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EX(118.9).『水神宮外典・名もなき御使いの手記』⑥ ◆★△

『水神宮所蔵品・書簡二十七』抄


 いつか私は、貴女を置いていく。


 そのことを初めて、自分の未来として考えた日のことをずっと覚えている。


 私は何度も、貴女が一人で湖に残される姿を思い浮かべた。

 長い時間を生きる貴女の隣から、私だけが先に消えてしまう。


 それが恐ろしくて、貴女の顔をまっすぐ見ることさえできなかった。


 けれど、その恐ろしさを貴女へ話すことはできなかった。


 貴女を悲しませたくなかったから。


 そう思っていた。


 本当は、貴女に「置いていかないで」と言われた時、何も約束できない自分を見られることが怖かったのだと思う。


 だから私は、まだ来ていない別れを恐れるあまり、あの時、目の前にあった貴女の寂しさを見失った。


 私は、いつか自分が貴女を置いていくのだと思っていた。

 けれど、先に貴女を遠ざけてしまったのは、私の方だった。


挿絵(By みてみん)


 次の朝になっても、アイオリスさんと話した時のことが、私の中でまだ片付いていなかった。


 私は人間で、ミューズは精霊。

 私は年を取って、あの子より先にいなくなる。

 いつか私が、ミューズを置いていく。


 そんな当たり前のことに気づいてしまってから、あの子の顔をまっすぐ見られる自信がなかった。


 会いたいけれど、会うのが少し怖い。


 ミューズがいつものように笑って、私の名を呼んでくれたら、きっと嬉しい。

 同時に、その声をいつまで聞けるのだろうと考えてしまう気がした。


 それでも私は、いつものようにミューズの姿を求めて、湖畔の木工所まで来ていた。


 朝の作業は、もう始まっている。


 材木を挽く音と、槌で木栓を打ち込む音が、まだ冷たい空気の中へ響いていた。

 積み上げられた板の間を職人たちが行き交い、削り屑が朝の風に転がっている。


 その端で、水色の長い髪が揺れていた。


「ミューズ」


 呼ぶと、板を覗き込んでいた顔が上がった。


『リディア』


 いつものように、私の名前を呼んでくれた。

 それだけで胸の奥が少し緩んだのに、私はすぐには隣へ行けなかった。


 ミューズの指先が、乾いた板の上をゆっくり滑っていく。

 水の通った木目が濃くなり、歪んだ文字が一つずつ浮かび上がった。


 大きさはまだ揃っていないけれど、文字としてしっかり読めた。


「お・か・え・り……?」


 私が読むと、ミューズはこくんと頷いた。


『読めた? 合ってる?』


「うん。合ってるよ」


『ほんと?』


「ほんと。前よりずっと上手になったね」


 私が隣に腰を下ろすと、ミューズは少しだけ胸を張った。

 けれど、いつもの得意げな笑顔にはならなかった。


『きこりやろうに習った。でも……ここの“え”、変かも』


「少し横に長いかな。でも、ちゃんと読めるよ」


『だめ。もっと、きれいにしたい』


 ミューズが板へ手をかざす。


 水気が抜け、せっかくの文字が木目の中へ消えていった。


「消しちゃうの?」


『もう一回、もっとちゃんとする』


「昨日もそう言ってたね」


『きのう?』


「私の名前を書いてくれた時」


 あの時は、私に見つかって慌てて板を隠していた。

 上手に書けてから見せたかったのだと言って、何度も私の名前を練習していた。


 ミューズも思い出したらしい。

 少しだけ頬を膨らませる。


『……リディア、わらった』


「笑ってないよ。嬉しかっただけだって言ったでしょう」


『なら、いい』


 納得したような、していないような顔で、ミューズはもう一度指を走らせた。


 お。


 か。


 え。


 り。


 今度は最後の線を短く止めて、私を見る。


「うん。今の方がきれい」


『できた』


 今度は満足そうに笑ってくれた。


「誰に言うの?」


 何気なく聞いたつもりだったのに、ミューズはきゅっと唇を結んだ。


『……ママと、きこりやろう』


「イズミール様と、アイオリスさんに?」


『うん。遠くにいくから』


 指先が、書き終えた文字の上をなぞる。


 せっかく形になった「おかえり」の一部が滲んだ。


『おしごとしないひと、いっぱい。メンドイのも、こわいのも、いるって』


 イズミール様とアイオリスさんが、聖地を離れる日が近いことは聞いていた。


 黄金の眠りから覚めても、すべてが元通りにいくわけではない。

 水の元素に大きく偏った世界では、それ以外の属性の精霊や神々、霊場にも影響が残っているらしい。


 二人は各地の精霊や神々のもとを巡り、元素の乱れを整える旅に出ることになっていた。

 それは、源流の底に巣食っていた魔樹を倒すのと同じくらい、途方もない話に思えた。


『ママ、ちゃんとさせる。きこりやろうも、一緒にいくって』


「うん。聞いてるよ」


『帰ってきたら、ミューズ、おかえりって言うの。字も、見せる』


「きっと喜ぶよ」


 そう答えると、ミューズは板を見つめたまま黙ってしまった。


 湖から吹く風が、積まれた板の隙間を通り抜ける。


『まだ、みんな、戻ってない。おうちも、道も、畑も、金きら。

 ミューズのおっきなおうちも、できてない』


「だから、残るって決めたんだよね」


『うん。ミューズ、ママのかわりに、ここを守るって言った』


 その顔は真剣だった。


 誰かに命じられたのではなく、この聖地に残ることを自分で選んだのだ。


『リディアも、おししょーも、むきむきも、ふさふさも、にこにこもいる。

 のじゃーたちも、もっと来てくれるんだって』


 一つずつ確かめるように名前を挙げてから、ミューズは胸の前で手を握った。


『だから、ミューズは、ちゃんと――』


 そこで言葉が止まった。


 唇を結び、少しだけ考えるように目を伏せる。


『……ちゃんとは、しすぎない』


 言い直した声は、照れくさそうだった。


 イズミール様に言われたことを覚えているのだ。

 怖いまま一人ですべてを背負おうとしていたミューズに、ちゃんとしようとしすぎるなと言ってくれた人。


 ミューズには、そうやって叱ってくれる優しいお母さんがいる。


「……そうだね」


『でも』


 水の指が、板の端を掴んだ。


『本当はママと、きこりやろう、いないの、いや』


「うん……」


『行かないでって言いたい。でも、ママのおしごと、だいじ』


 ミューズはそこまで言ってから、唇を尖らせた。


『でも、いなくなるの、さみしい』


「……」


 私は返事をしようとして、言葉を探した。


『おいてかないでって、思う』


 おいてかないで。


 胸の奥に、小さな棘が刺さった。


 ミューズが言っているのは、数日後に始まる旅のことだ。

 帰ると約束してくれた両親と、しばらく離れることが寂しいのだ。


 ミューズは顔を上げた。


『ママは帰ってくる。でも、いなくなるの、さみしい。

 前みたいに、ママいないの、こわい』


 その言葉は間違っていない。


 泡の丘で待ち続けていた時の、この子の気持ちも分かっていた。


 寂しさは、正しい話を聞けば消えるものではない。

 怖いのは、理由が分かっていても怖いものだ。


 それでも、口から出た言葉を止められなかった。


「……帰ってきてくれるんだから、いいじゃない」


 ミューズが目を見開いた。


「ミューズには、帰ってきてくれる家族がいるんだから」


 ああ。


 言ってしまった。


 材木を挽く音が、急に遠くなったように感じた。


『ママ、帰ってくる……だから、さみしい、だめ?』


「駄目だなんて言ってない」


 すぐに否定した。


 けれど、止まれなかった。


「でも、本当にいなくなるわけじゃないでしょ。

 帰ってくるって約束してくれて、待っていれば、また会えるんだから」


 私には、どんなに待っても、もう帰ってこない人がいる。


 そんな言葉が喉元まで上がってきた。


 言ってはいけないと思った。

 ミューズに責任のないことだ。


 それでも、胸の中に溜まっていた濁りが、次々に言葉へ混ざっていく。


「ミューズには、怖いって言えば、慰めてくれる人もいる。

 行かないでって言えば、抱きしめてくれる人もいる」


『リディア』


「それなら、いいじゃない」


 ミューズは消えかけた文字を見つめていた。

 長い間を置いてから、私を見る。


『リディアも、ひとりじゃないよ』


「……え?」


『ミューズがいる。おししょーもいる。むきむきも、みんないる』


 ミューズは、たぶん私を慰めようとしていた。


『だから、リディアも、さみしくない』


 向けられた笑顔は、どこまでも真っ直ぐで、温かくて。

 この子が心からそう信じているのが伝わってきた。


 だからこそ、私の中の何かが切れた。


「……そんなわけ、ないじゃない」


 自分でも驚くほど、強い声が出た。

 私は声を抑えようとしたけれど、もう遅かった。


「御師匠様やミューズがいたって、お父さんとお母さんは、もういないんだから」


『リディアの、おとうさん、おかあさん』


「もう帰ってこないの」


『……帰ってこない』


「いくら待っていても、もう二度と会えないの」


 ミューズの身体を流れる水が、大きく揺れた。


 私は言葉を止められなかった。


「今、会える人がいるからって、会えなくなった人のことが平気になるわけじゃない」


『でも、リディアには、ミューズが――』


「ミューズには分かりっこないよ」


 言った瞬間、後悔した。


 ミューズの顔から、すべての表情が消えた。

 板に置かれた指が、わずかに震えている。


「あ……ち、違うの。今のは――」


『ミューズ、リディアの言葉、わからない……』


 「おかえり」の形をした湿りが薄れていく。


『……リディアも、ミューズの言葉、わからない』


 ミューズが板へ手を置いた。

 木目に染みていた水が、指先へ吸い上げられるように戻っていく。

 「おかえり」の文字は輪郭を失い、跡形もなく消えた。


「ミューズ……」


『……いま、リディアと話さない』


 ミューズが私に背中を向けた。

 水色の髪が大きく揺れる。


 追いかけようとして、私は手を伸ばそうとした。

 けれど、引き留められなかった。


 今追いかけて謝るのは、ミューズのためじゃないって、わかってるから。

 嫌われたくない私が、許してもらって、楽になりたいだけだ。


 ミューズは一度も振り返らず、水辺へ向かった。


 湖へ足を踏み入れる。


 その姿は水の中へほどけ、波紋になって、私の前から消えた。


 あとには、何も書かれていない板だけが残された。


※※※※※


 神殿に着いてからも、材木を挽く音が耳に残っていた。


 机の上には、昨日持ち帰った帳簿と、神殿で使う物資の一覧が置かれている。

 文字を追おうとしても、同じ行を何度も読み直してしまう。


 ミューズには分からない。


 そう言った時の、あの子の顔が浮かぶ。


 でも、ミューズは家族を失ったことがない。

 イズミール様も、アイオリスさんもちゃんと帰ってきた。

 これから旅へ出ても、また戻ると約束している。


 あの子は私とは違うって、そう思おうとした。

 けれど、その考えを繰り返すたび、胸の中で別の声が聞こえた。


 違うから、何だというのだろう。


 ミューズの別れが一時のものなら、その間の寂しさは偽物なのか。

 私が失ったものの方が大きいなら、ミューズは泣いてはいけないのか。


「聖女様」


 声をかけられ、顔を上げた。


 神殿の雑務を手伝っている若い女性が、書類を抱えて立っていた。


「御子様は、今日はお見えにならないのですか?」


「……神域にいると思います」


「そうでしたか。今日は文字のお勉強をなさる日だと聞いていたので」


 悪意のない言葉なのに、胸が痛んだ。


「何か、私どもに至らないことがあったのではないかと」


「いいえ。大丈夫です」


 口にしてから、その言葉がひどく空虚に聞こえた。


 大丈夫。


 私はミューズの答えを聞かずに、そう決めようとした。

 あの子の声を伝えるのが、私の役目なのに。


 女性が去った後、私は書類を閉じた。

 仕事を続けることはできなかった。


「朝から辛気臭い顔をしておるな」


 いつの間にか、御師匠様が部屋の入口に立っていた。

 杖をつき、いつもの不機嫌そうな顔で私を見ている。


「御師匠様」


「帳簿に穴が開くほど見つめたところで、数字は勝手に揃わんぞ」


「……はい」


 御師匠様は机の向かいへ立った。


「何をした」


 何かあったのか、ではなかった。

 私が何かをしたと決めつけている。


 普段なら少し腹が立つところだけれど、今日は反論できなかった。


「……ミューズを、傷つけてしまいました」


「そうか」


 あまりにも素っ気ない返事に、思わず顔を上げる。


「謝らなくちゃって、思うんです。だけど……」


「それで? 代わりに帳面相手に頭を下げておるのか?」


「ち、違います、そんなんじゃ……。

 だって、今は話したくないって、言われたんです」


「今は、か。便利な言葉を覚えたものだ」


 御師匠様は鼻を鳴らした。


「だが、“今は”が終わる時をあれに丸投げして、お前は帳面の前で腐っておるつもりか?」


 私は言葉に詰まった。


「精霊に“いつまで”を委ねるな。

 人とは違う時を生きる者たちだぞ、こちらの身が持たんわ」


 生きる時間が違う。


 それは寿命のことばかりだと思っていた。


 けれど、ミューズにとっての「今は」が、私の一刻と同じ長さとは限らない。

 だからといって、拒まれた傍から追いかけて、無理に話を聞かせていいわけではないと思う。


 でも、いつ話すかも、どうすれば話せるのかも、すべてミューズ一人に背負わせて、私は帳面の前へ隠れたままでいるのか。


「話せる時が来たなら話したいのか。許されぬのが怖いから、近づかずに済ませたいのか。まずは己で決めろ」


 私はミューズにどう許してもらおうと思っていたのだろう。


 自分の悪かったところを並べ立て、そんなことないって言って欲しかった?

 私の考え方や感じ方を押し付けて、理解して欲しかった?


 あの時、ミューズとの話を拒んだのは、私の方だ。 


「お前が何をやらかしたのかは聞かん。

 だが、許されたいのか。話の続きがしたいのか。

 それくらいは分けて考えろ」


 御師匠様の言葉には気遣いも慰めもない。

 いつも、私が目を逸らしたくなる事実を突き付けてくる。


「……御師匠様」


 御師匠様の顔を見上げる。

 はじめて会った時より深くなった皺、白く伸びた髭。


 御師匠様とも、いつか別れる日が来る。

 私たちに残された時間が、同じだけあるとは限らない。

 だから、言える時に言わなければならない。


 ――掴める時に掴まねば、二度と届かん縁もある。


 あの夜、神域に向かうアイオリスさんに御師匠様はそう言った。

 きっと、御師匠様にも掴めなかったもの、届かなかったものがある。


 だから、いつもしかめっ面のまま、背中を押してくれるんだと思う。


 私はいつか、この人を置いていくかもしれない。あるいは、先に置いていかれる。

 でも、進めるのはこの人が押してくれたからだ。


「何だ」


「大事な用事ができたので、今日はこれで失礼します」


 御師匠様は露骨に顔をしかめた。


「堂々と職務放棄ですかな、聖女様」


 神官長としての言葉を皮肉げに言う御師匠様を見て、少しだけ気持ちが軽くなった。


「聖女としての務めでもあります」


「建前は結構。時間は有効に使っていただきますよう」


 御師匠様はそう言って、私の前から書類を取り上げた。


 私は頭を下げ、部屋を出る。


 言ってしまった言葉は、もう口の中へは戻せない。

 けれど、私とミューズの間に残っているものまで、すべて失われたわけではない。


 私とミューズは、まだ一緒にいる。


 いつか一緒にいられなくなるとしても、今はまだ、同じ場所にいる。


 ミューズを見つけたからといって、無理に話しかけるつもりはなかった。


 ただ、あの子が話の続きをしようと思った時、今度は私がいないということだけは嫌だった。


 行って、会ってみなければ何も分からない。

 私は神殿の扉を押し開けた。


 今度は、私がミューズを探す番だった。

挿絵(By みてみん)

<TIPS>

『水神宮所蔵品・婦人像』

 水神宮に伝わる作者不明の古い婦人肖像。

 装束の意匠から、初期の神殿に関わる女性、あるいは初代聖女を描いたものではないかとも噂されている。

 しかし像主を示す記録は残っておらず、顔の大部分が損傷した経緯も不明。

 水神宮は、この絵の来歴についていかなる公式の見解も示していない。

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