EX(118.12).『復世巡行記・世界樹の枯れ森』① ◇★
山の尾根を越えたところで、私は足を止めた。
眼下には、黄金の森が広がっていた。
一本一本が、城の尖塔よりなお高い。
見上げるほどの巨木が谷を埋め、遠い峰の向こうまで連なっている。
――世界樹の森。
私が“深淵殺し”として、最後に挑んだ場所だ。
かつて、この巨樹の森には人知れず黒禍が蔓延していた。
樹冠から吹き下ろす風には、腐った血と蜜を混ぜたような臭いがあった。
息を吸うたび喉の内側が焼け、鎧の隙間へ入り込んだ霧は肌を黒く染めた。
共に挑んだ仲間たちは、皆死んだ。
魔樹を断ち切った時、私も限界を迎え、半ば怪物と化して森を彷徨うことになった。
それ以来、この地を訪れたことはない。
深淵に堕ちかけた神秘の森は、今や大地ごと黄金に変じ、静止していた。
『高っ! 何だあれ。縮尺おかしくねぇ? 二百メートルくらいないか?』
遅れて尾根へ上がってきたイズミールが、私の隣から身を乗り出した。
「正確な高さは分からないが、聖地の森の木々より遥かに高いのは間違いない」
『世界樹って言うから、一本だけ滅茶苦茶でかい木が生えてんのかと思ってたわ。
なるほど、こうきたかぁ……なあ、あの木が全部、世界樹なのか?』
「この一帯が、そう呼ばれていた」
『精霊が絡むと、木もクソデカになんのかねぇ』
「私も成り立ちまでは知らない。だが、かつては樹の大精霊や花神の住まう地だと謳われていた」
『へぇー』
斜面を下るにつれ、眼下に広がっていた森が迫ってくる。
やがて樹冠より低い位置まで来ると、今度は幹の太さが見えてきた。
細いものでも、私が両腕を広げた程度では抱えきれない。
太いものは、小さな家なら根元へ丸ごと隠してしまえるほどの幅がある。
『うっわ、幹太っ! こんなん、森っていうより高層ビル街だろ!』
イズミールは黄金の地面を蹴ることなく、ふわりと宙へ浮いた。
水色の髪の隙間から伸びたヒレがひとりでに揺れ、枝角の先が陽を受けて光る。
それでも、世界樹の枝は遥か上にあった。
彼女はさらに身体を浮かせ、首が痛くなるのではと思うほど顔を上へ向けた。
次に左右を見回し、同じ尺度の巨木が森の果てまで続いていると知ると、目を丸くする。
『これ、ちびどもに見せたら、絶対登ろうとすんだろうなあ』
弾んだ声が、静止した黄金の森へ小さく響いた。
『三人で競争とか始めて、ミュルナが調子こいて落っこちて、ミュリナがムキになって張り合って、ミュシアは……あいつは途中で迷子になりそうだ』
口調こそ乱暴だが、置いてきた子どもたちを思う目は柔らかい。
以前の彼女なら、そんな自分さえ、信仰による人格の上書きではないかと恐れただろう。
今は、後から生まれた情もまた、自分のものとして扱おうとしている。
それは私にとっても喜ばしいことだった。
だが、この巨樹の森を見ていると、どうしても過去の光景が重なる。
浸蝕が進み、自ら命を断った者。
人の意識が残っているうちに、私がこの手で命を奪った者。
誰も恨みの声を上げなかった。
皆が、自分たちはそうやって殺し、殺されるものだと受け入れていた。
一人生き残った私が何を思おうと、彼らは戻らない。
だからといって、忘れることも、なかったことにもできない。
黒禍が消え、森が黄金の静寂の中にあっても、私にとってここはまだ戦場のままだった。
『けど、土産話に聞かせたら、連れてけって駄々こねるかも――』
ふと、イズミールがこちらを見た。
浮いていた身体が、少し下がる。
『……おい、辛気臭い顔してんな。俺だけがはしゃいでんのが、馬鹿みたいだろうが』
胸の内が、顔に出ていたらしい。
自分だけがはしゃいでいた、と言い添えるのは、彼女なりの気遣いだった。
「君にとっては、初めて見る物珍しい景色だ」
『それは、そうだけどよ』
「君が何を見て、どう感じるのかを、私は知りたい」
過去の森を知る者だけが、この場所を語る資格を持つわけではない。
私の目には、今もあの日の森が重なっている。
だが、イズミールにとっては初めて訪れた未知の土地だ。
高い木々に驚き、子どもたちへの土産話を探す場所でもある。
痛ましい記憶だけで、その見方まで損ねたくはなかった。
イズミールはしばらく、もの言いたげに私を見ていた。
やがて腕を組み、そっぽを向く。
『まあ、今回は仕事で来てるんだからな。観光は後だ、後』
「仕事を楽しんではいけないということはない」
『うるせえ。こっからはビジネスモードで行くって決めたんだよ』
「そうか。ありがとう」
『お前に礼を言われる筋合いなんかねえし』
イズミールは私の隣へ降り、気安い仕草で肩を叩いた。
恋人らしい甘さや慰めではなく、長く旅を共にした友人のような気安さが、今はありがたかった。
私は斧の位置を確かめ、彼女と並んで裾野を下りていく。
以前、私はあの森を自らの死に場所と定めて向かった。
帰ることを考えれば、覚悟が鈍ると思っていた。
今は違う。
隣にいる者と、生きて帰る覚悟を持って向かう。
もっとも、この森を最初の目的地に選んだのは、私の感傷だけが理由ではない。
水が引きつつある世界には、黄金となったままの土地が数多く残されている。
人も家畜も、畑も家屋も、黄金となる直前の姿で固まっている。
これまで人里で黄金を解いた時には、止められていた時間が動き出し、人々はその続きを生き始めた。
では、黒禍に侵されていた土地はどうなるのか。
世界が水に沈んだ時、黒禍は土地ごと浄化され、それと同時に黄金となった。
そこに止められたものを戻せば、何が動き出すのか。
私にも、イズミールにも分からなかった。
『いきなり人里で試すのは怖いだろ』
聖地を発つ前、彼女はそう言った。
『金ぴかの街を戻したら、中からまだ黒いのが出てきました、とか洒落にならねえし。
住民まとめて化け物になりました、とかだったら、俺、二度と解除ボタン押せなくなるぞ』
カイジョボタンとやらが何かは分からないが、その懸念はもっともだった。
世界樹の森は、人間の暮らす場所ではなく、神々と精霊の住まう霊場だった。
そして、黒禍によって半ば深淵へ呑まれていた土地でもある。
この森で何が戻り、何が戻らないのかを確かめる。
そのうえで、樹の大精霊や花神が生き延びているなら、これからどうするつもりなのか、話を聞く。
これは、精霊を訪ねる旅の始まりであると同時に、イズミールの力が世界へ何を残したのかを確かめる旅でもあった。
だが、公の目的があったとしても、ここが私と仲間たちの死地であることに変わりはなかった。
※※※※※
イズミールは黄金の森の入口へ降り立ち、巨大な木々を見渡した。
『……少なくとも、外からは黒いのがいる感じはしねえ』
目を細め、森の内側へ意識を伸ばす。
『水も土も、あっち側に引っ張られてる感じはない。たぶん、浄化はできてる』
「黄金を解いても問題はなさそうか」
『それを確かめに来たんだろうが』
強い言葉とは裏腹に、イズミールはすぐには力を使おうとしなかった。
水色の髪の先が、落ち着かなく揺れている。
『まぁ……何が出てきたって、お前がいるけどな』
「ああ」
『平気な顔で即答しやがって。俺だけ怖がってるみたいじゃねえか』
「私も怖くないとは言っていない」
イズミールは私を横目で見た。
『怖いとか言いながら、斧でぶった斬れば解決とか思ってんだろ』
「それで解決するなら、そうする」
『ほらみろ、イカレ野郎が』
彼女は悪態を吐きながら、森へ向き直った。
目を凝らしてみれば、黄金の森のあちこちに、多くの生き物が残されている。
枝から飛び立とうと翼を広げた鳥。
地を蹴り、森の外へ駆け出そうとした鹿。
小動物を咥えたまま、首を巡らせる獣。
いずれも、黄金となった瞬間の姿勢を保っていた。
迫る水から逃れようとしていたのか。
あるいは、既に侵され、森の外へ黒禍を広げようとしていたのか。
固まった外見だけでは分からない。
イズミールは金色の地面へしゃがみ込み、草の先へ触れた。
『この辺だけ戻して、一個ずつ確認するか?』
「先に、森の外へ続く地面を戻そう」
『あー、逃げ道か』
「ああ。それから外縁より順に内側へ進めれば、動き出したものを黄金の中へ追い込まずに済む」
黄金となって折れも曲がりもしない草花は、生身の身体にとって槍衾も同然だ。
聖地でも、誤って黄金の土地へ踏み込み、怪我をする者が後を絶たなかった。
『なるほどな。けど、森中の化け物が一斉に再起動するかもしれねえぞ』
「そのために、私がいる」
イズミールが顔を上げた。
『いいか。お前は、ワッと出てきた奴に驚かされた時の壁役なんだからな?
見敵必殺とか、首置いてけとか、バーサーカームーブをすんなよ』
「君を置き去りにするような真似はしない」
『だからって、身を挺してでも、とか、命に代えてとかも禁止だ。
俺を守れ。けど、お前もやたら無茶すんな。以上』
「承知した」
『言ったな? 破ったらコレだからな』
彼女は私に握り拳を突きつけた後、森の奥へ両手を向けた。
水色の髪が背に広がり、枝角と共に淡い光を宿す。
その足元から、一筋の水が流れた。
最初は、靴底を濡らすほどの薄い流れだった。
それが黄金の草の間へ入り込み、根に触れ、地面の窪みを伝う。
水はまず、森の外へ続く斜面へ道を作った。
そこから引き返すように枝分かれし、外縁に沿って広がり、少しずつ森の内側へ入り込んでいく。
谷へ。
窪地へ。
巨木の根元へ。
私の目で追える範囲を越えてもなお、イズミールの一部は森の中を走り続ける。
『……あー、くっそ。対象多すぎんだろ。地面の下はどこまでだ? 根っこ深っ……。
おい、問題社員ども。そっちも手伝え。こういう時くらい仕事しろ』
独り言のように聞こえるが、心の内にいる二人のイズミールへ呼びかけているらしい。
私は邪魔をせず、彼女が森の広さを掴むのを待った。
風は吹いているのに、黄金の葉は一枚も鳴らなかった。
『……ん。少なくとも、水を通した範囲には黒いのは残ってなさそうだ。
ただ、何が生きてるかとかまでは、戻してみねぇと分からん』
イズミールは大きく息を吸うように、胸を動かした。
呼吸を必要としない身体で行う、人間だった頃の名残だ。
『よし。外から順に戻すぞ』
「ああ」
彼女を中心に、巨大な力の波が広がった。
まず、森の外へ続く斜面を覆い、止まっていたものへ触れていく。
まるで、もう一度動いてよいのだと告げるように。
足元の草が、最初に色を取り戻した。
金色だった細い葉が緑へ変わり、露に濡れたようにしなった。
次いで、地面が黒褐色の土へ戻る。
そこから色の波が、森の外縁へ沿って左右に分かれ、やがて内側へ進み始めた。
巨木の根を覆っていた金属の輝きが薄れ、樹皮の色が森の奥へ広がっていく。
根から幹へ。
幹から枝へ。
枝から、一枚一枚の葉へ。
視界を埋め尽くしていた黄金が、内側から本来の色を取り戻していく。
長く止められていた森が、一度に息を吸った。
ざあっ、と。
風に遅れて、枝葉が鳴った。
湿った土と、青い葉の匂いが立ち上がる。
頭上で、無数の金属像だった鳥たちが色を取り戻し、枝から落ちる。
一瞬、空から死骸が降ってきたように見えた。
だが、地面へ達する前に翼が開いた。
一羽が羽ばたく。
それにつられるように、十羽、百羽と鳥たちが空へ舞い上がった。
幾重もの羽音が森の天井を打ち、風を巻き起こす。
『うおっ!?』
イズミールが両腕で頭を庇った。
『ちょ、多っ、多い! 一斉に飛ぶな! こわっ!』
足元でも草が激しく揺れた。
小さな獣が、私の足の間をすり抜ける。
その後を、鼠に似たもの、長い耳を持つもの、背に縞のある幼獣が次々と駆け抜けていった。
多くは、先に色を取り戻した斜面を通り、森の外へ向かっている。
黄金となる前の混乱の続きを走っているのか。
それとも、女神の存在を感じ取って逃げているのか。
私には分からなかった。
ただ、イズミールへ向かってくるものにだけ注視し、いつでも盾となれるよう備えた。
枝が揺れる。
葉が擦れる。
鳥の声と、獣の足音と、風に軋む巨木の音が重なる。
先ほどまで完全な沈黙に包まれていた森が、突然、数え切れぬ音で満たされた。
イズミールは呆然と森を見回していた。
やがて、空へ飛び立つ鳥を目で追い、口元を緩める。
『……戻った』
その声には、安堵があった。
『ちゃんと、生きてたんだな』
森は、彼女の言葉を肯定するようにざわめいていた。
だが、すべてが動き出したわけではない。
私たちのすぐ近くにいた鹿は、色を取り戻しても立ち上がらなかった。
脚を折り畳んだまま、地面へ倒れている。
地面へ落ちたまま、羽ばたかない鳥もいた。
小動物たちが走り去った跡にも、いくつもの身体が残されている。
木々や草花も同じだった。
彩りを欠いた草。
干からび、ひび割れた幹。
葉の一枚も付けないまま、白く朽ちた巨木。
黄金の時には見えなかったものが、色を取り戻したことで、初めて欠落として目についた。
イズミールの表情から、喜びが消えた。
小鳥の傍へしゃがみ込み、差し伸べた手から水を垂らす。
細い水は羽毛の間へ染み込み、身体の内側を巡ろうとした。
だが、すぐに流れ落ちた。
『……駄目だ』
「死んでいるのか」
『……たぶんな。水を通しても、何も返ってこねえ』
イズミールは小鳥から離れ、鹿に近づいた。
結果は同じだった。
鹿の身体には、目立った傷はない。
だが周囲には、その鹿のものと思われる歪な足跡が、倒れていた位置まで続いていた。
今の鹿からは考えられないほど、足跡は大きく、歩幅も広い。
浄化を受ける直前まで、この身体は大きく変容していたのだろう。
「中には、黒禍だけで身体が動き続ける者もいた。心臓を貫き、首を落としても止まらない」
『じゃあ、こいつも浄化された時点で……』
「動かしていたものだけが消えたのだろう」
そうだとすれば、黄金となる以前から、元の命は失われていたことになる。
黄金は、すべての変化を止めた。
だが、既に失われた命まで取り戻したわけではない。
『……俺が金にした時には、もう手遅れだったってことか』
「私たちが見たのは、結果だけだ」
イズミールはしばらく、動かない鹿を見つめていた。
やがて立ち上がり、生きて森の外へ駆けていく動物たちへ視線を移す。
『こういう場所が、まだ世界中にあるんだよな』
「ああ」
『でも、全部死んでるわけでもないよな』
「ああ」
羽ばたきの音が、私たちの頭上を通り過ぎた。
樹冠の間から陽が落ち、色を取り戻した葉を照らす。
生命の音と、動かない死骸。
その両方が、同じ森の中にあった。
世界樹の森は、かつての姿へ戻ったのではない。
戻れるものだけが、止められていた時間の先へ踏み出した。
死んだものは、時が動き出せば朽ちて、土へ還る。
時間を取り戻したことで、この森はようやく、死を思い出したのだ。




