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EX(118.4).『水神宮外典・名もなき御使いの手記』① ◆★△

『水神宮所蔵品・書簡ニ』抄


 私たちの居場所に、少しずつ、森の緑と人の営みが戻り始めていた。


 遠い山々は、今も黄金に染まったまま眠っている。

 この世界で、土を踏み、火を囲んで人が暮らせる場所は、今はまだ此処だけ。


 森と湖に、人の営みの音が戻っていく。

 

 杭を打ち、縄を引き絞り、柱を立てる音。

 誰かが手を滑らせて、怒鳴り声と慌てて笑う声が交差する。

 今日の無事と、日々の糧への感謝を捧げる声。


 水から浮かび上がった世界は、まだ神話の中にある。


 私たちは、まだ奇跡に頼らなければ、今日の食卓さえ整えられない。

 それでも、明日の火を絶やさないように手を動かし、昨日まで黄金だった地面を恐る恐る踏み越えながら、眠ったままの世界を少しずつ起こしていかなければならない。


 自分の足で立って、歩き出して。

 自分の手で、日々の暮らしを繋いでいく。


 この手を、隣にいる人々にも差し伸べることが出来るようになったなら。

 その時やっと、私たちは救いを得たのだと、胸を張って貴女に言える。


 貴女がまだ小さかった頃から、私たちにかけ続けてくれたあの言葉を。

 今度は、私たちから貴女へ返すことができるようになる。


 大丈夫、と。


挿絵(By みてみん)


 御師匠様が帰ってきてから、しばらく経った。

 ゴルディウムでの暮らしは日々変わっていって、新しい仕事や問題が次々舞い込んでくる。

 覚えなければならないことは多く、魔術の修行をしていた頃より、ずっと忙しい。


 そんな生活にも少しずつ慣れはじめていた。


 それでも、いまだに慣れないものもある。

 聖女様。御使い様。リディア様。


 そんなふうに呼ばれるたび、私は今でも返事が遅れる。


 その朝、私はミューズを探していた。


 けれど、仮設の神殿にも、広場にも、水辺にも、炊き出しの近くにも、ミューズの姿はなかった。


 あの子が人の集まる場所にいないのは、少し珍しかった。

 見当たらない時は、たいてい何かに夢中になっている。


「ミューズ?」


 呼びながら、湖畔の木工所を探し回る。


 今、ズミュルナ湖の神域を囲む水上神殿の建設が進んでいて、ここはその建材を運び込み、加工して保管する場所だった。


 木の匂いと削り屑の匂いが濃く漂っている中、建物の手前、切り分けた板を並べ置く場所に、ミューズの後ろ姿が見えた。


 ミューズが乾いた板の表面を指でなぞると、通り過ぎた箇所が湿って変色した。

 大きさもばらばらで、線もまだおぼつかないそれは歪んでいるけれど文字のように見えた。


「……ミューズ?」


 今度は小さく呼ぶ。


 ミューズの肩がぴくりと跳ねた。

 振り向いた顔は、秘密が見つかった子どものそれだった。

 慌てたように板を背中に隠す。


『りぃ……リディア』


「何してたの?」


『見ないで』


「見ないでって言われると、気になるよ」


『だって、まだ、へた……』


 ミューズが半歩横に退いて、板の表面が露わになる。


 そこには、たどたどしい線が並んでいた。

 まっすぐなはずの線は揺れて、曲がるはずのところは少し角張っているけれど、私には読めた。


 りでぃあ。


 そう書いてあった。


 最初の一文字は崩れて、次の文字も大きさが揃っていないけれど、確かに私の名前だった。


「……それ、私の名前?」


 ミューズはこくんとうなずいた。


『リディア、むずかしい』


「すごいよ、ミューズ。私の字、覚えてくれたんだ!」


 ゴルディウムが戻りはじめてから、ミューズが人間の文字に興味を持っていたのは知っていた。

 いくつか読めるようにもなっていたけれど、インクやチョークは苦手らしく、触りたがらない。

 だから、書くのはまだ難しいと思っていたのに。


『ん……。り、は、できる。でぃ、が、むずかしい』


 真剣な顔で言うから、笑っていいのか分からなかった。


 でも、少しだけ口元が緩んでしまう。

 それを見たミューズが、むっと頬を膨らませる。


『わらわないで』


「笑ってないよ。……嬉しかっただけ」


『うれしい?』


「うん。だって私の名前、書こうとしてくれたんでしょう?」


 ミューズが板に手をかざすと、水気が抜けて板が渇き、文字が見えなくなった。


「あっ……消さないでいいのに」


『もっと、ちゃんと書けてるの、見てほしいから』


「ちゃんと文字になってたよ。私、最初はこんなに書けなかった」


『ほんと?』


「ほんとだよ」


 嘘じゃなかった。

 むしろ、生まれてまもなく、人の文字に触れたばかりのミューズが、ここまで形にしていることの方が驚きだった。


 私がそう言うと、ミューズは照れくさそうに目を逸らした。


『ミューズ、もっと読めるようになりたい。

 字、ちゃんと書けるようになりたい』


「どうして?」


『いつも、リディアに言ってもらうばかりだと、だめだから』


 まっすぐな声だった。


 飾りもしない、言い訳もしない。

 ただ、それが当然のことのように口にされる。

 私はその言葉に、胸の奥をきゅっと掴まれるような思いがした。


「駄目なんてこと、ないよ」


『でも、ミューズもしたい』


 ミューズは乾かした板にまた指を走らせた。


 りでぃあ。


『リディア、いつもたいへん。文字なら、ミューズもみんなとお話しできる』


 拙い言葉だったが、意味ははっきりしていた。

 ミューズは、自分の言葉を自分で人へ渡したかったのだ。


「……それは、私の役目だから」


『ううん、ミューズもやる。ちゃんと、できるようになる』


 そう言って板を指でなぞる仕草は、どこか誇らしげですらあった。

 その姿を見て、胸の奥が痛んだ。


「それは……少しずつでいいんだよ」


『うん』


 ミューズはすぐに答えた。


『少しずつを、いま、してるの』


 その言い方は、あまりにもまっすぐだった。


 私は何か言わなければと思った。

 偉いね、とか、頑張っているね、とか、無理しなくていいよ、とか。


 けれど、言葉が先に出てこなかった。


 目の前にいるのは、今は一人のミューズだ。

 人々の前で胸を張る、生まれたばかりの女神。

 私より少しだけ背が高くて、不器用なくらい真っ直ぐな子。


 でも、そんなミューズを見るたび、私は別の姿を思い出してしまう。


 桶の中から、瓶を差し出してきた小さな手。

 森の中でも、湖でも、私たちの行く先を示してくれた。


 私の呼び掛けに応えて、名前を受け入れてくれた。

 一人から三人に増えても、それは同じで。

 三人とも水を跳ねさせ、時には喧嘩もしながら、助けてくれた。


 ミュルナはいつも真っ先に飛び出して、ミュリナはむっとした顔でそれを追い、ミュシアは少し遅れて眠たげについてくる。

 あの子たちは、本当ならまだ、お母さんに甘えて笑っていていいはずだった。


 なのに今、ミューズは文字を覚えようとしている。

 自分の言葉を、自分で人へ渡すために。

 その真っ直ぐさが、嬉しいのに苦しかった。


『リディア?』


 黙ってしまった私を、ミューズが覗き込む。


 その目は、不安そうではなかった。

 ただ、私が何を考えているのか知りたそうだった。


 私は小さく息を吸った。


 水と木と、遠くの炊事の煙の匂いが混じる。


 故郷が深淵に呑み込まれる前、両親と共にこんな匂いのする朝を過ごした日を思い出す。


 家族と過ごす当たり前の日々を、失くすことになるなんて思ってもいなかった。

 黒禍が消えても、もう、取り戻すことはできない。


 けれど、この子はまだ失くしていない。

 まだ、大好きなお母さんの子どもでいられる。

 なのに、自分から大きくなろうと急いでいるように見えてしまった。


「……えらいね、ミューズ」


 ようやく声が出た。

 ミューズが瞬きをする。


「少しずつを続けられるのは、すごいことだよ」


『ほんと?』


「うん、ほんと」


 私はミューズの隣に立って、板に手を伸ばした。


「でぃ、はね。ここで少し線が曲がるの。見て」


 指で板の上をなぞって一字だけ書いてみせる。

 ミューズが真剣な顔で覗き込んだ。


『ここ?』


「うん。急がなくていいよ。ゆっくり」


『ゆっくり』


 ミューズは私の真似をして、同じ線を書こうとした。

 でも途中で力が入りすぎて、線がぐにゃりと太くなる。


『……なんかちがう』


「大丈夫。もう一回」


『もう一回』


 今度は、私はミューズの手にそっと自分の手を添えた。


 私とそう変わらない大きさの手。

 見た目は人間と変わらないのに、そこに人の手のぬくもりはなく、ひんやりと湿っている。

 骨の硬さが感じられないその手からは、指先への力の入れ方も伝わってこない。


 だからだろうか。


 線を止める動きも、進める動きも、文字通り手探りで頼りない。


 この子は人間ではなく、水の精霊で。


 幼い子どもで。

 女神で。


 これから、この戻り始めた世界の真ん中に立たされようとしている。


 この頼りない手のまま、立たなければいけなくなってしまった。


「ここで止めて」


『ん』


「次は、少し下から」


『少し、下』


 水の線が、さっきよりも細く残った。


 ミューズはそれを見て、ぱっと顔を明るくした。


『できた!』


「できたね」


『リディア、見て。できた! り・でぃ・あ』


「見てるよ」


 心から嬉しそうな笑顔。


 ああ、こんなふうに笑っていられる時間を、もっと持っていてほしい。

 けれどミューズは、大好きなお母さんのために、私のために、皆のために、自分から出来ることをしようとしてしまう。


『リディア』


「うん?」


『リディアがいるから、ミューズ、がんばれる』


 ミューズは、書き上げた文字を見つめたまま言った。


『リディアが、伝えてくれるみたいに、ミューズも、伝える』


 素直な言葉だった。


 きっと、この子は私の重たさまでは分かっていない。

 それでも、こんなふうに真っ直ぐ頼られてしまえば、逃げ場なんてなくなってしまう。


「……じゃあ」


 私は自分の声が震えないように、少しだけ板へ目を落とした。


「もう少し、一緒にやろうか」


 ミューズの目が大きくなる。


『うん。リディア、教えて』


「いいよ。私の名前、ちゃんと書けるようになろう」


 ミューズは一瞬だけ真面目な顔になって、それから、嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、私は静かに決めた。

 まだ強くなれたわけでも、怖くなくなったわけでもない。

 それでも、この子が前へ進もうとするなら、私はその隣に立たなければならない。

 この子と人々を繋ぐことは、もうただの役目ではなく、私自身の願いでもあるのだから。


『みんなには、まだ内緒にしてね』


「うん、内緒」

<TIPS>

『水神宮所蔵品・落書き』

 水神宮の壁板の裏に彫られていたという、奇妙な落書きの写し。

 恐れ多くも水神の御座所の建材に刻まれたものを、別の誰かが炭でなぞり、さらにまた別の誰かがノミで削り、今日まで残ったと思われる。

 善悪や真偽に関わらず、記録とはこのように後の世に残ってしまうものである。


 この落書きについて、ただ一つ確かなのことは、これを書いたものは文字が下手だという事実のみである。


 Lノ 乙"</ す

 ❘ノ 乙゛ぃよ

 リて〟ぃや

 りでぃや

 りでぃあ


 りでぃあ


 まま みず もり きこり

 とり さかな たべもの

 はい いいえ ごめんなさい

 ありがとう りでぃあ すき


 みゆーあ゛

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