EX(118.2).魔術師、帰りて ◆△〇
118.1話「空の下で果たされた約束」の後日談。
丘の上から生活圏を僅かに広げ、ときどき八龍が訪問してくるようになってからの一幕。
――はじめに光があった。
暗い場所から、突然、眩しい場所に放り出されたような感覚。
目が眩み、思わず目蓋を閉じても、その向こうから突き抜けてくる真昼の陽光。
昼。
その認識からして、まず不自然だった。
サルディスの意識は、神域へと赴く弟子と聖者を乗せた小舟を湖畔で見送った夜で途切れている。
双月は高く、湖面は鈍く光り、自身の身体と周辺の景観が硬質の光沢――黄金へと変わっていった。
それが最後だったはずだ。
ならば今、この瞼越しにあるのは朝焼けか――あるいは死後の幻か。
だが、差し込む光はまぎれもなく真昼の角度と熱を伴っていた。
少し遅れて、身体に意識が向かった。
黄金へと変わっていく最中、感覚は部位ごとに途切れていった。
消えたように何も感じぬ箇所もあれば、隣では鉛のような重みだけが残った。
今は呼吸も鼓動も支障なく、心臓も肺も動いている。指先まで感覚が戻っている。
凍り付いていた身体が一度に再起動したような混乱の中で、右の掌に小さな痛みを覚えた。
サルディスは反射的にそこを見た。
右掌のごく浅い裂傷。黄金化が進む中、先に固まってしまった左手の爪でつけておいた傷だ。
黄金化が傷に及んだ時にどうなるのか、もしも元に戻った時にどうなっているかを測るための印だった。
愚かな悪あがきと、どさくさ紛れに好奇心を満たすだけの試みではあったが、無駄にはならなかったらしい。
傷は塞がっていない。膿みもなければ、乾いてもいない。
裂けた皮膚の隙間から、つい先ほど付けたばかりのように血が滲んでいる。
つまり、ただ動けなくなったのではない。
変化の途中で、そのまま停止させられていたと考えるべきだ。
そこまで考えてから、ようやくサルディスは周囲を見た。
そして、息を呑んだ。
世界が、金色に染まっていた。
湖畔から見える森は、葉擦れの柔らかさを失った金の塊となって陽光を撥ね返している。
澄んだ湖面は異様に明るい。黄金に染まった湖底が、真昼の日差しを跳ね返しているのだ。
湖上に組まれた水上神殿建設の足場も、森の木々も、その向こうに見える山脈も黄金に染まっている。
あの夜の森を斑に染めた黄金が、空の青以外のあらゆる場所に及んでいた。
だというのに、その中で、サルディスの周囲だけが違っていた。
足下の土は黒く湿っている。水際の波の下には砂利が見える。
風にそよぐ草がある。岸辺の木は枝を撓らせ、葉の裏を返して光を散らしていた。
黄金に染まった異様な世界の中、自分の周囲だけが元の姿を取り戻している。
偶然とは考えにくい。誰かの作為によるものだ。
自分は選ばれたのだ、と察した。
だが、それは祝福でも恩寵でも赦しでもあるまい。
必要があって、戻された。
――厄介なことになった。
そこまで辿り着いてから、ようやく視界の端の人影に気付いた。
遅くに迎え入れた弟子。まだ幼いと言っていい年頃の少女――リディアだった。
一瞬、同じ少女とは思えなかった。
顔立ちも背格好も大きく変わったわけではない。
何か月、何年という隔たりがあるわけではないのだろう。
それでも、別人のように見えた。
立ち方が違う。表情が違う。
以前のように、何も出来ずに生き残った者の負い目や、復讐を誓った者の昏さが無い。
生来の優しさと自信の無さの入り混じった、半歩身を引いた気配がない。
あの細い肩のままで、奇怪極まるこの場の中心に立っていた。
怯えを押し隠しているのではなく、恐れるべきものを知ったうえで、なお引かずに居る者の姿勢だ。
「御師匠様!」
眼に涙を滲ませ、叫ぶ声音そのものは変わっていない。
だが、その表情には安堵と喜びはあっても、縋り付くような甘えや弱さがなりを潜めていた。
――いったい、何を見てきた。
――何を乗り越えてきたというのだ。
問いは喉まで上がったが、口を開くより先に、その傍らの男へ目が向いた。
世間は聖者などと囃していたが、サルディスには、一人の女へ届こうと不器用に足掻く男にしか見えなかった。
深い傷を負ったまま、それでも女神の許へ向かおうとした。
送り出しはしたものの、無事で済むと確証があったわけではなかった。
無事であったこと自体は喜ばしい。
だが、その姿を見た瞬間、安堵は吹き飛んだ。
サルディスの知るこの元深淵殺しの男は、強靭な肉体と、危ういほどの情念と意思で、無理を通して立つ人間だった。
だが、今、目の前にいるものは、確かに人の形を保ちながらも、その身の内に別の流れを抱えている。
それは、あまりにも濃密な水の霊子だ。
あの銀の戦斧に宿っていたものと性質こそ似ているが、そんな生易しいものではない。
血脈に混じり、息の熱に混じり、皮膚の下を巡るものとして定着している。
あの肉体を巡っているのは、血潮ではなく水の霊子そのものなのではないか。
それはもはや――人とは言えない存在だ。
「サルディス殿」
静かな呼びかけには、危うい焦燥はなく、穏やかな決意だけがある。
サルディスは眉を寄せた。
この者は届いて、至ったのだな、と感じた。
あの夜、自分が押し出したその先へ、辿り着いたのだ。
その隣に、さも当たり前のように寄り添う存在。
女神イズミール。
この異様な世界の中心にいるもの。少なくとも、自分をここへ引き戻した張本人。
だが、あの黄金の蓋を生み出していた時とは、比べものにならない力を感じる。
目を向けた瞬間、視界の奥が軋み、魔術師としての感覚が焼き切れるような錯覚を覚えた。
莫大な、などという言葉では足りない。
精霊だの神だのと人が名付けてきた区切りを、笑う気も起きぬほどあっさり踏み越えた何か。
湖一つではなく、この辺境一帯の水脈、そのさらに先まで繋ぐような濃密な霊子の中心が、ただ人の形としてそこに在るのは、悪い冗談のようであった。
よくもまあ、我が弟子は平然とその傍に立っていられるものだ。
肝が据わった、などという生易しい話ではない。
『―~――~―~~』
何かを言われた。意味は分からない。
だが、その表情から気安く声を掛けられていることだけは伝わる。おかしな女神だ。
そして、もう一つ。
イズミールの近くに立つ小柄な影へ目が留まった時、サルディスの理解はさらに乱れた。
リディアとそう変わらない年頃の少女の姿をしたもの。
だが、その身に宿る力は、見た目の幼さや可憐さで誤魔化し切れるようなものではない。
その姿、顔立ち、纏う水の霊子の性質からして、間違いなく女神に連なるものだ。
霊子の気配はあの神域で拾った幼き龍の御子に似ている。
だが違う。
その力は女神とは比べるべくもない――いや、これほどの存在が小さく感じられる女神の方がおかしいだけだが。
問題はその在り方だ。力の性質と底が視えない。
視えたと思った瞬間、別の流れに変わってしまい、まるで見定められない。
一体全体どういう在り方をしているのか。
『~~――~~―』
少女はリディアに親し気に何かを話しかけ、リディアが「ありがとう」と笑顔で返す。
アイオリスとイズミールのそれとは異なるが、そこには確かな信頼が垣間見えた。
この異様な面々の中で、リディアは平然と笑っていた。
呆れるべきか、感心すべきか、サルディスにも判じかねた。
※※※※※
今、この地がどのような状態にあるかを見て欲しい。
アイオリスにそう言われ、小舟で湖を移ることになった。
長々と説明するより、見せた方が早いと判断したのであろう。実際、その判断は正しかった。
舟に乗ったのはリディアとサルディスのみ。
イズミールは水面を滑るように並び、ミューズは岸と湖面を跳ねるように先へ行く。
そこまではまだ良い。問題は、アイオリスまでが何のためらいもなく水面を歩き出したことだった。
もはや隠す気もないらしい。
その光景一つで、世界が以前の理に留まっていないことを思い知らされる。
湖畔から少し離れた場所にあったのは、野営地めいた生活の場だった。
黄金の天幕、黄金の鉢や甕を平然と道具として使う様を除けば、営み自体は質素で、むしろ切実ですらある。
手を動かす者たち。火を守る者たち。水を運ぶ者たち。
そこへミューズが顔を出すと、皆が一斉に手を止めた。
頭を下げる者もいれば、拳を軽く掲げる者もいる。
崇拝というより、日々を共に回している者へ向ける信頼の仕草だった。
なるほど、とサルディスは思う。
聖地は終わったのではない。この小さな場所に縮んで、辛うじて続いているのだ。
洪水と黄金化は世界全土に及んだ。
黒禍は討たれたが、黄金化した世界はまだ戻っていない。
生き残った人手は乏しく、食料も物資も足りない。
無計画に人を戻せば喰わせきれず、物だけを戻せば誰かの財を奪う。
都市だけ先に戻しても意味はない。
食わせる田畑も、運ぶ道も、支える手もなければ、ただ飢えた人間を増やすだけだ。
しかも、誰を戻すか、何を戻すか、その順番を決める者の手に、食料も財産も労働も命も集まる。
奇跡の選別は、そのまま統治だ。
サルディスは無意識に、傷の残る右手を握った。
……なるほど、だから自分か。
情が全く無いとは言うまい。
リディアが関わっている以上、私情を交えずに下した判断ではなかろう。
だが、それだけで今の彼らが自分を優先して戻すはずもない。
必要だから戻したのだ。
そう考えれば、腹も括れる。
「まったく……とんでもない仕事を持ってきてくれたものだ」
声は少し掠れたが、あの破られた封を見つけた夜のように気が滅入ってはいない。
厄介さの底が見えぬことが、かえって思考を冴えさせていた。
その時だった。場の空気が、ふいにもう一段深くなる。
増えた、としか言いようのない気配に振り向いた瞬間、サルディスは総毛立った。
白い童女。
そう見える。そう見えるのだが、感応した途端、見えているものと中身の釣り合いがまるで取れなくなった。
小さな器の内に、あってはならぬ深さがある。
底を測ろうとした感覚そのものが、悲鳴を上げて逃げた。
何だ、これは。
何故、こんなものが童女の姿をして平然と立っていられる。
しかも、イズミールはその頬を容赦なく引っ張り、ミューズは笑いながら持ち上げている。
それを見て、リディアは平然と「東の海の龍神様です」と言ってのけた。
「何だと……!?」
東の海の龍神。
そんなものが、こんな場所に、あんな姿でいるはずがない。
何故、あんな無気力な顔で、ぶらぶらとされるがままになっている。
いったい何を見せられているのだ?
だが、嘘をついてどうなる。
おそらく真実なのだろう。だからこそ、軽々しく口にするなと言いたくなる。
膝から力が抜けた。
尻餅をついた衝撃が妙に生々しい。
情けない。だが、立っていられる方がおかしいと、どこかで冷静に納得している自分もいた。
黒禍に脅かされる黄昏の時代も大概であった。だが、その先に待っていたのがこれか。
理も神秘も、信仰も統治も、全部まとめて人の手に余るものが、今や当たり前の顔で湖畔に立っている。
「加減しろ、この莫迦者!」
思わず怒鳴ると、リディアが目を白黒させた。
……つくづく、とんでもない時代まで生き延びてしまったものだ。
<おまけ>
118.2+.彼女制裁中 〇
※※※※※
なお、この日の騒ぎの発端は、例によってあのクソボケ八龍どもにあった。あいつらなりの気遣い? 知るか。
俺とアイオリスが泡の丘へ帰ってきたのを見計らって、八龍どもは順番にゴルディウムへ顔を出すことにしたとか何とか。
意図は分かる。顔見せは大事だ。
リモートワークより、なんだかんだ顔を合わせた方が能率は上がるもんだ。
けれど連中は、人間社会に不慣れだし、今まともに話が通じるのも、俺とアイオリス、それからミューズくらいしかいない。
だからまあ、 「その三人が人間と接触してない時間を狙って行けば、人間を無駄にビビらせずに済むのでは?」 みたいな結論になったんだろう。
理屈だけ聞くと、いちおう気遣いっぽい。
問題は、その判断をしてるのが、俺に言わせりゃ「頭良すぎて逆にバカになってる」八海の龍神どもだったことだ。
あいつらは、でっかい龍のままじゃなく、のじゃ様に倣ったロリボディで現れる。
これもクソ紛らわしいので、色だけ変えさせた。
一周回ってやっぱバカだろ、あいつら。
けど、そこまではまだいい。まだギリ分かる。
でも、人の気配が切れた頃合いを見計らって、空気も読まず、前触れもなく、ぬるっと湧いてくるのが最悪だった。
しかも、そういう時に限って、俺とアイオリスが二人きりになってて……。
――いや、別に全然、まったく、なんもねえんだけど、ちょっとした手違いで、ほんのちょっとこう……なんか妙な雰囲気になった場面を、スナイパーかよって精度で踏み抜いてきやがって――
とにかく、質が悪いなんてもんじゃない。
嫌がらせチキンレースでもやってんのか、あいつら。
で、そういう事故が何回か続いて、俺がキレ散らかしたのを受けてか、釈明役として、今回は、のじゃ様が来たらしい――結果だけ言うと、火に油だった。
だって、こいつがいきなり現れたせいで、サルディスとかいう爺さんが腰を抜かしたんだ。
復興の役に立つオススメ人材って聞いて、解凍したのに、ぎっくり腰にでもなったらどうしてくれんだ。
俺はキレた。反射的にのじゃ様の両頬を掴んで思い切り引っ張っていた。
指先で水を操作して無理やりびろーんと伸ばす。
『若き水よ、これは如何なる仕打ちぞ』
『お前らはよぉ! 毎度毎度、いきなり現れるんじゃねえ!
きょうび飛び込み営業だって深夜には来ねぇぞ! 最低限アポ取れや!』
俺がぶちキレてる横で、ミューズはきゃっきゃ笑いながら、のじゃ様の脇に手を差し込んで、そのままひょいと持ち上げた。
『のじゃー、のじゃー!』
両足ぶらぶらさせながら平然としてる白いロリっ子を、ミューズは完全に「ちっちゃい年上の遊び相手」くらいのノリで扱ってる。
どうも八龍どもにはやたら気に入られたらしくて、何か知らんが修行までつけてもらってるっぽく、遠慮って概念を順調に置いてきていた。
『汝らの逢瀬の頃合いは避けるよう、皆に通達しておいた』
『遅ぇんだよ! 事後報告じゃなくて事前に共有しろ!
あと逢瀬とか言うな! そういうんじゃねえ!
じ、事後でもねえからな!? 未遂だ、未遂! 事故だ事故!』
俺の怒声に、アイオリスは片手で口元を押さえて、咳払い一つでどうにか真顔を保とうとしていた。
保ててるつもりなのは、たぶん本人だけだった。
口元がちょっと緩んでんだよ、このムッツリ木こり野郎が。お前も元凶なんだぞ。
「ミューズ、降ろして差しあげなさい」
『構わぬ、キコリヤロウ。力が強くなってきたな、ミューズよ』
持ち上げられたまま偉そうに頷くジャガラモガラへ、俺はますます声を張り上げる。
『おい、聞いてんのか! お前らやっぱ出禁! 今決めた! 次から来る前に雨を降らせるとかなんかしろ!!』
怒鳴りつけはしたものの、声に本気の怒りが乗り切らないのは自分でも分かっていた。
やかましいし、遠慮はねえし、どいつもこいつも好き勝手やりやがる。
ほんと、どうしようもない連中だと思う。
それでも、当たり前みたいに会話の通じる相手がふらっとやって来て、俺やミューズに構って、勝手に騒いで、笑い声だけ置いていく。
そういうのは、少し前まで泡の中に閉じてて、狭い関係の中でしか生きられなかった俺の日々に、じわっと波を立てていた。
まあ、だからって次も無罪放免にする気はねえけど。
せめて来る前に一報くらい入れろ。マジで。




