EX(118.10).『水神宮外典・名もなき御使いの手記』⑦ ◆★
ミューズを探さなくちゃ――
そう思ったものの、今、どこにいるのか、私には見当もつかなかった。
聖地を巡るすべての水とつながっているあの子を、人の足で探そうというのだ。
考えてみれば、途方もないことだった。
それでも、帳面の前でただ待っていることだけはしたくなかった。
ミューズがまだ私と話したいと思っているのか、今は顔も見たくないと思っているのか、それさえ私には分からない。
だからこそ、勝手に答えを決めたくなかった。
私は神殿の戸口を飛び出した。
「リディア様、明日の視察のことで――」
「御使い様、実はその件でお伝えすることが――」
外にいたカストールさんとヘレノスさんが、同時にこちらを振り向いた。
丁寧なお辞儀と共に、用件を伝えようとした二人の間を、私は駆け抜ける。
「ごめんなさい! 後で必ず聞きますからっ」
叫ぶだけ叫んで、振り返らずに走る。
二人から呼び留める声は聞こえてこなかった。
自分の仕事を放り出す、いい加減な聖女だと思われたかもしれない。
でも、私はあの子を探しに行きたかった。
神殿の建設現場に近づくと、いつものように大工衆の人たちがお辞儀をしてくる。
私は立ち止まって頭を下げ返すこともせず、走って通り抜けようとして――
ぐらりと視界が傾いた。
まだ仮置きの足場板があると聞いていたのに、そんな話を思い出す間もなく、私はそれに躓いた。
「きゃっ」
けれど、次の瞬間、私はがっしりとした腕に抱え込まれていた。
「……大丈夫か、嬢ちゃん」
ギュゲスさんだった。
言わんこっちゃない、という顔をしていた。
「足元に気ぃ付けろって言っただろうが」
ギュゲスさんに身体を支えられ、ようやく立ち直ってから、遅れて頭が追いついてくる。
注意されていた場所で走って転ぶなんて、まるっきり子どもだ。恥ずかしい。
そうだった。
私は、まだ子どもだった。
役目に追いつこうとして、背伸びをして。
そのくせ、目の前の足場さえ見えていなかった。
急げば届くわけじゃない。
正しい言葉を並べれば、仲直りできるわけでもない。
それでも、足元を見ながら進まなければ、あの子のところへは辿り着けない。
「はいっ! ありがとうございます!」
勢いよく答えると、ギュゲスさんが面食らった顔をした。
それが可笑しくて、少しだけ笑ってしまった。
その後も、私は湖畔を駆けずり回ってミューズを探した。
湖面を見つめ、あの子が姿を現さないか目を凝らした。
木工所を、配給所を、施療院を、屯所を、森の小道を、丘の上を探して回った。
配給所へ行けば、配給券の文字を覗き込んでいたミューズを思い出した。
施療院では、熱を出した人の額へ水の手を伸ばしていた姿が浮かんだ。
丘の上には、風に髪をなびかせながら、神殿が建つ場所を見下ろしていたあの子の姿が残っているように思えた。
どこへ行っても、あの子の姿を思い出した。
そして、故郷を失った私にとって、あの子と過ごしたこの聖地は、御師匠様の庵に次いでできた新しい居場所だった。
夕方が近づいてから、私はもう一度、湖畔の木工所へ戻った。
朝よりも槌の音は少なくなっていた。
積まれた板の間を、橙色の光が細く差している。
ミューズはいなかった。
朝の板だけが、そのまま残されていた。
何も書かれていない乾いた板。
私はその前で待った。
作業を終えた職人たちが、一人、また一人と帰っていく。
夕食の支度を知らせる声が遠くから聞こえ始める。
干した魚を炙る匂いが、風に乗ってきた。
もう今日は戻ってこないのかもしれない。
そう思い始めた頃、水辺で小さな音がした。
振り向く。
湖面から、水色の髪がゆっくりと姿を現した。
ミューズだった。
目が合う。
でも、いつものように駆けてはこない。
両手で小さな板を抱え、少し離れたところで足を止めた。
『リディア……』
「……ミューズ、わ、私、あのね」
まだ、何を言えばいいのか、答えは出ていない。
それでも、話をしようと思った。
『待って。ミューズ、先に言う』
その言葉に、動きを止める。
ミューズは濡れた板を持ち上げた。
そこには歪み、大きさも揃っていない文字が彫られていた。
ごめんなさい。
『リディア、ごめんなさい』
「そんな、ミューズは――」
悪くない。
そう言いかけて、飲み込んだ。
ミューズが何について謝ろうとしているのか、まだ聞いていない。
「……何を、ごめんなさいって思ったの?」
ミューズは板を胸へ抱いた。
『ミューズ、リディアに、さみしくないって言った』
「うん」
『ミューズいる。おししょーもいる。だから、さみしくないって』
ミューズは少し俯いた。
『でも、リディアのおとうさん、おかあさん、いないまま』
懸命に言葉を探している。
『ミューズがいても、いなくなったこと、なくならない』
なくならない。
なぜか、その言葉は違う意味を持って聞こえた。
失った両親、いつかいなくなる御師匠様。
でも、いなくなっても、いなかったことにはならない。
なくならないものは、寂しさだけじゃなかった。
会えなくなった今も、あの人たちを思う気持ちは残っている。
痛いから、見ないようにしていただけだった。
失ったからといって、大切だった時間まで消えるわけではない。
「……うん。なくならない、ね」
『ママと、きこりやろうに、聞いたの』
ミューズは自分の胸へ手を置いた。
『ミューズの知ってるリディア、たりなかった』
「……うん」
『リディアの知ってるミューズも、たりなかった』
ミューズは自分の胸へ手を当てた。
『キイロイチゴーに、前、言った。“たりない”は、みんなで“わけあう”でなおすって』
『でも、ミューズ、聞かなかった。わけあわなかった』
『だから、ごめんなさい』
私は首を横に振りそうになり、やめた。
「うん……聞いたよ」
ミューズの謝罪を、なかったことにはしたくなかった。
「私も、ごめんなさい」
『リディアも?』
「ミューズの寂しいって気持ちを、私は聞かなかった」
朝の自分の言葉を、一つずつ拾い直す。
「帰ってきてくれる家族がいるなら、寂しがっちゃいけないみたいに言った」
喉が震えた。
「自分の寂しさの方が大きいって、勝手に比べた」
ミューズは黙って聞いていた。
「それに、ミューズには分からないって決めつけた」
頭を下げる。
「ごめんなさい」
しばらく、返事はなかった。
やがて、ミューズが小さく言った。
『……ミューズ、いやだった』
「うん」
『いまも、ちょっと、いたい』
「うん。すぐに大丈夫にならなくていいよ」
ミューズはまだ、私へ近づかなかった。
「私ね、ミューズが羨ましかったの」
今度は、目を逸らさずに言った。
「イズミール様とアイオリスさんが帰ってきて、ミューズを抱きしめているのを見た時、本当に嬉しかった」
ミューズが心から安心して笑い、イズミール様が困ったような顔をしながら、決して腕を離さなかった光景。
「ミューズのそばにいると、私も、家族の温かさに触れているように思えた」
喉が詰まる。
「でも、ミューズは、私がもう持っていないものを全部持っているようにも見えた」
「ミューズを大事にしたい気持ちの中に、私も大事にしてほしいって願いが混じってた」
「羨ましいって気持ちもあった」
「そんなものが混じっているなら、今までミューズを大事にしてきたことまで、嘘になるんじゃないかって怖かったの」
『どうして、うそ?』
「ミューズを、お父さんやお母さんの代わりにしようとしている気がしたから」
ミューズは少し考えた。
『ミューズ、リディアのママ、できない』
「うん」
『ママは、ミューズのママ』
「そうだね」
『ミューズは、ミューズ』
「うん」
『リディアは、ミューズのこと、だいじ?』
「……うん」
『ミューズも、リディアが、だいじ。いっしょがいい』
胸の奥が熱くなった。
『リディアも、いっしょ?』
誰かの代わりではない、私が名前を呼び、私の名前を呼んでくれるミューズだ。
「うん、私も、ミューズと一緒にいたい」
ミューズはようやく、一歩だけ近づいた。
それから、何かを思い出したように表情を曇らせる。
『リディア』
「何?」
『人間、ずっといっしょ、いられないって本当?』
ミューズが二人に何を聞いたのか、ようやく分かった。
人間と、精霊の違い。
分かっていたはずなのに、胸が強く鳴った。
私は手を組み、ゆっくり息を吸った。
「……人がどのくらい生きるのかは、人によって違うよ。
私にも、いつまで生きられるのかはよく分からない」
『分からない?』
「うん。人間は、子どもから大人になって、それからも年を取るの。
私はまだ子どもだから、普通なら、すぐってことはないと思うけれど……」
ミューズは自分の髪へ触れた。
『リディアも、おししょーみたいに、髪、白くなる?』
「たぶんね。身体も今より動かなくなって、それから……いつか死んでしまうの」
『“死ぬ”は、いなくなる?』
「そうだね……会えなくなる」
ミューズの身体を流れる水が、かすかに揺れた。
『リディアも?』
「……うん。いつかは。精霊と人間では、流れる時間の長さが違うの」
ミューズは難しい文字を読む時のように、眉を寄せた。
『リディアの“ずっと”と、ミューズの“ずっと”、同じじゃない?』
「うん、私とミューズの“ずっと”は、違う……」
『じゃあ、リディアは、ミューズをおいていく?』
「置いていきたいわけじゃないよ」
『でも、いなくなる』
「……うん」
『やだ』
即座に返ってきた。
『やだ』
ミューズはもう一度言った。
水の身体が大きく揺れる。
『リディア、いなくなるの、だめ。なおす』
「……何を?」
『リディア、“死ぬ”の。なおす』
「……簡単には直せないよ」
『どうして?』
「人は死んだら、戻ってこないの。精霊とは違うから」
『ママなら、できる?』
「イズミール様にだって、できないことくらいあると思う……」
『きこりやろうは? きこりやろう、かわった。きこりやろうも、“死ぬ”?』
「今のアイオリスさんは……普通の人とは違う時間を生きるんだと思う」
あの人は、イズミール様と共にあることを望み、同じ時を生きるものになった。
けれど、その選択に至るまで、何を選び、何を手放したのかを、私は知らない。
でも、知っていたとしても、私に、アイオリスさんと同じ選択ができるだろうか。
今の私は、ミューズと別れる恐怖に突き動かされているだけかもしれない。
そんな時に、人の定めから外れる道を選んでよいのだろうか。
一緒にいたいという願いと、今の怖さから逃げたい気持ちを、同じにしてはいけないと思う。
『なら、リディアも、なれる?』
「……分からない。私にも同じ道があるのか、どうなるのか、まだ何も分からないから」
『ミューズと、いっしょ、いや?』
「ううん」
今度はすぐに答えた。
「一緒にいたいよ」
『じゃあ――』
「でも、ずっと一緒にいるために、何を変えなければいけないのか分からない」
人の寿命から外れること。
精霊に近い時を生きるものへ変わること。
それは、聖女や御使いという役目を引き受けることよりも、ずっと重い。
「怖いの」
ミューズの目が揺れる。
「ミューズを置いていくのは怖い。でも、自分が何になるのか分からないことも怖い……」
『……うん』
「だから、今は約束できない」
ミューズは俯いた。
しばらく黙った後、ぽつりと言う。
『リディア、時間、たりない?』
「ミューズと同じだけ一緒にいるには、きっと足りない」
『じゃあ、ミューズの、わける』
「ミューズの時間を減らしてほしいわけじゃないよ」
『減らす、ちがう』
ミューズは困ったように眉を寄せた。
『ミューズの“ずっと”、わけても、なくならない』
ミューズは言葉を探すように、何度も瞬いた。
『リディアの“ずっと”に、ミューズがいたい。
ミューズの“ずっと”にも、リディアがいてほしい』
胸の奥で、何かが震えた。
『あとのこと、わからない』
そこには、まだ名前のない願いがあった。
『わからないことは、いっしょに考える』
「……うん。私も考える」
「怖いからって、ミューズに言わずに、一人で決めたりはしないよ」
『うん』
「ミューズのためだって勝手に決めて、黙って離れたりはしない」
『うん』
「分からないことも、怖いことも、ちゃんと話そう」
ミューズは何度も頷いた。
『ミューズも、勝手にだいじょうぶ、しない』
「うん」
『リディアの言葉、聞く』
「私も、ミューズの言葉を聞くよ」
『わからない、聞く』
「うん」
『こわい、言う』
「何度でも言って」
ミューズは少し考えてから、私を見る。
『……おいていかないでって、言っていい?』
「……うん。何度でも言っていいよ」
『リディアも、言う?』
私は頷いた。
「私も言うよ」
『なんて?』
「ミューズを、置いていきたくないって」
ミューズの目が大きくなった。
それから、ようやく少し笑った。
『ちがうけど、いっしょ』
「うん、一緒だね」
ミューズが近づく。
水の手が、私の指先へ伸びてきた。
触れる直前で、一度止まる。
私が嫌がらないか、確かめているように見えた。
だから今度は、私から少しだけ指を動かした。
私とミューズの手が重なる。
ひんやりと濡れていて、骨の硬さも、人の手の温かさもない。
それでも、私の手を包もうとしてくれていることは分かった。
それが確かに、あたたかいと感じた。
『リディア』
「うん」
『書いて』
ミューズは抱えていた板を裏返して地面へ置いた。
「ごめんなさい」の裏には、大きく「リディア」と彫られていた。
ごめんなさい、リディア。
ああ。
これは。
私に宛てた、ミューズからの手紙だったんだ。
『ん』
ミューズが金色の欠片を差し出してきた。
黄金に染まった貝殻の欠片。
これを使って、私の名前を彫ったのだろう。
受け取って、板に文字を彫り込む。
「ごめんなさい」の下に、「ありがとう」
大きな「リディア」の隣に、小さく「ミューズ」
板の表と裏に、二人分の名前と言葉が刻まれた。
『できた』
ミューズが嬉しそうに微笑んだ。
「うん」
ミューズの文字は歪んでいて、大きさも揃っていない。
その脇の余白に彫った私の文字は、整っているけれど、小さい。
板に刻まれた傷は、水で書いた文字と違って消えない。
歪みも、大きさの違いも残したまま、二人の言葉と名前が同じ板に刻まれている。
――今は、それでもいいのかもしれない。
その時、ミューズがふっと顔を上げた。
視線は木工所の屋根でも、建設中の神殿でもなく、ズミュルナ湖の中心へ向いている。
『ママ、また呼んでる』
私には、湖面を渡る風の音しか聞こえなかった。
ミューズは湖の方を見たまま、その場を動かなかった。
「行かないの……?」
ミューズはしばらく黙り込んだまま、湖面から目を逸らして言った。
『ママ、ミューズに言った。リディアと、もうお話し、しないのかって』
イズミール様のことを話すミューズが、こんな拗ねたような表情を見せたのは初めてだった。
もしかして、私とのことで、叱られたんだろうか。
「それで、戻ってきてくれたの……?」
『ちがう』
ミューズは、はっきりと首を振った。
『ミューズが、リディアと話したいって言った』
「……うん」
『ママは、なら、自分で言ってこいって。けんかしたまま逃げるの、メーって』
それは、いかにもイズミール様らしい言葉だと思った。
そして、言われたから来たんじゃないと意地を張るのも、ミューズらしいと思った。
「ふ、ふふ……」
『リディア、わらった!』
ミューズがぷくっと頬を膨らませた。
「ご、ごめん。違うの。イズミール様らしいと思って」
『リディア、ひどい! きらい!』
ミューズは髪を波立たせながら数歩、水辺の方へ跳んだ。
それから振り返る。浮き上がっていた髪がすとんと落ちた。
『……リディア、きらいは、うそ』
「ひどいは、本当なの?」
意地悪のつもりではないけれど、思わず聞いてしまった。
『きらい!』
「ごめんね。それも、嘘にしてくれる……?」
ミューズは小さく頷いた。
湖の方をもう一度見て、それから、今度はまっすぐ私を見て言った。
『ママのとこ、いってくる。
いってきます、リディア』
「いってらっしゃい、ミューズ」
『あとで、ただいま、言う』
「じゃあ、おかえりって言うね」
ミューズは大きく手を振って、湖面へ駆けていった。
水へ降りると、その姿が少しずつほどけていって、湖面に波紋を残して消えた。
私は、その波紋が見えなくなるまで見送った。
寂しくないわけではない。
それでも、朝とは違う。
私の隣には、まだ濡れた板が残っている。
ごめんなさい。
ありがとう。
リディア。
ミューズ。
彫り込まれた文字は、板が乾いても消えない。
けれど、いつかこの板そのものが朽ちれば、読めなくなるのだろう。
それでも、前ほど怖いとは思わなかった。
形が失われても、交わした言葉まで、なかったことにはならない。
忘れそうになったなら、もう一度話せばいい。
一度で伝わらなかったなら、伝わるまで聞き合えばいい。
私は板を拾い上げ、胸に抱いた。
これは、私の一番大切な友達から受け取った、初めての手紙だ。
今度は私からあの子に、手紙を書こう。
もしも、いつか私の名前も、姿も、声もなくなってしまったとしても。
手紙にした言葉なら、あの子に何度でも気持ちを伝えられると思うから。
『水神宮所蔵品・書簡七十七』抄
あの日、私は貴女から初めての手紙を受け取った。
「ごめんなさい」と、板いっぱいに彫られた私の名前。
私はその隣へ、貴女の名前と「ありがとう」を刻んだ。
あの日から、私は貴女へ何通もの手紙を書いた。
嬉しかった日のこと。
喧嘩をしてしまった後のこと。
悲しくて眠れなかった夜のこと。
言えなかった言葉や、帰ってから初めて気づいた気持ち。
すべてを伝えられたわけではない。
すべての手紙を、貴女に渡せたわけでもない。
それでも、貴女を想って言葉を選んだ時間は、確かにそこにあった。
私たちは、何度も離れた。
離れるたびに「いってきます」と「いってらっしゃい」を。
帰るたびに「ただいま」と「おかえり」を交わした。
いつでも同じように分かり合えたわけではない。
言葉が足りず、また互いを傷つけた日もある。
それでも私たちは、足りないものを分け合うように、何度も話の続きを始めた。
二つの月は、今も重ならないまま、同じ夜空を巡っている。
けれど、夜が明ければ、湖の向こうから昇る陽は一つだ。
私の「ずっと」と、貴女の「ずっと」は、同じ長さではなかった。
けれど、違うからといって、同じ朝を望んではいけない理由にはならなかった。
あの日、貴女が望んだ「ずっと」に、私は長い間、答えを出せずにいた。
答えを知ってからも、実際に選ぶまでには、さらに時間がかかった。
貴女を置いていくことは、今も怖い。
死ぬことが怖くないと言えば、きっと嘘になる。
けれど、その恐れだけに追われて選んだのではない。
人として生きてきた時間も、失ったものも、これから失うかもしれないものも、すべて抱えたまま、それでも私は、貴女と同じ時を生きたいと願った。
一つになるのではなく、二人のまま、同じ時間を生きる。
それが、私たちの出した答えだった。
その答えを形にするために、私はこれから貴女のもとを離れる。
違う時間を生きてきた私たちが、同じ朝を迎えるために。
今、貴女へ「いってきます」と伝える。
意地っ張りの貴女は、きっと平気な顔で「いってらっしゃい」と言うのでしょう。
けれど、この手紙を読んでいる頃には、「置いていかないで」と泣いているかもしれない。
それでも今なら、これは別れではないと、胸を張って伝えられる。
大丈夫。
私は必ず、貴女のもとへ帰る。
帰ったら、いつものように、この言葉を伝える。
ただいまって。
『水神宮外典・名もなき御使いの手記』了




