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EX(118.11).夢物語の傍らで ◆★△〇

118.10話『水神宮外典・名もなき御使いの手記』⑦のアフター

挿絵(By みてみん)


 執務所へ戻るなり、私は明朝の視察予定から、御使い様同行の文字を消した。


 消したといっても、羊皮紙の一行に、一本の線を引いただけだ。

 その一本で、十人分の護衛と馬車、道中の食事、村へ送った先触れの予定が変わる。


 人も物も金も、帳簿の上ではいつも簡単に動く。


「追わなくてよいのでしょうか」


 机の向こうで、カストール殿が戸口を振り返った。


 もちろん、既にあの少女の姿はない。


 建設中の神殿と湖畔の木工所の間を抜け、どこかへ駆けていった。

 小柄な背中は、人垣と積み上げられた材木の向こうへ、とうに消えている。


「御使い様は、後で必ず聞くと仰いました」


「しかし――」

「お伝えするのは、明朝の出立がなくなったということだけです。急を要する連絡ではございません」


 カストール殿は、なお何か言いたそうに口を閉ざした。


「リディア様は、務めから逃れるために走ったのではありますまい」


 なるほど。

 この男は、御使い様の身だけでなく、評判まで守ろうとしているらしい。

 規律だけを守る者より、面倒な軍人らしい。


「ええ。私も、そのように思います」


 そう答えると、ようやくカストール殿は戸口から目を戻した。


 女神ミューズの御使いとして臨む正式視察は、しばし延期とする。


 だが、街道の確認と治安維持のための調査だけは、予定どおり行う。

 むしろ、視察の警備に人手と時間を割かずに済む分、入念に行うことができる。

 もとより、不測の事態に備え、御使い様を伴わぬ場合の手筈も整えてある。


 カストール殿は修正した計画書を受け取り、一礼して部屋を出ていった。


 一人になった部屋で、私は予定表へ新しい日付を書き込もうとして、筆を止めた。


 延期した視察をいつ行うかは、まだ決まっていない。

 御使い様が自ら赴くと決めた時に、改めて組み直すことになっている。


 つい先ほどまで、そのような曖昧な予定を神官長殿が認めるとは思っていなかった。


※※※※※


「明日の視察を、延期していただきたい」


 話を切り出したのは、聖者殿だった。


 仮設神殿の机には、東の街道と復元予定の村を記した地図が広げられていた。

 カストール殿が警備の説明を終え、私が村へ持ち込む物資の確認を始める前だった。


 神官長殿は、地図からゆっくりと顔を上げた。


「それは聖女様ご自身からの申し出ですかな」


「いや」


「では、理由をお伺いましょう」


 聖者殿はすぐには答えなかった。

 言葉を選ぶ時、この男は姿勢まで固くなる。


「リディアは、自分が担う役割の重さに怯えている」


 選び抜いたにしては、飾り気のない言葉だった。

 もっとも、この方はいつもそうだ。


 言葉を飾らぬことと、考えずに口にすることは違う。


「怯えてなお、引き受けようとしている。だからこそ、一度立ち止まらせる必要がある」


「ご自分の役目を正しく理解しておられる。結構なことですな」


 神官長殿の言葉は滑らかだったが、苦々しい表情を隠そうともしなかった。

 この皮肉屋の老人らしい情の示し方だった。


「そうだな、私もそう思う」


 聖者殿は否定せず、しかし退かなかった。


「だが、恐れを知ることと、怖いまま立ち続けさせることは違う。あの子は、まだ役目を引き受けたばかりだ」


「引き受けると決めたのも、聖女様ご自身ですぞ」


 神官長殿の物言いは冷たかった。

 だが、弟子に無理を強いようとしている者の声ではない。


「心配だからと我らが役目を取り上げれば、それもまた、御意思を軽んじることになる」


「役目を降ろせとは言っていない」


 聖者殿の返事は早かった。


「選んだことを理由に、いつでも背負わせてよいと思わないでほしい」


 双方とも、御使い様を守ろうとしていた。

 片方は休ませることで。もう片方は、選ぶ権利まで奪わないことで。


 その間で、明日の予定だけが行き場をなくしていた。


 神官長殿は細い目をさらに細めた。


「それは聖者殿の私情ですかな。それとも、女神イズミールの御神意として承れと?」


 カストール殿がわずかに息を詰め、背筋を伸ばした。

 居合わせた者の中で、両女神への信仰が最も篤いのは、この男だ。


 聖者殿は、地図の上へ視線を落とした。


「あくまで私からの申し入れだ。彼女の意を、本人の許しもなく神託にするつもりはない」


 その言葉に、私は少しだけ目を上げた。


 女神イズミールの伴侶たる男。

 ミューズ様にとっても、家族に最も近い人間ということになる。

 両女神の意向を口にすれば、今この場の誰よりも強い権威を帯びる。


 それでも彼は、その威光を使おうとはしなかった。


「ただ、イズミールは、ミューズとリディアが支え合うことを喜んでいる。

 だからこそ、それが人であるリディアの負担になることは望まないだろう」


 彼は女神がそう言った、とは口にしなかった。

 それでも聖者殿が、女神の抱く情を知っていることは分かった。


 神官長殿が、今度は私を見た。


「ヘレノス。おぬしはどう見る」


 私は地図に記された村と、机の端に置かれた予定表を見比べた。

 御使い様の訪問は、復元された村へ新たな秩序を示す意味合いが強い。

 もっとも、御使い様の訪問のみに依存した計画ではない。


「正式な視察は、延期するのがよろしいかと存じます」


 カストール殿がこちらを見た。

 聖者殿は黙ったままだった。


「平静を欠いた状態で無理に人々の前へ立たせれば、却って信頼を損ねましょう」


「本人の様子も見ずに決めるか」


 神官長殿は、試すように尋ねた。


「私は神々の善意を無尽蔵と思えるほど、信心深くはございません」


 神官長殿の眉が、わずかに動いた。


「今回の予定変更は、十分組み直せます。

 対して、御使い様を使い潰すようなことがあれば、そのときに失うものは、私めには計り知れません」


 聖者殿が、ほんの少しだけ顔を曇らせた。


「使い潰す、という言い方は好ましくない」


「ええ。ですから、そうならぬうちに延期をと申し上げております」


 神官長殿は鼻を鳴らした。


「しばしの間、視察は延期とする。カストール、街道と警備の確認のみ進めろ。

 次の日取りは、聖女様とミューズ様、双方の御意向を確かめた上で決める」


「承知いたしました」


 神官長殿が、ゆっくりと聖者殿を見上げた。


「これで宜しいですかな」


 聖者殿は黙したまま深く頭を下げた。


 決定までに要した時間は、わずかなものだった。

 けれど、この短いやり取りで、私は神官長殿の描いた神話について、認識を改めることになった。


※※※※※


 浄化と裁定を担う母なる女神イズミール。

 その力と意志を継ぎ、人々を救う娘ミューズ。

 そして、女神の言葉を人の高さへ降ろす、名もなき御使い。

 よくできた筋書きだ。

 同時に、ひどく危うい夢物語でもある。


 世界を沈めた女神が、人間の用意した役割を受け入れ続けること。

 幼い御子が、救いを求める者へ手を差し伸べ続けること。

 神話の中心に置かれた少女が、その重みに耐え続けること。


 どれか一つが欠けても、話は崩れる。


 御使いという役目だけなら、いつか別の人間へ継がせることもできる。

 神官長殿がリディアという名ではなく、役目の名を歴史へ残そうとする理由の一つも、そこにあるのだろう。


 だが、リディアという少女には代わりがいない。少なくとも、ミューズ様にとっては。

 ならば神話を保つには、その役目だけでなく、役目を担う少女も守らなければならない。


 私は彼女を憐れんで延期を勧めたのではない。

 神話を支える要を、粗末に扱うべきではないと判断しただけだ。


 対価なく与えられる恩寵を、恒久的な収入として帳簿へ組み込むべきではない。神々の慈愛や善意も同じだ。


 だが、今日分かったこともある。


 女神イズミールは、天上から万人へ等しく慈悲を垂れる神ではないらしい。


 泡の丘に現れたときのことを、私は人伝てにしか知らない。

 だが、人々の暮らしを支え、死を選ぼうとした者を止め、三人の幼子を抱いてあやしたという。


 娘を愛し、その娘が大切にする少女まで案じる。

 身内びいきで、情が深く、他者に踏み越えさせない境がはっきりしている。


 善良であることは、信用の根拠にはならない。


 だが、誰を愛し、何に怒るのかが分かるなら、越えてはならない線を引ける。

 理解不能な神より、娘の友人を案じて人間の予定を変えさせる母親の方が、はるかに対話の余地がある。


 もっとも、その情を利用し、資源として帳簿へ載せれば、主と同じ過ちを犯すことになる。

 相手の限界を知ることと、その内側を所有することは違う。


 そう考えながら、私は少し笑った。


 越えてはならない線を知った者ほど、そのぎりぎりまで近づきたがるものだ。

 自分がその誘惑と無縁だとも思っていない。


 筆先に溜まった墨を落とし、机の下段へ目を向けた。

 主の屋敷から運び出した古い帳簿が、今も数冊残っている。


 私に帳簿の読み方を教えたのは、他でもない主だった。


 ペッシヌス様は、卓越した方だった。


 誰も見向きもしなかった森の泉に価値を見出し、救いへの渇きも黒禍への恐怖も信仰も、すべて人と金の流れへ変えた。

 私が今つけている帳簿も、主の帳簿の続きを、別の名で書いているにすぎない。


 善意を当てにするな。


 忠誠を過信するな。


 人を動かしたければ、欲しいものと、失いたくないものを先に探せ。


 今なお有用な教えだ。


 だからこそ、最後の判断だけが、どうしようもなく滑稽だった。


 主は、女神イズミールと聖者殿の間に特別なものがあると、誰より早く見抜いていた。

 その読みは半分まで正しかった。


 ただ、その特別なものを、利権と同盟、独占と排除の構図でしか読まなかった。

 聖者殿が自分を疎めば、女神もまた自分を排除する。

 そう考え、水から遠ざかり、最後には聖地そのものから逃げ出した。


 今日の聖者殿は、女神の名を命令に使わなかった。

 神官長殿も、女神の意向へ平伏すのではなく、弟子の意思を持ち出して言い返した。


 主が一度でも聖者殿と対話していれば、信頼には至らずとも、敵対せずに済む距離くらいは見定められたかもしれない。


 あの方は、女神の力を見誤ったのではない。


 女神の心を、人の欲と恐怖だけで読もうとした。

 あれほど人の流れを見ることに長けた方が、最後には自らの恐怖しか見えなくなったのだ。


 まことに、滑稽なことだった。


 あの日、主が逃げ出していなかったなら。

 あるいは、どこかで黄金から戻り、この地へ帰ってきていたなら。

 今日も、この部屋で私と一緒に、明日の予定を書き直していたかもしれない。


 私は古い帳簿の表紙に積もった薄い埃を指で払った。


 窓の外では、建設中の神殿の黄金の柱が夕日に照らされて輝いていた。

 湖面は穏やかで、そのどこに女神がいるのか、私には見分けがつかない。


 神官長殿の組み上げた神話が、このまま人の世へ根を張るのか。


 人と神が、互いを資源ではなく、人格ある相手として扱う関係へ至るのか。


 あるいは、女神の情と人間の都合が衝突し、見る影もなく歪むのか。


 少女が役目に押し潰されるのが先か。


 神話が実在する女神たちから離れ、勝手な教えとして歩き始めるのが先か。


 どこかに綻びが生じるなら、私は帳簿の内側から、それを繕うことができる。

 それでも支えきれないのなら、どこに最初の亀裂が入り、何から失われていくのかを見届けることができる。


 この稀有な企ての最も近くに席を得たことを、私は望外の幸運だと思っている。


 主もまた、かつては同じ席にいた。


 だが、自分の帳簿に収まらないものを恐れ、自らその席を立った。


 奇跡に誰より巧みに値をつけた方が、最後には、この席の価値だけを見誤ったのだ。


「まことに、惜しいことをなさいました。我が主よ」


 返事のない部屋で、私はしばらく笑っていた。


〈おまけ〉

118.9+.喧嘩の後で 〇

(118.9話「『水神宮外典・名もなき御使いの手記』⑥の喧嘩直後から、118.10話前半の裏側)


※※※※※


 水底へ戻ってきた瞬間、ミューズが三つに弾けた。


『びゃあああああっ!』

『りぃや……りぃやぁ……』

『メーッ! やー! りぃ、ヤーッ!』


 三人分の泣き声が、俺の中で一斉に響いて、水底にいくつもの大渦が生まれた。


「な、なんだ!? どうした! 誰にやられた!?」


 ミュルナは俺の腹へ頭から突っ込み、ミュリナは腰にしがみつき、ミュシアは何故か俺の頭の上へよじ登った。


『りぃや!』

『りぃや、メー……』

『ぐるぐる、リィヤ、やー!』


「リディア? リディアに何かあったのか?」


 三人は揃って首を振り、それから揃って頷いた。


「どっちだよ!」


 どうにか泣き声の隙間から拾えたのは、リディアと喧嘩したらしい、ということだけだった。


 あのリディアが?


 おどおどしているようでいて、気遣い力五十三万。

 ちびどもが何をやらかしても、困った顔で笑っている、あのリディアが?


 こいつらをまとめて泣かせるほど、追い詰められてたって?


 俺には分かった。知っている匂いがする。


「……仕事だな」


 過密労働によるストレス。間違いない。俺は詳しいんだ。


 爺さんの方針で、聖女だの御使いだのという役目を背負わされた時から、嫌な予感はしてた。

 神殿の連中に、絶対に仕事を詰め込まれすぎてる。

 あの子には、頼まれたら断れない系特有のオーラがある。


 なんてこった、弊社グループで労基違反だ。

 教えはどうなってんだ、教えは。


「おい、木こり野郎!」


 近くにいたアイオリスを呼びつける。


「リディアの労働環境を確認してこい!

 出張だの会議だの全部洗え! 休憩と有給と業務分担!

 コンプラ違反は許すな! 労基が飛んでくる前に!」


「……リディアを休ませればよいのだな」


「そう言ってんだよ!」


 アイオリスは俺にしがみつく三人を見て、何か言いかけた。

 けれど結局、何も聞かずに立ち上がった。


※※※※※


 ちびどもが一通り泣き、言葉にならない声がようやく途切れ始めた頃、アイオリスが戻ってきた。


「明日の視察は延期となった」


「ヨシ!」


 詳しいことはよく分からんが、とりあえず直近の出張が無しになったらしい。


「君の命令としては伝えていない」


「なんでだよ。俺が言ったって言えば一発だったんじゃねえの?」


「君が直接口にしていないことを、私が神託にするわけにはいかない」


「労働環境を改善しろって言っただろ!」


「だから、私自身の申し入れとして延期を求めた」


 相変わらず、クソ真面目で融通の利かない男だ。

 けど、まぁ、やるべきことはやってくれた。

 後でちょっとくらいは礼を言ってやってもいいかもしれない。ちょっとだけな。


「それで、リディアとミューズは何を争ったのだ」


「……過労じゃねえの?」


 俺の腹にくっついた三人は、まだグズグズ泣いている。

 泣きながら俺の水を飲みまくってる。

 水なら周りにいくらでもあるのに、全くこいつらと来たら……。


「おいこら、ちびども! そろそろぜんぶ聞かせて貰うからな。

 そこに正座……はいいや。飲みながらでいいから、何があったか最初から言ってみろ」


 三人は顔を見合わせた。

 それから、さっきより少しだけ小さな声で、もう一度リディアの名を呼んで、ミューズへと姿を変えた。


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