EX(118.3).終末の後始末 ◆★
118.2話「魔術師、帰りて」の後日談。
サルディスが戻ってから、数日が経っていた。
水底の泡に守られた丘は、今や黄金の世界に浮かぶ小島だった。
生活圏と呼べる場所はなおごく一部で、水が引いた後の黄金の野は、人が容易に踏み込める場所ではない。
草は折れず、枝は刃のように尖り、うかつに入れば衣服も皮膚も裂けた。
だから人々は丘の内に留まり、火を守り、仮の住まいを組み、土を掘り起こして畑にしようとしていた。
黄金の森も湖も死んだように沈黙する中、小さな生活音だけが、人の世の続いている証だった。
その朝、サルディスは拠点の端で、鍬の柄に手をかけていた男と目が合った。
カストールだった。
今、この男は鎧を脱ぎ、働くための服を着ている。
あの夜と比べて肩の力は抜け、目の奥の険も薄い。
彼とその所属先には、遺恨が無いと言えば噓になる。
だが、リディアもアイオリスも、この男と今なお同じ場所にいる。
ならば、自分がそこに異を唱えるのは筋違いというものだ。
それでも、忠告を無視されたことへの皮肉の一つくらいは許されるだろう。
「副長殿は下野して、随分と険が抜けた様子だな。お国とは水が合わなかったのではないかね」
カストールの眉がぴくりと動いた。
返す言葉を選ぶような間があったが、何も言わず、ただ頭を下げてきた。
「在野の身も気楽で良いものだぞ。もっとも、我らが女神は根無し草のままで済ませてくれないらしい」
これで十分だった。
「……御師匠様」
少し離れた場所から、リディアが困ったような顔で声をかけてきた。
どうやら会議の時間らしい。
少女は師とカストールを交互に見て、心配そうな顔をしていた。
どうやら、弟子の方はとっくに遺恨など乗り越えた後らしい。
サルディスは鼻を鳴らし、カストールへ軽く顎をしゃくって、少女に続いた。
※※※※※
集まったのは、サルディス、リディア、カストール、ギュゲス、それにアイオリス、そしてイズミールとミューズだった。
人の目を避けるように、拠点の外れ、水辺に近い静かな場所が選ばれていた。
イズミールとミューズが水辺寄りに立ち、そのすぐ傍にアイオリスがいる。
公には女神に仕える聖者。だがこの場の彼は、どう見ても妻と娘の傍を離れぬ男だった。
正直なものだ、とサルディスは思う。
だが、当事者の家族として物を言う者も、この場には必要だった。
サルディスは一通りの顔ぶれを見渡し、口を開いた。
「今後、揉め事を抑えながら、世界を広げてゆくには、三つの柱が要るだろう」
誰も口を挟まない。サルディスは淡々と続けた。
「まず、何よりも求心力だ。これ無くしては何も成り立たん。
併せて、不安と不満の矛先を逸らす先も欠かせん。
そして、実際に人の世を回してゆく知恵と手足が要る」
アイオリスが妻と娘に言葉を伝えると、イズミールが何かを言い返した。
意味は分からないが、表情からして「いきなり面倒くさそうな話を始めるな」あたりだろう。
アイオリスが小さく息を吐き、妻をなだめている。ため息を吐きたいのはこちらの方だ。
「……まず、不満の矛先から、だが」
サルディスは、わざとそこから始めた。
「復興は必ず不公平なものとなる。誰を戻すか、何を戻すか、そのたびに恨みは出る。
人手も糧も足りぬ現状ならば、なおさらだ。
先に戻された私を面白く思っておらん者も少なからずいるだろうよ」
あえてカストールに視線を向けると苦笑いが返ってきた。
口実代わりに使わせてもらって悪いとは思ったが、これから話すことには必ず反対が出ると分かっていた。
「ならば、その不満を人間同士でぶつけ合わせぬためには、もっと“上”が要る」
何を言いたいのか察したのだろう、アイオリスの眉がわずかに寄る。
サルディスは構わず言葉を継いだ。
「世界を沈めた八龍やら、女神イズミールは、あまりにも話が大きすぎる。
人の尺度では測れぬし、意見することすら叶わぬ存在だ。なればこそ、その畏れは規律となる」
アイオリスが露骨に嫌な顔をした。
「……イズミールを不満の受け皿にする、と?」
「そうだ。規律を、秩序を守らねば女神の裁定が下される。そうした教えが必要となる」
「彼女に畏怖される存在であれと?」
「その役目は、誰よりも女神イズミールへ集約させるのが最も手っ取り早い」
アイオリスは一度硬く口を結び、イズミールに説明した。
話を聞いたイズミールは、いよいよ嫌そうな顔をした。
個人的には気に入るはずもあるまい。だが、嫌そうな顔のまま否定はしない。
世界を沈めた側としての負い目と責任感、その両方を、この女神は妙に人間くさく呑み込んでいるらしかった。
「だが、畏れだけでは人はついて来ない」
サルディスは今度はミューズへ視線を向けた。
「古い世界を壊したのが母女神ならば、新しい世界を始めるのはその娘たる女神。
そういう物語は誰にも分かりやすい。人はそういった前向きになれる物語を求める」
アイオリスが抑えた声で言葉を伝えると、ミューズが、ぱちりと目を瞬かせた。
「世界復興の求心力は、その若き女神こそが担うべきだ。
そして、その教えを人の言葉に置き換え、人々へ渡す者として見られるのは――」
サルディスは、あえて一拍置いた。
「お前だ。リディア」
「わ、私が……!?」
予想通り、リディアは慌てた。目に見えて狼狽え、首を横に振る。
その様子は、かつての無力な少女を思わせ、懐かしくすらあった。
「そんな、私には……! お、御師匠様がいらっしゃるのに、私なんて――」
「……では、お前は」
サルディスは切るように言った。
「その若き女神だけを表へ立たせたまま、後ろに隠れて、震えておるのか?」
リディアの喉が詰まったように沈黙する。
少女は、師が戻ってきたことで、少しだけ弱気が戻っていたのだろう。
だが、それを許してやれるほど今の世界は甘くないし、何よりもリディアの為にならない。
リディアは唇を噛み、俯きかけた。
その時、先に口を開いたのはミューズの方だった。
『――~~―』
女神と同じ、せせらぎのような歌声。
桶に収まって運ばれていた幼子が発していた、母を呼ぶ赤子の叫びではない。
少女神は、自分の意思を言葉として伝えようとしている。
ミューズはまっすぐイズミールを見上げ、それからリディアを見た。
契約で結ばれていないサルディスには、その意味は分からない。
だが、リディアには言葉だけではなく伝わるものがあったのだろう。
下を向きかけていた顔が上がり、揺れていた瞳が少しだけ定まる。
アイオリスが訳すより早く、リディアが口を開いた。
「……ミューズは」
その声が少し柔らかくなる。
「この子は人を助けたい、と。イズミール様に認められたい、と。
自分もお母さんを支えたいんだって、そう言っています」
リディアは師に向き直って続けた。
「……私、ミューズを独りにはしたくありません」
その声はまだ細い。だが、もう逃げてはいない。
「支えたいんです。今までもそうだったし、これからも」
リディアの言葉に、ギュゲスは腕組みをして頷き、カストールはその決意を尊重するように目礼した。
イズミールはミューズに何かを言い返したようだが、怒ってはいない。
むしろ、困ったような、気恥ずかしいような顔をしている。
娘がやる気を見せたことを喜び切れず、止めもせず、どう扱っていいか分からずにいる親の顔だ。
そんな中で、アイオリスだけが険しい顔をしていた。
「……また祭り上げようと言うのか」
低い声だった。怒鳴りはしない。だが、その顔は聖者のものではなかった。
理屈が分からぬのではない。分かったうえで、妻と娘が矢面に立つのを厭っているのだ。
「イズミールや私だけならまだしも、ミューズとリディアをそこまで担ぎ出さねばならないのか」
その言葉には、理屈よりも情が先に立っていた。
公には聖者として振る舞っていても、この場で物を言っているのは、妻と娘を持った男としてである。
神話の理屈がどれほど整っていようと、それが家族へ向けられるとなれば受け入れ難いのも当然だった。
『~~―~』
だが、サルディスが何か返すより先に、イズミールが苛立ったように一言発した。
アイオリスが、う、と詰まった。
硬い表情の奥で燻っていた熱が、眉間の皺とともにみるみる抜けていくのが分かった。
ミューズが、リディアに楽しそうに耳打ちした。
リディアは困った顔でアイオリスとイズミールを見比べてから、申し訳なさそうに言った。
「えっと、その……イズミール様は『お前が言うな』って……」
アイオリスが項垂れた。
見事に急所を突かれたらしい。
女神イズミールの神話を広めたのは、他ならぬアイオリス自身だ。
それを女神自身から告げられては、立つ瀬があるまい。
ギュゲスが噴き出し、カストールは顔を逸らした。
サルディスも内心で鼻を鳴らした。理詰めで責めるより、よほど効いている。
アイオリスは、それ以上は強く出られなくなった。
イズミールも、ミューズも、リディアも、腹を括ったようだ。
その時点で、アイオリスは折れざるを得ない。
情で庇い立てようとしたがゆえに、彼女たち自らの選択を否定しきれないのだ。
この果報者めが、と思ったが、わざわざ告げてやる義理もない。
サルディスはそこで、わざと話を切り替えた。
「神話や教義だけでは人は食っていけぬ」
場の空気が少し締まる。
カストールもギュゲスも、難しい顔をしていた。
神話の世界の中で、現実的な暮らしと向き合って来た者たちだ。
その表情には実感がこもっている。
「人の世を取り戻すには、実際に人の世を動かしてきた者たちが必要だ。
この聖地を成り立たせていたのは奇跡だけではない」
サルディスは一拍置いて面々を見回した。
「この地は元々、辺境の荒地で、農地の開墾は後回しにされていた。
女神信仰を看板に金を集め、食料の多くは近隣から買い集めていたと聞いた」
リディアが真面目な顔になる。アイオリスも聞く姿勢に戻る。
「つまり、聖地だけを戻したところで早晩干上がる。
周辺の村々まで復元し、道を繋ぎ、働く者も、食料も、物資も巡らせねばならぬ」
ゴルディウムという「家」を成り立たせるには、「柱」となるものが幾つも要る。
これは後々、より広い範囲を戻していく時にも必ず問題になる。
「ならば、実際にその“巡り”を回していた者どもの知恵が不可欠だ」
「……では、どうしろと」
アイオリスが聞く。分かっていても聞く声だった。
「黄金派――聖地を興し、盛り立ててきた者たち。
商人ペッシヌスと、その支持者たちの協力が要る」
案の定、アイオリスはいい顔をしなかった。
通訳されたイズミールは、最初こそ「誰だっけ」とでもいうような反応だった。
しかし、自分を商売道具にしていた者だと分かると、眉を吊り上げた。分かりやすい。
リディア、カストール、ギュゲスらは少し違う反応だった。
イズミールやアイオリスのように、直接利用されたわけではない。
聖地を短期間でここまで盛り立てた人物として、その能力の方へ目が向いているのだろう。
サルディス自身、この聖地の成り立ちを深く知るわけではない。
ただ、アイオリスが女神との交信法を学ぶ傍ら、その来歴を探るうち、ペッシヌスという男の名が何度も浮かび上がってきた。
だが。
「気に入るか否かで断じていては、人の飢えは満たせんよ。
神ならざる我らは、水だけを飲んで生きてはいけんのだからな」
サルディスはそう結論づけた。
イズミールはやや不快そうな顔のまま、しかし反対はしなかった。
超越的な存在でありながら、妙に現実的な勘定を呑み込んでいる。
それがサルディスには妙に面白かった。
この女神のもたらす神話の時代ならば、少なくとも、退屈している暇はなさそうだった。
※※※※※
翌日、サルディスらはペッシヌスの館へ向かった。
聖地から少し離れた高台に建てられたその館は、黄金に包まれた森とズミュルナ湖を見下ろしていた。
聖地の一部と呼ぶには遠く、無関係を装うには近すぎる。
イズミールは道すがら何やらぶつぶつ言っていた。
おそらくは「なんでこんな遠い所に住んでんだよ」あたりであろう。
サルディスも、似たことを考えていた。
神秘を利用しながら、自分はその中心から距離を置く。
欲深い男ではあったが、馬鹿ではなかったのかもしれない。
あるいは、その小賢しさゆえに何かを見誤ったのか。
女神は黄金として固まっていた館と人々を戻した。
だが館の中に残っていた者は少ない。大半は高台から洪水を見て逃げ出したのだろう。
ペッシヌスもいなかった。
館の空気は妙に冷えていた。
主一人だけが先に逃げたことを、残された者たちが皆知っているのだ。
怒号も泣き声もない。ただその事実だけが、壁や床へ薄く染み込んだように、屋敷全体を冷たくしていた。
使用人たちの顔には、助かった安堵よりも虚脱が濃かった。
呼びかけられれば振り向く。命じられれば動く。だが、自分から何かを決めて動き出せる者は見当たらない。
主を失った屋敷とは、こういう顔をするのかとサルディスは思った。
そんな中で、ただ一人、ヘレノスと名乗る男だけが、心を乱した様子もなく現実を受け入れていた。
衣服に乱れがない。襟も袖も整い、靴の泥さえ払われている。
主の消えた屋敷で、取り残された者たちが一様に魂の置き場をなくしている中、その男だけが、少し予定外の客を迎えた執事のような顔をしていた。
礼を尽くしている。だが同時に、事の成り行きを一歩引いて眺めてもいる。
この男は油断ならない、とサルディスは思った。
主の名を口にする時、ヘレノスはかすかな名残惜しさを声音へ乗せていた。
だが、その目は静かすぎた。悲嘆に押し潰された者の目ではない。
崩れ落ちたものの形を、冷静に眺めている者の目だった。
使用人たちとヘレノスによれば、ペッシヌスは常日頃から有事に備えて、逃走用の馬車を用意していたのだという。
聖地から立ち上った水柱を見て、財産を持って一人でどこかへ逃げ出し、その行方は分からないと。
ヘレノスは面々に慇懃に頭を下げたまま告げた。
「主は、女神イズミールの怒りを買うことを恐れておりました。
自分から水を遠ざけるほどに。おそらく……もうお戻りにはならないでしょう」
その声音はひどく落ち着いている。
忠実な腹心の顔をしているが、サルディスは、その奥に冷たいものを見る。
善人ではない。背中を預ける相手でもない。
だが、何を得と見て何を損と見るかは読みやすい。役目を預ける相手にはなり得る。
「ですが、旦那様が培ったものを、無駄にするのは忍びなく思います」
ヘレノスは静かに続けた。
「旦那様が聖地から距離を置くようになって以来、現地の運営は私が預かっておりました。
帳簿も、取引先も、雇用も、契約も、ある程度は把握しております」
その口ぶりに、自分を高く売りつけようとする気負いは感じられない。
「偉大なる女神イズミール様と、その御子ミューズ様。
御方々の導かれる神代のお役に立てるのであれば、この上ない喜びです。
どうぞ、このヘレノスめを存分にお使いくださいませ」
女神の前で跪き、礼を尽くすその姿にアイオリスは眉をひそめ、イズミールは露骨に警戒していた。
リディアは戸惑い半分、安心半分といったところか。
サルディスは、そう申し出たヘレノスが、心から喜んで述べているものと察した。
無論、打算もあるのだろうが、少なくとも強い意欲が感じられる。
まだ多くを説明したわけではない。だが、この場に二人の女神がいることで、この男は多くを察している。
これから訪れるのは、ペッシヌスがでっち上げた神話よりも、更に人と神が近い時代だ。
その到来から、ペッシヌスは背を向けて逃げ出した。
だが、この男はその時代が来ることを歓迎しているようだった。
主の不在を好機とすら見ているのだろう。
一筋縄ではいかぬ男だ。
サルディスは小さく息を吐いた。
神話の配置は整いつつある。
だが、希望だけでは畑は耕せず、畏れだけでは腹は膨れぬ。
物語を現実へ落とし込むには、結局こういう厄介な手合いも要るのだ。
人の世を回すとは、つくづく、神秘よりも面倒なものだった。
ノクタ版こっしょり更新……




