EX(118.1).空の下で果たされた約束 ◇★
118話「空を取り戻した日」のアイオリス視点。到着直前~直後→118話アフター
舟の進みは、往路よりも遥かに速かった。
休む必要がない。傷を庇う必要もない。泡で包む必要もない。
水中を飛ぶように進んでいけば、帰路はずっと短くなるはずだった。
はずだったのだが――現実は、そううまくはいかなかった。
『……おい、木こり野郎』
舟の舳先に座ったイズミールが、いかにも不機嫌そうな顔でこちらを振り返る。
かつては、変わらぬ微笑しか浮かべなかった顔に、今は照れ隠しとしか思えぬ機嫌の悪さが張りついていた。
その変化が堪らなく愛おしい。
だが、口にすればまた彼女を困らせるだけだろう。
「何だ」
『何だ、じゃねえよ。予定より遅れてんの、どう考えてもお前のせいだからな』
言うと思った。
私は素直に頷いた。
「そうだな」
『否定しろよ! そこはちょっとくらい気まずそうにしろ! 真顔で認めるな!』
怒鳴り返しながら、イズミールの頬が少し熱を帯びる。
耳代わりのヒレが、ぱたぱたと扇のように動いていた。
そんな顔をされると、道中で幾度も足を止めさせてしまったことを、どうしようもなく満たされた記憶として胸に残している自分が、また顔を出しそうになる。
言い訳をするつもりはなかった。
彼女に近づき、引き留め、触れ合う時間を求めたのは、紛れもなく私の方だ。
待たせている者たちがいる以上、不誠実だとも思う。
それでも、この二人きりの旅路が終わってしまうことを、惜しんでいたのだろう。
ただ、彼女もまた、無かったことにしたいわけではないのだと思う。
そうでなければ、こうして何度も噛みついてはこない。
「次からは、もう少し気をつけよう」
『次って何だ、次って! 毎回それじゃねえか! 気を付けるとか言いつつ、結局、お前っていっつも――』
即座に噛みつかれた。イズミールは狭い舟の上で身を乗り出して詰め寄り、文句を並べ立てる。
大袈裟な身振りのたびに、目の前で揺れるものへ視線を奪われそうになる。
彼女は人を遠ざけがちだが、懐へ入れた者には本当に無防備だ。
嬉しいが、やめて欲しい。理性を試されている気になる。
あの金色の彼女だけの距離感かと思っていたが、そうではなかった。
イズミールは、好ましいと思ったものを傍へ置きたがる。
そこへ自分が含まれているのだと、今は、もう疑わずにいられた。
『――だから、あれは俺じゃなくて、金と銀の奴らが勝手に盛り上がって……。
おい、聞いてんのか!? お前、どこ見てた! 全然反省してねえだろ!?』
「反省している」
『してねえよ、絶対! 口ではなんとでも言えるんだよ! 行動で示せ、行動で!』
そのまましばらく、イズミールはぶつぶつと文句を言い続けた。
色ボケだの、鬼畜だの、顔だけ真面目な常習犯だの、言葉は散々だ。
そう言うなら、君も大概だと思う。
あれほど責め立てておきながら、結局こうして隣にいてくれるのだから。
今では懐かしさすら覚えるあの泡の丘へ向かって、共に帰路についている。
それだけで、何をどう言われても安いものだと、今はそう思えてしまった。
※※※※※
やがて、景色が変わり始めた。
水に沈んだままの世界が、少しずつ明るくなっていく。
水面は確かにまだ高いところにあるが、往路の時よりもずっと水深が浅くなっていた。
イズミールもそれに気づいたのだろう。文句を言う口を止め、舟の前方へ目を向ける。
『……おい』
「ああ」
それ以上の言葉は要らなかった。
水が引き始めている。
まだ完全ではない。だが確かに、世界は戻り始めていた。
沈んだ森も、街も、丘も、黄金のままではあっても、前よりずっと空に近い場所へ戻ってきている。
そして、舟がさらに進んだ時、私は見た。
水の底に沈んでいた泡の丘は、もうどこにもなかった。
斜面の先には、水面ではなく、そのまま空へ開けた陸の続きが見えていた。
あの丘は今、空の下にあるのだ。
丘を覆っていた水の壁と天井は失われ、草原の上にはまっすぐ光が差していた。
風が渡り、草が揺れている。避難のために閉ざされていた泡の中の聖域ではない。
水が引いた箇所はまだ黄金に染まったままだが、それでも、空の下の丘としてそこに在る。
その光景を目にした瞬間、胸の奥へようやく実感が落ちてきた。
――ああ、取り戻せたのだと。
黒禍を滅ぼしたのだと、頭では分かっていた。
世界を戻す段取りも、これから復興で為すべきことも理解している。
だが、それらはすべて果たすべき使命であり、役目として受け止めていただけだった。
イズミールは戻ってきた。
自分も生きている。あの子たちが待つ場所へ帰れる。約束を破らずに済んだ。
出立の前、ミューズへ告げた言葉が脳裏に蘇る。
必ず戻る。イズミールを連れて帰る。そう約束した。
ミューズはそれを信じ、帰ってきてと送り出してくれた。
その約束を果たせたのだと理解した途端、心の奥で固く凍っていた場所が、静かにほどけていくのを感じた。
奪われたものも、喪ったものも戻りはしない。
それでも今は、もう失いたくないものが、この手の届くところにある。
『何しみじみしてんだよ』
すぐ横で、ぶっきらぼうな声がした。
「何でもない」
『嘘つけ。今、絶対なんか思い詰めたろ』
イズミールは妙に気まずそうに眉を寄せ、そっぽを向いたまま言った。
『……泣くなよな。キモいから』
「大丈夫だ、ありがとう」
『そういうんじゃねえし。お前、思い詰めると絶対ロクなことしねえもん』
その、まるで否定になっていない言葉に、おかしさが込み上げてくる。
彼女はたぶん、慰めようとしているわけではない。
ただ彼女なりに釘を刺し、牽制しただけなのだろう。
けれど、そうした不器用さに救われてきたのも事実だった。
だから今も、その言葉をありがたく受け取っておこうと思えた。
私はそれ以上何も言わず、ただ、空の下に戻った丘を見つめ続けた。
※※※※※
舟が水面に浮かび上がり、泡の丘の裾へと滑り寄っていく。
行きに見た時には、水の底へ沈みきっていたはずの斜面が、今は空の下にあった。
まだその多くは黄金のままだ。
だが、その黄金の上を風が渡っている。陽が落ち、雲の影が流れ、草花がなびいていた。
丘の上に目を向ける。
人々の姿がある。見知った顔も、よく知らぬ顔も、皆一様にこちらを見ていた。
その中に、リディアがいる。カストール、ギュゲスらの姿も見える。
そして、ミューズがいた。
人々の姿を見て、もう一度、戻ってきたのだと実感した。
隣では、イズミールが妙に落ち着かない様子で舳先に立ち、丘の上と自分の足元を何度も見比べていた。
嬉しくないわけではないのだろうが、明らかに緊張している。
私は彼女の手へ触れ、心の中で語りかけた。
(大丈夫だ、イズミール。私がついている)
(……ああ、説明すんの面倒臭ぇ。あんな雑な計画で納得取れんのかよ。大体、ちびどもに背負わせるとか親失格――ファッ!?)
『――い、いきなり触るんじゃねえ! このセクハラ野郎が!』
声で返される。どうやら安心より先に、別の方へ意識を飛ばしてしまったらしい。
「緊張しているように見えた」
『お前がやらしい手つきで触ってくるからだろうが、このボケ!』
「今のはそういうつもりではない」
『い、今のはって、お前なぁ……いや、もういいや。
おい……説明、任せるからな……。いい感じにやっとけよ』
「ああ」
舟が地へ触れるより先に、イズミールは斜面の黄金へ両手を向け、大きく広げた。
すると、その手の動きに塗り替えられるように、丘の裾から先に広がる黄金が、波打つようにほどけていく。
緑が戻る。
土の匂いが立つ。
花の色が、風に揺れる草のあいだからぽつぽつと顔を出す。
止まっていた景色が、音を伴って戻ってきた。
その変化を見て、丘の上でざわめきが走った。
イズミールはその声に少しだけ目を細め、それから照れ隠しみたいに、丘の上の人々へ大きく片手を振った。
『おぉい!』
声音はぶっきらぼうでも、その顔は隠しきれていない。
安堵と気まずさと、それでも帰ってきたことを喜ぶ気持ちとが、いっぺんに出ていた。
私もまた、彼女の傍らで手を上げた。
自分を待っている人々がいる場所への帰還など、いつ以来だろうか。
ミューズがこちらへ手を振り返すより早く、駆け出すのが見えた。
次の瞬間、丘の上にいたミューズの姿が、ほどけた。
三つの小さな水の塊が、光を散らすように分かれ、斜面を駆け下りてくる。
『まァまぁぁぁぁっ!』
『マァマ、マァマ……ッ!』
『ンミミャアアアアッ!』
イズミールが、はっと息を呑む気配がした。
驚いたのは、一瞬だけだった。
次の瞬間には、もう両腕を広げている。
『こ、来いやぁっ!』
その掛け声はいかにもイズミールらしい。
照れ混じりで、女らしさも母親らしさも感じられないものだ。
それでも、最初に飛び込んできたミュルナを真正面から受け止め、横から突っ込んできたミュリナを抱え込み、少し遅れて勢いよくぶつかってきたミュシアまで、どうにかまとめて抱き留める。
不格好でも、不器用でも、素直に認めきれずとも、彼女は紛れもなくこの子たちの母だ。
よろめいたその身体を、私はすぐ後ろから肩ごと支えた。
幼子たちは泣きながら、笑いながら、めいめいに母へしがみつく。
頬を擦り寄せ、腕へ登り、髪へ顔を埋め、何かを確かめるように次から次へと言葉を投げかけていた。
待っていた。寂しかった。頑張った。リディアが。みんなが。みんなと。
まとまりのない言葉の連なりを、彼女は慌てふためきながらも受け止め、雑な手つきと返事で応じる。
だがそれこそ、この子たちにとって何より欲しかったものなのだろう。わぁわぁと泣き、そうかと思えばすぐ笑い出す。
私は口を差し挟まず、それを間近で見ていた。
ずっと見ていたいと思った。
しかし――その矛先は、やがて私にも向いた。
『きこりやろう、へん?』
ミュルナが母の腕の中から私を見上げて小首を傾げた。
『まま、いっぱい……くっついた?』
ミュリナは腰にしがみつき、腹へ頬を寄せたまま言う。
『いっぱぇ、いっぱぇー!』
ミュシアは口真似をしながら、ただ母の髪を頬張って水を飲んでいた。
イズミールの顔が、見る間に熱を帯びる。
『お、おい、待て! そういう言い方すんな!』
『きこりやろぉ、まぁま、たくさんのんだ?』
『だ、だから違うって言ってんだろ! 事実誤認だ!』
抱きしめ返す手つきはやさしいのに、言っていることはいつもどおり乱暴だった。
だが、その乱暴さの下にある嬉しさも安堵も、隠せてはいない。
私は、その輪のすぐ傍に立ったまま、胸の奥が静かに満ちていくのを感じていた。
この子たちはもう、私を以前より近しい存在として見てくれているらしい。
母の傍にいるものとして、母に近いものとして、まっすぐに感じ取っている。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
『……おい、お前、今ちょっと嬉しそうな顔しただろ』
「そう見えたのか」
『した! 絶対した!』
本当は、“ちょっと”どころではないのだが、伝わりきってはいないらしい。
この喜びをどう伝えれば、分かってもらえるのか。
また一つ、課題が増えてしまった。
それはとても贅沢で、幸せな悩みだと感じた。
だが――そこでふと、丘の上から注がれる無数の視線を意識した。
歓声と、嗚咽と、祈りと、息を呑む気配。皆がこちらを見ている。
そうだった。
――この再会は、自分たちだけのものでは終わらない。
リディアがいる。人々がいる。ここで待ち続けた者たちがいる。
彼らにも告げるべきことがある。終わったことと、これから始まることを。
そして、言葉の通じないイズミールに代わって、伝えるのは自分の役目だ。
イズミールもまた、それに気づいたのだろう。
三人を抱いたまま、わずかに息を整えるような顔になった。
その横顔を一度だけ見てから、私は前へ出た。
草の匂いと、戻った風と、幼子たちの体温の名残を背に受けながら。
帰還の旅路は終わった。名残惜しいが、ここから先は、もう二人だけの時間ではない。
待ち侘びていた者たちの前で、終わったものと、これから始まるものを語る時だった。
※※※※※
それからしばらくして。
リディアが人々の問いを引き取り、丘のざわめきがようやく一つの流れになり始めた頃、私は人の輪の外れへ目を向けた。
草の揺れる先に、ひとつの小さな背中があった。
ミューズだった。
幼い三つの姿で母へ飛びついていた時より、真っ直ぐな立ち姿。
だが、小さく細い肩だ、とも思った。
頼もしい。
同時に、危うい。
あの両肩で、この丘の不安も、人々の揺らぎも、母の不在も、受け止めようとしていたのだろう。
強くあろうとしているのが分かる背中だった。
私にも、かつてそうあろうとしていた時期があった。
託されたものを、自分だけの力で受け取るのが正しいことだと信じていた。
その全てが間違っていたとは思わないが、別の道もあったはずだ。
「ミューズ」
名を呼ぶと、少女は振り返った。
女神として人前に立っていた顔がほどける。
まだ幼さの残る、娘の顔だった。
『……きこりやろう』
それだけ言って、ミューズは少しだけ唇を結んだ。
泣くまいとしているのか、ただ言葉を探しているのか、その両方かもしれない。
私はゆっくりと歩み寄った。
ミューズとして立つ少女へ、まだ伝えていなかった言葉が残っている。
「約束どおり戻った」
まず、それだけを告げた。
「待たせたな。私も、イズミールも、無事に帰ってきた」
ミューズは、すぐには答えなかった。
ただ、青い目が大きく揺れて、それから、こくんと一度、小さく頷く。
『……うん』
少し間を置いて、また言う。
『まってた』
さらに、もう一度。
『きこりやろう、約束まもってくれる。そう思ってた』
その言葉の中に、どれほどの時間が詰まっていたかは、わざわざ言葉にしなくても分かった。
ミューズは足元の草を見ながら続けた。
『でも……こわかった。ちゃんとするって言ったのに、ちびじゃないのに』
その一言だけで十分だった。
幼いからこそ、誓いや約束を守ろうとしたのだ。
待つだけではなく、自分も母の代わりに立つのだと、そう決めていたのだろう。
けれど、それは怖くなかったという意味ではない。
怖いまま、泣きたいまま、それでも立とうとしていた。
私は膝を折り、ミューズと目の高さを合わせた。
「よく、頑張ったな」
ミューズが顔を上げる。
「信じていてくれたことも、ここを守ろうとしてくれたことも、本当に立派だ」
『……』
「君たちは、イズミールがいない間、自分が何とかしなければと思ったのだろう」
ミューズの睫毛が、かすかに震えた。
『ミューズ、ママのかわり、する。りぃやと、みんな、まもる。ちゃんとしたいの』
言葉はまだ短く、ところどころ途切れている。
けれど、その決意は真っ直ぐだった。
『だって、ママ、ひとり、メー』
ああ、やはりこの子はイズミールの娘なのだ。
どうしようもなく意地っ張りで、心根が優しい。
母を一人にしない。母を待つだけでは嫌だ。自分も一緒にやる。
そのひたむきさが愛しく、同時に危うくもあった。
「ああ。私も同じ気持ちだ」
そう答えてから、続ける。
「だが、君たちだけにそうさせるつもりはない」
ミューズが、わずかに目を見開いた。
「待つことも、信じることも、支えることも、君たちだけに負わせはしない。
これから先、私とイズミールはここを旅立つ日が来る」
小さな肩がぴくりと震え、拳が握り締められた。
「だが、それは別れではない。
私たちは必ず君の元へ帰る。独りにはさせない」
風が吹き、ミューズの髪が揺れる。
少女はしばらく黙っていた。
その沈黙の中で、先ほどまで張り詰めていたものが、少しずつほどけていくのが見て取れた。
『……ひとり、じゃ、ない?』
「そうだ」
即答する。
「そのために、私は戻った。君がそれを信じられるよう――」
そこで、ぶっきらぼうな声が横から割り込んできた。
『……おい、なに一人で良い感じにまとめようとしてやがるんだ』
イズミールだった。
草を踏んで歩いてきた彼女は、少しだけ眉を寄せた表情をしていた。
近くで様子を窺っていたのだろう。とうとう痺れを切らしたらしい。
要するに、自分にも何か言わせろということだと察した。
彼女は、ミューズの前でしゃがみ込んだ私の隣まで来ると、腕を組んだまま、視線を少し逸らして言った。
『……まあ、その。お前らはちゃんとやったんだろ。それは分かってる』
ミューズがじっと見上げる。
イズミールは明らかに言い慣れていない顔をした。
『でも、ちゃんとしようとしすぎんな』
少しだけ、間。
『ガキが一人で世界なんか背負うもんじゃねえ。そういうのは、大人の仕事だろうが』
ミューズの目が丸くなる。
イズミールは、そんな反応を見て、余計に気まずそうに続けた。
『べつに、手伝うなとは言わねえ。やりたいならやれ。
けど、ちゃんとしてなきゃ駄目なんて、俺は言ってねぇ』
少し迷ってから、彼女はミューズの額へ指先を近づけて、軽く突いた。
『甘えられる時くらい、ちゃんと甘えろ。
その格好してる時のお前、そういうの下手そうだからな』
『……ママも』
『は?』
『ママも、へた』
イズミールが固まった。
『はぁ!?』
ミューズは、ほんの少しだけ唇を持ち上げた。
笑ったのだ。
『きこりやろうも、へた』
「……否定はしない」
『いや、お前には甘えていいとか言ってねぇからな!?
おい、勝手に都合よく解釈してんじゃねえぞ!』
イズミールが反射で噛みつく。
そのいつもどおりの姿に、ミューズの肩から力が抜けた。
ようやく、本来の幼い彼女らしい息のしやすさが戻ってきたのだと分かる。
ミューズは、二人を交互に見た。
『ママ、ずっといる?』
『この辺一帯の水は全部俺だぞ。決まってんだろうが』
『きこりやろうも、いる?』
「ああ、勿論だ」
『りぃやも……いる。みんなも』
それは確認だった。
強がりの決意を捨てるためではなく、その決意を誰かと一緒に抱えてもいいのかを、もう一度確かめるための。
ミューズは小さく息をついて、それから言った。
『じゃあ……ミューズ、がんばる』
幼い口調のまま、けれど、その言葉は先ほどまでとは少し違っていた。
『だから、ママ、きこりやろう、見ててね』
イズミールの顔から、照れとも気まずさとも違う色が抜けた。
代わりに、ひどく柔らかなものが残る。
『……見てるよ。俺は、お前らがどうすんのか見ててやる』
その一言には、おそらく、彼女が母として返せるものが全部入っていた。
近くに置いておきたい気持ちと、言いなりにしたくはないという気持ち。
どちらも捨てない、不器用な距離の取り方だった。
ミューズは、少しだけ迷ってから、イズミールへ寄った。
幼子だった時のように勢いよく飛びつきはしない。ただ、そっと、その腕へ額を寄せる。
イズミールは一瞬だけ目を瞬かせ、それから何も言わずに娘の肩を抱いた。
ミューズが黙ってこちらを見る。
イズミールはふっと目を逸らしつつも、私の袖を引いた。
私は、イズミールとミューズ、二人をまとめて抱き締めた。
泡の丘は、空の下へ戻った。
人は別の名でこの日を呼ぶのだろう。世界が再び動き始めた日として、救われた地として、語り継いでいくのかもしれない。
だが、私にとって此処は――もうそれだけの場所ではなかった。
帰ると約束し、その約束を果たせた場所。
失いたくないものが、確かにここにあると知った場所。
そして、母とその子どもたちの輪の内側へ、自分もまた加わってよいのだと、ようやく信じられた場所。
それで、十分だった。




