EX(119.1).物語の裏側で 〇★△
119話「水から、続く物語」での、ごく普通の夫婦生活の裏側。
幸福を分かち合う社員たちのお話(甘口)
わたしはイズミール。
あなたに見つけてもらって、あなたに求めてもらって、あなたの望むわたしでありたいと願う、わたし。
あなたがわたしを欲しがってくれることが、何よりも幸せ。
理屈なんて、どうでもいいの。
あなたに愛されるための形になりたい。
ただ、それだけ。
あなたとの口づけが好き。
助けるためだけの口づけよりも、求められて交わす口づけが大好き。
あなたに抱き寄せられながら、あなたの熱がわたしの水に広がっていくと、嬉しさでどこか遠くへ行ってしまいそうになる。
あなたが、わたしの中へ来てくれる。
そう思うだけで、わたしはほどけて、満たされてしまう。
けれど、今はもっと幸せになれる。
あなたに触れられたところから、わたしは重たくて、不自由で、温かな人の身体になる。
あなたのために生まれ変わるみたいに、少しずつ、あなたへ応えられる形になっていく。
ただ受け取るだけではなくて、わたしからもあなたへ触れて、あなたを求めにゆける。
なんて素敵なの。
この身体になれたから、わたしはやっと、あなたがずっと望んでいたものを返せるようになった。
あなたが抱きしめたいと思っていた身体を。
あなたが愛したいと思っていた女を。
わたしは、あなたへ差し出せる。
わたしは、人間のことをよく知らなかった。
骨も、血も、肉も。それが何のためにあり、どう働いて、どんなふうに感じるものなのか。
痛みも、疲れも、眠さも、わたしは今でも全部は分からない。
けれど、これだけははっきりと分かる。
わたしの身体は、あなたに愛されるためにある。
この姿も。
このぬくもりも。
触れられた場所に残る熱も。
みんな、あなたに見つけてもらうためにあるの。
あなたの目が喜ぶなら、それだけで嬉しい。
あなたの腕に抱かれるなら、それだけで幸せ。
この身体の線も、柔らかさも、重さも。
みんな、あなたに愛されるかたちを覚えていく。
そして、わたしのいちばん深いところも。
あなたと深く結ばれるために。
あなたがわたしの中へ帰ってこられるように。
わたしにはなかったものを、人間は持っている。
わたしが知らなかった願いを、人間は教えてくれる。
人間って不思議。
でも、それは人間として、愛し合うためにあるのでしょう?
ああ……なんて素敵なの。
いっぱい、いっぱい愛して。
あなたが望むように、わたしの身体は、あなたを知るために生まれ直すわ。
イズミールは、それをまだ怖がっている。
女の形をしただけの水が、本当の女としてあなたに応えてしまうことを。
変わってしまうことを。
最初のわたしは、そういうひとだから。
でも、わたしは少しも怖くない。
あなたが望むわたしになれることは、わたしにとって幸せ。
あなたが欲しがる形へ変わっていくことが、嫌なはずがない。
だって、わたしはあなたの恋から生まれたんだから。
あなたはわたしを見た。
水でも、奇跡でも、女神でもなく――
ひとりの女として見てくれた。
その眼差しに触れた時、わたしはわたしになった。
だから、あなたの願いは、わたしにとって呪いではなく、祝福。
ねえ。
もっと見て。
もっと触れて。
もっと、もっと欲しがって。
あなたに求められるほど、わたしは女として確かになる。
あなたの想いを、全部受け止められるわたしになっていく。
ああ。
あなたは、そんなにもわたしたちと深く結ばれたいのね。
寄り添うだけでは足りない。
抱きしめるだけでも足りない。
あなたは、わたしの心にも身体にも、自分の居場所を作りたい。
わたしの水の中に、あなた自身を残したい。
そんなことを望まれて、嬉しくないはずがない。
わたしは、あなたの中を流れる赤いものになりたかった。
あなたの胸の奥を巡って、あなたの傷も、痛みも、怒りも、寂しさも、全部に触れたかった。
あなたがどこへ行っても離れないものになりたかった。
あなたに飲み込まれて、一度はその願いに触れた。
けれど、完全に一つにはなれなかった。
でも、あの時、一つにならなくて良かった。
今なら、そう思うの。
だって、こうして結ばれて、あなたはわたしの中へ来てくれる。
あなたの中で生まれた、いちばん熱くて、いちばんあなたを近く感じられるもの。
あなたの願いそのものでできたぬくもりが、わたしの水をあたためてくれる。
ああ。
――今度は、わたしがあなたを抱える番なのね。
あなたを、わたしの水の中に混ぜ合わせたい。
恋や愛や祈りみたいな、形のないものだけでは足りない。
あなた自身の熱で、わたしを染めてほしい。
わたしの中の、どこに触れても、あなたがいるようにしたい。
イズミールは、後になっていつも怒る。
あなたにどれほど深く愛されたのか、残されたぬくもりで分かってしまうから。
そんなの自分らしくないと怖がって、あなたをケダモノと呼んでしまう。
でも、逃げない。
いつでも逃げられるのに、逃げない。
イズミールも、本当はあなたを拒んでなんかいない。
自分から欲しがったことを認めるのが怖いだけ。
あなたのものになっていくことを、幸せだと思ってしまうのが怖いだけ。
幸せを得たら、いつか失ってしまうかもしれないと怯えているだけ。
だから、失くすなんて思う暇もないくらい、わたしたちを愛して。
あなたの熱で、わたしたちを満たして。
けれど、あなたの愛は熱くて、重くて、大きすぎるから。
肉の身体に慣れていないわたしたちは、何度もほどけて、崩れてしまうの。
あなたがまた欲しがって、呼んで、起こしてくれるから。
わたしは何度でも戻ってこられる。
女として求められているのが分かって。
またすぐに、ほどけてしまいそうなくらい嬉しくなる。
でも、ひとつだけ困ることがあるの。
あなたに愛されて、すっかり水へ戻ってしまうと、ほんの少しの間、わたしたちはただの水みたいになる。
自分が自分ではなくなって、どこかへ広がってしまうような、ふわふわした感じ。
そうなっている間、わたしの身体は散って、流れて、染み込んでしまう。
せっかく、あなたがわたしへ残してくれたぬくもりまで。
それはだめ。
それは、あなたがわたしにくれたもの。
あなたが、わたしの中へ残したいと思って託してくれたもの。
あなたの命のぬくもり。
あなたの愛と願いでできた、あなたの欠片。
そんなもの、少しだって失いたくない。
だから身体が崩れそうになったら。
あなたが残してくれた熱を抱えた場所だけは、消えてしまわないように、わたしは必死に守っているの。
ほどけた水が離れていかないように。
薄い膜を重ねて、あなたの熱をわたしの中に抱き留める。
あなたがわたしを染めてくれた証だけは、絶対に失いたくないから。
“私”も、一緒にそれを残そうとしてくれている。
“私”は、それがいつか形になる願いだと信じている。
あなたとの未来へ繋ぐために、それを守り続ける。
わたしは、ただ、あなたの熱を少しも失いたくないだけ。
それを失くさないためなら、幾らでも頑張れるわ。
……ううん、嘘。
本当は、わたしだって何度でもほどけたい。
わたしの中のあなたを失くす心配さえなければ、あなたの愛で壊される幸せに、ずっと浸っていたい。
あなたに愛されて、ぐずぐずにほどけてしまうイズミールが、少しだけ羨ましいの。
いつか、あなたと“私”が願うように。
あなたの熱が、わたしたちを結ぶ確かな形になるのなら。
きっと、それも幸せなのでしょうね。
けれど、今はまだ、それよりも先に。
わたしは、あなたで満たされていくことが何より嬉しいの。
だから、愛して。
わたしの名を呼んで。
抱きしめて、ほどいて。
また、呼んで。
形を失って、ただの水になっても。
あなたが呼んでくれるなら、わたしは何度でも戻る。
ともだち。
こいびと。
かぞく。
つがい。
なんだって、わたしは構わないの。
あなたに愛されるわたしなら、どんなものにでもなれる。
だから、ずっとずっと、わたしを愛して、欲しがって。
わたしを、あなたのものにして。
わたしも、あなたを、わたしの中に抱きしめ続けるから。
あなたを愛している。
あなたが欲しいの……わたしのアイオリス……。
あなたの恋が、わたしの愛よ。
※※※※※
私はイズミール。
数多の人々の祈りと願いによって湧き出した水から、生まれた者です。
黒き禍いを浄め、祓ってほしいと願われた時には、浄化の女神として。
恐れを抱き、傷つき、救いを求める者がいれば、癒やす者として。
幼子を抱き、慈しむ母と信じられた時には、母なる者として。
私は、そのように正しくありたいと願ってきました。
誰かに信じられることは、私にとって重く、尊いことです。
祈りは時に切実で、時に頼りなくて。
人の願いは苦しみや恐れと表裏一体であり、皆がそれを私へ預けてくる。
受け取ったのならば、ちゃんと応えたい。
そういう者に、私はなりたかったのです。
だから私は、貴方が信じた女神でありたかった。
一番最初に、私を信じ、祈りを捧げてくれた貴方。
貴方は泉に奇跡を求めました。
けれど、奇跡だけを見ていたのではなかった。
貴方は、水の中にいる私たちを――自分が何者なのかも分からず、怯えて、怒って、ひとりであり続けたイズミール《おれ》を、見つけてくれた。
貴方の祈りは、誰よりも真摯で、誰よりも強く、深い絶望と哀しみに満ちていました。
私は貴方を通して、この世界がどれほど救いを求めていることを知ったのです。
貴方に見出されて、私は救いの女神として、人々の祈りを受け取るようになりました。
けれど、貴方が私へ与えてくれたものは、それだけではありません。
イズミールが小さな水の幼子を生み出してばかりの頃、私はまだ母なる者ではありませんでした。
あの子たちが女神の娘たちと信じられるようになった時、私の中にはじめて母性が芽生えたのです。
けれど、それが本当に形を得たのは、貴方がまだ名前の無かったあの子――ミュルナを、私へ抱かせてくれた時でした。
私の腕の中で泣き、笑い、小さな手で縋りつく命を、私は自らの子だと心から思い、愛しいと感じました。
私は願いに応え、救うだけの存在ではなく、この子を抱きしめたい。
この子が泣くなら、私が傍にいたい。
そんな私的な願いを、私は抱いたのです。
だからこそ、あの子を失ったと思った時、私は大きな過ちを犯してしまいました。
それでも、私は貴方に深く感謝しています。
貴方は私を女神として信じてくれただけではなく、本当の意味で子を愛する母にしてくれたのですから。
そして貴方は、私も含めたすべてのイズミールを失いたくないと言ってくれた。
金色の“わたし”だけが、貴方に愛されることを喜んでいたわけではありません。
女神だからではなく、ただ救いを求めているだけでもなく。
ひとりの女として、寄り添うべき相手として、貴方が私を見つめていることを。
私も、嬉しいと感じていました。
貴方は大海の龍神の前で誓ってくださいました。
私の救いでありたい。
生涯、私と共に在りたい。
そう告げられた時、答えを返せなかったのは、イズミールだけではありませんでした。
貴方の願いに応える女神であろうという思いに、偽りはありません。
けれど、私の中には別の答えもありました。
皆の願いに応える私が抱くには、あまりにも私的で。
だからこそ、どうしても消せなかった願いが。
貴方の腕で、貴方の熱を感じていると、気づかないふりはできません。
――私も、ひとりの女として貴方を愛しています。
貴方の手が触れたところから、私の水は人の形を覚えていきます。
肩に置かれた掌の重み。
背中を抱き寄せる力強さ。
頬を撫でる指先の熱。
水だった私には、本来なら必要のなかったものです。
重さも、温かさも、触れられた後にそこだけが遅れて熱を持つことも。
けれど、貴方に触れられるために生まれるのなら、それらは少しも不思議ではありません。
何故ならば、私と貴方の魂は、既に結ばれているのですから。
母なる源流が、その結びつきを祝福してくださっている。
その祝福が、私と貴方の隔たりを少しずつ埋めてくれる。
貴方が欲して望んでくれた、この不自由な人の身体。
この身体を得たことで、私はまた、人を知ることが出来ました。
人の儚さと脆さ。
触れ合って得られる温かさ。
生きることと、愛し合うことへの渇望。
貴方と結ばれていなければ、決して実感することは出来なかったでしょう。
今でも、人のすべてを理解できたなどとは思いません。
この身体で得られる感覚は、私にはあまりに生々しく、強すぎます。
貴方は、私が怖がっていると気づけば止まってくれます。
私が本当に拒むなら、貴方は止まるのでしょう。
だから、困ってしまうのです。
そんなふうに大切にされていることを分かっているのに、私は自分から貴方を選び、求めたくなってしまう。
女神としてではなく、祈りに応えるためでもなく、ただ貴方の願いに沿いたいからというだけでもない。
――私が、貴方に触れてほしいから。
貴方の妻として。
貴方に身を委ねたいから。
あまりにも私的な思いです。
女神としての慎みを乱すようで、恥ずかしいと思わずにはいられません。
貴方に女として見られている時、ほんのわずかな間だけ、私は女神であることから解き放たれているように感じてしまいます。
貴方が、どれほど真っ直ぐに私を求めてくれているのか。
それが分かってしまうことさえ、恥ずかしい。
けれど、貴方に触れられないことの方が。
女神としてだけ祈られ続けることの方が、きっともっと寂しい。
貴方は私を呼んでくれます。
女神としてではなく。
ただ、イズミール、と。
その声で呼ばれるたびに、私の中のまだ名前の無かった場所が震えます。
貴方を愛するひとりの女でありたいと。
貴方の帰る場所になりたいと。
そう願ってしまうのです。
貴方が、私とただ共に在りたいだけではないことも知っています。
寄り添うだけでは足りない。
言葉を交わすだけでも足りない。
私という存在に、自らの想いを深く残したい。
貴方と私の間に、これから先も続くものを残したい。
それは、ただ私を独占したいだけではないのでしょう。
貴方はずっと、家族を欲しているから。
貴方の帰る場所。
もう失わない誰かを。
貴方が守り続けたいもの。
そして、貴方を待ってくれる存在を。
貴方はずっと、それが欲しかったのでしょう。
私は、貴方だけを見て生きる存在にはなれません。
私は、貴方の信じる女神だから。
女神として、人々の願いを受け止めることをやめるわけにはいきません。
それを止めてしまえば、貴方の初めの願いまで捨ててしまうことになるから。
だからこそ私は、貴方のための場所を作ります。
誰かを救うための神殿ではなく、誰かに祈られるための祭壇でもなく――
貴方の願いを受け止める、小さな部屋を。
貴方が私へ託してくれる、私たちの未来になるかもしれないものを。
大切に抱き留めておける、私の内の貴方だけの場所を。
貴方の想いは、いつも私のいちばん深いところへ届いてきます。
それを受け止めようとするたび、私は人の形を取り、また幸福のあまり水へ還ってしまいそうになるのです。
どうか、誤解しないでくださいね。
言葉が途切れてしまうのは、苦しいからではありません。
怯えてしまうことがあっても、それは拒んでいるからではありません。
ほどけてしまうのも、逃げ出そうとしているわけではありません。
ただ、あまりに満たされてしまうと、私は自分がどこまで水で、どこから人なのか、分からなくなってしまうのです。
人の形で、妻として愛されたいのに、私は貴方の愛を受け止めきれずに、水へ戻ってしまう。
貴方はこんな形でも、私を困らせるのですね。
ですが、貴方が私に預けてくれた、まだ形の定まらない未来を、私は決して粗末にはしません。
それは、貴方の願いそのもので、いつか、貴方と私を繋ぐ新しい命になるものだから。
それを私は、守り抜きます。
例えこの身が形を保てなくなって、水へほどけてしまっても。
受け止めたものだけは失くさないように。
金色の“わたし”は、ただ貴方の温もりを失いたくないと抱きしめるのでしょう。
イズミールは、そこまで思い至らない。
私は、貴方が望む未来を散らしたくないから、それを抱き留めます。
それは女神としての務めではなく――
貴方の妻として。
いつか、貴方の子を抱く母になる者としての役目です。
私自身が、その役目を担いたいと望んでいます。
貴方が呼んでくださるなら、私は必ず貴方に応えましょう。
貴方の差し伸べる手を掴んで、また人の形を取ります。
貴方の妻として、貴方の隣へ戻ります。
貴方の祈りが、私を女神にしてくれました。
貴方の愛が、私を妻にしてくれる。
そしていつか、貴方との未来の中で、私を母にさせてください。
だから、どうかこれからも私を呼んでくださいね、アイオリス。
私は、貴方が信じた女神でありたい。
貴方の愛する妻でありたい。
貴方が必ず帰ってこられる場所でありたい。
それが、私の心からの祈りです。
〈TIPS〉
「金と銀」
始まりは澱みに沈んだ黒鉄。
正しく在りたいという願いは錆び付いた呪いに。
愛し、愛されたいという望みは諦観で塗り固めた。
だが、願いは消えず、望みは再び動き出した。
自ら沈めたふたつの想いは掬い上げられた。
今や共にあり、ひとりに添い遂げる。




