EX(118.5).『水神宮外典・名もなき御使いの手記』② ◆★△
『水神宮所蔵品・書簡七』抄
ついに、私たちの祈りの家が出来上がった。
もう長いこと、湖に響き続けていた槌の音が止んだ時、私は少し寂しいと思った。
忙しい日々の中で、あの槌音はいつしか私たちの暮らしに溶け込んでいたから。
朝早くから鳴り響き、食事の時間や祈りの時間になるとまばらになる。
あの槌音の向こうには、喧噪と汗と木屑の匂いが確かに感じられた。
ああ、今日も働いている。
今日は何を食べているのだろう。
ちゃんと休めているのだろうか。
そんなふうに耳を澄ませる日々も、ひとまずは終わる。
貴女を迎える場所が、ようやく形になったのだから。
湖面に突き立つ幾本もの柱と、水上に建つ神殿を前にして、人は語り継ぐだろう。
あれこそ、偉大なる水神の住まう宮だと。
けれど、私たちにとって、あの場所はただの聖堂でも宮殿でもない。
貴女にとって本当の家と呼べる場所は、あの深い水の底なのだと思うけれど。
あの場所が貴女にとって、もう一つの帰る場所でありますように。
私たちがそう願っていたことを、貴女はもう分かってくれている。
だから、水面から貴女が姿を現した時、私たちはいつも貴女にこう告げる。
おかえりなさいって。
消えかけた板の文字を、ミューズはまだ大事そうに指でなぞっていた。
乾くにつれて木目へ戻っていく私の名前を見つめながら、ミューズは小さく口の中で繰り返す。
『り、でぃ、あ』
「うん。今の、さっきより上手だったよ」
そう言うと、ミューズは少し得意げに胸を張った。
湖から吹く風が、木屑の匂いと水の匂いを一緒に運んでくる。
『次はもっと上手、できる』
その得意げな顔が可愛くて、私はもう一度だけ褒めようとした。
けれど、その前にミューズがふっと顔を上げた。
視線は、建材置き場の向こう。
木工所の屋根でも、作業場でもなく、ズミュルナ湖の中心――神域へ向いている。
『……ママ、呼んでる』
「イズミール様が?」
『うん』
私には何も感じ取れなかった。
聖地一帯は水の霊子があまりにも濃くて、魔術師としての感応もほとんど役に立たない。
でも、ミューズの顔は迷っていなかった。
湖の水を通して、あるいは神域の奥から、イズミール様の気配を感じ取っているのだと分かった。
「じゃあ、行っておいで」
『ん。リディア、あとで』
「うん、またあとでね」
ミューズは一度だけ板と私を見比べて、それからふわりと浮き上がって水辺へ向かって飛んで行った。
湖面へ降りると、水が静かにその足を受け止める。
ミューズは振り向いて、大きく手を振った。
『またね!』
次の瞬間、その姿がざぁっとほどけた。
水色の髪も、袖も、手を振る指先も、湖面へ戻って波紋になる。
身体が水へ戻る姿は、今でも少しだけ不安になる。
それでも、あれがあの子にとって自然な帰り方なのだと、今はもう知っていた。
私はその湖面の波紋が消えるまで見送ってから、木工所の端に置いた荷物を抱え直した。
今日は、湖畔の仮設神殿にいる御師匠様へ、いくつか報告を届けることになっている。
ミューズが文字を書いたことは、まだ言わない。
内緒だと約束したから。
そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
けれど、水辺へ向かう道を歩き出してすぐ、その温かさは別のものに押されはじめた。
水上神殿の建設現場が、見えてきたからだ。
ズミュルナ湖の水は、今、神域の周りだけ透明な壁があるみたいに押し退けられ、堰き止められていた。
本来なら足を踏み入れられない湖底が露わになっていて、そこへ人々が踏み入り、杭を打ち、縄を張り、足場を組んでいる。
木の仮支柱。
石で組まれた土台。
梁になる太い材木。
そして、それらを見下ろすように、湖底から黄金の柱が立っていた。
木に金をかぶせたものではない。
根元から天辺まで、柱そのものが黄金だった。
水に沈んだまま黄金になったものとも違う。
材料として形を整え、立てる場所を決めてから、黄金に変えられたものだ。
姿をお見せにはならないけれど、イズミール様は神殿の建設に力を貸してくださっている。
そのおかげで、神殿の工事は驚くほど早く進んでいた。
朝の光を受けて、黄金の柱が鈍く輝いている。
まだ神殿そのものは骨組みにもなっていない。
なのに、すでに普通の建物とは違うと分かる。
人が見上げ、息を呑み、思わず膝をついてしまう。
そんな場所として、この聖地に建てられようとしている。
「御使い様」
足場の近くにいた大工の一人が、私に気づいて手を止めた。
その声に、周りの人たちも次々と振り返る。
槌を持っていた人は槌を下ろし、縄を引いていた人は手を止め、木材を担いでいた人まで片膝をつくように身を低くした。
「ここは足場が悪うございます。どうぞこちらをお通りください」
「あ、ありがとうございます」
慌てて頭を下げ返す。
この人たちが見ているのは、見習い魔術師のリディアではなく、女神ミューズの言葉を伝える御使いなのだ。
単なる敬意というより、神秘そのものへ向ける畏れに近い。
ズミュルナ湖が、まだ名もない泉だった頃、その畔に社を建てたのがこの大工衆だったと聞いている。
泉の神秘に触れ、以来ずっとイズミール様を信じてきた人たちだ。
だからこそ、その丁重さが本気だと分かってしまい、私は少し困ってしまう。
「おう、嬢ちゃん。これから爺さんのとこか?」
そんな中で、場違いなくらい気安い声が飛んできた。
顔を上げると、足場の上からギュゲスさんが手を振っている。
袖を肘までまくり、額に汗を浮かべ、手には墨のついた板切れを持っていた。
「ギュゲスさん」
「こっちだこっち。そこの線の先は、まだ固定してねぇんだ」
大工衆の何人かが、ぎょっとした顔でギュゲスさんを見た。
たぶん、私を嬢ちゃんと呼ぶのを不敬だと思ったのだろう。
ギュゲスさんは気にしていなかった。
もちろん、私も気にしていないのだけれど。
「嬢ちゃんはやめてくださいって、前にも言ったじゃないですか」
「んじゃあ、御使い様の方がいいか?」
「それは……まだ慣れないです、けど……」
「なら嬢ちゃんで我慢しな」
「もう……だからって、なんでその二択なんですか……」
言い返しながらも、私は少しだけ口元が緩んでしまった。
ギュゲスさんは、聖女様とも御使い様とも呼ばない。
わざとなのか、ただそういう人なのかは分からないけれど。
けれど、その雑さに助けられることがある。
それでも、子ども扱いされるのはやっぱり納得がいかなくて、つい言い返してしまう。
「どっちだっていいだろ、そんなもん。
なぁ、ちょっと寄り道するくらいの時間はあるだろ?」
「え、何ですか……?」
「いいから、ちょっと来いって」
ギュゲスさんは建設中の足場に繋がる階段を顎で示した。
湖底から伸びた足場は、まるで塔か城壁のようで、普段とは違う景色が見えそうだった。
「じゃあ、少しだけ……」
「そうこなくちゃな」
案内された場所から見下ろすと、水を退けた湖底に、穴が掘られ、いくつもの黄金の柱が立てられていた。
湖を囲むように並び立つ黄金の柱は、それだけで伝説的な光景に見えた。
「すごい……」
「まだまだ、こっからだけどよ。なかなかのもんだろ?」
ギュゲスさんは、板切れで湖上をぐるりと指した。
「あの大柱で神域を囲む輪を作る。そこへ足場を組んで、柱を立てて、屋根を乗せる。
最初の話じゃ、石と木で組んで、傷んだら直していくつもりだったんだがな」
「ペッシヌスさんが進めていた計画ですよね」
「ああ。あの商人野郎の見栄もあったんだろうよ。
女神様の格を見せるとか、人を呼ぶとか、金を回すとか、そういう話だったらしい。
俺は細けぇことは知らねぇけどな」
「今は違うんですか?」
「全然違う。水を退けてもらえて、主柱を丸ごと黄金にできる。
腐らねぇ。燃えねぇ。歪まねぇ。折れねぇ。
釘一本打てねぇのは面倒だが、柱としちゃあ、これ以上はねぇな」
ギュゲスさんは、くつくつと笑って黄金の柱を指した。
「親方連中は畏れ多いだなんだとうるせえが、俺からすりゃ、とんでもねえ建材だよ」
「あの時は、ギュゲスさんが色々なものを作ってくれましたね」
「なんも道具がなかったからな。なけりゃ作るしかねぇだろ?」
あまりにも当然みたいに言うけれど、あの状況で、触れれば黄金になる水をあんなふうに扱えた人は、他にいなかった。
この人にとって、神話も奇跡も、最後には手で扱う材料になるのだと思った。
罰か祝福かも分からないものを、それでも人が生きる場所のために使ってしまえる人なのだ。
「嬢ちゃん、見ろよ」
ギュゲスさんは、湖の中心に近い方を指した。
澄み切った湖底の向こうに、黄金に変わった小さな影が見えた。
建物と呼ぶには頼りなく、柱と床の形だけが、湖の底に沈んでいる。
「見えるか? あれが、うちの親方どもが最初に建てた社なんだとよ」
「本当に、昔は泉だったんですね……」
「昔の社はあれでよかったんだろうよ。泉の畔に、女神様がいるって目印になりゃよかったんだ」
ギュゲスさんは振り返って、建設中の足場を見回した。
「けど、この神殿はそうはいかねぇ。なんせ御子様の家になるんだからな」
「ミューズの、家に……?」
ギュゲスさんは、当然だろうと言いたげに肩をすくめた。
「しょぼい家なんかに住ませたら、舐められちまう。
御子様がすげえって、見て分かる奴ばっかじゃねえだろ。
だったら、見た瞬間に黙るもんを建てりゃいい」
その言葉は乱暴だった。
けれど、そこに込められているものは分かった。
子どもだから、幼いから、イズミール様の代わりだからと、都合よく扱わせないために。
誰が見ても尋常ではないと分かる神殿を建てようとしているのだ。
ギュゲスさんは、湖上をぐるりと指した。
「黄金から戻った連中が目ぇ覚まして、湖の上にこんな神殿が立ってたら、そりゃ腰も抜かすさ。
世界が寝てるうちに動けるのは、今のところ俺らだけだ。先に柱を立てたもんの勝ちだろ」
「……先に、ここはミューズの場所だって分からせるんですね」
「そういうこった」
御師匠様なら、きっと別の言葉で説明するのだと思う。
けれど私には、ギュゲスさんの言い方の方がすぐに分かった。
この神殿は、きっとミューズを守ってくれる。
それはとても必要なことだと思う。
でも、その大きな神殿は、ミューズを守る場所であると同時に、あの子を遠いところへ置いてしまうものにも思えた。
さっきまで私の名前を書いて、できた、と笑っていたあの子。
お母さんに呼ばれたと言って、湖へ帰っていった子。
その子が、人々の祈りの集まる神殿の奥へ置かれていく。
そう思った瞬間、胸の奥が少し冷えた。
「嬢ちゃん?」
「……すごい、ですね」
私は、黄金の柱の並ぶ神域を見たまま言った。
「本当に……すごいものができあがるんだと思います」
「だろ」
ギュゲスさんは満足げに笑った。
その笑顔には、大工としての誇りと、たぶん、ミューズを守りたい気持ちが混ざっていた。
だからこそ、私は何も言えなくなった。
ミューズの隣に立つと決めたのなら。
私が受け持たなければならないものは、思っていたより、ずっと大きいのかもしれなかった。
足場の上から見える景色が、急に高くなったように感じた。
「嬢ちゃん、ちゃんと飯は食ってんのか?」
「えっ」
「食うもん食って、休むときは休めよ。
御子様に付き合って夜更かししてると身体がもたねぇぞ」
そう言って、ギュゲスさんは干したプルヌスの実を押しつけてきた。
「これから爺さんの長話だろ。腹が減ったら食っとけ」
「御師匠様の前で食べるわけにはいきません」
「食いながらだって話の中身は変わらねぇだろ」
「あ、あはは……」
冗談のはずなのに、ギュゲスさんなら本気でそう言いそうで、私は乾いた笑いを返すしかなかった。
「笑いごとじゃねえからな。
どうにも、うちの連中は、上から下まで揃いも揃って働き過ぎなんだよ」
その時、下の現場からギュゲスさんを呼ぶ怒鳴り声が飛んできた。
「ほら見ろ言わんこっちゃねえや。
うるせえな! 今、行こうと思ってたとこだよ!」
「す、すみません、お仕事中を邪魔しちゃって」
我に返って、荷物を抱え直す。
「ばーか、俺の息抜きだよ息抜き」
ギュゲスさんだけが、片手を雑に振った。
「足元見て歩けよ、嬢ちゃん」
「はい。ギュゲスさんも、無茶はしないでください」
「無茶じゃねぇよ、仕事だ」
足場を降りていくと、大工衆の人たちが、また丁寧に道を空けてくれた。
頭を下げる人たちの間を通るたび、背筋を伸ばしていなきゃという気になる。
「うちの連中」――そう言ってくれた声が、温かく感じて心に残った。
一度だけ振り返ると、ギュゲスさんはもう作業に戻っていた。
湖の周りには、まだ神殿と呼ぶには足りない柱と足場だけがある。
それでも私には、そこにまだ見えない屋根と、まだ聞こえない祈りの声が重なって見えた。
ミューズを守るための場所であり、同時に、あの子を祈りの中心へ置くための場所。
その景色のすべてを、私はまだうまく言葉にできなかった。
ミューズの時代を支えるものは、親愛や祈りだけではない。
その事実だけを胸に刻んで、私は御師匠様の待つ場所へ向かった。




