EX(118.13).『復世巡行記・世界樹の枯れ森』② ◇★
奥へ進むほど、森は再び静寂へ沈んでいった。
初めのうちは、頭上を飛び交う鳥の声が聞こえていた。
色を取り戻した下草の間では、小さな獣が身を隠し、時折、私たちを警戒するように葉を揺らした。
だが、巨木を十本、二十本と通り過ぎるうちに、鳴き声も足音も遠ざかっていく。
緑の下草はまだらになり、やがて灰色の苔と、白く乾いた立ち枯れの木ばかりになった。
黄金だった時には、すべてが同じ輝きに覆われていた。
色を取り戻した今は、生きている場所と死んでいる場所の境が、はっきりと見える。
『うっわ。中、空っぽじゃねえか』
イズミールが、幹の裂けた巨木へ顔を覗かせた。
大人が何人も並んで立てるほどの空洞が、遥か頭上まで続いている。
『天然モノのクソデカ煙突な。ちびどもなら、絶対ここを秘密基地にするぞ』
「中は朽ちている。登らせない方がよいだろう」
『だから、連れてきたら危ねえって話だっての――』
空洞の奥で、乾いた音がした。
私はイズミールの肩を抱き、即座に後退した。
次の瞬間、一抱えほどもある樹皮の塊が目の前へ落ちてきた。
『うひゃっ!?』
私は空洞を見上げ、耳を澄ませた。
続けて落ちる気配はない。
少なくとも、今のところは。
「やはり、近づかない方がいい」
『あ、あっぶな! あんな高い所から、いきなり落ちてくると思わねえだろうが!』
樹皮が落ちただけだと分かると、イズミールは私の腕から抜け出した。
だが、先ほどまでより私に近い位置に留まっている。
乾いた土には、いくつもの痕跡が残っていた。
樹皮を削った爪痕。
異様に長い歩幅で刻まれた足跡。
何か巨大なものが、枝を押し分けた跡。
「以前は、奥へ進むほど異形が多かった」
『奥の方に魔樹が出来てたんだよな』
「ああ。だが、黒禍に呑まれたものは一か所に留まらない。
まだ侵されていない命と土地を求め、外へ広がっていく」
爪痕も足跡も、森の中心から外へ向かっていた。
「魔樹が失われた後、ここに残った異形も移動したのだろう」
『食うだけ食って、次へ行ったってことか。最悪の食い逃げじゃねえか』
イズミールは、足跡の途切れた先へ目を向けた。
『じゃあ、ここに残ってんのは……』
言葉の続きを、彼女は口にしなかった。
私たちの周りにあるのは、食い荒らされ、逃げる力さえ失った森だった。
見覚えのある岩を見つけて、私は足を止めた。
周囲の景色は大きく変わっている。
それでも、間違えるはずがなかった。
ここで仲間の一人が命を断った。
土の中から、錆びた剣が半分だけ覗いていた。
引き抜くと、刃は半ばで折れていた。
岩陰には鎧の一部と、僅かな骨片が散らばっている。
悲しみより先に、安堵が来た。
彼は少なくとも、異形に変じることなく逝けたのだ。
人でなくなった身体を、黒禍に動かされ続けずに済んだ。
当時の私たちにとっては、それが最後に守れる尊厳だった。
狂った時代の理屈であろうとも、彼は最後まで人としての誇りを手放さなかった。
『……そいつ、お前の仲間か?』
「ああ」
イズミールは、それ以上尋ねなかった。
岩へ近づき、指先から細い水を落とす。
水は乾いた岩肌を、僅かに濃くした。
それから手を合わせ、目を閉じる。
私の知る作法とは異なるが、死者を悼む礼だと分かった。
『こういうのでいいのか、分かんねえけどよ』
「十分だ。ありがとう」
イズミールは、私を見上げた。
『続きは帰ってから聞く』
「聞いて気分の良い話ではない」
『うるせえ。言わないと、いつまでも抱え込むだろうが。そっちの方が面倒くせえんだよ』
否定できなかった。
私はどこかで、深淵殺しの生き様など、他の者には理解できまいと心を閉ざしていた。
だが、黒禍は去った。
深淵殺しとなる者も、もう現れることはない。
ならば、その狂気も誇りも、私一人の内に閉ざしておく必要はないのかもしれない。
私は岩陰の土を掘り、骨の欠片を埋めた。
折れた剣を墓標代わりに突き立てる。
「……帰ったら、彼らのことを聞いてくれるだろうか」
『聞くって言ってんだろ。何度も言わせんな、ボケ』
イズミールは私の手についた土を洗い流すと、先に歩き出した。
私が追いつくまで、少しだけ速度を落としていた。
※※※※※
森の中心には、巨大な空白が広がっていた。
かつてはここで魔樹が黒い亀裂を空へ伸ばし、森と大地、大気までも浸蝕していた。
今は裂け目も魔樹も消え、捻じ曲げられた地形と、白く枯れた木々だけが残っている。
『ここに、魔樹があったのか?』
イズミールは宙へ浮き、周囲を見回した。
「ああ」
『お前、こんなとこに殴り込みに来たの?』
「一人ではなかった」
イズミールは、静まり返った森へ目を向けた。
『最後は一人だったんだろ』
「……ああ」
『やっぱ馬鹿じゃねえの』
責める響きはなかった。
私の死ぬ覚悟を、立派なものとして受け入れないための悪態なのだと思う。
「今は、同じことをするつもりはない」
『当たり前だ。その前に俺が消し飛ばす。それからお前をぶん殴る』
イズミールは地面へ降り、倒れた巨木の根が残した穴を覗き込んだ。
『しかし、根っこが馬鹿でかいと大穴になるもんだな。下、どうなって――』
足元から、石の砕ける音がした。
地面が沈む。
「イズミール!」
『へ? うひゃあああっ!?』
崩れた土と根の間へ、私たちの身体が落ちた。
私はイズミールを抱き留め、斧の刃を太い根へ打ち込んだ。
刃が枯れた木質へ深く食い込み、落下が止まる。
彼女は私の首へ両腕を回し、身体を強く押しつけていた。
「大丈夫か、イズミール」
『大丈夫なわけあるか! 急に床がなくなるのは反則だろ!』
「君は落ちても傷つかない」
『傷つくかどうかと、怖いかどうかは別だ!』
イズミールは私へしがみついたまま、下を覗き込んだ。
土埃の向こうに、巨大な石段が見える。
一段ごとの高さは私の膝ほどもあり、その先には、世界樹の根に埋もれた大きな門が口を開けていた。
『……何だ、あれ。遺跡?』
「そのように見える」
『言い伝えとか、そういうのはないのか?』
「聞いたことはない」
イズミールは私の顔と門の奥を見比べ、背へしっかり腕を回した。
斧を握る腕に掛かっていた重みが、ふっと消える。
『あそこまで運んでやる。斧、抜け。何か出たら壁になれよ』
「承知した」
イズミールが私ごと宙へ浮き上がる。
根へ打ち込んだ斧を引き抜いても、私たちの身体は落ちなかった。
『絶対に俺から離れんなよ』
「君が離れない限りは」
『そういう言い方すんな。俺が抱き着いていたいとか、そんなんじゃねえからな』
背に回された腕と密着した身体には、人のものと変わらぬ熱と重みがあった。
私はあえて指摘せず、彼女に身を預けて石段へ降りた。
根に埋もれた門をくぐる。
その先は、今を生きる人間の尺度で造られたとは思えない空間だった。
通路は異様に広い。
戦斧を振り上げても、壁にも天井にも触れられそうにない。
敷石の一枚一枚も、私の背丈より大きかった。
『これ、龍宮と同じで、クソデカ古代人どもの遺跡だろ』
イズミールの声が、暗い通路へ反響する。
彼女の放つ淡い光を頼りに、奥へ進んだ。
壁には、長い年月を経ても形を残す浮彫があった。
種を収めた石枠を囲む、大きな人影。
器を傾け、根元へ水を注ぐ姿。
網目のような水路と、その間に育った巨木。
イズミールは浮彫へ近づき、刻まれた線を指でなぞった。
『園芸部か? 植木鉢に種入れて、水やってるように見える』
私は浮彫の下へ続く溝を調べた。
床の水路と一致している。
遺跡へ入り込んだ根も、無秩序に石を割っているのではない。
初めから用意されていた穴を通り、水路に沿って伸びていた。
「森の中へ、この施設を造ったのではないのかもしれない」
『ん?』
「この場所から、森を育てた可能性がある」
『森一個が植木鉢ってこと? 大精霊だか花神だかと一緒に、森そのものを育ててたのかよ。
昔の人間、趣味の規模がおかしいだろ』
「可能性があるだけだ。手掛かりが残っていればいいのだが」
『その前に、この遺跡が崩れねえかの方が心配だっての』
通路の先は、巨大な広場へ開けていた。
床を走る水路は、中央にある井戸のような縦穴から、広場の外へ網目状に延びている。
縦穴は小屋が丸ごと収まるほど広く、底が見えない。
石壁に沿って、枯れた根が暗がりに向かって垂れていた。
イズミールは縁へ立ち、目を閉じた。
『……古い水がいた感じは残ってる』
「精霊がいるのか」
『いや。今は、誰もいなそうだ』
ここを守っていた水の精霊が去ったのか、失われたのかは分からない。
『おーい。誰かいるかー』
返ったのは、幾重にも重なる彼女自身の声だけだった。
自分の声に驚いたのか、イズミールの肩が小さく跳ねた。
「いないようだな」
『いきなり出てくる奴がいないか確認しただけだ』
イズミールは恐る恐る、井戸を覗き込んだ。
『……深っ。こわっ』
「黒禍の気配は?」
『無い。ずっと下で、何か流れてる』
「水か」
『水っていうより……源流っぽい感じだ。遠くて細いけど、完全には切れてねえ』
源流の中で、瓶が割れ、イズミールが投げ出された光景が脳裏をよぎった。
「行っては駄目だ」
彼女が何かを言うより先に、私は手首を掴んだ。
『誰が行くって言ったよ』
「行かない、というまでは放さない」
『二度と行くもんか。お前も入るなよ』
「分かった」
答えると、イズミールが目を瞬かせた。
『……たっく、心配性かよ』
「君のことを思わない時などない」
『あー、はいはい。分かった分かった!』
掴んでいた手首への力を緩める。
だが、手は離さなかった。
『こっちから、ほんの少しだけ流してみる。それなら構わないだろ』
「ああ」
イズミールは井戸へ、一筋の細い水を落とした。
何も起こらない。
『やっぱ駄目か。一度、外に――』
その時、石壁から垂れていた根の一本が動いた。
『ひえっ!?』
イズミールが私の背後へ飛び退き、私は斧を構えた。
根は私たちへ向かわず、水が落ちた場所を探るように先端を揺らしている。
イズミールが水滴を右へ落とした。
根が右へ動く。
次は左へ落とす。
根も左へ動いた。
『……水、追ってんのか?』
「そのようだ」
イズミールは恐る恐る、先ほどより太い水を根へ流した。
水は乾いた木肌へ吸い込まれ、ひび割れた樹皮が僅かに潤う。
イズミールの眉間に皺が寄った。
『これ、飲んでるだけだよな』
「そう見えるが」
『……飲み方がニチャついてる気がすんだよ。なんかキモい』
「水の飲み方にも違いがあるのか」
『今できた。こいつで初めて知った』
根の動きには、確かに妙な執着があった。
だが、イズミールが痛みを覚えている様子はない。
彼女は嫌そうな顔をしながらも、完全には拒んでいなかった。
『敵意は……たぶん、ない。水を欲しがってる感じはある』
「それ以外には?」
『分からん。感触が妙にニチャつく。それだけだ』
乾いた根へ、僅かに色が戻っていく。
イズミールはしばらく様子を見てから、水を止めた。
根は名残惜しそうに揺れたが、彼女を追ってはこなかった。
『ここまでだ。いきなり全部やって、また変なことが起こったら困る』
静寂が戻る。
何も起こらない。
そう思った時、井戸の底で小さな水音がした。
ぴちゃん。
イズミールが目を見開く。
『今の、俺じゃねえぞ』
間を置いて、もう一滴。
彼女の水は止まったままだ。
それでも三滴目が落ち、暗闇の底で淡い光が揺れた。
『……下から来てる』
「流れが戻ったのか」
『たぶん。たぶんな。重要だから二回言うけど、俺も分かってねえ』
井戸の底へ、ごく薄い湿りが広がっていた。
止まっていた水が、流れ方を思い出そうとしているように見えた。
先ほど水へ触れていた根が、淡い緑の輝きを帯びる。
その輝きは根を伝って、天井の向こうへ消えた。
しばし遅れて、地上から巨木の割れるような音が響いた。
『何だ!? やべえ、なんかのギミック踏んだか!? おい、逃げるぞ!』
イズミールが私の腕を掴んだ。
私たちは来た道を駆け戻った。
ところどころ、床の溝へ細い湿りが滲み始めている。
まだ、流れと呼べるほどではない。
それでも、完全に途絶えていたわけではなかったのかもしれない。
『崩れてからじゃ遅いんだよ! 急げ!』
イズミールに腕を引かれ、私たちは根の間から地上へ飛び出した。
森も大地も、崩れていなかった。
骸のような巨木も、白く枯れた地面も、そのままだった。
『おい。さっきの音は何だったんだよ。イベントはどこだ、イベントは!』
イズミールが周囲を見回す。
倒木の間で、土が盛り上がった。
「イズミール」
『ん? なんだ、あれ……』
土の中から、緑の芽が飛び出した。
『うおっ、なんか出た!』
イズミールは私の背後へ回り、腕を掴んだ。
『お前が先に見ろ。木の相手は木こりの役目だろ』
私は斧を構えたまま、芽へ近づいた。
柔らかな若葉が開く。
芽は見る間に伸び、私の背丈を越えてなお成長を続けた。
根と枝が絡み合い、両脚と両腕を形作る。
褐色の木肌は次第に滑らかさを増し、若葉が衣のように身体を覆った。
濃淡の違う緑の髪が大きく波打ち、背と肩へ広がる。
頭上では何枚もの葉が開き、その中心から曲がった若い枝が一本伸びた。
顔が上がる。
髪の隙間から覗く瞳は緑色で、虹彩の奥には小さな花のような模様が浮かんでいた。
姿形は幼い少女そのものだった。
だが、その背丈は私の三倍近くあった。
巨大な少女は、私を見ていなかった。
敵意はおろか、警戒心さえ感じられない。
花模様の瞳がイズミールへ向き、大きく見開かれた。
イズミールもまた、口を開け、呆然と少女を見上げていた。
『でっかぁ……』
同じ言葉を口にしながら、二人が見ている大きさは、どうやらまるで違うらしかった。




