EX(118.16).『復世巡行記・世界樹の枯れ森』⑤ 〇★△◆
<おまけ>
118.15++.俺の森、俺たちの森 ◆
(世界樹の森へ黒禍が広がる以前の話)
◆◆◆◆◆
生まれたばかりの彼女は、若草の髪を揺らして首を傾げた。
『パパ、アルジサマ、オニイチャン、ダンナサマ。これらは、あなたの夢なのですよね?』
『そうだな。どれも夢と希望が詰まった、素晴らしい呼び方だ』
『では、その夢の呼び方ではなく、あなた自身のお名前はなんというのですか?』
俺は答えに詰まった。
使う機会がなかっただけで、名前なら覚えている。
俺の精神と記憶の元になった、日本人の男の名前。
扶桑 樹。
木の精霊になるため、生まれた時から親に伏線を張られていたみたいな名前だ。
まさか、あのクソメール、名前で向き不向きを判定したんじゃないだろうな。
『名前なぁ……あるにはあるんだけどな』
『教えてはくださらないのですか?』
『いや、元の男と同じ名前を名乗るのも、なんか違う気がしてな』
せっかく異世界で生まれたのだ。
しかも、ただの木じゃない。
二百メートル級の巨大樹が立ち並ぶ、広大な森そのもの。
大精霊様だ。
それらしい名前の一つくらい名乗っても、罰は当たらないだろう。
『ユグドラシル……』
『ユグドラシル?』
『いやいや、さすがに安直すぎるか』
『安直なのですか?』
『メジャーすぎる。ほかに樹木精霊へ転生した奴がいたら、絶対に被るわ』
『あなたのような方が、ほかにもいるんですか?』
『知らん。だからこそ、被ったら嫌なんだよ』
神話や伝承の記憶を探る。
世界樹っぽい感じの、少しマイナーなところから。
『……イルミンスール』
『イルミンスール?』
『ああ。それが今の俺の名前だ』
我ながら単純なもので、そう決めた途端、本当にそれが俺の名前になった気がした。
彼女は、その音を確かめるようにゆっくり口にした。
『イルミンスール』
それだけなのに、森じゅうの葉が、風もないのにざわりと揺れた。
森として目覚めた時よりも。
今この瞬間の方が、自分がこの世界へ生まれたような気がした。
『では、イルミンスール』
『うん』
『私の名前は、オマエでよいのですか?』
『違う違う違う。断じて違う!』
俺は慌てて枝葉を鳴らした。
彼女は、俺が造り出した精霊体だ。
だが、既に俺とは違うことを考え、俺が予想していない言葉を返してくる。
なら、彼女にも、彼女自身の名前が必要だ。
『そうだな……』
ヒロインの名前は大事だ。
可愛くて、綺麗で、呼びやすい名前がいい。
二人とも植物系なんだし、一体感も欲しい。
アネモネ、イチョウ、ウメ、エーデルワイス、オミナエシ。
……駄目だ。方向性が迷子だ。
風が吹き、彼女の身体から、ほんのりと甘く、土っぽい香りが漂ってきた気がした。
本当に匂いを感じたのかなんて、知るもんか。
パーフェクトな俺の嫁なんだから、良い匂いがするに決まっている。
……そうだ。
『ミルラ』
『ミルラ?』
『木から採れる、香りのある樹脂の名前だ』
『それが、私の名前ですか?』
『嫌なら別のを探す。お前が気に入らない名前じゃ意味ないからな』
彼女は胸の前で指を合わせた。
声には出さず、口の形だけで何度か名前を繰り返す。
やがて、花模様の瞳が柔らかく細められた。
『ミルラがよいです』
『よし、決まりだな。よろしく、ミルラ』
『はい。イルミンスール』
森に、二つの名前が生まれた。
※※※※※
それから俺は、ミルラへ森のいろいろなものを見せた。
葉の先に残る朝露。
枝の隙間から差し込む太陽。
近づいては離れていく二つの月。
日陰に並ぶ小さな茸。
季節ごとに咲く草花。
幹を登る獣や、樹冠の上を飛び交う鳥。
あと、なんかキモい虫。
ミルラは何を見ても、俺へ報告した。
『イルミンスール。赤いお花が咲いています』
『知ってる。そこも俺だからな』
『では、こちらの白い茸もイルミンスールですか?』
『それ、知らんうちに生えた。ほっとけ』
『茸が生えたところが傷んでいます。追い払いますか?』
『いや、食わせてやれ。森は持ちつ持たれつだからな』
『食べられているのに、よいのですか?』
『草を食う動物がいるだろ? あれと似たようなもんだ。
そのうち、おいしい土を作ってくれるぞ。楽しみにしとけ』
『おいしい土』
森の地下に馬鹿でかい遺跡を見つけた時には、石壁に刻まれた浮き彫りを一緒に眺めた。
『これは、なんですか?』
『古代人の漫画だな』
『マンガ』
『見たものや、伝えたいことを絵にしたやつだ』
『イルミンスールは描かないのですか?』
『俺が真似して描いたら、同人誌だな』
『ドウジンシ。見たいです。あなたの描いたものが』
『……そのうちな』
俺は、もともと絵心がある方じゃない。
手足もない。
だが、根の操作を極めれば、いろいろできるかもしれない。
《元素操作(木)》を、初めて真面目に練習しようと思った。
最初に描いた太陽は歪んだ。
水は蛇にしか見えず、花と茸は区別がつかなかった。
それでもミルラは、一つ描き終えるたびに喜んだ。
俺が話せば、ミルラは答えた。
ミルラが尋ねれば、俺も答えた。
最初は、俺が一方的に教えるだけだった。
けれどミルラは、俺とは違うものの見方で、思いもよらない答えを返すようになった。
ある日、ミルラが俺を呼んだ。
『ねえ、旦那様』
『今日はそれなのか?』
『はい』
『理由を聞いても?』
『ふふ、私が、そう呼びたいと思ったからです』
俺は、しばらく返事ができなかった。
代わりに森じゅうの枝葉を鳴らすと、ミルラは楽しそうに笑った。
俺がミルラと呼べば、彼女は必ず答えた。
彼女がイルミンスールと呼べば、俺も必ず答えた。
そうやって、俺の森は、少しずつ俺たちの森になっていった。
大精霊の種は大きく欠け、若芽は出ていなかった。
根だけは、まだミツバへ水を送っている。
けれど、ミツバの呼びかけに応えることはない。
それでも、ミツバはパパが眠っているだけだと信じていた。
俺は隣にある手を握ったまま、巨大な種を見上げた。
(……馬鹿野郎が、こんなガキを一人で置いていきやがって)
(この森は深淵に堕ちかけていた。彼女が残っているだけでも奇跡的だ)
(遺跡に隠れてたから無事だったってことか?)
(黒禍は城壁さえ喰らう。だが、ここは大きく崩れてはいない)
(何か、手掛かりが残ってるかもしれないか……)
けれど、何をどう調べればいいのかも分からない。
そう思った時、暗い通路でミツバが口にした言葉を思い出した。
――『ドウジンシ』
ミツバは、日本語の音を覚えているだけで、その意味を理解していない。
世界樹のオタク野郎が、古代人の浮き彫りをそう教えたのか。
でも、それなら同人誌じゃなくて、漫画だと説明するんじゃないか?
古代人が刻んだものが原作なら、その二次創作――奴自身の描いた同人誌が、どこかにあるのかもしれない。
「ミツバ」
『ん』
「あの壁の浮き彫り――ドウジンシ。お前のパパが描いたものも、どこかにあるのか?」
ミツバの頭の三枚葉が、ぴんと持ち上がった。
『ある。パパ、かきかき。いっぱい』
床に積もった土をせっせと集めていたミツバが、手を止めて立ち上がった。
巨大な種へ一度触れてから、その裏側へ回る。
『パパのドウジンシ、こっち。ミツバ、みせる』
巨大な種の鎮座する壇の裏手へ進み、根の絡んだ石壁の前で足を止めた。
ミツバの足元から細い根が伸び、幾重にも重なった枯れ根へ触れる。
乾いた音を立てながら根が左右へ引かれ、奥に細い通路が現れた。
「隠し部屋かよ」
『ドウジンシ、こっち! こっち!』
手を振りながら通路へ向かうミツバの後を、俺たちは追った。
※※※※※
通路の先には、元の部屋より小さな石室があった。
古代人の尺度なら、物置ほどの広さなのかもしれない。
それでも、俺たちには十分すぎるほど広い。
天井と壁、床に細い根が這っているが、どれもしなびて枯れていた。
奥の石壁には、いくつもの絵が刻まれていた。
丸と線で表した太陽。
蛇行する線は、川か水。
立ち並ぶ木々。
根元に咲く草花。
大小の茸。
鳥や、獣らしきもの。
どれも石壁の表面を浅く削って描かれた、素朴な線画だ。
うまい絵じゃない。
画用紙にクレヨンで描いた落書きじみた絵だった。
『おひさま』
ミツバが絵を指差す。
『おみず。き。おはな』
枝の指が、次々と壁の上を移動する。
『きのこ、いっぱい』
「これが、パパのドウジンシか?」
『うん。たのしい』
そこには不吉なものは何も描かれていなかった。
怪物も、枯れた森も、朽ちた種もない。
平凡で、穏やかな森の景色だけが描かれていた。
「……楽しいものだけ描いたんだな」
『たのしい、いっぱい。おひさま、みた。いっしょだった!』
「ああ」
ミツバは太陽の絵に手を伸ばし、枝の指で輪郭をなぞり始めた。
俺はそこから目を逸らし、隣の壁へ視線を移した。
その表面には、細かな傷がびっしりと並んでいた。
縦と横。
曲線。
見覚えのある形。
――日本語だ。
(おい、あれ……故郷の文字だ)
ミツバを見つめていたアイオリスが、こちらへ目を向けた。
(読めるのか)
(ああ)
俺は壁へ近づいた。
石か何かで、一文字ずつ削ったらしい。
文字の深さも、大きさも揃っていない。
後半へ進むほど、字は浅く乱れていた。
俺はアイオリスの手を握り直した。
(今から読んで伝える。ミツバには、まだ黙ってろよ)
(ああ。頼む)
ミツバは、日本語の刻まれた壁には興味を示さず、楽しそうに絵を眺めていた。
俺は、最初の文字へ目を落とした。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
ようこそ、わが家へ。
この世界に、これを読める奴がいるかは分からない。
これを読めるなら、たぶん俺と似た事情を持っている奴だと思う。
それとも、実は日本語が通じる世界だったりするんだろうか。
俺はこの森から動けなかったから、外の世界のことをほとんど知らない。
これを読んでいるということは、俺はもうこの世にいないんだろう。
ネタじゃない。ガチだ。
せっかくだから、一度書いてみたかったというのもマジだが。
俺の名前はイルミンスール。
この森の精霊だ。
俺はこの森で、嫁のミルラと二人で暮らしていた。
ミルラは、俺が造った木の精霊体だ。
俺とは別の心を持ち、俺の知らないことを考え、俺の言葉へ返事をしてくれた。
けれど、その心を支える魂の根は、俺の精霊核とつながったままだった。
俺とミルラは、敵にやられた。
黒禍、深淵、魔樹。
どの呼び方が正しいのかは知らない。
あの敵と、俺たち樹木の精霊は相性が最悪だった。
奴らは、水と土から混ざってきた。
森や木は、水と土を吸わずには生きられない。
水源を押さえられた時点で、初めから勝ち目がなかった。
先にミルラが倒れた。
蝕まれた身体は浄化した。
けれど、意識が戻ることはなかった。
名前を呼んでも、返事がなかった。
残ったのは、ただの樹のように動かなくなった身体と、まだ生きている若芽だけだった。
ミルラの心が消えれば、分体である身体も、いずれ枯れる。
俺が死ねば、最後の若芽も生きられない。
俺は、汚染された水と土を吸わないよう、森じゅうに広がっていた精霊核の焦点を、地下の種へ集めた。
けれど、それで助かるわけじゃなかった。
外の森も俺だ。
隠れている間にも森は侵され、俺の意識は薄くなっていった。
だから俺は、自分の種から胚を切り出した。
その胚を台木にして、ミルラの若芽を接いだ。
俺を台木。ミルラの若芽を穂木にした接ぎ木だ。
接ぎ目が馴染むほど、精霊核の焦点は、森としての俺からミルラの芽へ移っていった。
核は一つのままだ。
けれど、そこで育ち始めた意識は、俺でもミルラでもなかった。
俺の意識が薄くなるほど、その子の存在が強くなった。
移植が終われば、イルミンスールという精霊はいなくなる。
そして、この森は、その子の森になる。
ミルラを諦めきれなかった。
自分が消えるのも怖かった。
どちらも残そうとして、どちらでもない誰かを作った。
それが正しかったのかは、今も分からない。
接ぎ木から、ミルラの面影を持つ幼い精霊体が生まれた。
一度だけ、その子を目覚めさせた。
その子は、俺を見てパパと呼んだ。
パパと教えた覚えはない。
ミルラの若芽に残っていた呼び方を拾ったのだと思う。
笑った顔は、ミルラとそっくりだった。
けれど、俺を見つめる目は違っていた。
そこにいたのは、俺でもミルラでもなかった。
俺の精霊核を受け継いでいても、この子は俺ではない。
ミルラの姿や記憶を受け継いでいても、この子はミルラではない。
誰かの魂や記憶から生まれたとしても、この子はこの子だ。
俺も、そうだった。
ミルラと呼んで育てれば、この子はそれに応えようとするだろう。
そして俺は、きっと以前のミルラと比べてしまう。
そんなのは、お互いに不毛すぎる。
それに、もう悠長に過ごしていられる余裕もなかった。
俺の核から、森へつながる力と役目が、この子へ渡り始めている。
けれど、今すぐ全てを渡せば、森から伝わる痛みまで、この子へ移ってしまう。
だから俺は、この子をもう一度、種まで戻して眠らせた。
小さな種へ包み、胚を切り出した跡へ埋め戻した。
俺自身が、この子を育てる鉢になる。
水と土から敵の気配が消えた時に、目覚めるようにしておいた。
そんな日が来る保証はない。
それでも、少しでも生き延びられるようにしたつもりだ。
俺が死ぬことは伝えられなかった。
まだ、死を説明して理解できるほど育っていなかった。
理解できたなら、種へ戻ることを拒んだかもしれない。
俺の身体を糧にすることも、俺が残した水や土を受け取ることも拒んだかもしれない。
だから、あとで起こすとだけ伝えた。
目覚めた時に俺がいるとは言わなかった。
けれど、そう思わせたまま眠らせた。
言葉にしなかっただけで、嘘を吐いたのだと思う。
この子はこの子だと言いながら、名前さえつけてやれなかった。
今でもどこかで、ミルラだったことを思い出してくれるんじゃないかと期待している。
未練を捨てきれず、子どもとしても扱いきれないままだった。
ミルラとして目覚めたなら、もう一度、俺の名前を呼んでほしい。
けれど、ミルラではない誰かとして目覚めたなら、それでもいい。
俺たちの代わりになる必要はない。
森を守るためだけに生きなくてもいい。
好きな名前を選んで、好きなように、できるだけ楽しく生きてほしい。
これを読んでいる人へ。
頼めた義理じゃないが、一つだけ頼みがある。
もし、あの子が自分からミルラと名乗り、イルミンスールの名を呼んでいたなら。
ここに書いたことを伝えてほしい。
もし、別の名前を選び、俺たちを知らずに笑っているなら。
今すぐ、この過去を背負わせないでほしい。
だが、いつか自分から知りたいと願った時には、隠さないでやってくれ。
自分で選べと言いながら、選ぶための材料を隠してくれと頼んでいる。
身勝手なのは分かっている。
それでも、どうか頼む。
イルミンスール
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
俺は石壁へ触れたまま、動けなかった。
俺は、源流でアイオリスに自分の核を飲ませたことがある。
ジャガラモガラは、それを「己のすべてをその者に捧ぐに等しい」と言っていた。
イルミンスールのやったことは、それに近いんじゃないのか。
俺と違うのは、自分が戻るための場所そのものを、本当にミツバへ明け渡したことだ。
握った手から、碑文を聞いたアイオリスの感情が返ってくる。
驚き。
痛み。
それから、遠い昔に置いてきた何か。
(ふざけんなよ……こんなの、丸投げじゃねえか)
(自分で言えなかったことを、読んだ奴に押しつけやがって)
(彼自身も、それが身勝手だと認めている)
(認めりゃ何してもいいってわけじゃねえだろ)
(ああ)
名前を呼んでも返事をしなくなったミルラ。
その若芽と記憶を受け継いで生まれたミツバ。
イルミンスールは、ミツバがミルラの蘇生なのか、自分たちの子どもなのかを決められなかった。
そのうえ、自分が死ぬことさえ伝えなかった。
(お前のパパは死んだって言うだけでも無理だったんだぞ)
(ああ)
(その上、お前は継ぎ接ぎで生まれたなんて、どう伝えりゃいいんだよ)
握った手に力が入った。
(彼は、今すぐ伝えることを望んでいない)
(だからって、半端に起こして期待を持たせてんじゃねえよ)
(ミルラとして目覚めるのか、確かめずにはいられなかったのだろう)
アイオリスの感情が、僅かに沈んだ。
(同じ立場であれば、私も確かめようとしていたと思う)
どいつもこいつも、重たい感情を投げつけてきやがる。
……そんなの、俺だって同じだ。
(あいつ、ミツバに嘘を吐いた)
(ああ)
(あとで起こすなんて、無責任なことを言いやがった)
アイオリスから、すぐには返事がなかった。
握った手の向こうから、冷たい石壁と、炎に包まれた街の記憶が滲んでくる。
(……私の父も、似た嘘を残した)
(お前の親父が?)
(深淵に堕ちていく街から私を逃がす時、父は言った)
低い声が、触れた手の奥から蘇る。
――いつか、必ず、取り戻す日が来る。その日まで生きよ。
(父自身、それが叶うとは信じていなかった)
(そんなの、気休めじゃねえか)
(ああ。私を生かすための、希望の形をした嘘だった)
帰る場所など残らないと知りながら、いつか取り戻せると言って、自分の子どもを逃がした。
イルミンスールの嘘と、確かに似ていた。
(その嘘で、お前は救われたのかよ)
(命はつながった)
(命は、って何だよ)
(私は、父の言葉を、生きるためではなく、戦い続ける理由として受け取った)
握った手が僅かに強張った。
(仇を討ち、深淵を殺し続けなければ、生き残った意味がないと考えた)
(最後には、目的のためなら死んでもよいと思うようになった)
生きるために渡された言葉を、死ぬまで戦い続ける理由にした。
救えない話だ。
(今は、違うんだろ)
(ああ)
短い返事だった。
握られた手の温度が、それ以上の言葉を伝えていた。
(少なくとも、父には、私に生きてほしいという願いがあったはずだ)
(イルミンスールも同じだって?)
(すべてが同じとは言わない。だが、あの子に生きてほしいと願ったことは確かだ)
俺は振り返った。
ミツバは茸の絵を眺めながら、床の土埃へ枝の指を這わせ、形を真似ようとしていた。
俺たちよりも巨大な身体。
けれど、ちびどもと同じか、それ以上に幼い。
死や別れを理解しきれないからこそ、無邪気に親の帰りを待っている。
(くそったれ……じゃあ、このまま信じさせておけばいいってのかよ)
(そうは言っていない。だが、今すべてを話せば、あの子に残された希望まで壊す)
(話さなきゃ、パパを起こすために、ずっと土を集め続けるかもしれねえ)
(森が再び土を育てるにも、あの子が死を理解するにも、時間が要る)
(時間が解決するまで、先送りにしろってか)
(時が経たねば、受け止めきれない痛みもある)
言われなくても分かっていた。
俺は、今さらミツバを投げ出すことなんかできない。
けれど、あの身勝手な遺言を抱えたまま接するのもつらかった。
(痛みを抱えたまま無理に答えを出せば、道を誤ることもある)
ミツバのことを言っているようでもあり、自分へ言い聞かせているようでもあった。
(結局、俺にどうしろってんだよ)
(私たちは、親があの子に生きてほしいと願ったことを知った)
握った手に、静かに力が籠もる。
(君も私も、その願いを捨て置ける性分ではない)
(知ったような口をきくんじゃねえよ、この勘違い野郎)
文句を返したものの、否定しきれなかった。
こいつの言葉も。
イルミンスールの身勝手な願いも。
どちらもだ。
(だが、その願いをどんな言葉にすれば、あの子へ正しく届くのかは分からない)
何も言わないのも。
すべてを話すのも。
いつ話すのかを決めるのも、俺たちの勝手だ。
本当の親でもない俺たちに、その答えを決める資格なんかあるのか。
そんなことを考えていると、ミツバが、いつの間にかこちらを見ていた。
『そのドウジンシ、なに?』
ミツバには文字が分からない。
自分がどうやって生まれたのかも。
イルミンスールが、自分は助からないと知っていたことも。
どうして自分へ名前をつけなかったのかも知らない。
俺は、すぐには答えられなかった。
それでも、何も言わないわけにはいかない。
碑文の最後に残された、確かな願いだけを拾う。
「……お前に、好きなように、楽しく生きてほしいって書いてある」
『たのしく』
「ああ」
ミツバの三枚葉が、嬉しそうに開いた。
俺とアイオリスを交互に指差す。
『ミツバ、いっしょ、たのしい』
「そっか」
『パパ、おきたら、いっしょ』
ミツバは両腕を目いっぱい広げた。
『もっと、たのしい』
(……今は全部言わねえ。けど、こいつが知りたいって言った時は、もう隠さねえ)
(ああ。その時は、私たちの知ったことを共に伝えよう)
俺はアイオリスの手を強く握り返してから、ミツバに向き直った。
「それからな、俺たちに、しばらくお前のそばにいてやってほしいってさ」
『いてくれる?』
「パパの代わりにはなれねえし、俺たちにも帰る場所があるから、ずっとここにはいられねえ。
でも、水も土も、分からねえことも、一緒に探す。俺はまた来る」
「私もだ」
『いっぱい、いっしょ。うれしい! パパ、ミツバに、なかよし、くれた! いいね』
ああ、畜生。
イルミンスール。
てめえ、なんてものを遺して逝きやがるんだ。
思わず壁を振り返った。
刻まれた文字の続きは、やはりどこにもなかった。




