」
『パパ、いった。きのこ、いるところ、おいしいつち、ある』
そうか。
俺は、隠し部屋の壁に描かれていた絵を思い出した。
太陽、水、木、花、鳥、獣。
その中には、大小の茸もあった。
あの絵は、ただ楽しいものを並べただけだったのかもしれない。
けれどミツバにとっては、森で生きていくための目印にもなっていた。
「パパは茸が土を作るって言ってたか?」
『つち、つくる?』
ミツバは意味が分からないように首を傾げた。
ミツバが教わったのは、茸を目印に土を探すことだけで、仕組みまでは知らないようだ。
「枯れた木を、茸が細かくしてんだ」
アイオリスも朽ち木の傍へ屈み、朽ちた樹皮へ指を当てた。
「この辺りは、どこまでが木で、どこからが土なのか、もう分けられない」
ミツバはじっとそれを見つめている。
『きのこ、き、つちにする?』
俺は答える代わりに、黒い土の傍へしゃがみ、指先から少しだけ水を流した。
水が、崩れた木屑へ染み込む。
白い糸の間を通り、重なった落葉の下の土へ染み込んでいく。
俺の水の中に、崩れた木屑や落葉、土に混じった養分が溶け込んでくる。
汚れや濁りは嫌いだ。
けれど、ミツバにとって美味いのは、何もかも取り除いた、綺麗なだけの水じゃない。
湿った土の中に、ミツバから伸びた根が潜り込む。
ミツバは手を合わせて言った。
『イタダキマス』
「……おかわりもいいぞ」
『オカワリ?』
「いっぱい食えってことだよ」
『うん。おみず。つち。おいしい、いっぱい。いいね』
三枚葉を揺らして、嬉しそうに水と土を根で味わうミツバを見ていると、泡の丘での人間たちの暮らしを思い出す。
食べて、飲んで、眠る。
樹木の精霊っていうのは、水の精霊よりも生き物に近いんだろう。
考えてみれば当たり前の話だった。
むしろ、生きて考える水の方がどうかしてる。
これまで会った精霊は、水の精霊ばかりだった。
樹木の精霊については、何も知らなかった。
イルミンスールは、一本の木じゃない。
俺が泉から湖へ広がったように、この森全体を、自分の身体として感じていたはずだ。
落ちた葉も、枯れた枝も、森で死んだ獣も、やがて土になって根へ戻る。
人間の感覚ではえげつないが、森にとっては、それが食べて生きるということなんだろう。
八龍と付き合ってきた俺には、精霊の常識が人間と同じではないことくらい分かっている。
水と土を食って育つ、クソデカ樹木幼女。
見た目に引っ張られて、人間の幼児と同じ常識だけを押しつけるのも、たぶん違う。
俺と同じ元人間のイルミンスールも、最初から精霊の常識を知っていたわけじゃないのかもしれない。
あいつも、こんなふうに手探りで精霊の子育てをしていたんだろうか。
そんなことを考えていると、アイオリスが声を上げた。
「ミツバ、待つんだ。それ以上はいけない」
『おいしいの、だめ?』
なに子どもの食事の邪魔をしてんだ、お前、と一瞬思った。
けど、目を向けると、ミツバの根の周りから、急速に湿りが引いていた。
苔の色が薄くなり、茸の傘も僅かに伏せ始めている。
「待て待て。食うの、ストップ!」
『おいしいつち……ゴチソウサマ』
ミツバは名残惜しそうだったが、素直に根を引いた。
俺はそこにもう一度水を流し込んでおいた。
養分の有無が美味しさってことは、際限なく吸わせたら土地が痩せるのか。
子どもの食欲、舐めてた。あぶねえ。
「場所を移すぞ、他の土も食ってみたくないか?」
『おいしいの、たべる!』
※※※※※
再びミツバと並んで、薄暗くなってきた枯れ木の森を歩く。
倒木から少し離れた場所で、動物の死骸を見つけた。
毛皮の張り付いた小さな獣の骨だった。
いつ死んだものかは分からない。土へ半ば埋もれている。
その周囲だけ、土の色が濃かった。
ミツバの根が、迷わずそちらへ向かった。
「待て」
俺が声を上げると、根の先が止まった。
『だめ?』
「それは……死骸だぞ」
『しがい?』
言ってから、何が駄目なのか自分でも分からなくなった。
さっきの枯木も落葉も、死んだものだ。
木ならよくて、獣なら駄目だというのは、俺の中に残っている人間の境界でしかない。
それでも、白い骨へ向かって伸びる根を見た瞬間、身体が先に止めていた。
理解したことと、平気でいられることは別らしい。
ミツバは、土と骨を見比べている。
「その獣は死んでいる」
アイオリスが、ミツバへ短く告げた。
ぎくりとした。
けれど、眠っていると誤魔化せば、こいつを外へ連れ出した意味がない。
『しんでる』
「ああ」
『ねんね?』
「違う。死んだものは、起きない」
ミツバの頭の若枝が傾いた。
根の先が骨へ触れない位置で、土の中を探る。
『おきて、って、いっても?』
「呼んでも、答えない」
『おきない。こたえない』
「ああ」
アイオリスはそれ以上説明しなかった。
ミツバは、黒い土へ向けていた根を、自分から引き戻した。
食べてはいけないものだと思ったわけではないだろう。
ただ、俺たちが止めた理由を、考えようとしているように見えた。
「ミツバ」
しばらくして、アイオリスが森の奥へ顔を向けた。
「もう一か所、見てほしい場所がある」
その方向に何があるのか。
行き先は、聞かなくても分かった。
「……いいのか」
「ああ」
『おいしいつち、ある?』
「……あると思う。だが、それだけではない」
アイオリスは森の奥を見た。
「私の仲間がいる」
ミツバは少し考えた。
『なかま。キコリの、なかよし?』
アイオリスの歩みが、僅かに遅くなる。
「……そうだ。一緒にこの森に来た」
『なかよし』
ミツバは納得したように繰り返し、俺たちの後をついてきた。
※※※※※
アイオリスが向かった先には、見覚えのある岩があった。
岩陰の土へ、折れた剣が突き立てられている。
ミツバと会う前、アイオリス自身の手で骨の欠片を埋め、墓標代わりに立てたものだ。
岩陰の土は僅かに湿っていた。
剣の少し離れたところから、小さな若芽が顔を出している。
黄金が解けたあとに芽吹いたようだが、力なく萎れている。
ミツバは、墓標を見下ろした。
『これ、キコリの、なかよし?』
「この下に、仲間の一人の骨を埋めた」
ミツバは地面へ突き立てられた折れた剣へ顔を寄せた。
『なかよしの、たね?』
「違う。これは種じゃない」
アイオリスは折れた剣へ手を添えた。
「この人がここにいたことを、忘れないための目印だ」
『なかよし、つちのなか?』
「ああ」
ミツバは剣と、その根元の土を交互に見た。
『たねじゃない?』
「違う」
『したで、ねんね? キコリも、おきるの、まってる?』
アイオリスは、すぐには答えなかった。
折れた剣を握る指へ、僅かに力が籠もる。
「待ってはいない」
『おきないから?』
「ああ。彼は死んだ。もう起きない」
ミツバは、しばらく剣を見つめた。
それから、アイオリスへ目を移す。
『キコリ。いたい、くるしい?』
「いや。寂しい」
短い返事だった。
けれど、誤魔化さなかった。
『さびしい』
「会えないことを寂しいと言う」
ミツバの枝の手が、アイオリスの肩へ伸びた。
大きすぎる指先は、触れる直前で止まった。
代わりに、足元の根が土の中へ潜った。
墓を避けるように遠回りしながら、黒く湿った場所へ向かう。
だが、根は途中で止まった。
『おいしいつち、ある』
ミツバはアイオリスを見る。
『ミツバ、たべる。だめ?』
アイオリスが寂しいと言った場所だからだろう。
今度は、勝手に吸おうとはしなかった。
「この人が、いいと言うかは、もう聞けない」
アイオリスは、剣から手を離した。
「だから、この人の言葉ではなく、私の気持ちを言う」
地面へ片膝をつき、ミツバを見上げる。
「私は、ミツバに元気でいてほしい。だから、この土を食べてほしい」
死んだ仲間の望みを代弁せず、自分の願いとして引き受ける。
嫌になるほど、こいつらしい言い方だった。
こいつがそのつもりなら、俺も黙ってばかりじゃいられない。
「……俺もだ」
ミツバが俺を見た。
「寂しい」が何なのかを掴みかけているのかもしれない。
でも、それを理由に食べられなくなってしまうのは、違う。
「俺も、お前が元気な方が嬉しいよ」
ミツバは墓標とアイオリスを、何度も見比べた。
やがて、枝の両手を胸の前で合わせる。
あの時は、死んだ奴を送るために手を合わせた。
今、ミツバは、その死から何かを受け取ろうとして、同じ形に手を重ねていた。
『イタダキマス』
細い根が、ゆっくりと土へ沈んだ。
俺は指先を地面へ向けたまま、一瞬だけ動けなかった。
水を流せば、土へ混じったものをミツバの根まで運ぶことになる。
俺の中にも、人の身体が還った土を、ミツバに食わせることへの抵抗は残っている。
理屈では分かっていても、人間だった頃の感覚が止めようとする。
理解できることと、平気でいられることは別だ。
だからといって、ミツバやイルミンスールの在り方を間違いだなんて言えない。
「そのままじゃ、吸いにくいだろ」
俺は墓の手前へしゃがみ込み、土を濡らす程度の水を流した。
水が落葉の隙間へ入る。
腐った木屑を通り、菌糸へ触れ、黒い土の中へ広がっていく。
その中に混じるものを、もう一つずつ見分けることはできなかった。
落ちた葉。
枯れた草。
小さな生き物。
そして、かつてアイオリスの仲間だったもの。
もう呼んでも答えず、何を望んでいるかを聞くこともできない。
俺はそいつがどんな姿で、どんな奴だったかも知らないが、アイオリスが覚えている。
墓を作り、剣を立て、俺に話を聞いてほしいと言った。
ここに埋められた仲間が確かに生きていたってことを、俺にも知ってほしがっている。
俺の水は、死んだ奴を生き返らせることはできない。
けれど、残されたものを、生きている方へ流して運ぶことはできる。
水が、ミツバの根へ吸い込まれていく。
頭上の葉が少しずつ持ち上がり、若草色の髪にも艶が戻った。
だが、ミツバは、吸い上げた水を自分の中だけに留めなかった。
根の中で流れが枝分かれし、別の細い根を通って、再び地中へ潜っていく。
水は墓標の傍を通り、萎れていた若芽の根へ届いた。
伏せていた一枚の葉が、ゆっくりと起き上がる。
「……ミツバ、あれ、お前がやったのか?」
『キコリ、なかよしの、つち。イズミ、おみず』
ミツバは、アイオリス、墓標、俺、そして若芽を順番に見て、言った。
『ミツバ、いっぱいもらった。ミツバも、あげる』
どこまで理解して、そうしたのかは分からない。
俺が運んだものはミツバへ届き、ミツバを通って、若芽へ流れた。
森から受け取り、森へ返す。
ミツバは、もらったものを自分の中だけに留めなかった。
ミツバが根を土から引き抜いた。
黒い粒が、細い根の間から地面へ落ちる。
頭上の三枚葉は、さっきより少しだけ色を取り戻していた。
ミツバは墓標を見た。
アイオリスを見た。
それから、葉を起こした小さな若芽を見た。
『キコリ、まだ、さびしい?』
「ああ」
『でも、つち、おいしい』
「ああ」
ミツバの若枝が、考えるように傾いた。
『しんでる。さびしい。おいしい。いっしょ、いい?』
「ああ。一緒でいい」
俺の中にも、かつて人間だったものを食わせることへの抵抗は残っている。
それでも、これが森の命の巡りだということも、もう分かっていた。
「キコリが寂しいことを、全部分からなくてもいい」
俺はミツバを見上げた。
「お前が土をおいしいと思ったことも、そのままでいい」
それは、ミツバだけでなく、俺自身に向けた言葉でもあった。
ミツバは、その言葉を抱えるように、自分の胸へ両手を当てた。
折れた剣の傍で、小さな若芽と、ミツバの三枚葉が同じ風に揺れた。
やがてミツバは墓標へ向き直り、枝の手を合わせた。
『ゴチソウサマ』




