EX(117.2).第二回主神会議(リモートワーク) 〇★△
117話「水は交わり、やがて引く」の続き、龍宮出立~途中のお話。
朝の光ってのは、どうしてこう、見たくないものまで無駄にはっきり見せるんだろうか。
日が昇った龍宮は、昨日の夕暮れよりもずっと眩しく、黄金になった石床も、崩れかけた柱も、海底とは思えない青空の下でぎらぎら光っている。
そして、その広すぎる石床の真ん中に――
木こり野郎が、本当に正座したまま待っていた。
朝日を浴びて金髪と無闇に整った顔が輝いて見える。
夜の間に何度かチラ見しに行ったが、そのときと寸分変わらない完璧すぎる正座。
全身が黄金化してやがるんじゃないかってくらい、微動だにせず俺を待っていた。
回廊の影からその姿を覗いた瞬間、踵を返して別の道から出直そうか本気で迷った。
だが――正座しろと言ったのは俺だから、ここで逃げるのも筋に合わない。
何より、あいつのことだから、真面目な顔であのまま何日でも待っている。そういう野郎だ。
後ろからこっそり、ふよふよ浮いて近付いたのに、即座に気付かれた。
こわ。
「……まだやってたのかよ、その正座」
できるだけ冷たく言ってやったつもりだったが、声の端が少しだけひっくり返った。
「君が、朝までそうしていろと言った」
「言ったけど! そこは普通、適当に切り上げるだろ!」
思わず怒鳴ると、アイオリスは膝を揃えたまま、まっすぐ俺を見上げた。
「君と向き合うためのことを、適当になど済ませられない」
「……」
で、この即答だった。
知ってた。
朝の光の下でも、こいつの青い目は変に真っ直ぐで困る。
あの目で見られると、あれこれ一緒に思い出してしまいそうで、即座に目を逸らした。
源流から帰って来て以来ずっと、こいつのせいで俺の情緒は、死にゲー状態を強いられている。
リスポーン地点に、いつもこいつが待ち構えている。クソゲーかよ。
俺は腕を組み、なるべく偉そうな角度で告げた。
「……で。何が悪かったか、ちゃんと考えたんだろうな」
「ああ」
今の俺の身体は、いつもの、人型に見えるだけの水だ。
昨夜みたいな、妙に重たく生々しい身体じゃない。
……ない、はずなのに。
あいつの顔を見ただけで、元から存在しないはずの場所まで、思い出したみたいに熱を持つ。
やめろ。今は仕事の時間だ。
燃えろ、俺のブラック精神! いつも心にパワハラを!
取りあえず、今回はこいつに、きちんと、自分がやり過ぎたと認めさせる。
もう、今後はああいうのは無しという方向で押し切る。そういう予定だった。
「言ってみろ。何がまずかった?」
目線だけチラッと向けたら、当たり前のように目が合った。だから、こわいって!
「急ぎすぎた」
アイオリスが、静かに言った。
あまりにも端的な答え、俺じゃなかったらキレてる。
まぁ、こいつの物言いが不器用でぶつ切りなのはいつものことだ。
ビニールプールくらいの心の広さで続きを待つ。
「君が何を恐れているのか、もっと時間をかけて分かるべきだった。
君自身が、己の変化を受け入れられるまで待つべきだったと思う」
「……お、おう」
想像以上にちゃんと反省してきた。
俺の身体が、自分の意思を置き去りにして変わっていくのが怖かったこと。
水だったはずの身体に、人間みたいな重さや感覚が生まれたこと。
それを嫌だと思うのと同じくらい、嫌ではないと感じてしまったこと。
結魂によるあの繋がり越しに、こいつにはたぶん伝わってしまっていた。
分かっていながら止まらなかったことを、アイオリスは本気で悔いているらしい。
身体の奥の水が小さく渦を巻いた。
俺は別に、こいつに触れられたことそのものを後悔してるわけじゃなくて。
いやいや、やっぱ駄目だろ。
でも、だけど、やっぱり、その。
全部が全部嫌だったわけじゃないと言えなくもないような、うん。
まぁ、それはそれとして、俺には腹を立てる権利がある。それは間違いなく絶対ある。
そこだけは、はっきりしとかなきゃいけない。
でないと、そのうち、こいつに完全に主導権を明け渡しかねない気がする。
「だが」
アイオリスが続けた。
おい、待て。嫌な予感しかしねえんだが?
言うな、止まれ。
「私は、君を求めることをやめるつもりはない」
「は?」
「次は君に分かってもらう。時間をかけてでも」
「待て待て待て。今、この反省の文脈で言うことかよ!?」
身体の中の渦がぐるぐると膨れ上がった。
「“次”って何だよ! “時間をかける”って何だ!
それ反省じゃなくて再犯予告じゃねえか、このケダモノ野郎!!」
思わず絶叫した。朝の静かな龍宮に、俺の声がやたらと高く反響する。
アイオリスはほんの少し目を瞬かせた。
「そう聞こえたのか」
「そうとしか聞こえねえよ!
“分かってもらう”とか、言い方が全部こええんだよお前は!」
「君に無理をさせぬように、という意味だ」
「そもそも、なんで次がある前提なんだよ!」
「無論、今度は君の意思を確かめる」
「自分の使用許可申請なんかにハンコが押せるか!
そんな稟議、却下だ却下!」
一応、反省はしているらしい。
している上で、次はもっと上手くやる気満々なのが最悪だった。
改善案つき再犯予告とか、聞いたことがねえ。
俺の不満を読み取ったのか、アイオリスはわずかに首を傾けた。
「私は、間違っているだろうか」
「むしろ、どこがどう合ってると思えるんだよ!
ばか、あほ! 俺のお気持ちを察して配慮しろ!
もっと俺のことを考えろ!」
自分でも何を言いたいのかわからないことを、理不尽に喚きたてる。
俺だって、別にもう二度と触るなと言いたいわけじゃない。
それを言えば、こいつは本当に触れなくなる。
けど、俺が望むようになるまで、すぐ傍で、いつまでも待ち続ける。
それはそれで……すごく困る。
何がどう困るかは、今は考えたくない。
「ずっと君のことを考えている」
そして、こいつはこの通りデッドボールしか投げてこないのだ。
「も、もういい! もうたくさんだ!!」
半ば悲鳴みたいに遮ると、アイオリスは口を噤んだ。
それでも、その目だけはどこまでも真っ直ぐで、少しも引いていない。
昨夜から、いやもっと前からそこだけは変わらない。
欲も、執着も、愛情も、全部隠す気がない目だ。
「こ、こんなところにケダモノ野郎となんていられるか!
俺は帰らせてもらう! 今すぐ、帰るったら帰る!」
これ以上話すと、自分で掘った穴に自分から沈みそうだった。
だから、居た堪れなくなって、勢いよく踵を返したその時。
回廊の先から、聞き覚えのある静かな声が降ってきた。
『まこと賑々しいことよ』
白い童女の姿をした龍神――ジャガラモガラが、いつの間にかそこに立っていた。
「お前、いたのかよ」
『吾は龍宮の主ぞ。
それに、汝らの帰郷を見送らねば礼を失するというもの』
のじゃ様は、相変わらず礼だなんだのにうるさい。
だが、のじゃ様にとって見送るという行為が軽くないのを、俺はもう知っている。
「なんだよ、土産でもくれようってのか。
玉手箱とかマジでいらねえからな?」
『タマテバコとはなんぞ。
気に入ったものがあらば、好きに持って行くが良い。
それより、汝はさておき、キコリヤロウは肉の器を持った身だ。
ゆえに、これを返しておこうと思ってな』
遺跡の奥から水の球に包まれた小舟が浮かんでやって来た。
源流の中で黄金に変え、魔樹の枝に何度も叩きつけられ、最後には置き去りになったはずの舟。
今は黄金ではなく、元の木の色へ戻っている。
継ぎ接ぎの舟板も、舟縁についた古い傷も、そのままだった。
「これ、回収できたのか」
『源流の許に捨て置くのも忍びなかったゆえ、拾い上げておいた』
確かに、これがないと帰り道であいつを抱えて行かなきゃいけない。
休み休みとはいえ、行きには七日もかかった旅路だ。
その間、あいつとぴったり密着した状態とか……。
「助かった、マジ助かった! ありがとう、ありがとう!」
俺は駆け寄って、のじゃ様の両手を掴んでぶんぶん上下に振った。
のじゃ様はされるがままだ。うむ、とだけ頷いた。
『もう一つ……いや、八つだ』
のじゃ様の身体の中から、水に包まれた八つの珠が現れた。
龍珠だ。
アイオリスの残機代わりに渡された時は、誰かが死ぬ前提のクソ仕様だった。
それが気に入らなかったから、俺はこれを水巨神の節点と操作端末として使った。
『此度は、吾ら八海と汝らを繋ぐ器として、改めて汝らへ預ける。
各海の動き、復興の進み、乱れし精霊どもの報せ、必要とあらば助力も届けよう』
俺は八つの珠を覗き込んだ。
世界を戻す作業を進めるなら、八つの海と連絡を取れる手段は必要になる。
それに、俺がいない間に、ちびたち――ミューズの助けになってくれるのは安心できる。
「業務連絡用ってことなら、まぁ」
受け取って、とりあえず胸の谷間から身体の中に取り込んでおく。
「けどさぁ、あんたの話は長ったらしいんだよ。
どうせ他の奴らも似たようなもんなんだろ」
こいつは、何かにつけて話が大仰だ。
源流がどうとか、海の理がどうとか、質問を一つしただけで、創世記から聞かされかねない。
ジャガラモガラは無言でこちらを見た。
割と失礼なことを言った気もするが、やはり怒ったりはしない。
「連絡の時は、前置き抜きで手短に話せって、言っといてくれ」
『心得た。要のみを、遅滞なく届けるよう申し伝えよう』
「おう。頼んだぞ」
そうして、俺とアイオリスは龍宮を後にした。
もう怪我人もいない。休む必要のない二人だ。
真っ直ぐ帰れば、行きよりずっと早い。
俺はそう思っていたし、たぶん、アイオリスもそう思っていただろう。
なのに、旅路ってやつは、いつだって予定表通りには進まないらしい。
※※※※※
俺たちは小舟に乗って、沈んだ世界の中を進んでいく。
龍宮の周囲では海そのものが大きく退いていたが、少し離れれば、まだ世界は水の底にある。
山も、森も、街も、人も。
何もかもが黄金のまま止まり、その上を青暗い水が満たしている。
行きには、そんな景色を見るたびに気分が重くなった。
俺が発端になった洪水と黄金だ。
止まった家や街を見るたび、本当に戻せるのか、戻せてもその後どうなるのか、そんなことばかり考えていた。
今も、問題がなくなったわけじゃない。
それでも黒禍はもういない。
世界は順番に戻していける。
だが、世界どころかグループ総崩れ級の厄いデスマーチは終わった。
俺たちは今、本社出張からの気楽な帰り道だ。
それに、今のアイオリスは水に溺れることもなければ、怪我もない。
舟を泡で包む必要も、揺らさないように気を付けなくてもいい。
だからだろう。
沈んだ景色が、行きとは違って見えた。
水中で舟をビュンビュン飛ばしながら、俺は景色を眺め、変なテンションで騒いでいた。
「お、見ろよ、あれ城だろ、城!」
舟の下を流れていく、黄金の建物を指差した。
いくつもの尖塔がくっつき、岩山みたいな形になっている。
「もう城っていうか、変な形の山だな。
あっちの塔、絶対センス尖りすぎだろ。あんなとこに通路渡すとか正気か?」
「そうだな」
アイオリスはまた黄金の鎧を着込んでいる。
いらねえだろと言ったけど、何かあった時のために備えると言って聞かなかった。
船の中央に陣取って、妙に気のない返事を返してきやがる。
「あんなロケーションがあるなら、景観だけで売ってけるな!
インバウンド需要で入れ食いなんじゃないか? 今は沈んでるけど」
「そうかもしれないな」
「返事が薄い! もっとこう、“おお、確かに”とかあるだろ!」
「ああ、確かに」
「棒読みすぎるだろうが!」
小舟は帆も櫂もなく、水の中を飛び続ける。
船首の向く先に、沈んだ街並みが次々と現れては流れていく。
「もっとこうさあ、観光に付き合えよ!
っていうかお前がガイドしろよ! 現地人だろうが!
異世界からの旅行者である俺に、映えスポットを教えやがれ」
「バエスポットとはなんだ」
「雰囲気で分かれ!」
俺はたぶん浮かれていた。
半分はやっと肩の荷を下ろせたから。
もう半分は、そうしていないと間が持たないからだ。
あれはなんだ、これはなんだと身を乗り出したり、舟のスピードを上げたり、曲芸飛行めいたことに挑戦したり。
「イズミール」
ちょっとした切れ目が訪れた時、低い声で名前を呼ばれた。
はっとして振り向くと、距離が近かった。
自分が思っていたよりもずっと近くに、アイオリスの顔があった。
「な、なんだよ。あっ、食レポならいらねえからな!
味なんか、わかんねえもん……」
今更のように距離を取るが、狭い舟の上だ。
気まずい仕草ばかりが悪目立ちしてしまう。
「……無理に喋らなくてもいい」
「はァ!? う、うるせえな!? 別に、無理にじゃねえし!
つーか、お前がムッツリ黙り込んでるのが悪いんだろうが!」
図星を刺されて、カッとなって詰め寄り、アイオリスの腕を掴んだ。
服越しでも分かる腕の硬さ、太さを掌で感じてハッとした。
何よりも、その熱。
それを意識した瞬間に、もう駄目だった。
掌が掌として、肉と骨からなる硬さと重さ、熱を持ってしまう。
咄嗟に手を引っ込めたが、感触と体温で身体の変化がバレたかもしれない。
「い、今のはっ、違う! 偶々だ! そういうのじゃないからな!」
「そういうの、とは……?」
「お、お前には関係ねぇ!」
俺は無理やり顔を逸らし、次の観光資源を探そうとした。
それなのに。
「沈黙が気まずいのは、私も同じだ」
「……」
それを言われたら、ひとりで騒いでたこっちが馬鹿みたいだろうが。
なら、お前も乗っかってこいや、と抗議しようとしたその時――
「――イズミール! 前だ!」
「へ? うわあぁ!?」
舟の前方に、黄金になった大きな樹が迫っていた。
景色を見ようとするばかり、水深を下げ過ぎていた。
咄嗟に急制動をかけたが舟が大きく傾いた。
気が付くと俺はアイオリスの腕に抱えられていて、ぴったりと身体を寄せていた。
舟から投げ出されて、ふわふわと水中を漂いながら、ゆっくり沈んでいく。
抱き締められた感触のほとんどは硬い鎧のもの。
鎧のせいで鼓動と熱が感じられない。
そう感じてしまっていることに気付いて、カーッと身体が熱くなった。
生身の肉体特有の、ずしりとした感覚が全身に及ぶ。
今度こそ確実にバレた。
俺が今、再び肉の身体になってしまっていること。
「……」
「……」
お互いに黙ったまま、水底の地面に辿り着いた。
アイオリスは最初、地上にいるみたいに俺の身体を支えようとした。
けれど、自分も含めて水の中では、地上よりずっと自由に動けることを察したのだろう。
俺を抱きしめていた腕をほどき、身を引こうとした。
「……」
でも、俺の手は、あいつの袖を掴んだままだった。
離したら、さっきまでの空気ごと本当に途切れてしまいそうだった。
何だよ。途切れていいだろ、そんなの。
でも、そこでそんな素直に離れようとするなよ。
俺が近づいたからってだけで、盛って襲うんじゃねえ、このケダモノが。
そう思う一方で、あっさり引かれると、それはそれで何故か腹が立つ。
我ながら理不尽で意味がわからないくらい面倒臭い。
「……ちゃんと支えろ、役目だろ」
「わかった」
腕が回され、再び抱き締められた瞬間、俺の中で金色の“わたし”が歓喜した。
銀色の“私”は、何やら穏やかに納得している。
俺は、少し遅れて、自分が何をやらかしたのか理解した。
ああ、まずい。
今のは非常にまずかった気がする。
「イズミール、よそ見は危険だ」
「わ、分かってるよ」
「分かっていない」
「はぁ?! あんなのただの前方不注意と安全確認不足だろ!
どうせ水なんだから、ぶつかったって怪我なんてしねえよ」
抱き締める腕に力が込められ、木の根元に向かって身体が流れていく。
「……お、おい、放せよ」
さっきと真逆のことを言ったけど、今度は返事がない。
とん、と背中に樹の幹がぶつかった。
アイオリスの両手が幹を掴んで、大きな身体と樹の幹の間に挟まれた。
逃げようと思えば、水に戻ればいい。
でも、俺はその腕の中から抜け出せないままだった。
「君は、分かっていない。
私が君をどれほど大事に思っているか。
君が傷つき、失われることをどれほど恐れているかを」
「お、大げさすぎるだろ、あっ、あんなの、ちょっ、ちょっとした、現場事故で……」
茶化そうとして、声が上ずった。
それは間近で覗き込んでくるあいつの目が、この上なくマジだったからだ。
「私は、君が分かるまで時間をかけると言った」
「だ、だったら、ほら、一か月でも、一年でも……
時間なら、これから十分に……なっ?」
「後に回す理由がない」
「……待て。待て待て。
い、今はそういう感じじゃねえだろっ」
「なら、君の身体は今、どうしてそうなっている」
「?! ばっ、こ、これはっ、そういうこと言う――」
言葉の続きは、口づけに塞がれた。
触れた唇から、熱が流れ込んでくる。
あの夜から、すっかりその熱を心地好いものだと覚えてしまった。
触れられると、身体の方が勝手に思い出して、求めてしまう。
樹の幹に背中を押し付けられて、逃げ場がなくなる。
水の中の木陰は暗く、あいつの腕の中は狭くて熱い。
それが、どうしようもなく安心で、こわい。
(ま、待てって……っ)
心に中で抗議する。だが、その声すら、弱い。
昨夜と今朝の言葉が、変な熱を帯びて頭の中で蘇る。
時間をかける。分からせる。逃がさない。
全部、誠実な顔で言いやがって。
金色の“わたし”はとっくに蕩けて先を欲している。
銀色の“私”も、理性的なフリをして、委ねたがっている。
俺だけが、まずい、またおかしくされると警報代わりに鼓動を鳴らす。
でも、多数決なら二対一だ。
弊社の意思決定制度は終わってる。
ついでに飛んでくる警備会社もどこにもいない。
アイオリスの腕が腰へ回されてきた。
ぎゅっと圧を感じると、身体の奥の方で、また――
次の瞬間――
俺の胸の中で、八つの龍珠が一斉に震えた。
「――ッ!?」
身体の奥へ、八方向から大津波が雪崩れ込んでくるみたいな気配を感じた。
深く、重い潮。
白金の光を揺らす朝の海。
温く満ちる水。
裂けて渦巻く水。
暗く沈む水。
冷たく澄む水。
押し返す怒濤。
水平線のように青く遠い水。
異なる八つの波が、思考へ同時に叩き込まれる。
「は!? ちょっ、な、何だこれ!?
待て待て待て、嘘だろ、まさか、今なのか!?」
八つの龍珠が、呼吸を合わせたみたいに強く光る。
「イズミール、一体、どうしたんだ……?」
流石のアイオリスも手を止めて聞き返してきた。
でも、俺は龍珠から伝わってくる気配に何が起こるかを察していた。
「――こんな時にリモート会議かよ!?」
「……八龍か」
「おい、不参加! 不参加だ!
今そういうモードじゃねえんだよ!」
言ってから、また自分で自分を殴りたくなった。
そういうモードって何だ。
どういうモードに入りかけてたんだ、俺は。
アイオリスは何も言わなかったが、少しだけ残念そうな顔をした。
そんな顔をするな。なんか俺が悪いみたいになるだろうが!
だが――珠の向こうにいるだろう八龍たちは、こちらの事情など露ほども察していなかった。
※※※※※
『――吾は此処より東南、青き島々を抱く海を預かるもの。若き水とその番に、寿ぎを――』
『――吾は此処より南、温き潮と深き淵を巡らせるもの。源流より、そなたの――』
『――吾は此処より東、日いづる大海を預かる三頭目の龍、龍宮の主にして――』
『――吾は此処より南西、裂ける潮と数多の島影を守るもの。この拳に賭けて――』
『――吾は此処より西北、暗き沈冥の底に眠る水を預かるもの。此度のおおいくさ、真に――』
『――吾は此処より北、無熱の海と白き氷山を統べるもの。汝の類稀なる――』
『――吾は此処より西、怒濤うねる外海を鎮めるもの。目覚めぬ古き者たちは――』
『――吾は此処より東北、蒼明の水と霧深き沿岸を預かるもの。人の子らへの慈悲深き――』
ドワォ! と一度に来た。
一つでも重たくて気圧される思念が、八つ重なってハチャメチャに押し寄せて来た。
「待て待て待て待て待てぇっ!」
八つの声を、一声で無理やり押し返す。
声といっても、耳で聞こえているわけじゃない。
水を通じて、名乗り、言葉、景色、潮流、話している相手の感情と気配まで。
全部がまとめて頭の中へ流し込まれてくる。
八つの窓が同時に開き。
八つのカメラと勝手に繋がり。
八つの動画がバラバラに流され。
八人の偉そうな神様が、それぞれ別のプレゼンを同時に始めた。
まったく処理できないわけではない。
金と銀の俺まで総動員すれば、たぶんできる。
だが、今やれって言われても無理だ。
“わたし”は完全にキス待ち顔で、もう他のことが見えていない。
“私”は、理性的な顔をしながら、いそいそと“旦那様専用のお部屋”みたいなものを俺の中に構築している。
色んな意味で終わってる社員どこが頼りない以上、社長の俺がやるしかない。
俺は敢然と八海グループ経営陣に食ってかかった。
「全員、話、長ぇんだよ! 一度に喋るな!
しかもなんでよりにもよって全員“吾”なんだよ! 誰が誰だ!」
八つの珠が、それぞれ別の揺れ方をした。
『霊子の響きで判別できよう』
『前置きは無用と聞いたのだが』
『吾は、汝の望み通り要のみを遅滞なく――』
『恐るるな、為せば成るものぞ』
『先触れは早きを尊ぶ』
『各海の違いなど明らかであろう』
『此度は挨拶ゆえ、このように軽く』
『吾は出直しても構いませぬぞ』
またもや、ズワォ! と来る。
「だから! 同時に返すなって言ってんだろうがぁ!」
俺の怒鳴り声で、辺りの一帯の水が震えた。
何だこいつら。
意思疎通ってものを何だと思ってる。
水が繋がってるからって、会議参加者全員が同時にマイクをオンにする奴があるか。
リモート会議はラップバトル会場じゃねえんだぞ。
「おい、のじゃ様!」
『うむ』
「うむじゃねえ! お前、こいつらに何て伝えた!」
『前置きを省き、要のみを、遅滞なく伝えよと』
「お前の仕業かぁ!?」
確かに俺は言った。
手短にしろと。
長い前置きをやめろと。
ジャガラモガラは、たぶん、その要望を正確に伝えた。
八龍は、あれでも名乗りを必要最低限に削った。
格式や礼を尽くした前置きを省いた。
そして、時間を取らせないように全員同時に接続した。
いや、おかしいだろ。
特に最後のが絶対おかしい。
聞かされる方の身になって考えろ。
こいつらは頭が良い。
未知の概念を、一度教わっただけで最適な用法で即座に扱える。
そして、頭が良すぎて、頭が悪い。
俺を同格の“海”だと認めるあまり、まるで分かっていない。
――俺の頭が悪いということを。
「順に話していただけないだろうか」
それまで黙っていたアイオリスが、低い声で言った。
俺を通してかなんだか分からないが、あいつにも聞こえていたらしい。
八つの龍珠の光が、一斉に僅かに沈む。
「イズミールは今、貴方がたの話を一度に受け取る余裕がない。
貴方がたと話せることを光栄に思うが、一人ずつ、お願いした」
何だこいつ、いきなり会議の司会役みたいな顔しやがって。
ものすごく助かった。
助かったんだが、素直に礼を言いたくない。
だって、こいつ、直前まで俺の口を塞ぎながら、胸に――
こいつじゃねえか、俺の処理落ちの原因!
アイオリスがこちらを見る。
目が合った。
さっきまで何をしていたか思い出して、俺の顔から水が滴り落ちた。
(お前、絶対、余計なことすんなよ! 変なとこ触ったら殴るからな!)
(分かった)
返事が良すぎる。
八つの珠の向こうで、古い水どもが順番とやらを相談し始めた。
その相談が、また同時に流れ込んでくる。
全員が全員、相手の言葉をすべて拾ってる前提で、主語・述語・目的語を適宜省略しながら話してる。
パーティー会場に紛れ込んだみたいだ。
「もういい! 全員黙れ! 俺が決める!」
こいつらに自主的な交通整理を期待したのが間違いだった。
通信規格がないなら、現場で作るしかない。
細かい仕様なんか知ったことか、とりあえず動きゃいいんだ、動けば!
「名前は後だ後! なんか名前絡みが色々面倒臭いのは知ってる!
けど、ドコソコの海のナントカのアレコレみたいなのも、やめろ」
電話越しに「三丁目の田中ですけど」みたいなあれだ。
年寄りの鉄板名乗り、「地名(番地)+名前」だ。伝わるか!
「とりあえず、そのクソ紛らわしい“吾”から直せ、吾禁止!」
さっきの一斉発言だけでも、妙に偉そうな奴、艶っぽい奴、年寄り臭い奴、物騒な奴と、何となく差はあった。
なら、その差を強制的に表へ出せばいい。
「おい、そこの一番偉そうなの! お前は“余”だ!」
『余、か。よかろう』
「なんか女王様みたいな喋り方してるのは“妾”!」
『それが妾に相応しいと申すかえ。では、そのように』
はい、次。
「荒っぽいのは、己」
『己か! 気に入ったぞ、若き水!』
「何かにつけて戦の話へ持っていきそうなのは“某”!」
『某、承知』
次、次!
「理屈っぽくて、いちいち仕様を問い返してくるのは“拙”!」
『拙。その選定基準と語源について説明を求める』
「そういうとこだよ! 分かれ!」
「ジジくさいのは“儂”!」
『儂か、八海の中では、まだまだ若輩と……』
「うるせえ! もう喋り方がジジイなんだよ!」
『ムムム』
「何がムムムだ! 最後! 妙にへりくだってるのは、僕!」
『僕めに、そのような呼び分けを賜るとは、その配慮に――』
「配慮なんかした覚えはねえ!」
けど、まだいた。
『九つ目の海よ……吾はどう名乗ればよいのだ?』
のじゃ様だ。何故か知らないが、薄っすら期待しているように聞こえる?
何でだ?
「ああ、のじゃ様はそのまま“吾”でいいだろ。
最初から“吾”だったし。今さら変えられても困るからな」
『であるか……』
なんか分からんけど納得したな、ヨシ!
※※※※※
とりあえず、七つの海の、それぞれに一人称を割り振り終わった。
これで、とりあえず発言者の区別はつくだろう。
初対面で死ぬほど無礼を働いた気もするが、連中は賢くて懐が深い。
我ながら完璧な応急処置だ。
だが、古い水どもは妙なところで律儀だった。
『では余より、改めて名乗らせて貰うとしよう』
『ならば、次いで妾が――』
『相応の機会なれば、吾も改めて――』
『己の海じゃあ――』
『某、汝には――』
『拙はまず前提条件から――』
『これは儂の海であった話――』
『僕めからも一言――』
「だから待て! 名乗り直しとかは次回!
今、取り込み中だから全部後だ、後!」
八つの回線をまとめて掴む。
「いいか、接続は一人ずつ! 三文でまとめろ!
報告は結論から! 質問は一回一個!
そんで俺は今忙しいからこれで終わり! 以上!」
勢いのまま、八つの龍珠との繋がりを閉じた。
珠の光が、ひとつ、またひとつと消えていく。
最後まで残っていたジャガラモガラの気配が、何かを問いたげだった。
でも、それも切った。
やっと、静かになった。
八つの海のざわめきと重さが、頭の中から引いていく。
俺は舟の縁へ両手をつき、深く息を吐く真似をした。
「はぁ……はぁ……ほんと、なんなんだよ、あいつら……」
呼吸する必要なんかないのに、妙に疲れた。
「神って、もっとこう、静かに神秘的にやれねえのか……」
「終わったのか」
「あ? ああ。終わった。終わったけど……」
答えてから、気づいた。
アイオリスが、すぐ傍にいる。
傍というか、がっつり後ろ抱きにされている。
通信事故の前と同じかそれ以上の近距離。
俺が八龍相手にキレている間に、妙に静かだと思ったら、こいつ。
珠の向こうの八龍の気配は途絶えた。
だが、もっと近く、もっと逃げ場のない厄介事が残っていた。
「な、なぁ、ほら、もうそういう空気じゃないだろ? な?」
「何がだ」
「だ、だからアレだよ! あ、愛とか、そういうこと言う感じの空気っ!」
「そうか……分かった」
「本当か……?」
「時間をかけてそうする」
「ふざけんな、この色ボケが! それしか考えてねえのか!」
俺の抗議を聞きながら、アイオリスはほんの少しだけ笑った。
「そうだな、否定できない」
「なんでも正直に言えば良いってもんじゃねえぞコラ!」
その笑い方が、前よりもずっと人間臭くなったと思う。
人の話を聞いているようで、勘違いして。
聞いてないようで、察してる。
腹立たしいほど、自分に無頓着で。
それでいて実は相当の自己中。
真面目なようでいて、超ムッツリで鬼畜なケダモノ野郎。
何でこんなクソ重たい面倒臭い野郎が、嫌いになれないのか。
自分でもよく分からない。
このままだと、また流される。
けど、今ここで答えを出すのも癪だった。
だから俺は、いつものように先送りにすることにした。
――明日の俺に丸投げだ。
〈ちっぷす〉
「八龍ざっくり見分け表」
1.余
いかにも偉そうなやつ。たぶん本当に偉い。
いちいち格調が高くて、普通に喋れって言いたくなるタイプ。
2.妾
女王様みたいな喋り方のやつ。妙に艶っぽい。
圧が強い。こっちが何も悪くなくても説き伏せられそうで嫌だ。
3.吾
東の日いづる大海ののじゃ様。龍宮の主。
話が長いし礼儀も重い。でも、まだ一番話が通じる。たぶん。
4.己
声がデカいし、勢いもデカい。
たぶん脳筋枠。ノリで押し切ろうとしてくるから疲れる。
5.某
武人口調のかたい奴。
礼儀正しいのに、なんか物騒。たまに一番話が早い気もする。
6.拙
理屈っぽいの。説明を始めると長い。
仕様とか条件とか前提とか言い出す。会議だと一番厄介かもしれん。
7.儂
年寄りくさい喋りのやつ。
たぶん別に老人ではない。でも語り口が完全に古老枠。
8.僕
妙にへりくだってるけど、逆に胡散臭い。
低姿勢で情報量だけは多いタイプ。油断すると話が長い。




